メインコンテンツへスキップ
戦国時代金丸氏・土屋氏1575
武将列伝戦国時代武田

つちや・まさつぐ

土屋昌続長篠に散った武田二十四将、その生涯・子孫・家紋

Tsuchiya Masatsugu
生没年
?–1575
出身
甲斐
家
武田
主な合戦
3
土屋昌続の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AI生成による想像復元。実在の肖像・甲冑を再現したものではない。
  • 武田二十四将
  • 長篠の戦い
  • 川中島の戦い
生年
天文14年説1545年とされるが確定しない
没年
天正3年1575年・長篠の戦いで戦死
出自
甲斐・金丸氏金丸虎義の次男
通称
右衛門尉初め金丸平八郎
家紋
家紋未詳・鳥居の旗の伝承あり

土屋昌続(つちや・まさつぐ)は武田信玄・武田勝頼に仕え、1575年の長篠の戦いで没した武将である。土屋昌次とも呼ばれ、後世には武田二十四将の一人に数えられた。川中島で主君のそばを守った話、三方ヶ原での武勇、長篠の柵へ向かった最期が伝わる。一方、起請文や知行に関わる文書からは、領国の実務を担う顔も見えてくる。

子孫をたどる際には、弟の土屋昌恒と区別したい。土浦藩主土屋家につながるのは昌恒の系統で、昌続の直系と一括りにはできない。家紋についても、鳥居の旗の伝承と、後世の土屋家が用いた紋は分けて考える必要がある。勇ましい逸話のそばに文書と家譜を置き、昌続の生涯を追ってみよう。

01金丸の家からORIGIN

土屋を名乗る前、金丸平八郎だった

若い金丸平八郎を描いた想像図。姿や装備はAI生成(AI生成イメージ)
若い金丸平八郎を描いた想像図。姿や装備はAI生成 · AI生成イメージ

土屋昌続の出発点は武田家に仕えた金丸氏にある。父は金丸虎義。昌続はその次男で、初め金丸平八郎と呼ばれた。のちに長篠で討ち死にする兄と、武田家の最期まで勝頼に従う弟・昌恒は、この金丸家から出た兄弟だった。

生年は天文14年(1545)とされる。ただし、これは年齢の伝承と組み合わせて理解すべき数字である。長野市の人物紹介も疑問符を付けているため、ここでは確定した誕生年とはしない。後世の『藩翰譜』は川中島での昌続を17歳、長篠で没したときは31歳と記した。

若い平八郎は武田信玄の身近に仕える近習となった。大将のそばにいる者には戦場で主君を守る役目もある。武田の一族や領主を遠くから統率する立場とは違い、昌続の経歴は信玄の近くで務めを果たすところから始まった。

やがて彼は土屋の名跡を継ぐ。名前だけでなく、途絶えた家の由緒を引き受けるという意味を持つ転機だった。授けられた時期やきっかけには伝え方の違いがあるものの、金丸平八郎から土屋右衛門尉へという歩みは、若い近習が武田家中で地位を得ていく経歴として語られている。

ここで弟と名前を取り違えると、その後の生涯がつながらなくなる。昌続は長篠で没し、昌恒はさらに生きて勝頼に従う。土屋という名字だけで人物を追わず、実名と年代を合わせておくと、兄弟それぞれの働きが見えてくる。

02川中島の初陣KAWANAKAJIMA

乱戦の本陣で信玄のそばに立つ

川中島の陣で周囲を警戒する若い昌続の想像図(AI生成)(AI生成イメージ)
川中島の陣で周囲を警戒する若い昌続の想像図(AI生成) · AI生成イメージ

永禄4年(1561)、信玄と上杉謙信が激しくぶつかった第4次川中島の戦い。昌続はこの合戦で初陣を果たし、武田の本陣で戦ったと伝わる。後世の『藩翰譜』が強調するのは、味方が乱れるなかでも信玄のそばを離れなかったという働きだ。

主君の近くにいる若者が戦闘のさなかに持ち場を守る。その姿が昌続の人物像の出発点になっている。同書は、信玄がその働きを認め、土屋の名字を継がせたと述べる。家名を授かる話と初陣の武勇が、一続きの物語として残されたのである。

一方、長野市の解説は土屋の名跡継承を永禄11年(1568)頃のこととする。したがって、川中島の戦場でその日に改姓した、とまで決めることはできない。確かな年表を組み立てる際には、合戦での働きと、のちの土屋姓への移行を分けておく必要がある。

昌続が相手にしたのは上杉方の軍勢だった。謙信本人と槍を交えたという意味ではない。信玄と謙信の一騎打ちで知られる川中島の物語の中でも、昌続に伝わる役割はあくまで主君の本陣を支える若い家臣のものだ。

この後、昌続は近習の身分にとどまらず、部隊を率いる侍大将として語られるようになる。川中島の逸話だけではその昇進の過程をすべて埋められない。しかし、1560年代後半の文書には、主君と家臣をつなぐ仕事を任された金丸平八郎の名が現れる。戦場で主君を守る人物像に、実務を担う姿が重なってくる。

03文書に残る働きSERVICE

起請文を受け取り、知行を伝える

文書を扱う昌続の想像図。紙面は史料の再現ではない(AI生成)(AI生成イメージ)
文書を扱う昌続の想像図。紙面は史料の再現ではない(AI生成) · AI生成イメージ

昌続の仕事は槍を取ることだけではなかった。永禄9〜10年(1566〜1567)、武田家臣が忠誠を誓った生島足島神社の起請文には、金丸平八郎を宛先とするものがある。起請文とは神仏にかけて約束を守ると誓う文書だ。そこでは武田信玄への忠誠が確かめられた。

長野県立歴史館が公開する文書の写しの目録では、望月信雅や依田頼房らの起請文に平八郎の名が見える。家臣たちの誓いを受け取る側にいたことは、主君の近くで文書のやり取りを担う立場を示している。宛先になった相手がすべて平八郎の直属の家臣だったという意味ではない。

さらに、永禄12年(1569)の「土屋昌続書下写」が伝わる。彦根城博物館の資料解説によると、昌続が渡辺式部丞に知行を与える内容で、替地として10貫文、褒美として新地10貫文を出し置く旨を伝えている。貫文はここでは土地から得る収入を示す単位として記されている。

この一通から昌続が独立した大名だったとすることはできない。それでも、領地と恩賞に関わる通知が彼の名で出されたことは分かる。武功を立てた者に何を与えるか。その決定を相手へ伝える実務も、軍勢を維持するうえで欠かせない仕事だった。

同じく信玄の近くで仕えた人物に、当時武藤喜兵衛を名乗った真田昌幸がいる。昌続と昌幸を比べるなら、まず主君の近くから家中を支えたという共通点に注目したい。二人が親友だった、常に一緒に行動した、といった具体的な関係まで、この文書から読み取ることはできない。

04三方ヶ原へMIKATAGAHARA

徳川軍との戦いに残る、鳥居の旗の話

三方ヶ原の戦役を題材にした騎乗姿の昌続(想像図・AI生成)(AI生成イメージ)
三方ヶ原の戦役を題材にした騎乗姿の昌続(想像図・AI生成) · AI生成イメージ

元亀3年(1572)、信玄の軍勢は遠江へ進んだ。三方ヶ原の戦いで相手となったのは、浜松を拠点とする徳川家康である。昌続もこの合戦で働いたとされ、『藩翰譜』は徳川方の鳥居四郎左衛門尉を討ち取ったと伝える。

この話には続きがある。土屋家が鳥居を旗の紋に用いるようになったのは、その戦功からだという。戦いで得た名誉を、軍勢を示す旗に刻んだという筋立てだ。昌続の「一騎打ち」や「家紋」が気になるとき、まず出会うのがこの伝承である。

ただし、討ち取ったという記述と、二人だけが名乗り合って決闘したという場面は同じではない。ここでは『藩翰譜』の記す範囲にとどめ、相手の構えや会話、勝負の手順は描かない。また、旗に鳥居を用いたという話を、そのまま本人の家紋の確定根拠にすることも避けたい。

昌続にとって三方ヶ原は信玄のもとで戦った晩年の合戦となった。川中島では若い近習として語られた人物が、遠江では徳川方の武将を討つ勇士として描かれる。後世に伝わった話をたどると、彼の武勇の評判が、信玄の戦いの広がりとともに形づくられたことが分かる。

合戦の月日は旧暦の元亀3年12月22日で記される。西暦へ換算すると翌1573年に入るため、資料により年の見え方が違う点にも注意したい。この記事では、戦国時代の年号に対応させる一般的な表記に合わせ、三方ヶ原の戦いを1572年の出来事として扱う。

05主君との別れSUCCESSION

信玄の死を越えて勝頼に仕える

主君との別れを題材に、静かに座る昌続を描いた想像図(AI生成)(AI生成イメージ)
主君との別れを題材に、静かに座る昌続を描いた想像図(AI生成) · AI生成イメージ

元亀4年(1573)、武田信玄が没する。近くで仕え、武勇を認められたと伝わる昌続にとって、主君を失う転機だった。その後の昌続は武田勝頼に従い、武田家の軍事活動を担っていく。

信玄の死に際しては、高坂昌信が関わる逸話が残る。長野市の紹介によると、昌続は殉死しようとしたが、高坂弾正忠に説得されて思いとどまったという。高坂昌信は春日虎綱の名でも知られ、信玄を支えた武将である。

この話を読むうえで、誰がどの言葉を口にしたかまで補ってはいけない。伝わっているのは、死を考えた昌続が説得を受けて生き残ったという筋であり、二人の会話を再現できる記録をここでは確認できない。実際の台詞として名言を作るより、主君を失った家臣の振る舞いをどう伝えたかったのかを考えたい。

逸話の結末では、昌続の奉公は信玄の死とともに終わらない。次の主君に仕え続けることへつながる。生きて家を支える奉公にも忠節を見いだす点に、この話の特徴がある。

勝頼の時代に入ってからも、昌続は武田方の将として活動した。その足跡を最後までたどると、天正3年(1575)の長篠に行き着く。信玄の近習だった人物が次の代の軍勢に加わって最期を迎えた。この主君の交代を挟んだ経歴が、昌続と武田家との結び付きの深さを伝えている。

06長篠の最期NAGASHINO

柵へ向かった武将の名が残る

長篠の戦場へ進む昌続を描いた想像図。戦闘の再現ではない(AI生成)(AI生成イメージ)
長篠の戦場へ進む昌続を描いた想像図。戦闘の再現ではない(AI生成) · AI生成イメージ

天正3年(1575)5月21日、長篠・設楽原の戦いで武田軍は織田信長・徳川家康の連合軍に敗れた。土屋昌続はこの戦いで没する。信玄のもとで名を挙げた将の生涯は、勝頼に従った三河の戦場で終わった。

昌続の最期を印象深く描くのが『藩翰譜』である。同書によれば、昌続は手勢を率いて信長の陣へ進み、自ら馬を降りた。そして柵を引き破って入ろうとしたところ、鉄砲に当たって死んだという。馬に乗ったまま押し寄せる姿とは異なり、下馬して障害物へ取り付く場面として記されている。

柵の前でどのように戦ったかは、後世の叙述として読む必要がある。討死という結末と、一人の武将の動きを追う物語では、確かめられる範囲が異なる。昌続の戦死を説明するために、鉄砲の三段撃ち長篠の戦いで織田・徳川連合軍が用いたとされる鉄砲斉射戦法。実在性については近年諸説あり、定説は揺らいでいる。や武田軍全体の一斉騎馬突撃まで、確定した前提として持ち込む必要はない。

『藩翰譜』が伝える享年は31。若年で信玄のそばに仕えた昌続は、長い江戸時代を経験することなく没した。一方、弟の昌恒はその後も勝頼に仕え、武田家滅亡時の働きで名を残す。兄の長篠と弟の天目山は、七年を隔てた別の最期である。

同じ長篠では、真田昌幸の兄・信綱と昌輝も戦死した。そのため昌幸が真田家を継ぐことになる。昌続にとっては終点となった戦いが、昌幸にとっては家の当主となる転機になった。長篠の敗北を一つの軍勢の損害としてだけでなく、家臣の家ごとにたどると、その後へ続く変化も見えてくる。

07残された名LEGACY

弟の家系と、武田二十四将の記憶

生前の昌続を静かな庭に配した想像図。没後の姿ではない(AI生成)(AI生成イメージ)
生前の昌続を静かな庭に配した想像図。没後の姿ではない(AI生成) · AI生成イメージ

昌続が没した後も、土屋の名は残った。ただし、その後の土屋家をすべて昌続の直系子孫と呼ぶことはできない。ここで大切になるのが、弟・昌恒と、その子・忠直から続く系統である。

土浦市立博物館の解説は、土浦藩主土屋家の初代・数直の祖父を昌恒とする。江戸時代の土屋家が自らの祖先を記した「御家譜」でも、武田家に仕えた昌恒の働きが取り上げられている。土浦の大名家を訪ねると出会う武田の遺臣は、まずこの弟のほうなのだ。

さらに『藩翰譜』は、昌恒が兄・昌続の家を継いだと単純には扱っていない。『甲陽軍鑑』による別の説明として、土屋備前守の養子となり、その兵を受け継いだと記す。実の兄弟であること、同じ名字を名乗ること、同じ家を継ぐことは、それぞれ分けて読む必要がある。

昌続自身は後世の武田二十四将の一人として広く知られるようになった。武田の名将を集めた図は、江戸時代に『甲陽軍鑑』が普及するなかで制作された。そこに描かれる顔ぶれは一定ではなく、同じ時期に全員が集まっていたことを示す記念写真のようなものでもない。

その中に昌続の名が選ばれたことは、後世に残った武勇の評判を示す。だが、彼の働きは戦場の話だけでは尽くせない。金丸平八郎に宛てた起請文や、土屋昌続の名を持つ知行の文書を合わせて読むと、主君のそばから領国を支えた一人の家臣として、輪郭がよりはっきりする。

02
READING

史料の読み解き

昌続の名を追うとき、手掛かりは一種類ではない。本人の活動した時代に由来する文書、その後の家譜や軍記、江戸時代に描かれた武田の名将図では、伝えている内容が違う。文書は仕事を、家譜は家の由緒を、絵は後世に選ばれた人物像を伝える。その違いを押さえると、子孫や家紋の疑問にも、根拠のある範囲で答えられる。

土屋昌続と土屋昌次は同じ人物か

本記事で扱う土屋昌続と、長野市が「土屋右衛門尉昌次」として紹介する武将は同じ人物である。同市の紹介は金丸平八郎をはじめ複数の名を挙げている。資料を探すときには「昌続」だけでなく「昌次」「金丸平八郎」「右衛門尉」も手掛かりになる。長野市の人物解説

ただし、異なる表記があるからといって、すべてを改名の順番に並べられるわけではない。通称、官途名、実名は使われ方が違い、後世の書物で定着した呼び方もある。「平八郎の次に昌次、その次に昌続」と一本道の改名表を作るには、それぞれの名を用いた年代と文書を確かめなければならない。

手掛かりになるのが、1567年の起請文に残る金丸平八郎と、1569年の知行文書に付された土屋昌続という名だ。ここからは少なくとも、名前の移り変わりを考える際に検討すべき二つの時点が得られる。川中島で名字を与えられたという物語だけで改姓の年月を決めるより、文書の記載を並べて考えるほうが、時間の流れをつかみやすい。

生年も同じように扱いたい。1545年生まれなら、数え年で1561年は17歳、1575年は31歳となる。数字はつじつまが合うが、年齢の伝承から逆算した生年を、独立した出生記録で確認した生年と同じにはできない。プロフィールでは「1545年説」、享年は「31と伝わる」とし、数字に付く留保を残した。

起請文と知行文書は、昌続の何を示すのか

生島足島神社に伝わる起請文の内容は、家臣が武田信玄への忠誠を誓うものだ。長野県立歴史館の公開目録には、その一部の宛先として金丸平八郎が記される。ここで読み取れるのは、誓約を差し出す者と主君との間に、平八郎が関わる文書の経路があったことだ。長野県立歴史館の文書目録

宛名は役割を考える手掛かりになるが、それだけで支配の範囲まで決まるわけではない。たとえば、平八郎宛ての起請文を出した者をすべて彼の家来とすると、信玄への誓約という文書の性格を取り違える。取りまとめを任されたことと、その地域を自分の領地として治めたことは、別に確かめるべき問題である。

「土屋昌続書下写」はさらに具体的な仕事を伝える。彦根城博物館の解説によれば、渡辺式部丞に対する替地と褒美の新地について、それぞれ10貫文を与える内容だ。「書下」は上位者から下位者へ出す文書の形式をいう。この文書では、昌続の名が知行の通知に結び付いている。文化遺産オンラインの資料解説

ここでの10貫文は現代の土地面積や年収にそのまま換算できる数字ではない。また、一通に記された土地の額から、昌続自身の全所領を計算することもできない。文書の数字が示すのは、この通知で扱われた知行の内容である。数値を大きな石高へ置き換えて武将の格付けに使うより、何のための給付だったかを読むほうが、仕事の中身に近づける。

公開されている資料名には「写」が付く。彦根城博物館は、江戸時代後期に渡辺家から彦根藩へ出された文書類の写しの一つとみる。したがって、1569年に昌続が直接書いた紙そのものを見ているわけではない。元の文書の内容が後世の写しによって伝わった資料として扱うのが適切だ。

この区別を置いても、資料の意味は小さくならない。戦場の勇士という印象だけでは見落としやすい、土地と恩賞を扱う働きが読み取れるからである。武田家を支える仕事は武勇の評判と文書の実務の両方から考えたい。

家紋は鳥居か。旗の伝承と家の紋を分ける

土屋昌続本人の家紋は今回確認した資料だけでは確定できない。『藩翰譜』にあるのは、三方ヶ原で鳥居四郎左衛門尉を討ち取ったことをきっかけに、土屋家が旗に鳥居の紋を用いたという話である。家紋を問われた際に、まず示せるのはこの由来譚だ。『藩翰譜』第六「土屋」

旗に描くしるしと、家の格式を示す紋は、使われる場面が重なることもある。しかし、この一節だけでは昌続があらゆる装具に同じ紋を付けたとは分からない。旗の色、鳥居の線の形、円で囲んだかどうかまで決めて画像に描けば、文章が伝えていない情報を付け足すことになる。

土屋姓の家紋として九曜などを見かけても、それだけで昌続の使用を証明したことにはならない。どの土屋家の、いつの資料に見える紋なのかが必要だ。昌続と昌恒には家の継承をめぐる違いがあり、後世の土浦藩主家の資料を、そのまま昌続個人の持ち物の復元に用いることもできない。

そのため、このページの人物画像には確認できない家紋を新しく加えていない。白い鉢巻や甲冑の配色は、参照画像に合わせた想像復元のための表現である。本人がその姿で戦ったことを示す史料とは区別している。家紋の絵を一つ選んで答えるより、旗の由来がどの書物に残り、どこまでを伝えているのかを明らかにすることを優先した。

子孫はどう続くか。昌恒・忠直・数直との関係

土屋昌続の子孫を考えるとき、最初に区別したいのは「昌続から生まれた直系」と「同じ金丸家から出た土屋一族」である。今回参照した資料では、昌続の子から後代へ続く直系の系譜は確定できない。これは、子や子孫が存在しなかったと証明したという意味ではない。

一方、土浦藩主土屋家の系譜は、弟の昌恒につながる。土浦市立博物館の「御家譜」の解説は、初代土浦藩主・数直の祖父を昌恒と明記する。『藩翰譜』でも、昌恒の子が忠直、その子の一人が数直と分かる。昌続から見れば、弟、甥、その次の世代へ続く系統である。土浦市立博物館『霞』第47号・3頁

人物昌続との関係系譜を読む際の要点
土屋昌恒実弟長篠後も生存し、1582年に勝頼と最期を迎える
土屋忠直昌恒の子、昌続の甥徳川家に仕える土屋家へつながる
土屋数直忠直の子、昌恒の孫土浦藩主土屋家の初代。昌続の直系とは区別する

兄弟の家の継承にも注意がいる。『藩翰譜』は、昌恒が兄の家を継いだという説明をそのまま通さず、『甲陽軍鑑』では土屋備前守の養子とされることを併記した。一つの書物の中にも、異なる説明を照らし合わせる姿勢がある。昌続の死後、弟がすべてをそのまま引き継いだという簡単な系図にすると、この違いが消えてしまう。

また、家が続くことと、父から子への血筋がずっと同じ形で続くことも一致しない。土浦市立博物館が扱う土屋寅直の父・彦直は、水戸徳川家から養子に入った人物である。江戸時代の「土屋家の子孫」を見る際にも、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。の継承と血縁を区別する必要がある。

現代に同じ名字を持つ人がいることだけでは、昌続との系譜は判断できない。特定の現代人を子孫と紹介するには、途中の世代をつなぐ資料が必要になる。本記事は確認できる土浦藩主家との関係までを示し、未確認の直系や現代の子孫名を補ってはいない。

武田二十四将に入る意味と、真田昌幸との比較

昌続は武田二十四将の一人として知られる。ただし、二十四将を信玄が正式に選び、固定された役職集団として活動させたと受け取るのは適切ではない。浜松市博物館所蔵の図の解説は、江戸時代の『甲陽軍鑑』の普及と名将図の流行を説明し、描かれた全員が同時期に活躍したわけではない点にも触れる。浜松市の「武田二十四将図」解説

上田市側の資料解説では、信玄を中心に家臣23人を配した図が紹介され、人物の顔ぶれに出入りがあるとされる。真田氏では信綱・昌輝・昌幸を入れた図が多いという。同じ「二十四将」という名前でも、誰を数えるかは個々の図を見なければ決まらない。真田氏関連の二十四将図の解説

そのため、二十四将に並んでいることだけから、昌続と真田昌幸が特別な盟友だったとはいえない。人物図が伝えるのは、後世に武田家を代表する将として選ばれたことだ。同時代の二人の関係を知るには、別の文書や記録が要る。

比較の軸として確かめやすいのは、主君の近くで仕えた経歴と、長篠によって変わった生涯である。真田宝物館は、昌幸が信玄の側近となり、武藤喜兵衛を名乗ったことを説明する。さらに、長篠で兄二人を失ったため真田家を継いだと記す。昌続はその合戦で没し、昌幸は家督を継いで次の時代へ進んだ。真田宝物館の昌幸解説

二人を並べると、長篠が武田家臣団の中で異なる転機を生んだことが分かる。勇将の名簿として二十四将を見るだけでなく、それぞれがどこで仕え、どの戦いで生涯や家の形を変えたかをたどると、武田家の歴史を人のつながりとして読める。

川中島・三方ヶ原・長篠を一本の生涯として読む

昌続の生涯に現れる三つの合戦には、別々の役割がある。川中島の戦いは若い近習の忠節を伝える舞台、三方ヶ原の戦いは武勇と旗の由来を結ぶ舞台、長篠の戦いは最期を伝える舞台である。それぞれに印象的な話があるが、話の鮮明さと記録の確かさは同じではない。

川中島については、1567年にも金丸平八郎と呼ばれる点が、改姓の物語を考え直す手掛かりになる。三方ヶ原では、討ち取りを一騎打ちへ広げる際の根拠が問題となる。長篠では、戦死と、その直前の一挙一動を描く伝承を分ける必要がある。三つの話は同じ方法で一律に採用したり退けたりできるものではない。

また、長篠での死を「武田家の滅亡」と一緒にしてはいけない。昌続の没年は1575年、勝頼が最期を迎えたのは1582年であり、その間には七年がある。昌続と昌恒の取り違えは、この時間の差を消してしまう。兄弟の名を分けることは、武田家の歴史そのものを順序立てて理解する助けにもなる。

戦場の物語の間には金丸平八郎宛ての起請文と、土屋昌続名義の知行文書が入る。合戦だけを線でつなぐより、平時の仕事を挟んだほうが、一人の家臣の役割は具体的になる。昌続を知る手掛かりは柵へ向かった最期だけでなく、主君と家臣の間で文書を扱った日々にも残っている。

確度のまとめ

主張確度根拠と留意点
金丸平八郎が起請文の宛先となった高長野県立歴史館の公開目録で複数の文書を確認できる。誓う相手は信玄
昌続名義の知行文書が伝わる高彦根城博物館「土屋昌続書下写」。伝存資料は後世の写し
1575年の長篠の戦いで没した高長野市・講談社の人名辞典・『藩翰譜』で照合。『藩翰譜』の月の記載は採らない
1545年生まれ、享年31中年齢の伝承に基づく。出生記録として確定はしない
川中島で主君のそばを守った中後世の『藩翰譜』などが伝える働き。改姓時期は別に検討が必要
高坂昌信に説得され殉死を思いとどまった中長野市が紹介する逸話。発言の逐語的再現はしない
三方ヶ原で一対一の決闘をした低参照した『藩翰譜』の討ち取りの記述だけでは決められない
鳥居が昌続本人の家紋だった未確定旗の由来譚はあるが、家紋の使用範囲や図案までは確認できない
土浦藩主家は昌恒の系統である高土浦市立博物館の解説と『藩翰譜』の系譜が対応する
昌続の直系子孫の現代までの系譜未確定今回確認した資料ではつながりを確定できない。不存在を意味しない
03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

土屋昌続の逸話

  1. 逸話 01

    川中島で主君のそばを離れなかったという話

    川中島の伝承を題材に、陣で立つ若い昌続を描いた想像図(AI生成)(AI生成イメージ)
    川中島の伝承を題材に、陣で立つ若い昌続を描いた想像図(AI生成) · AI生成イメージ

    『藩翰譜』は、17歳の昌続が川中島で信玄のそばを守ったと伝える。敵を何人討ち取ったかよりも、味方が乱れた場面で持ち場を離れなかったことが評価される物語だ。信玄がその働きに感じ入り、土屋の名を継がせたという展開によって、武勇と家名の由来が結ばれている。

    ただし、長野市の人物紹介では土屋の名跡継承を1568年頃とする。初陣の評価が後の出世につながったという理解と、合戦の直後に改姓したという理解には隔たりがある。1567年の起請文でも金丸平八郎の呼称が確認できるため、改姓の時期を語る際には、この文書の存在を外せない。

    伝承は、昌続がどのような家臣として記憶されたかをよく伝える。一方、名前の変化を年月順に確かめたいときには、文書に記された呼称を優先したい。初陣の物語と書状の宛名を照らすことで、勇ましい話の中に省略された時間があることに気付ける。

  2. 逸話 02

    三方ヶ原の「一騎打ち」は、どこまで言えるか

    対決の伝承を題材にした想像図。相手の人物・構えは特定しない(AI生成)(AI生成イメージ)
    対決の伝承を題材にした想像図。相手の人物・構えは特定しない(AI生成) · AI生成イメージ

    昌続の一騎打ちとして語られる話の根には、三方ヶ原で徳川方の鳥居四郎左衛門尉を討ち取ったという伝承がある。『藩翰譜』の該当箇所は相手の首を取ったことと、そこから鳥居を旗の紋に用いたことを続けて記している。

    講談社『日本人名大辞典』は、討ち取った相手を鳥居忠広とする。ただし、辞典の記述も一対一で名乗りを交わした決闘の手順までは示していない。『藩翰譜』に記された通称と、辞典が示す実名を区別しながら読む必要がある。対決の場面を詳しく描くには、さらに根拠が要る。

    そこで本記事では「一騎打ちに勝った」と言い切らず、討ち取りと旗の由来を伝える逸話として紹介する。これは話の面白さを消すためではない。武功が家のしるしの由来と結び付いて語られたこと自体が、この伝承の読みどころだからだ。添えた画像も対決の雰囲気を表す想像図であり、特定の相手や勝負の場面を復元したものではない。

  3. 逸話 03

    馬を降りて柵へ向かった長篠の最期

    柵へ取り付く昌続の伝承を描いた想像図。流血のないAI生成画像(AI生成イメージ)
    柵へ取り付く昌続の伝承を描いた想像図。流血のないAI生成画像 · AI生成イメージ

    『藩翰譜』が描く昌続は、長篠で自ら馬を降り、柵を引き破って進もうとする。その場で鉄砲に当たって死んだという筋は、長野市の人物紹介にもつながる最期のイメージだ。柵を前にした一人の将の行動に焦点が絞られている。

    この場面を、そのまま戦場の実況と受け取ることはできない。『藩翰譜』は江戸時代に編まれた書物で、該当箇所の合戦月も「六月」と記す。長篠合戦の日付として通常用いられるのは天正3年5月21日であり、本記事はその月を採用している。

    また、同書が描く覚悟を本人の発言として引用することも避けた。物語の中で心中が説明されていても、実際に昌続が口にした言葉とは限らない。伝わる最期の勇ましさを受け止めつつ、戦死した事実、下馬して柵へ向かう伝承、内心の描写を別々に読むと、史料との距離がつかみやすい。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 土屋昌次(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
    講談社・コトバンク参照日 2026-11-02
  2. (小県郡)生島足島文書 写(資料コード03OD0622107600)
    長野県立歴史館・信州デジタルコモンズ参照日 2026-11-02
  3. 土屋昌続書下写(永禄12年)
    彦根城博物館・文化遺産オンライン参照日 2026-11-02
  4. 新井白石『藩翰譜』第六「土屋」(翻刻・原本参照リンク)
    Historyfolio 藩翰譜本文データベース参照日 2026-11-02
  5. 武田二十四将図(浜松市博物館所蔵資料)
    浜松市文化遺産デジタルアーカイブ参照日 2026-11-02
  6. 武田二十四将図
    上田市マルチメディア情報センター・真田氏歴史館資料参照日 2026-11-02
  7. 真田家とは――真田昌幸
    真田宝物館参照日 2026-11-02

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-11-02

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

本記事の内容に誤りや改善点がある場合は、 お問い合わせページ よりご連絡ください。確認のうえ、必要に応じて修正します。