本能寺炎上絵巻本能寺の変
1582年、明智光秀が主君・織田信長を京都本能寺で急襲した戦国史最大級の謀反事件。天下統一目前の信長を斃した光秀は、わずか十一日後に山崎で滅び、秀吉政権への扉が開いた。
本能寺の変の前夜
天正十年(1582年)三月、織田信長は甲斐武田氏を滅ぼし、東国の脅威を一掃した。残る大敵は中国の毛利氏・四国の長宗我部氏・関東の北条氏のみ。なかでも最前線で毛利方と対峙していたのが、備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉である。秀吉から援軍要請を受けた信長は、嫡男・信忠とともに少数の供を連れて京に上り、五月二十九日に本能寺へ入った。同時に明智光秀へは丹波亀山から中国へ転進せよとの命を下している。
六月一日、信長は本能寺で公家衆・茶人ら数十名を招き、自慢の名物茶器を披露する大茶会と酒宴を催した。供の兵はわずか百名足らず。武装らしい武装もなく、天下人がこの程度の警護で京の市街中央に泊まったこと自体、すでに信長の慢心とも、織田の天下が揺るがぬとの自負ともいわれる。同日夜、近隣の妙覚寺には信忠が宿し、こちらも供は五百ほどに過ぎなかった。
一方、丹波亀山城を発した光秀軍一万三千は、本来であれば老ノ坂から西へ抜けて中国路を取るはずだった。だが峠に差しかかった夜半、光秀は突如進路を東へ向け、軍記物のいう「敵は本能寺にあり」の号令の下、桂川を渡河して京へ向け一斉に進発する。号令の真偽は近年疑問視されているが、大軍が中国路を放棄して京へ転じたという事実そのものに、戦国史最大の謀反劇の幕が切って落とされていた。
進軍と急襲
六月二日寅の刻(午前四時頃)、明智軍は本能寺をぐるりと包囲した。寺の四周は土塀と濠で囲まれていたものの、籠もるのは信長と小姓・近習のわずかな手勢である。鬨の声が上がり、明智先鋒の斎藤利三・溝尾茂朝らが土塀を乗り越え、一斉に殿中へ突入した。
太田牛一『信長公記』によれば、騒ぎを聞いた信長ははじめ「下々の者が喧嘩でもしたか」と問い、続いて「鬨の声、鉄砲の音」が聞こえるに及んで、近習の森蘭丸に「これは謀反か。如何なる者の企てぞ」と問うた。蘭丸が「明智が者と見え申し候」と答えるや、信長は「是非に及ばず」と一言発し、武具を取って自ら弓を取り、応戦に出たという。森蘭丸・森坊丸・森力丸の三兄弟をはじめ、湯浅甚助・小倉松寿ら小姓衆は奮戦して討死を遂げ、信長自身も弓の弦が切れると槍に持ち替えて戦ったが、肘に槍傷を負ったところで殿中奥へ退いた。
そして信長は本能寺に自ら火を放ち、奥の納戸に入って内側から戸を立て、自刃を遂げた。享年四十九。遺骸は炎の中で焼け落ち、明智方が必死に探しても遂に見つからなかったとフロイス『日本史』は記す。同じ頃、妙覚寺にいた信忠は急報を受けて二条御所(誠仁親王の居所)に立て籠もり、村井貞勝らとともに抗戦したが、衆寡敵せず正午前に自刃した。享年二十六。父子同時死である。これによって織田家の中枢は一夜にして消滅した。
動機をめぐる諸説
光秀の動機は戦国史最大の謎とされ、四百年以上にわたり諸説が並び立つ。江戸期の軍記物に多い怨恨説は、信長から度重なる叱責・折檻を受けた光秀が私怨で立ったとするもの。野望説は光秀自身が天下取りの大志を抱いていたとし、「是非に及ばず」の信長の述懐がこの説を補強するとされる。
近年の学説で有力視されているのが四国政策説である。長宗我部元親と縁戚関係にあった光秀は外交窓口を担っていたが、信長が四国攻めへ方針転換したことで光秀の立場が政治的に失墜したとする見方である。さらに朝廷黒幕説(立花京子ほか)は、信長の朝廷軽視・暦法干渉に危機感を抱いた朝廷ないし誠仁親王が、光秀を動かしたとする。足利義昭黒幕説は、備後鞆の浦に追放されていた前将軍が光秀へ密書を送ったとする藤田達生らの説である。
これらは互いに排他的ではなく、複合動機論として読むのが現代の通説に近い。確実なのは、光秀が信長に対し「もはや天下のため除くべき」との結論に達したという一点であり、その内的決断の核は今なお霧の中にある。
その後の世界
光秀は本能寺と二条御所を制圧した直後、安土城へ進軍して織田家の財宝を接収する一方、朝廷から征夷大将軍の宣下を期待した。しかし朝廷は時局を見極めて動かず、近隣大名の細川藤孝・筒井順慶も光秀方に与せず去就を保留する。盟友細川父子の離反は光秀の精神的打撃となった。
六月十三日、中国大返しによって尼崎まで戻った羽柴秀吉軍四万と、光秀軍一万六千が山崎(現京都府大山崎町)で激突する。圧倒的な兵力差と、急ごしらえの陣形を抱えた光秀は半日で総崩れとなり、勝竜寺城へ敗走したのち夜陰に紛れて坂本城を目指す途上、山城国小栗栖の竹藪で土民の落人狩りに遭い落命したと伝わる。本能寺からわずか十一日。「三日天下」の語の語源である。
信長・信忠を同時に失った織田家は、六月二十七日の清洲会議で羽柴秀吉が幼君・三法師(信忠の遺児、後の秀信)の擁立を主導し、後継争いの主導権を握った。翌天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉は柴田勝家を破り、天正十三年(1585年)には関白に就任する。信長が二十年以上をかけて構築した天下統一事業は、皮肉にもその謀反人を討った秀吉の手に転がり込み、豊臣政権という新たな政体へと姿を変えて結実していった。本能寺の一夜は、織田から豊臣へ、そしていずれ徳川へと続く近世日本の権力史の蝶番となったのである。
KEY POINTS · 合戦のキーポイント
- 01
老ノ坂の進路変更
中国援軍と偽った光秀軍が老ノ坂で東へ転じ、未明に京都本能寺を完全包囲した。
- 02
信長自刃
小姓数十名と籠もる信長は弓・槍で応戦したのち本能寺に火を放ち自刃。享年四十九。
- 03
三日天下の終幕
嫡男信忠も二条御所で自刃。十一日後の山崎の戦いで光秀は秀吉に敗れ、小栗栖で落命した。
両軍の対比
明智光秀
織田信長
布陣図
- 01明智光秀(東軍)
- 02斎藤利三(東軍)
- 03溝尾茂朝(東軍)
- 04明智秀満(東軍)
- 05藤田伝五(東軍)
- 06織田信長(西軍)
- 07森蘭丸(西軍)
- 08高橋虎松(西軍)
- 09織田信忠(西軍)
山岳: 本能寺・二条御所・丹波亀山城・老ノ坂
布陣図
- 01明智光秀(東軍)
- 02斎藤利三(東軍)
- 03溝尾茂朝(東軍)
- 04明智秀満(東軍)
- 05藤田伝五(東軍)
- 06織田信長(西軍)
- 07森蘭丸(西軍)
- 08高橋虎松(西軍)
- 09織田信忠(西軍)
山岳: 本能寺・二条御所・丹波亀山城・老ノ坂