
島津家久|釣り野伏せで龍造寺・長宗我部を討った四兄弟末弟
「軍法戦術に妙を得たり — 祖父・島津日新斎の評と伝わる」
島津家久
島津家久は、後ろ盾の薄い側室腹の末弟として生まれながらも、釣り野伏せを操る戦術の冴えだけで龍造寺隆信と長宗我部信親という二人の名将を討ち取り、九州統一の目前まで島津の勢いを押し上げた、薩摩の戦国武将である。
天文十六年(一五四七年)、家久は島津貴久の四男として生まれた。義久・義弘・歳久という三人の同母兄に対し、家久は異母弟であり、長く部屋住みの立場に置かれた。それでも永禄四年(一五六一年)の廻坂の初陣で、十五ほどの年齢ながら敵将を鑓で討ち取り、早くから戦才を示した。
天正三年(一五七五年)には上洛し、『中務大輔家久公御上京日記』を残している。織田信長の行列や明智光秀の坂本城を見聞したこの旅は、家久が天下の情勢を肌で知る機会となった。天正六年(一五七八年)の耳川の戦いでは、兄たちとともに大友宗麟の大軍を破り、島津の三州確保を確かなものにする。九州の南半を束ねた島津の戦いの中で、末弟・家久は確かな一翼を担っていた。
家久の名を不動にしたのが、天正十二年(一五八四年)の沖田畷である。総大将として島原に渡った家久は、寡兵を率いて沖田畷の湿地に龍造寺の大軍を誘い込み、釣り野伏せで総大将・龍造寺隆信を討ち取った。この勝利で、九州に島津へ単独で抗える大名はいなくなる。日向佐土原を拠点とする家久の名は、九州全土に鳴り響いた。
続く天正十四年(一五八六年)の戸次川では、(「豊臣秀吉」)が送り込んだ四国勢を、ふたたび釣り野伏せで撃破する。(「長宗我部元親」)の嫡男・信親と十河存保が討死し、軍監・仙石秀久は敗走した。沖田畷と戸次川という二度の鮮やかな勝利は、家久を島津随一の戦術家として歴史に刻んだ。
だが、翌天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉の九州征伐の前に島津は降伏する。家久も佐土原で豊臣秀長と講和した直後、同年六月五日に急死した。享年四十一。その不可解な最期と、釣り野伏せをめぐる評価については、この先の読み解きで分けて見ていく。
出自と末弟の立場 — 四兄弟の末に生まれて

天文十六年(一五四七年)、島津家久は薩摩国に生まれた。父は島津氏第十五代当主・島津貴久。家久は、その四男である。上には義久、義弘、歳久という三人の兄がいた。後に「島津四兄弟」と並び称される顔ぶれの、いちばん末に生まれた子だった。
ただし、家久の立場は三人の兄と少し違っていた。母は本田親康の娘で、側室の身である。義久・義弘・歳久が同じ母から生まれた兄弟だったのに対し、家久は異母弟として育った。家中での序列も、生まれながらに一段低いところから始まっている。
それでも、幼い家久には早くから戦才の評判がついて回った。祖父・島津忠良、号して日新斎は、孫たちを見て家久を「軍法戦術に妙を得たり」と評したと伝わる。だが評判だけでは身分は上がらない。末弟の家久は、長く部屋住みの立場に置かれた。
島津氏はこのころ、薩摩・大隅・日向の三州を巡って国内の敵対勢力と争っていた。兄・義久が当主として家をまとめ、義弘が武威を担う。その大きな構図の末席で、家久は自分の働きだけで居場所を勝ち取らねばならなかった。
恵まれた長男ではなく、後ろ盾の薄い末弟。家久の物語は、序列の低い庶子が戦場での実力だけでのし上がっていく筋立てから始まる。
祖父・島津日新斎が孫・家久を評したと伝わる言葉(後世の編纂物に所載)「軍法戦術に妙を得たり」
廻坂の初陣 — 十五歳、敵将を鑓で討つ

永禄四年(一五六一年)七月、家久は初陣の時を迎える。戦場は大隅国、相手は島津氏に抗う肝付氏の勢だった。廻坂と呼ばれる地での合戦である。年齢はまだ十五ほど。元服したばかりの末弟が、いきなり最前線へ出た。
この初陣で、家久は敵将・工藤隠岐守を鑓を合わせて討ち取ったと伝わる。少年の手柄としては破格である。初めての戦で名のある敵を仕留めたことは、家中に家久という名を強く刻みつけた。祖父が見抜いた戦才は、空言ではなかった。なお、初陣の月は六月とも七月とも伝わる。
家久が身につけていったのは、個人の武勇だけではない。島津氏には、わざと敗走を装って敵を誘い込み、伏せておいた兵で左右から討つ「釣り野伏せ」という戦法があった。家久は、この島津伝来の戦術を誰よりも巧みに使いこなす将へ育っていく。
初陣からしばらく、家久は兄たちの戦に従い、薩摩・大隅・日向の各地で経験を積んだ。手柄を重ねても、末弟という立場ゆえに与えられる所領は少ない。だが家久は、不満をこぼすより、次の戦で結果を出すことで応えていった。
十五歳の鑓働きは、ただの武勇伝ではない。釣り野伏せの名手・島津家久という後年の評価は、この初陣から積み上がった実戦の年輪の上に立っている。
天正12年(1584年)3月、寡兵で大軍の総大将を討った沖田畷の戦いの結果「沖田畷にて龍造寺隆信を討ち取る」
上洛の旅 — 信長と光秀を見た日記

天正三年(一五七五年)、家久は遠い旅に出た。島津氏が三州平定の加護を伊勢神宮などへ謝するため、薩摩から伊勢・京へ向かったのである。二月二十日に出発し、帰着まで約五か月。家久はこの長旅の見聞を、後に『中務大輔家久公御上京日記』として書き残した。
旅の途上、家久は当代一流の文化人と交わった。連歌の宗匠・里村紹巴と歌を交わし、各地の名所を訪ね歩く。九州の果てから来た若い武将は、好奇心の塊のように畿内の文物を吸収していった。日記には、その旅情がいきいきと記されている。
なかでも名高いのが、織田信長との遭遇である。大坂本願寺攻めから引き揚げる信長の大行列を見物した家久は、馬上で居眠りする信長の姿を書きとめた。天下に号令しつつある男を、薩摩の末弟が遠目に眺めた瞬間だった。さらに家久は明智光秀に招かれ、坂本城を見学している。
この旅は、家久に「天下」という大きな器の存在を実感させたはずである。九州で兄たちと戦う日々の、はるか外側に動く巨大な政治。後に豊臣の大軍と向き合う家久は、その重みをすでにこの目で見ていた。
武将でありながら、優れた記録者でもあった家久。『御上京日記』は、戦国の旅と人物を伝える一級の見聞録として、今も貴重な史料になっている。
耳川の勝利 — 大友を破り三州を固める

天正六年(一五七八年)、島津氏は日向国で大きな決戦を迎える。九州北部の雄・大友宗麟が大軍を率いて南下し、日向の新納院高城をめぐって島津勢と激突した。世にいう耳川の戦いである。家久も島津勢に加わり、高城の救援に関わったと伝わる。
島津軍は、得意の伏兵戦法で大友の大軍を誘い込み、横合いから討ち崩した。突出した大友勢は混乱し、耳川を渡っての退却中に壊滅的な損害を受ける。九州最大級の大名だった大友氏は、この一戦で勢いを大きく失った。
耳川の勝利は、島津氏にとって決定的な意味を持った。これによって島津は日向への進出を確かなものとし、薩摩・大隅・日向の三州を実質的に押さえる。九州の南半分を束ねる勢力として、いよいよ北へ向かう構えが整っていった。
家久にとっても、この戦は兄たちと肩を並べる大舞台だった。島津の日向進出が進むなか、家久はやがて日向佐土原を預かる立場となり、北へ向かう島津の最前線を担っていく。兄たちと力を合わせて大友を退けた島津の勢いは、耳川を境にいよいよ加速していった。
ここから島津は、九州統一へ向けて突き進む。耳川の大勝は、家久が「島津四兄弟の一人」として九州の表舞台に立つ転機となった。
沖田畷の決戦 — 龍造寺隆信を討つ

天正十二年(一五八四年)三月、家久は自らが総大将を務める大戦に臨む。舞台は肥前国島原。肥前で急成長した龍造寺隆信が、島津方に通じた有馬晴信を攻めようとしていた。家久は有馬を救援すべく、海を渡って島原へ向かった。
兵力差は絶望的だった。島津・有馬の連合はおよそ六千ほど。対する龍造寺軍は数万と伝わる。まともにぶつかれば勝ち目はない。そこで家久は、沖田畷と呼ばれる狭く泥深い湿地帯に戦場を選んだ。大軍が一度に展開できない地形を、あえて決戦の場に据えたのである。
龍造寺隆信は、島津方の小勢を見て侮り、本軍を三手に分けて畷へ攻め込んだ。狭い道に押し込まれた大軍は、隊列が伸びきって身動きが取れなくなる。そこを家久は、釣り野伏せで迎え撃った。左右の伏兵が一斉に矢と鉄砲を浴びせ、龍造寺勢は大混乱に陥る。
乱戦のなか、総大将・龍造寺隆信その人が討ち取られた。大将を失った龍造寺軍は総崩れとなる。寡兵が大軍の総大将を討つという、戦国でも稀な大勝を、家久は地形と戦術だけで成し遂げた。この勝利で、九州において単独で島津に対抗できる大名はいなくなった。
戦後、家久の名声は九州全土に轟いた。日向佐土原を拠点とする末弟は、もはや部屋住みの庶子ではない。沖田畷の勝利は、家久を島津を代表する名将の地位へ一気に押し上げた。
戸次川の戦い — 豊臣の四国勢を呑む

天正十四年(一五八六年)末、島津の北上はついに九州全土へ及ぼうとしていた。豊後の大友氏は豊臣秀吉に救援を求め、秀吉は四国勢を先遣隊として送り込む。軍監・仙石秀久のもと、長宗我部元親・信親父子や十河存保らが豊後へ渡ってきた。
家久は、この豊臣方の先遣隊と豊後国戸次川で対峙する。天正十四年十二月十二日、両軍は川を挟んで向き合った。秀吉は仙石らに無理な交戦を戒めていたが、軍監・仙石秀久は強引に渡河攻撃を命じる。豊臣方は川を越えて島津勢へ突き進んだ。
家久が待っていたのは、まさにこの突出だった。川を渡って伸びきった敵を、得意の釣り野伏せで包み込む。分断された豊臣の四国勢は各所で討ち取られ、長宗我部信親と十河存保が討死した。先遣隊は壊滅し、仙石秀久は戦場を離れて逃れた。
九州を平定しようと渡ってきた豊臣方の最初の軍勢を、家久は完膚なきまでに打ち破った。沖田畷に続く鮮やかな勝利である。釣り野伏せという一つの戦術で、家久率いる島津勢は、龍造寺隆信に続いて長宗我部家の嫡男・信親をも討ち取った。
だが、この勝利は同時に、巨大な相手を本気にさせる一戦でもあった。戸次川は家久の戦術が頂点に達した戦いであり、そして豊臣の大軍が九州へ押し寄せる前夜でもあった。
九州征伐と佐土原の最期 — 享年41の急死

天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州へ下った。弟・豊臣秀長の率いる軍勢も加わり、その総数は島津のかき集めた兵をはるかに上回る。戸次川で四国勢を破った家久も、この圧倒的な物量の前には抗いきれなかった。
島津氏は各地で押し込まれ、ついに当主・義久が秀吉に降伏する。家久もまた、自らの居城・佐土原で、豊臣秀長との交渉を経て降伏した。一説には、この時の所領安堵の経緯から、独立した大名として遇されたとも伝わる。九州統一の夢は、ここで潰えた。
ところが、降伏からほどない天正十五年六月五日、家久は佐土原城で突然この世を去った。享年四十一。戦場であれほどの戦才を見せた将が、戦ではなく病ともつかぬ急死で生涯を閉じたのである。あまりに唐突な最期だった。
その死には、豊臣秀長の側による毒殺ではないか、という噂が早くからささやかれた。一方で、秀長側近の書状には家久の病を伝えるものもある。戦術の天才の不可解な急死は、確かな答えを残さないまま、今も人々の関心を引き続けている。
家久の跡は、嫡男・島津豊久が継いだ。その豊久が、後の関ヶ原で島津義弘の退き口の殿軍を務めて散ることを思えば、家久の血は最後まで島津の戦場に流れ続けた。
史料の読み解き
ここからは、島津家久にまつわる話を層ごとに分ける。生涯の骨格としては、四兄弟末弟としての出自、廻坂の初陣、天正三年の上洛と『御上京日記』、耳川の勝利、沖田畷での龍造寺隆信討死、戸次川での豊臣四国勢撃破、九州征伐での降伏、佐土原での急死が太い。
一方、その周りには「島津四兄弟最強」「釣り野伏せの天才」「毒殺された名将」といった、分かりやすい物語が重なる。物語を捨てる必要はない。だが、何が動かしにくい骨格で、何が後世に整えられた語りなのかは分けたい。家久の戦才は本物だが、英雄譚の言葉だけで人物像を決めると、史料の確かさと伝承の彩りが混ざってしまう。
釣り野伏せは家久の戦法だったのか
家久を語るとき、必ず出てくるのが「釣り野伏せの名手」という評価である。わざと退いて敵を誘い込み、伏せておいた兵で左右から討つこの戦法は、耳川・沖田畷・戸次川という島津の主要な勝利で繰り返し用いられた。家久がその使い手として際立っていたことは、まず動かない。
ただし、釣り野伏せは家久が一人で発明した戦法ではない。これは島津氏に代々受け継がれた組織的な戦術であり、兄・義弘や他の島津の将も用いている。家久個人の独創とまで言い切ると、島津家の戦法としての性格が見えなくなる。家久は島津伝来の戦術の卓越した実行者だった、と整理するのが穏当である。
沖田畷で龍造寺隆信を「討ち取った」という言い方にも、注意が要る。総大将として勝利を導いたのは家久だが、隆信の首級を実際に挙げたのは家臣の川上忠堅だったと伝わる。軍を率いた将の功績と、個人の手柄は分けて読みたい。
それでも、これらの留保は家久の評価をいささかも下げない。不利な地形と兵力差を逆手に取り、敵の総大将を討つ状況を作り出した点にこそ、家久の非凡さがある。釣り野伏せは島津家の戦法だが、それを最も鮮やかに勝利へ結びつけたのが家久だった、という理解が確度として堅い。
「島津四兄弟最強」説はどこまで言えるか
家久にはしばしば「四兄弟のなかで最も戦上手」「実は最強」という評価がついて回る。沖田畷と戸次川で、いずれも寡兵で大軍を破り、龍造寺隆信と長宗我部信親という大物を討ち取った戦績を見れば、この評価が出るのは自然である。
戦術家としての切れ味という一点に限れば、この評価には根拠がある。状況の不利を地形と戦法で覆す手際は、四兄弟のなかでも際立っていた。祖父・日新斎が家久を「軍法戦術に妙を得たり」と評したと伝わるのも、この資質を指している。
ただし「最強」という言葉は、比べる物差しによって意味が変わる。当主として島津家を束ねた義久の政治力、朝鮮の役などで武名を轟かせた義弘の存在感と、家久の戦術の冴えは、そもそも種類が違う。役割の異なる四人を一列に並べて「誰が最強か」を競わせるのは、現代的な楽しみ方であって、史実の評価軸ではない。
さらに、家久は側室腹の末弟という立場ゆえ、長く部屋住みに置かれ、与えられた所領も大きくはなかった。家中での序列は、戦績ほどには高くなかった。「四兄弟最強」は戦術家としての魅力を語る言葉として楽しめるが、家中の地位や役割まで含めた総合評価とは切り離して読むのがよい。
佐土原での急死は毒殺か、病死か
家久の最期は、戦国史でも有数の「謎」として語られる。九州征伐で島津が降伏し、家久が佐土原で豊臣秀長と講和したまさに直後、天正十五年(一五八七年)六月五日に、家久は四十一歳で急死した。あまりに時機がよすぎる死だった。
このため、江戸時代から「豊臣秀長による毒殺ではないか」という説が根強くささやかれてきた。降伏したばかりの、戸次川で豊臣方を打ち破った危険な将。その家久が、講和の直後に突然死ぬ。状況証拠だけを並べれば、毒殺を疑いたくなる流れがあるのは確かである。
一方で、毒殺説を裏づける確かな一次史料があるわけではない。むしろ、豊臣秀長の側近が家久の病を伝えたとされる書状も残っており、当時から病死として受け止められていた形跡がある。急死=謀殺と短絡するのは危うい。戦国期の急病は珍しくなく、毒殺説は後世に増幅された可能性が高い。
確度として整理すれば、家久が天正十五年六月五日に佐土原で急死した事実は動かない。毒殺か病死かは、現存史料では確定できない、というのが誠実な結論である。家久の死は「謎」として面白がる前に、毒殺は確証のない一説、病死がより穏当な見方、と確度を分けて押さえたい。
島津家久像を確度で整理する
家久を読むときに危ういのは、釣り野伏せの天才・四兄弟最強という言葉だけで人物像を決めることである。戦術家としての非凡さは本物だが、後世が強めた評価や、確証のない逸話とは分けて見たい。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 沖田畷で龍造寺隆信を破った勝利 | 天正12年、家久が総大将として寡兵で大軍を破った骨格 | 高 |
| 戸次川で豊臣四国勢を破った勝利 | 天正14年、釣り野伏せで先遣隊を壊滅させた骨格 | 高 |
| 長宗我部信親・十河存保の討死 | 戸次川で両将が討死した事実 | 高 |
| 佐土原での急死(天正15年6月5日・享年41) | 講和直後に急死した事実 | 高 |
| 急死が豊臣秀長による毒殺だったか | 江戸期からの説だが確証なし。病死がより穏当 | 低〜中 |
| 釣り野伏せが家久個人の発明か | 島津家代々の戦法で、家久は卓越した実行者 | 低(個人発明説) |
| 龍造寺隆信の首級を家久自身が挙げたか | 首級は家臣・川上忠堅とされ、家久は総大将 | 中(将としての功績は高) |
| 「島津四兄弟最強」説 | 戦術の冴えという軸では根拠あり。総合評価とは別 | 中 |
| 廻坂初陣で工藤隠岐守を討った話 | 後世の編纂物に伝わる初陣譚 | 中 |
| 沖田畷の龍造寺軍の兵力(数万) | 二万五千〜六万と幅があり、軍記の誇張を含む | 中〜低 |
| 『御上京日記』の信長行列の描写 | 一次的な見聞だが、規模・人数には膨張の可能性 | 中〜高 |
| 祖父・日新斎の「軍法戦術に妙を得たり」評 | 戦才を伝える逸話だが、後世編纂物に依存 | 中〜低 |
| 耳川での家久個人の具体的役割 | 島津勢の一翼として参陣。細部の指揮は史料に幅 | 中 |
| 嫡男・豊久の退き口での殿軍討死 | 関ヶ原で殿軍を務め討死した骨格。細部に脚色 | 中〜高 |
結論を短く言えば、家久は釣り野伏せを最も鮮やかに勝利へ結びつけた、戦国屈指の戦術家である。そこは小さくしない。沖田畷と戸次川で、寡兵をもって二人の名将を討ち取った戦績は、確かな骨格として残る。
一方で、釣り野伏せを家久一人の発明とすること、四兄弟最強を総合評価として断定すること、急死を毒殺と決めつけることは、いずれも史料の確かさを越える。島津家久は、島津家の戦法を極めた天才的な戦術家であり、その不可解な急死とともに、確度を分けて読むほど面白くなる武将である。
参戦合戦
島津家久|釣り野伏せで龍造寺・長宗我部を討った四兄弟末弟の逸話
- 01
『御上京日記』 — 信長を目撃した武将の旅日記

御上京日記・薩摩から京への旅 · AI生成イメージ 島津家久が天正三年(一五七五年)の上洛で書き残した『中務大輔家久公御上京日記』は、戦国武将自身の手による旅の記録として、よく知られた史料である。薩摩から伊勢・京へ向かう道中の見聞が、日付を追って具体的に綴られている。
この日記が特に注目されるのは、(「織田信長」)や明智光秀を「同時代の旅人の視点」から描いている点である。大坂本願寺攻めから戻る信長の大行列を見物し、馬上で居眠りする信長を書きとめた一節は、天下人の意外な素顔を伝える挿話としてよく引かれる。明智光秀に招かれて坂本城を見学した記述も残る。
もっとも、紀行文である以上、家久が見聞きした範囲の記録であることは押さえておきたい。信長の行列の規模や人数には、後世に膨らんだ可能性も指摘される。日記の価値は、誇張のない数字の正確さよりも、末端の武将が畿内の政治と文化に触れた一次的な体験そのものにある。
九州の戦場で名を上げた武将が、同時に旅と記録を愛する教養人でもあった。『御上京日記』は、戦術家・島津家久のもう一つの顔をくっきりと映し出している。この日記があるおかげで、私たちは天正の畿内を薩摩武将の目で追体験できる。
- 02
龍造寺隆信の首は誰が討ったか — 釣り野伏せの実像

沖田畷の釣り野伏せ・勝利を設計した将 · AI生成イメージ 沖田畷の戦いで、家久が龍造寺隆信を「討ち取った」と語られることは多い。だが厳密に言えば、総大将として勝利を導いたのが家久であり、隆信の首級を実際に挙げたのは家臣の川上忠堅だったと伝わる。武将個人の手柄と、軍を率いた将の功績は分けて考えたい。
釣り野伏せそのものについても、注意が要る。これは家久が一人で発明した戦法ではなく、島津氏に代々受け継がれた戦術であった。耳川でも沖田畷でも戸次川でも用いられており、島津家の組織的な戦法として理解するのが正確である。家久は、その使い手として際立っていた、という位置づけになる。
また、龍造寺軍の兵力には「二万五千」「四万」「六万」など史料によって大きな幅がある。寡兵が大軍を破ったという骨格は動かないが、具体的な数字をそのまま鵜呑みにするのは危うい。後世の軍記が、勝利の劇的さを強める方向で数字を膨らませた可能性は十分にある。
とはいえ、これらの留保は家久の評価を下げるものではない。不利な地形と兵力差を逆手に取り、敵の総大将を倒す状況を作り出した点にこそ、家久の戦術家としての非凡さがある。「家久が隆信を討った」は、首級の事実ではなく、勝利を設計した将への評価として読むのがよい。
- 03
嫡男・島津豊久と佐土原 — 退き口へ続く血脈

嫡男・島津豊久と佐土原城 · AI生成イメージ 家久の急死後、日向佐土原の家を継いだのが嫡男・島津豊久である。父・家久が戦術で名を馳せたのと同じく、豊久もまた島津屈指の勇将として知られていく。父子二代にわたって、佐土原は島津の武の一拠点であり続けた。
豊久の名を不滅にしたのは、慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原である。西軍として戦った伯父・島津義弘が、敗勢のなか敵中正面を突破して退却する「島津の退き口」を敢行したとき、豊久は殿軍を務めた。伯父・義弘を薩摩へ生かして帰すため、豊久は自らの命と引き換えに追撃を食い止め、討死したと伝わる。
家久が戸次川で長宗我部信親を討ち、その十数年後に、家久の子・豊久が関ヶ原で散る。戦国を駆けた島津の血は、父から子へと戦場で受け継がれていった。佐土原という小さな城は、その二代の物語を静かに見つめてきた場所である。
ただし、退き口における豊久の最期にも、後世の語りによる脚色は混じる。殿軍の悲壮な献身という筋立ては美しいが、細部は軍記の彩りを含んで伝わっている。それでも、家久と豊久の父子が島津の戦場に刻んだ存在感は、史料の留保を超えて鮮やかである。
関連人物
所縁の地
- 佐土原城跡宮崎県宮崎市佐土原町
島津家久・豊久父子の居城で、続日本100名城に選ばれた日向国の要衝。もとは伊東氏の城だったが、島津氏の日向進出により島津方の拠点となり、家久が日向支配の要として入った。山城部の本丸跡や空堀、麓の二の丸跡(鶴松館として復元)が整備され、家久が天正15年(1587年)に急死した城として知られる。
- 沖田畷古戦場長崎県島原市
天正12年(1584年)、家久が総大将を務め龍造寺隆信を討ち取った決戦の地。島原半島の狭く泥深い湿地帯(畷)で、島津・有馬の寡兵が龍造寺の大軍を釣り野伏せで破った。現在は市街化が進むが、戦いを伝える碑や説明が残り、九州の勢力図を島津へ大きく傾けた古戦場として知られる。
- 戸次川古戦場大分県大分市中戸次
天正14年(1586年)十二月、家久が豊臣方の四国勢を破り、長宗我部信親・十河存保を討死させた九州征伐前哨戦の舞台。大野川流域に位置し、「戸次川古戦場碑」「鎧ヶ淵古戦場碑」が立つ。仙石秀久の強引な渡河と家久の釣り野伏せが交錯した戦場で、四国・九州双方の歴史に深い傷跡を残した。
- 新納院高城跡宮崎県児湯郡木城町
天正6年(1578年)の耳川の戦いで、島津勢が大友宗麟の大軍を引きつけ撃破する舞台となった日向の山城。小丸川(高城川)沿いの要害で、九州統一を争う島津と大友の決戦の核心となった。城跡には曲輪や土塁の遺構が残り、島津四兄弟が九州南半を固めた戦いの歴史を今に伝える。

