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戦国時代〜安土桃山島津家15471587
島津家久|釣り野伏せで龍造寺・長宗我部を討った四兄弟末弟の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・島津家久像(佐土原ゆかり)
薩摩島津四兄弟釣り野伏せ
しまづ・いえひさ

島津家久|釣り野伏せで龍造寺・長宗我部を討った四兄弟末弟

SHIMAZU IEHISA · 1547 — 1587 · 享年 41

軍法戦術に妙を得たり — 祖父・島津日新斎の評と伝わる

島津
生年
天文16年
1547
没年
天正15年
1587・享年41
出身
薩摩国
鹿児島県
官途
中務大輔
佐土原城主
家紋
丸に十字
MARU-NI-JUMONJI

島津家久

島津家久は、後ろ盾の薄い側室腹の末弟として生まれながらも、釣り野伏せを操る戦術の冴えだけで龍造寺隆信と長宗我部信親という二人の名将を討ち取り、九州統一の目前まで島津の勢いを押し上げた、薩摩の戦国武将である。

天文十六年(一五四七年)、家久は島津貴久の四男として生まれた。義久・義弘・歳久という三人の同母兄に対し、家久は異母弟であり、長く部屋住みの立場に置かれた。それでも永禄四年(一五六一年)の廻坂の初陣で、十五ほどの年齢ながら敵将を鑓で討ち取り、早くから戦才を示した。

天正三年(一五七五年)には上洛し、『中務大輔家久公御上京日記』を残している。織田信長の行列や明智光秀の坂本城を見聞したこの旅は、家久が天下の情勢を肌で知る機会となった。天正六年(一五七八年)の耳川の戦いでは、兄たちとともに大友宗麟の大軍を破り、島津の三州確保を確かなものにする。九州の南半を束ねた島津の戦いの中で、末弟・家久は確かな一翼を担っていた。

家久の名を不動にしたのが、天正十二年(一五八四年)の沖田畷である。総大将として島原に渡った家久は、寡兵を率いて沖田畷の湿地に龍造寺の大軍を誘い込み、釣り野伏せで総大将・龍造寺隆信を討ち取った。この勝利で、九州に島津へ単独で抗える大名はいなくなる。日向佐土原を拠点とする家久の名は、九州全土に鳴り響いた。

続く天正十四年(一五八六年)の戸次川では、(「豊臣秀吉」)が送り込んだ四国勢を、ふたたび釣り野伏せで撃破する。(「長宗我部元親」)の嫡男・信親と十河存保が討死し、軍監・仙石秀久は敗走した。沖田畷と戸次川という二度の鮮やかな勝利は、家久を島津随一の戦術家として歴史に刻んだ。

だが、翌天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉の九州征伐の前に島津は降伏する。家久も佐土原で豊臣秀長と講和した直後、同年六月五日に急死した。享年四十一。その不可解な最期と、釣り野伏せをめぐる評価については、この先の読み解きで分けて見ていく。

01出自ORIGIN

出自と末弟の立場 — 四兄弟の末に生まれて

薩摩国・四兄弟末弟として育つ島津家久(AI生成イメージ)
薩摩国・四兄弟末弟として育つ島津家久 · AI生成イメージ

天文十六年(一五四七年)、島津家久は薩摩国に生まれた。父は島津氏第十五代当主・島津貴久。家久は、その四男である。上には義久、義弘、歳久という三人の兄がいた。後に「島津四兄弟」と並び称される顔ぶれの、いちばん末に生まれた子だった。

ただし、家久の立場は三人の兄と少し違っていた。母は本田親康の娘で、側室の身である。義久・義弘・歳久が同じ母から生まれた兄弟だったのに対し、家久は異母弟として育った。家中での序列も、生まれながらに一段低いところから始まっている。

それでも、幼い家久には早くから戦才の評判がついて回った。祖父・島津忠良、号して日新斎は、孫たちを見て家久を「軍法戦術に妙を得たり」と評したと伝わる。だが評判だけでは身分は上がらない。末弟の家久は、長く部屋住みの立場に置かれた。

島津氏はこのころ、薩摩・大隅・日向の三州を巡って国内の敵対勢力と争っていた。兄・義久が当主として家をまとめ、義弘が武威を担う。その大きな構図の末席で、家久は自分の働きだけで居場所を勝ち取らねばならなかった。

恵まれた長男ではなく、後ろ盾の薄い末弟。家久の物語は、序列の低い庶子が戦場での実力だけでのし上がっていく筋立てから始まる。

祖父・島津日新斎が孫・家久を評したと伝わる言葉(後世の編纂物に所載)

「軍法戦術に妙を得たり」

02初陣FIRST BATTLE

廻坂の初陣 — 十五歳、敵将を鑓で討つ

廻坂の初陣・十五歳の鑓働き(AI生成イメージ)
廻坂の初陣・十五歳の鑓働き · AI生成イメージ

永禄四年(一五六一年)七月、家久は初陣の時を迎える。戦場は大隅国、相手は島津氏に抗う肝付氏の勢だった。廻坂と呼ばれる地での合戦である。年齢はまだ十五ほど。元服したばかりの末弟が、いきなり最前線へ出た。

この初陣で、家久は敵将・工藤隠岐守を鑓を合わせて討ち取ったと伝わる。少年の手柄としては破格である。初めての戦で名のある敵を仕留めたことは、家中に家久という名を強く刻みつけた。祖父が見抜いた戦才は、空言ではなかった。なお、初陣の月は六月とも七月とも伝わる。

家久が身につけていったのは、個人の武勇だけではない。島津氏には、わざと敗走を装って敵を誘い込み、伏せておいた兵で左右から討つ「釣り野伏せ」という戦法があった。家久は、この島津伝来の戦術を誰よりも巧みに使いこなす将へ育っていく。

初陣からしばらく、家久は兄たちの戦に従い、薩摩・大隅・日向の各地で経験を積んだ。手柄を重ねても、末弟という立場ゆえに与えられる所領は少ない。だが家久は、不満をこぼすより、次の戦で結果を出すことで応えていった。

十五歳の鑓働きは、ただの武勇伝ではない。釣り野伏せの名手・島津家久という後年の評価は、この初陣から積み上がった実戦の年輪の上に立っている。

天正12年(1584年)3月、寡兵で大軍の総大将を討った沖田畷の戦いの結果

「沖田畷にて龍造寺隆信を討ち取る」

03上洛JOURNEY TO KYOTO

上洛の旅 — 信長と光秀を見た日記

天正3年の上洛・御上京日記の旅(AI生成イメージ)
天正3年の上洛・御上京日記の旅 · AI生成イメージ

天正三年(一五七五年)、家久は遠い旅に出た。島津氏が三州平定の加護を伊勢神宮などへ謝するため、薩摩から伊勢・京へ向かったのである。二月二十日に出発し、帰着まで約五か月。家久はこの長旅の見聞を、後に『中務大輔家久公御上京日記』として書き残した。

旅の途上、家久は当代一流の文化人と交わった。連歌の宗匠・里村紹巴と歌を交わし、各地の名所を訪ね歩く。九州の果てから来た若い武将は、好奇心の塊のように畿内の文物を吸収していった。日記には、その旅情がいきいきと記されている。

なかでも名高いのが、織田信長との遭遇である。大坂本願寺攻めから引き揚げる信長の大行列を見物した家久は、馬上で居眠りする信長の姿を書きとめた。天下に号令しつつある男を、薩摩の末弟が遠目に眺めた瞬間だった。さらに家久は明智光秀に招かれ、坂本城を見学している。

この旅は、家久に「天下」という大きな器の存在を実感させたはずである。九州で兄たちと戦う日々の、はるか外側に動く巨大な政治。後に豊臣の大軍と向き合う家久は、その重みをすでにこの目で見ていた。

武将でありながら、優れた記録者でもあった家久。『御上京日記』は、戦国の旅と人物を伝える一級の見聞録として、今も貴重な史料になっている。

04日向進出HYUGA

耳川の勝利 — 大友を破り三州を固める

耳川の戦い・大友勢を破る島津軍(AI生成イメージ)
耳川の戦い・大友勢を破る島津軍 · AI生成イメージ

天正六年(一五七八年)、島津氏は日向国で大きな決戦を迎える。九州北部の雄・大友宗麟が大軍を率いて南下し、日向の新納院高城をめぐって島津勢と激突した。世にいう耳川の戦いである。家久も島津勢に加わり、高城の救援に関わったと伝わる。

島津軍は、得意の伏兵戦法で大友の大軍を誘い込み、横合いから討ち崩した。突出した大友勢は混乱し、耳川を渡っての退却中に壊滅的な損害を受ける。九州最大級の大名だった大友氏は、この一戦で勢いを大きく失った。

耳川の勝利は、島津氏にとって決定的な意味を持った。これによって島津は日向への進出を確かなものとし、薩摩・大隅・日向の三州を実質的に押さえる。九州の南半分を束ねる勢力として、いよいよ北へ向かう構えが整っていった。

家久にとっても、この戦は兄たちと肩を並べる大舞台だった。島津の日向進出が進むなか、家久はやがて日向佐土原を預かる立場となり、北へ向かう島津の最前線を担っていく。兄たちと力を合わせて大友を退けた島津の勢いは、耳川を境にいよいよ加速していった。

ここから島津は、九州統一へ向けて突き進む。耳川の大勝は、家久が「島津四兄弟の一人」として九州の表舞台に立つ転機となった。

05沖田畷OKITANAWATE

沖田畷の決戦 — 龍造寺隆信を討つ

沖田畷の戦い・釣り野伏せで龍造寺を破る(AI生成イメージ)
沖田畷の戦い・釣り野伏せで龍造寺を破る · AI生成イメージ

天正十二年(一五八四年)三月、家久は自らが総大将を務める大戦に臨む。舞台は肥前国島原。肥前で急成長した龍造寺隆信が、島津方に通じた有馬晴信を攻めようとしていた。家久は有馬を救援すべく、海を渡って島原へ向かった。

兵力差は絶望的だった。島津・有馬の連合はおよそ六千ほど。対する龍造寺軍は数万と伝わる。まともにぶつかれば勝ち目はない。そこで家久は、沖田畷と呼ばれる狭く泥深い湿地帯に戦場を選んだ。大軍が一度に展開できない地形を、あえて決戦の場に据えたのである。

龍造寺隆信は、島津方の小勢を見て侮り、本軍を三手に分けて畷へ攻め込んだ。狭い道に押し込まれた大軍は、隊列が伸びきって身動きが取れなくなる。そこを家久は、釣り野伏せで迎え撃った。左右の伏兵が一斉に矢と鉄砲を浴びせ、龍造寺勢は大混乱に陥る。

乱戦のなか、総大将・龍造寺隆信その人が討ち取られた。大将を失った龍造寺軍は総崩れとなる。寡兵が大軍の総大将を討つという、戦国でも稀な大勝を、家久は地形と戦術だけで成し遂げた。この勝利で、九州において単独で島津に対抗できる大名はいなくなった。

戦後、家久の名声は九州全土に轟いた。日向佐土原を拠点とする末弟は、もはや部屋住みの庶子ではない。沖田畷の勝利は、家久を島津を代表する名将の地位へ一気に押し上げた。

06戸次川HETSUGIGAWA

戸次川の戦い — 豊臣の四国勢を呑む

戸次川の戦い・豊臣の四国勢を破る(AI生成イメージ)
戸次川の戦い・豊臣の四国勢を破る · AI生成イメージ

天正十四年(一五八六年)末、島津の北上はついに九州全土へ及ぼうとしていた。豊後の大友氏は豊臣秀吉に救援を求め、秀吉は四国勢を先遣隊として送り込む。軍監・仙石秀久のもと、長宗我部元親・信親父子や十河存保らが豊後へ渡ってきた。

家久は、この豊臣方の先遣隊と豊後国戸次川で対峙する。天正十四年十二月十二日、両軍は川を挟んで向き合った。秀吉は仙石らに無理な交戦を戒めていたが、軍監・仙石秀久は強引に渡河攻撃を命じる。豊臣方は川を越えて島津勢へ突き進んだ。

家久が待っていたのは、まさにこの突出だった。川を渡って伸びきった敵を、得意の釣り野伏せで包み込む。分断された豊臣の四国勢は各所で討ち取られ、長宗我部信親と十河存保が討死した。先遣隊は壊滅し、仙石秀久は戦場を離れて逃れた。

九州を平定しようと渡ってきた豊臣方の最初の軍勢を、家久は完膚なきまでに打ち破った。沖田畷に続く鮮やかな勝利である。釣り野伏せという一つの戦術で、家久率いる島津勢は、龍造寺隆信に続いて長宗我部家の嫡男・信親をも討ち取った。

だが、この勝利は同時に、巨大な相手を本気にさせる一戦でもあった。戸次川は家久の戦術が頂点に達した戦いであり、そして豊臣の大軍が九州へ押し寄せる前夜でもあった。

07降伏と急死SURRENDER & DEATH

九州征伐と佐土原の最期 — 享年41の急死

九州征伐後・佐土原城での最期(AI生成イメージ)
九州征伐後・佐土原城での最期 · AI生成イメージ

天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州へ下った。弟・豊臣秀長の率いる軍勢も加わり、その総数は島津のかき集めた兵をはるかに上回る。戸次川で四国勢を破った家久も、この圧倒的な物量の前には抗いきれなかった。

島津氏は各地で押し込まれ、ついに当主・義久が秀吉に降伏する。家久もまた、自らの居城・佐土原で、豊臣秀長との交渉を経て降伏した。一説には、この時の所領安堵の経緯から、独立した大名として遇されたとも伝わる。九州統一の夢は、ここで潰えた。

ところが、降伏からほどない天正十五年六月五日、家久は佐土原城で突然この世を去った。享年四十一。戦場であれほどの戦才を見せた将が、戦ではなく病ともつかぬ急死で生涯を閉じたのである。あまりに唐突な最期だった。

その死には、豊臣秀長の側による毒殺ではないか、という噂が早くからささやかれた。一方で、秀長側近の書状には家久の病を伝えるものもある。戦術の天才の不可解な急死は、確かな答えを残さないまま、今も人々の関心を引き続けている。

家久の跡は、嫡男・島津豊久が継いだ。その豊久が、後の関ヶ原で島津義弘の退き口の殿軍を務めて散ることを思えば、家久の血は最後まで島津の戦場に流れ続けた。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-16

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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