
安国寺恵瓊|外交僧から大名へ栄達し関ヶ原に賭けた男
「信長の没落を見通し、毛利の外交を担い、関ヶ原に賭けた臨済の僧」
安国寺恵瓊
安国寺恵瓊は、滅びた名門の血を引く一人の禅僧でありながらも、毛利家の外交を一身に背負い、ついには僧の身で大名の列に加わった、戦国でも稀な外交僧である。
その名が歴史に焼きついた瞬間を、人はしばしば一通の書状に見る。織田信長が将軍足利義昭を京から追い、天下に号令しはじめた頃、遠い安芸からその先行きを見据えた恵瓊は、「信長はやがて高転びに転ぶ」と書き送り、まだ一武将にすぎぬ羽柴秀吉を「さりとてはの者」と評した。九年後、その言葉どおりに信長は本能寺で斃れ、秀吉が天下を継ぐ。
だが恵瓊は、机上で世を論じるだけの僧ではない。備中高松城の水攻めでは、本能寺の変という激震のただ中で毛利方の講和をまとめ、秀吉の東上を後押しした。その功によって伊予に知行を得て、剃髪の身でありながら大名の列に連なる。寺の頂たる東福寺の住持にまでのぼった栄達は、弁舌と信用が刀に並ぶ力を持ちえた、戦国後期のもう一つの真実を映している。
頂点に立った男は、最後に一世一代の博打を打った。関ヶ原で石田三成と結び、毛利を西軍へと導いたのである。しかし南宮山に布陣した毛利勢は、味方の内通によって主戦闘に加われぬまま敗れ去る。言葉で天下と渡り合った外交僧は、味方の沈黙という、言葉の通じぬ結末を迎えた。栄光と転落、その振れ幅の大きさこそが、安国寺恵瓊という人物の核にある。
安芸武田の遺児 — 滅びの家から禅門へ

安芸武田氏は、かつて安芸国の守護をつとめた名門だった。佐東銀山城を本拠に山陽の一角を押さえたその家は、しかし戦国の荒波の中で坂を転げるように衰えていく。永正十四年(1517年)、当主・武田元繁は有田合戦で若き日の毛利元就に敗れて討死し、跡を継いだ光和は出雲の尼子氏と結んで大内氏に抗したものの、家勢の傾きは止まらなかった。
そして天文十年(1541年)、大内義隆の軍事指揮のもと、毛利元就らの攻撃の前に銀山城は落ちる。安芸武田氏は、ここに事実上の滅亡を迎えた。皮肉なことに、その滅亡を後押しした一人こそ、のちに恵瓊が外交を担う毛利の元就である。
恵瓊は、その滅びた家の血を引く子だと伝えられる。武田一族の遺児として戦火を逃れ、安芸の安国寺へ入って出家したという。家を奪われた側の子が、家を奪った勢力の膝下で僧形となる——後の生涯を思えば、これほど数奇な出発点もない。
少年は安国寺で禅を学び、やがて京へのぼって臨済の名刹・東福寺の門をくぐる。師は竺雲恵心。経典と漢籍、そして都に張りめぐらされた人脈。禅僧の修行は、信仰の道であると同時に、当代一流の教養と情報網を身につける道でもあった。だからこそ寺は、武家が喉から手が出るほど欲しがる「外交の使い手」を育てる場にもなる。
家を失った遺児は、刀ではなく言葉を武器に選んだ。滅びた名門の子が禅門に入ったことは、やがて毛利の天下交渉を背負う外交僧・恵瓊の母胎となった。
信長の没落と羽柴秀吉の台頭を見通したと伝わる一節。占いではなく義昭追放後の中央政局を分析した外交僧の情勢報告である。「高ころびに、あおのけにころばれ候ずる/藤吉郎さりとてはの者にて候」
毛利の外交僧 — 両川の下で天下と渡り合う

毛利の家は、元就のもとで安芸の一国衆から中国地方の覇者へとのし上がった。版図が広がれば、隣国や中央政権との交渉ごとは雪だるま式に増える。武辺の将では捌ききれない外交の機微を、毛利は寺の僧に託した。その中心に立ったのが恵瓊である。
恵瓊の活動は、すでに元就の晩年にさかのぼる。永禄の末、毛利が北九州をめぐって大友氏と争った立花城攻防のような局面でも、僧体の使者は敵地を行き来した。元就の孫・輝元の代になると、恵瓊の比重はいよいよ増す。輝元を支えたのは、叔父の吉川元春と小早川隆景——いわゆる毛利両川。とりわけ知略の人・隆景は、恵瓊の外交手腕を高く買い、しばしば二人三脚で難交渉にあたった。
天正元年(1573年)には、将軍足利義昭と織田信長のあいだの調停をめぐって恵瓊は上洛し、信長方の羽柴秀吉や朝山日乗らと膝を突き合わせている。僧の身分は、敵味方の境を越えて行き来できる便利な通行手形でもあった。恵瓊は安芸と京、毛利と中央を往復し、織田、足利、やがて羽柴と、時代の中心人物たちと直に渡り合っていく。
彼の仕事は、単なる使い走りではない。情勢を読み、相手の本音を探り、落としどころを描いて持ち帰る。つまり恵瓊は、毛利という大国の目であり耳であり、ときに口でもあった。だが交渉の僧は、相手をただ観察するだけでは終わらない。恵瓊は天下の動きを見抜く眼を、やがて一通の手紙の中で世に示すことになる。
信長への予言 — 「高ころびに、あおのけ」

天正元年(1573年)、織田信長は将軍足利義昭を京から追い、天下に号令しはじめた。その勢いは頂点に向かって駆け上がっていくかに見えた。中央での交渉を終えた恵瓊は、その年の暮れ、安芸の毛利重臣・山県越前守と井上春忠へ宛てて、京の情勢を細やかに報じる一通の書状を書き送る。
その末尾に、後世まで語り継がれる一節が記された。信長の世はあと五年か三年は持つだろう、来年あたりには公家にでも任じられようか、しかしそのうちに「高ころびに、あおのけにころばれ候ずる」——高転びに仰向けに転ぶだろう、と。そして筆はこう続ける。羽柴藤吉郎は「さりとてはの者」、つまり、なかなかの器量人だ、と。
天下人の絶頂を前にしてその没落を見通し、まだ一武将にすぎぬ秀吉の非凡を言い当てた一文である。事実、信長は九年後に本能寺で斃れ、その後を継いだのは藤吉郎・秀吉だった。
もっとも、この書状は占いの託宣ではない。義昭を追放した直後の中央政局を、交渉の現場に身を置いた外交僧が冷徹に分析した、いわば情勢報告書の一文である。だが結果として未来を射抜いたこの言葉は、恵瓊という人物の眼力を、何より雄弁に物語る。「高ころびに、あおのけ」の一句は、外交僧・恵瓊の名を歴史に刻んだ。
備中高松の講和 — 水攻めと本能寺の谷間で

天正十年(1582年)、織田と毛利の戦線は備中へと及んだ。信長の命を受けた羽柴秀吉は、備中高松城を長大な堤で囲い、足守川の水を引き込んで城を湖に沈める前代未聞の水攻めにかかる。城主・清水宗治は孤立し、毛利本隊と秀吉軍が高松をはさんで対峙する一触即発の局面となった。
この難局で和睦の糸口を手繰ったのが、毛利方の使僧・恵瓊である。当初、秀吉が突きつけた条件は、中国地方の五カ国割譲と宗治の切腹という厳しいものだった。割譲する領国の範囲と籠城衆の助命をめぐって、交渉は難航する。そこへ、すべてを変える報せが走った。六月二日、京の本能寺で信長が明智光秀に討たれたのである。
秀吉は、信長の死をひた隠しにしたまま、毛利との和睦を一気にまとめ上げにかかった。主君を喪った秀吉にとって、背後の毛利と早く手を切り、明智討伐へ取って返すことが何より急務だったからである。領土の条件は備中・美作・伯耆などの線引きへと緩み、講和は成った。その代償として、城主・清水宗治は将兵の助命と引き換えに船上で自刃し、籠城の城兵の命を購う。恵瓊は、宗治の最期を見届ける立会人ともなったと伝わる。
毛利が信長の死を確かに知ったのは、講和が成り、秀吉が東へ駆け去る前後のことだったとされる。もし毛利が変事をいち早く察し、退く秀吉を追撃していれば、天下の地図は塗り替わっていたかもしれない。恵瓊がまとめたこの講和は、結果として秀吉の天下取りの出発点を整えることになった。
僧にして大名 — 伊予の知行と京の住持

本能寺の後、天下は秀吉のものとなっていく。高松の講和で誼を通じた恵瓊は、その秀吉に重く用いられた。毛利と豊臣をつなぐ蝶番として、彼ほど適任の者はいない。天正十三年(1585年)の四国平定を経て、秀吉は恵瓊に伊予国の和気郡などへ知行を与える。剃髪の僧でありながら、一万石を超える領主——すなわち大名の列に加わったのである。
これは破格のことだった。戦国の世にあっても、僧体の身で自前の知行と家臣を抱える大名となる例は、ほとんど類を見ない。恵瓊は合戦の武功ではなく、外交の功によって、刀ではなく弁舌で身代を築いた稀有な存在となった。
栄達は俗世の所領にとどまらない。慶長三年(1598年)には臨済宗の名刹・東福寺の住持となって第二二四世を数え、宗門の頂きにも近づいていく。安芸や備後の安国寺、東福寺の伽藍など、寺の再興事業にも力を注いだ。安芸の滅亡した家に生まれた遺児が、毛利の外交を背負い、豊臣政権に食い込み、寺と俗の双方で頂点へとのぼりつめる。外交僧から大名へ——恵瓊の栄達は、取次と信用がそのまま力に転じた戦国後期の現実を体現していた。
西軍への賭け — 三成と結んだ関ヶ原

慶長三年(1598年)、天下人・秀吉が世を去る。豊臣政権は、五大老筆頭・徳川家康と、奉行・石田三成らの対立へと傾いていった。毛利家にとって、この激流をどう泳ぐかは家運を賭けた難問である。すでに知略の隆景は前年に没し、毛利の外交を取り回す重みは、いよいよ恵瓊の双肩にかかっていた。
恵瓊は、三成と結ぶ道を選ぶ。慶長五年(1600年)、家康が会津の上杉討伐に向かった隙を突いて、三成や五奉行らは家康弾劾の兵を挙げた。豊臣公儀を守るという名分のもと、西軍は毛利輝元を総大将として大坂城西の丸へ迎える。輝元の上坂には毛利家中の主体的な判断も重なっており、恵瓊一人が輝元を担ぎ出したと見るのは単純にすぎる。それでも、毛利を西軍の旗頭へと導く流れの中心に恵瓊がいたことは間違いない。
外交僧として天下の機微を読み続けてきた男が、ここで初めて、観察者ではなく当事者として、家と己の運命を一つの陣営に賭けた。豊臣の天下を守る側に立つ——それは恵瓊にとって、栄達の頂で打った最大の博打だった。だが盤面は、彼の読みの外で静かに動き始めていた。
南宮山の沈黙 — 動かぬ毛利勢と幕切れ

慶長五年九月十五日、関ヶ原。恵瓊は毛利秀元や長宗我部盛親らとともに、戦場の東を見下ろす南宮山に布陣した。山上の毛利勢が東軍の側面へなだれ込めば、戦況は西軍に大きく傾く——はずだった。
だが、毛利勢は動かない。山の前面に陣取った吉川広家が、黒田長政らを介してひそかに家康と通じ、毛利本領の安堵と引き換えに参戦を拒んだためである。広家が前を塞ぐかぎり、後方の秀元も恵瓊も山を下りられない。配置と指揮系統は乱れ、号令は宙に浮いた。南宮山の数万は、ついに主戦闘に加わることなく、西軍の崩壊を見届けることになる。
恵瓊が読み抜いてきたはずの「人の心の動き」は、最も肝心な味方の内側で裏切られた。日が傾く頃、西軍は総崩れとなる。恵瓊は戦場を離れ、京へと身を潜めた。やがて捕えられ、引き立てられていく僧の胸に去来したものを、史料は多くを語らない。広家が安堵を狙った毛利本領も、戦後には防長二国へと大きく削られ、賭けに敗れた代償は重く残った。
天下の趨勢を誰よりも早く読み、滅びた家から大名にまでのぼりつめた外交僧は、最後の大博打で盤面を読み切れなかった。言葉で天下と渡り合った男の生涯は、味方の沈黙という、言葉の通じぬ結末で幕を下ろす。
史料の読み解き
ここからは、英雄譚としての生涯から一歩離れ、史料の濃淡に目を凝らしてみたい。恵瓊をめぐる逸話の多くは、後世の評価や結果論と分かちがたく結びついている。どこまでが動かしがたい事実で、どこからが「面白く語られた像」なのか。栄達と転落の落差が大きい人物だからこそ、ここを丁寧に腑分けしておきたい。
安芸武田の遺児という出自をどう読むか
恵瓊が安芸武田氏の血を引くという伝えは、辞典類でも広く採られている。安芸武田氏が天文十年(1541年)に毛利元就らによって滅ぼされたことは確かであり、その遺児が寺へ逃れて出家するという筋立ては、時代の常としてありそうな話ではある。
ただし、「武田信重の子」とまで一点に定める史料的な裏づけは弱い。安芸武田氏ゆかりの出自という大枠は通説として扱えても、具体的な父子関係を断定するのは慎重でありたい。出自の物語は、後の栄達を「滅びた名門の再起」として劇的に彩る装置でもある。動かないのは「安芸の出で、若くして安国寺の僧となった」という骨格までで、その先は伝承の領域だと見ておくのが穏当だろう。
生年と享年の揺れ
恵瓊の生年は、はっきりしない。天文六年(1537年)とも七年(1538年)ともいわれ、享年も六十三、六十四と幅がある。没年と没日は慶長五年十月一日(現行暦で1600年11月6日)で動かないが、そこから逆算する生年は確定していない。
本記事の統計欄や本文で「天文年間・1537/1538年頃」と幅を持たせているのは、この不確かさを踏まえてのことである。何歳で予言の書状を書き、何歳で関ヶ原に臨んだか——年齢を一つに決めて語りたくなるところだが、史料が許す範囲を超えて精密に書くことはしない。
「予言」は的中した予言だったのか
天正元年(1573年)の書状にある「高ころびに、あおのけにころばれ候ずる」「藤吉郎さりとてはの者にて候」の一節は、恵瓊像の中核をなす。この書状自体は吉川家の文書として伝わり、文言の信頼性は高い。問題は、それを「未来を言い当てた予言」と呼ぶかどうかである。
書状は本来、京で交渉にあたった外交僧が、安芸の主家へ宛てた情勢報告だった。義昭を追放した直後の信長政権の危うさと、台頭しつつある秀吉の器量を、現場の観察から評したものと読むのが筋が通る。結果として九年後の現実と符合したために、後世が「予言」として神話化した側面が強い。恵瓊の凄みは、占い的中ではなく、権力の只中で人と情勢を読み抜いた政治的観察眼にこそある。そう捉えてこそ、この一節の価値は正しく立ち上がる。
高松講和の条件はどう動いたか
備中高松城の講和は、本能寺の変を境に条件が大きく動いた交渉だった。当初、秀吉が示した条件は中国地方の五カ国割譲と城主・清水宗治の切腹という厳しいものである。それが信長横死の報を受けて、領土の線引きは備中・美作・伯耆あたりへと緩み、宗治の自刃と城兵の助命へと焦点が絞られていった。
ただし、最終的な割譲範囲の表現には史料によって揺れがある。確かなのは、秀吉が主君の死を伏せて和睦を急ぎ、その急ぎぶりが毛利にとって有利な妥結をもたらした、という構図である。恵瓊はこの急転の交渉を、毛利方の窓口として捌ききった。
毛利はいつ信長の死を知ったのか
講和をめぐっては、「毛利が信長の死を知ったのはいつか」という論点がしばしば語られる。通説では、講和成立後、秀吉が撤退する前後に毛利方が変事を察知したとされる。もし即座に知って追撃に転じていれば、歴史は変わったかもしれない——という後世の想像をかき立てる場面である。
もっとも、毛利が変をいつ、どの程度の確かさで掴んだかは、史料の上で完全には定まらない。吉川広家や小早川隆景が追撃に慎重だったという理解とあわせて、ここは断定を避け、「秀吉撤退の前後に知ったとされる」という幅のなかで捉えておきたい。
外交僧から大名へ — 栄達の実像と石高
恵瓊が秀吉から伊予に知行を得て、僧の身で大名の列に加わったことは、彼の生涯で最も鮮烈な事実である。ただし石高については、語られ方に注意がいる。通説では「伊予和気郡などに二万三千石」と伝わり、関ヶ原で所領を失った際には「六万石」とも記録される。一方、確実な朱印状で裏づけられるのは一万千五百石ほどで、その内訳には伊予のほか九州などの知行も含まれていたとされる。
これらの数字は、寺領と個人知行、本人分と一族・与力分、年代の違いなどが入り混じって伝わっている可能性がある。本記事が具体的な石高を断定せず「一万石を超える大名」という表現に重心を置くのはこのためである。重要なのは正確な石高の多寡よりも、剃髪の僧が知行と家臣を抱える領主になったという事実の異例さのほうだろう。
なぜ西軍に賭けたのか — 輝元擁立の実像
関ヶ原に際し、恵瓊が石田三成と結び、毛利を西軍へ導いたことは間違いない。慶長二年(1597年)に知略の小早川隆景が没した後、毛利の外交を取り回す比重が恵瓊に大きく傾いていたことも背景にある。
ただし、「恵瓊が単独で輝元を担ぎ出した」「三成と恵瓊が輝元を騙して総大将に据えた」といった筋立ては、近年の研究では割り引いて見られている。輝元の大坂城西の丸入りには、五奉行による家康弾劾や豊臣公儀を守るという名分、そして毛利家中の主体的な判断が伴っていたと考えられ、すべてを恵瓊一人の謀略に帰すのは単純にすぎる。恵瓊は西軍参加を強く推し進めた中心人物の一人——その程度に踏みとどめておくのが、史料に対して誠実な読み方である。
南宮山で何が起きたのか
関ヶ原本戦で、南宮山の毛利勢が動かなかった最大の要因が、吉川広家の東軍内通にあったことは通説として揺らがない。広家は黒田長政らを介して家康方と通じ、毛利本領の安堵と引き換えに前面で軍を抑えた。そのために、後方の毛利秀元や恵瓊は山を下りられなかったという構図である。
もっとも、「広家ひとりが物理的に全軍を封じた」「弁当を使う口実で参戦を引き延ばした」といった逸話的な語り口は、やや俗説に寄っている。研究者の中には、南宮山勢の配置や指揮系統、事前交渉の複雑さを指摘し、単純な「広家悪玉論」に疑問を呈する声もある。確かなのは、広家の内通と前面配置が毛利勢の不参加を招く重要な要因となり、それが西軍の敗北を決定づけた、という大枠までである。皮肉にも、広家が守ろうとした毛利本領は、戦後に防長二国へと大きく削られた。
安国寺恵瓊像を確度で整理する
最後に、本記事で扱った主要な論点を、史料的な確からしさの度合いで整理しておく。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 安芸武田氏ゆかりの出自 | 通説的な伝承として広く採られる | 中 |
| 「武田信重の子」と特定すること | 父子関係の裏づけは弱い | 低 |
| 生年(1537/1538年頃) | 諸説あり一つに定まらない | 不確定 |
| 没年・没日(1600年・六条河原) | 動かない | 高 |
| 予言書状の文言と存在 | 吉川家文書として伝わる | 高 |
| それを「的中した予言」とみなすこと | 後世の神話化・政治的観察と読むべき | 低 |
| 高松講和の最終条件 | 五カ国割譲から緩和、割譲範囲に表現の揺れ | 中〜高 |
| 毛利が信長の死を知った時点 | 秀吉撤退の前後とされる | 中 |
| 伊予に知行を得た大名であること | 朱印状で裏づく | 高 |
| 安国寺宛朱印状の1万1500石 | 内訳に伊予・九州を含む確実な数値 | 高 |
| 通説の「二万三千石」 | 広く伝わるが内訳に幅 | 中 |
| 没収時の「六万石」 | 後世史料・合算が混在 | 中〜低 |
| 西軍参加を推進した中心人物 | 史料的に支持される | 高 |
| 輝元を単独で擁立・騙した | 近年は割り引いて見られる | 低 |
| 吉川広家の内通で毛利勢が動かず | 通説 | 高 |
| 「広家が全軍を物理的に封じた」 | 俗説寄り・異論あり | 低 |
栄達の高さと転落の深さばかりが語られがちな人物だが、その振れ幅を支える事実の一つひとつには、こうした濃淡がある。安国寺恵瓊を「予言を当てた怪僧」として消費するのではなく、天下の力学を読み続けた外交僧として捉え直すとき、その栄光と転落はいっそう人間的な重みを帯びる。
参戦合戦
安国寺恵瓊|外交僧から大名へ栄達し関ヶ原に賭けた男の逸話
- 01
信長の没落を見通した書状

恵瓊の名を不朽にしたのは、合戦の武功ではなく、一通の手紙だった。天正元年(1573年)十二月十二日付、信長が将軍義昭を追放した直後に、京で交渉にあたっていた恵瓊は、安芸の毛利重臣・山県越前守と井上春忠へ情勢を報じた。吉川家に伝わったこの書状が、後世の評価の源泉となる。
その中で彼は、信長の天下はそう長くは続くまいと記し、「高ころびに、あおのけにころばれ候ずる」と書き添える。そして羽柴藤吉郎を「さりとてはの者」、ひとかどの器量人と評した。九年後、信長は本能寺に斃れ、秀吉が天下を継ぐ。結果を知る後世から見れば、まるで未来を言い当てた予言である。
もっとも、これは神がかった託宣ではない。中央の権力の只中に身を置き、人と情勢を冷徹に観察し続けた外交僧の、報告書の一文にすぎない。恵瓊の本領は予言の才ではなく、天下の力学を読み抜く眼にあった。
- 02
本能寺の谷間でまとめた高松講和

天正十年(1582年)、秀吉が備中高松城を水攻めにした最中に、本能寺の変が起きた。信長横死の報をいち早く掴んだ秀吉は、その死を伏せたまま毛利との和睦を急ぐ。当初の五カ国割譲という強硬な条件は、変を境に大きく緩んでいった。
毛利方の使僧として交渉の卓に着いていたのが恵瓊である。割譲領の線引きと、城主・清水宗治の処遇が最後の焦点となった。秀吉が条件を緩めたことで講和は成り、宗治は城兵の助命と引き換えに、湖と化した堀に小舟を漕ぎ出して自刃した。恵瓊はその最期に立ち会ったとも伝えられる。
毛利が信長の死を確かに知ったのは、すべてが終わる前後のことだった。もし変事を即座に察し、退く秀吉を追撃していれば、天下の地図は塗り替わっていたかもしれない。恵瓊がまとめたこの講和は、皮肉にも秀吉の天下取りに道を開いた一手となった。
- 03
僧にして大名という二足の草鞋

恵瓊の生涯で最も異色なのは、剃髪の禅僧が一国の領主を兼ねたという一点に尽きる。秀吉から伊予に知行を与えられ、確実な記録の上でも一万石を超える身代を持った。戦国広しといえども、自前の家臣団を抱える「大名の僧」はほとんど例がない。もっとも、伊予に居城して領国を経営したというより、知行を保有する型の大名だったとみられる。
しかも彼は、俗世の所領を得る一方で、慶長三年(1598年)には臨済宗の名刹・東福寺の住持に就き、宗門の頂にも手をかけた。片や寺の法灯を守る高僧、片や知行を差配する領主。二足の草鞋を履きこなしたのは、ひとえに外交で築いた信用ゆえである。
取次と人脈を元手に、寺と俗の双方で頂点へのぼった男。恵瓊の出世は、戦国後期に「交渉する僧」がどれほどの価値を持ったかを映す鏡である。
関連人物
所縁の地
- 安国寺(不動院)広島県広島市東区牛田新町
恵瓊ゆかりの寺で、旧・安芸安国寺の法灯にちなみ、現在は真言宗別格本山の不動院として知られる。恵瓊が再興に力を注いだと伝わり、国宝の金堂を擁する。境内には恵瓊の墓も営まれ、外交僧の事績を今に伝える。
- 備中高松城跡岡山県岡山市北区高松
天正十年(1582年)に秀吉が水攻めを行った沼城の跡。恵瓊が毛利方の使僧として講和をまとめ、城主清水宗治が自刃した舞台で、現在は公園として堤跡や宗治の供養塔が整備されている。
- 東福寺京都府京都市東山区本町
恵瓊が慶長三年(1598年)に第二二四世住持を務めた臨済宗の大本山。京都五山の一つに数えられ、伽藍と紅葉で知られる。外交僧が宗門の頂に近づいた栄達の象徴であり、都における活動の拠点でもあった。




