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安土桃山黒田家15681623
黒田長政|武勇と調略で関ヶ原を制した福岡藩祖の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
関ヶ原福岡藩黒田家
くろだ・ながまさ

黒田長政|武勇と調略で関ヶ原を制した福岡藩祖

KURODA NAGAMASA · 1568 — 1623 · 享年 56
黒田
生年
永禄11年
1568
没年
元和9年
1623・享年56(数え)
出身
播磨姫路
兵庫県
石高
52万3千石
筑前福岡藩 初代藩主
家紋
藤巴
FUJI-DOMOE

黒田長政

黒田長政は、稀代の軍師・黒田官兵衛(如水)の嫡男として生まれ、関ヶ原の戦いで東軍勝利を支え、戦後に筑前五十二万三千石を得て福岡藩祖となった、安土桃山から江戸初期を代表する武将である。

その生涯は、ひとことでは括りにくい。少年期には人質として命を狙われ、青年期には朝鮮の戦場で槍を振るい、天下分け目の関ヶ原では父ゆずりの調略で西軍を切り崩した。武勇の猛将なのか、それとも智謀の将なのか——長政には、この二つの顔が分かちがたく同居している。

とりわけ名高いのが、関ヶ原での働きである。長政は、毛利の重臣・吉川広家を内応させて毛利本隊を動かさず、小早川秀秋への調略にも関わり、本戦では石田三成の本隊と斬り結んだ。ただし、合戦の勝利そのものを呼び込んだ主体は、あくまで全軍を率いた徳川家康である。長政の功は、家康の勝利を「支えた」立役者の一人としてのものであり、その貢献ゆえに、彼は破格の恩賞を手にした。

戦後、長政が築いた福岡の町は、いまも九州第一の都市としてその名を残す。父・官兵衛が黒田家の西国大名化を方向づけたとすれば、長政はそれを五十二万石の藩として完成させた、紛れもない福岡藩の祖である。

一方で、長政には「短慮」「武断」といった評価もつきまとう。福島正則ら武断派との近さ、後藤又兵衛との不和——その人物像は、後世の語りのなかで何度も塗り替えられてきた。「父の智を継いだ調略者」と「気性の激しい猛将」、どちらが本当の長政なのか。

その答えは、おそらく二者択一では出ない。以下の「読み解き」では、長政をめぐる逸話と評価を、同時代の史料、江戸期の家譜、近現代のメディアという層に分けて、ひとつずつ確かめていく。

01人質HOSTAGE

松寿丸、人質に出される

人質に出された少年・松寿丸
人質に出された少年・松寿丸

永禄十一年(1568年)、黒田長政は播磨国姫路に生まれた。父は、のちに竹中半兵衛と並ぶ「両兵衛」と謳われる稀代の軍師・黒田官兵衛(孝高)である。幼名を松寿丸といった。軍師の子としての将来を約束されたかに見えたこの少年に、最初に訪れたのは栄達ではなく、人質という名の試練であった。

天正五年(1577年)ごろ、織田信長に従う父・官兵衛の忠誠の証として、松寿丸は織田方への人質に出され、羽柴秀吉のもとへ預けられた。まだ十歳前後の少年が、家の命運を背負って他家の陣営に身を置く——戦国の世では、それは決して珍しいことではない。だが松寿丸の人質生活は、ほどなく命の瀬戸際へと転じる。

天正六年(1578年)、摂津有岡城の荒木村重が信長に背いた。翻意を促すため城へ入った官兵衛は、そのまま捕らえられて長く消息を絶つ。これを見た信長は、官兵衛も村重に通じたのではないかと疑い、人質の松寿丸を殺すよう秀吉に命じた。父の生死も知れぬまま、その子の命までもが、疑心の刃の前に差し出されようとしていた。

このとき松寿丸を救ったと伝わるのが、秀吉の参謀・竹中半兵衛である。半兵衛は信長の命に表向き従うふりをして、ひそかに松寿丸を匿い、その命をつないだ——『黒田家譜』をはじめとする後世の記録は、この出来事を黒田家の忠義と半兵衛の義の物語として語り継いできた。

やがて有岡城は落ち、官兵衛は救出される。父は生きており、子も生きていた。人質に出され、いわれなき疑いで命を奪われかけた少年期の記憶は、のちに天下分け目の戦場で大胆な調略へ踏み込む黒田長政の、最初の原点となった。

関ヶ原の論功を伝える『黒田家譜』の名場面(後世の挿話)

「内府、長政の右の手を取りて、三度まで御礼ありし」

—— 『黒田家譜』(江戸前期の藩撰家史)
02初陣FIRST BATTLE

中国攻めの初陣と若武者の日々

中国攻めに初陣する若武者・長政
中国攻めに初陣する若武者・長政

天正十年(1582年)、長政はおよそ十五歳で初陣を迎える。父・官兵衛が支える羽柴秀吉の中国攻めに従い、備中・播磨の戦場で実戦の空気を吸った。生まれながらの軍師の子は、机上の兵法ではなく、現実の合戦のただ中で武門の作法を覚えていく。

同じ年の六月、本能寺の変が起こる。秀吉が中国大返しから山崎の戦いへ駆け抜けると、黒田父子もその激流のなかにいた。父が情報と補給と交渉で秀吉を支えるかたわら、若き長政は、戦場で槍を握る武将としての顔を鍛えていった。父が「智」で天下人を支えたのに対し、長政はまず「武」で己の名を上げようとした。

天正十二年(1584年)の小牧・長久手、天正十三年(1585年)の四国攻め、そして天正十五年(1587年)の九州征伐。秀吉の天下統一戦が進むたびに、長政は各地を転戦し、着実に武功を積み重ねていく。豊前の在地勢力との戦いでは、父とともに黒田家の新たな所領を固める役割も担った。

天正十七年(1589年)ごろ、父・官兵衛は家督を長政へ譲り、剃髪して如水と号する。長政は名実ともに黒田家の当主となり、このころ従五位下・甲斐守に叙任された。軍師の子は、人質の少年から、自らの武で道を切り開く一軍の将へと育っていた。

家康への忠勤を誇った長政に父・如水が返したと伝わる逸話(後世の語り)

「さて、その時、そなたの左の手は何をしていたのか」

—— 後世逸話
03朝鮮KOREA

海を渡った武功と確執の芽

文禄・慶長の役に渡海する長政
文禄・慶長の役に渡海する長政

文禄元年(1592年)、秀吉は明の征服を掲げて朝鮮へ大軍を送った。文禄・慶長の役である。長政も海を渡り、各地を転戦して武功を重ねた。異国の地での長期の戦いは、若い武将に過酷な実戦経験を刻み込む。

朝鮮の戦場は、勝敗だけでなく、豊臣政権の内部に深い亀裂を生んだ。前線で槍を交える武将たちと、後方で兵站や戦況報告を差配する奉行衆——その立場のちがいは、しばしば感情の衝突へと発展する。長政もまた、現地の目付や奉行による報告のあり方に、強い不満を抱いた一人だった。戦場の現実を知る武将と、文書と算用で戦を支える吏僚。両者の溝は、やがて関ヶ原へと続く対立の伏線になっていく。

慶長三年(1598年)、秀吉が没し、戦は撤退で幕を閉じた。だが、朝鮮で積もった武将たちの不満は消えなかった。とりわけ、五奉行筆頭・石田三成への反感は、加藤清正福島正則・黒田長政ら武断派の諸将のあいだで、強く共有されていく。

慶長四年(1599年)、その対立はついに表面化する。武断派の七将が、三成を襲撃しようと動いた一件である。長政もこの騒動に深く関わったと伝わる。朝鮮の役で芽生えた奉行衆との確執は、長政を反三成・親家康の陣営へと押し出し、関ヶ原の調略へとつながる導火線となった。

母里太兵衛の名槍呑み取り伝説に由来する福岡の民謡「黒田節」

「酒は飲め飲め 飲むならば 日本一のこの槍を 飲み取るほどに飲むならば これぞ真の黒田武士」

—— 後世の郷土芸能
04調略STRATAGEM

関ヶ原前夜の水面下

吉川広家への内応工作を進める長政
吉川広家への内応工作を進める長政

慶長五年(1600年)、豊臣政権は徳川家康石田三成の対立を軸に、天下を二分する。会津の上杉景勝討伐に端を発し、三成が西で兵を挙げると、天下分け目の決戦は避けられないものとなった。

長政は、迷うことなく家康方——東軍に身を投じる。だが、長政の真価が発揮されたのは、戦場の槍働きの前に、水面下の調略においてであった。父・如水ゆずりの人脈と弁舌を武器に、長政は西軍の切り崩しに動く。武で名を上げてきた長政が、ここでは父の領分であったはずの「智」を、天下分け目の盤面で振るったのである。

最大の標的は、毛利一族であった。西軍の総大将に毛利輝元が担がれるなか、長政は毛利の重臣・吉川広家と通じる。広家を介して、毛利勢を本戦で動かさないという密約を取りつけた——南宮山に陣取った毛利の大軍が関ヶ原で傍観に回った背景には、この長政の調略があったと、書状の検討からも重視されている。

さらに長政は、浅野幸長らとともに、西軍の小早川秀秋にも東軍への内応を働きかけたと伝わる。かつて人質として命を狙われた少年は、いまや天下を左右する調略者として、戦わずして西軍の屋台骨を切り崩しにかかっていた。

05関ヶ原SEKIGAHARA

岡山烽火場の一日

関ヶ原・岡山烽火場に布陣する黒田隊
関ヶ原・岡山烽火場に布陣する黒田隊

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃関ヶ原。東西あわせて十数万の軍勢が、霧の晴れた盆地で激突した。長政は東軍の一翼として、戦場の北東・岡山(丸山)の烽火場付近に布陣する。傍らには、亡き竹中半兵衛の子・竹中重門の姿もあった。

長政の正面に現れたのは、西軍の石田三成の本隊であり、その先鋒を固める猛将・島左近であった。左近の奮戦は東軍を大いに苦しめたが、長政の隊は鉄砲を巧みに用いてこれに応戦する。黒田勢の銃撃によって島左近が負傷したと伝わり、西軍の堅い先鋒は、ここで勢いを削がれていった。

戦局を最終的に動かしたのは、松尾山の小早川秀秋の離反である。秀秋が西軍へ攻めかかると均衡は一気に崩れ、西軍は総崩れとなった。長政の調略が下地を作った寝返りが、本戦の帰趨を決する大きな要因となったのである。

ただし、勝利そのものを呼び込んだ主体は、あくまで全軍を統べた徳川家康であった。長政は、調略で西軍を弱らせ、本戦で三成隊と斬り結んだ立役者の一人——その貢献は、家康をして最大級の恩賞を与えしめるに足るものだった。武勇と調略。長政が少年期から磨いてきた二つの刃が、天下分け目のこの一日に交差した。

06福岡FUKUOKA

筑前五十二万三千石と福岡城

福岡城の縄張りを検分する長政
福岡城の縄張りを検分する長政

関ヶ原の戦後、徳川家康は論功行賞において、黒田長政の働きを高く評価した。長政が得たのは、豊前中津十二万石から一気に飛躍する、筑前ほぼ一国にあたる五十二万三千石という破格の恩賞である。黒田家は、西国有数の大大名へと駆け上がった。

慶長五年(1600年)末、長政はまず筑前の名島城に入る。だが、名島は城下を広げるには手狭であった。長政は、博多に近い福崎の丘陵に新たな城と城下町を築くことを決める。軍師の子は、戦場の将から、一国を経営する大名へと、その役割を大きく変えていった。

慶長六年(1601年)から、約七年をかけて福岡城と城下町の建設が進む。新たな町の名「福岡」は、黒田氏ゆかりの地と伝わる備前国の福岡にちなんで名づけられたとされる。商人の町・博多と、武家の町・福岡。那珂川を挟んで並び立つ二つの町が、近世都市・福岡の骨格となった。

築城には、父・如水の経験も重なって見える。海と川と城下を結ぶ縄張りは、黒田父子が積み上げてきた築城術の到達点であった。「福岡」という地名は、いまも九州第一の都市の名として生き続けている。その源流に、関ヶ原を駆け抜けた黒田長政の決断がある。

07藩祖FOUNDER

福岡藩の礎と最期

福岡藩政を固める晩年の長政
福岡藩政を固める晩年の長政

筑前福岡藩の初代藩主となった長政は、五十二万石の領国経営に心血を注いだ。慶長二十年(1615年)、徳川幕府が一国一城令を発すると、長政は領内の支城を廃し、福岡城に統治を集約していく。戦乱の時代から、泰平の世の藩政へ——黒田家もまた、その大きな転換のただ中にあった。

だが、藩政の確立は、家中の軋みとも隣り合わせであった。慶長十一年(1606年)ごろ、黒田家随一の猛将として知られた**後藤又兵衛(基次)**が、長政と袂を分かって出奔する。両者の不和の理由は、家中の統制や重臣の処遇をめぐる確執など、さまざまに語られてきた。父・如水が後見した時代の重臣たちと、新たな藩主・長政との関係は、必ずしも穏やかではなかった。

それでも長政は、徳川の世における黒田家の地位を、着実に固めていく。大坂の陣にも徳川方として臨み、外様大名でありながら、幕府の信任を保ち続けた。

元和九年(1623年)、長政は京都で五十六年の生涯を閉じた。家督は嫡男・忠之が継ぎ、福岡藩は幕末まで黒田家の領国として続いていく。人質の少年から、関ヶ原の調略者へ、そして福岡藩祖へ。黒田長政の生涯は、戦国の終わりと泰平の始まりを、一身で駆け抜けた軌跡であった。