つちばし・もりしげ
土橋守重(胤継)雑賀孫市と対立した雑賀衆の有力者
- 生没年
- ?–1582
- 出身
- 紀伊国雑賀
- 家
- 雑賀
- 主な合戦
- 1

- 生年
- 不詳享年も確定しない
- 没年
- 天正10年1582年正月・雑賀の内紛
- 活動地
- 紀伊国雑賀現在の和歌山市周辺
- 立場
- 雑賀衆の有力者土橋氏の指導者
土橋守重(胤継)は、紀伊国の雑賀衆を代表する有力者の一人である。鈴木重秀、通称雑賀孫市(鈴木孫一)とともに本願寺を支え、織田信長の雑賀攻めに抵抗した。その後は孫一と対立し、天正10年(1582年)正月に殺害された。
土橋を知ると、雑賀衆が一人の英雄に率いられた集団ではなかったことが見えてくる。根来衆や本願寺との関係、信長の介入を重ねて、その生涯をたどる。本稿の月日は、特記しない限り当時の暦である旧暦で記す。
孫市だけではなかった、雑賀の指導者

土橋守重は、雑賀孫市と並んで織田信長に抵抗した雑賀衆の有力者である。胤継の名でも記され、若太夫と呼ばれた。孫市の家臣として戦った人物ではない。土橋氏もまた、雑賀の政治と軍事に関わる一つの勢力だった。
その舞台は、紀伊国の雑賀である。現在の和歌山市周辺、紀ノ川の下流と海に開かれた地域を指す。今の雑賀崎だけを思い浮かべると、活動範囲を狭く捉えてしまう。村々や港を結ぶ人々の動きが、雑賀の力を支えていた。
雑賀衆は一人の大名を頂点とする家臣団とは成り立ちが違う。土地に根を張る有力者がいて、村や寺との結びつきを持っていた。鈴木孫一も土橋も、その中で力を持った人物である。後に両者が争うことになる経過からも、雑賀の主導権が一人に定まっていなかったことが分かる。
鉄砲で知られる土地では、水運や交易も盛んだった。川や海は人と物を運ぶ道であり、大坂との往来にもつながる。戦いの場面だけを見ると、この日々の仕事は見えにくい。雑賀の軍事力は地域に暮らす人々の仕事や関係から切り離せないのである。
土橋の幼少期や生まれた年は、はっきりしない。だが、1577年の記録には、信長との交渉に名を連ねる姿が残る。そこから見えるのは、一人の鉄砲名人よりも、地域を代表して戦いの行方を決める有力者の姿である。
土橋と鈴木、それぞれに支える人々がいた

雑賀孫市は、史料では鈴木孫一の名で現れる。石山合戦で活動した人物は、一般に鈴木重秀として知られる。土橋の生涯に深く関わるのは、この孫一である。本稿でも、当時の記録を説明する場面では孫一と呼ぶ。
両者は、初めから生涯の仇同士だったわけではない。大坂本願寺と信長が戦う間、土橋氏と鈴木氏は本願寺を支える側に立った。外から迫る軍勢に対しては、協力する必要があったのである。後の殺害事件だけで関係を振り返ると、この共同行動の時期が抜け落ちる。
一方で、協力することと、一方が他方に従属することは違う。1577年の講和では、土橋と孫一を含む七人が連署する。孫一だけの判断で雑賀全体を代表した形ではない。複数の名前が並ぶこと自体が、交渉に参加する有力者の存在を物語っている。
土橋を「孫市に次ぐ第二の男」と呼べば、関係は簡単に見える。しかし、二人の間にそうした順位を定めた制度があったとは確認できない。土橋は独自の立場を持ち、戦いと講和の双方に関わっていた。
雑賀の中には、信長に協力する地域もあった。県立博物館が紹介する朱印状では、宮郷・中郷・南郷の人々に戦功に応じた恩賞が約束されている。同じ雑賀に暮らしながら、選ぶ相手が違う。土橋と孫一の協力も、こうした周囲の動きの中で続いていた。
大坂本願寺を支え、信長の敵となる

大坂本願寺と織田信長の争いは、1570年から1580年に及んだ。いわゆる石山合戦である。本願寺の顕如を中心に、各地の門徒や協力する勢力が戦争に関わった。雑賀衆は、紀伊から本願寺を支える重要な存在だった。
本願寺は、戦う兵だけで持ちこたえられるわけではない。人を送り、食糧や物資を運び、外部との連絡を続ける必要がある。雑賀が海や川につながる地域だったことは、その支援を考える上でも意味を持つ。土橋氏も鈴木氏も、こうした本願寺側の広がりの中にいた。
ただし、雑賀衆の参加した合戦を、すべて土橋本人の戦功に置き換えることはできない。木津川口の海戦や天王寺の戦闘で雑賀の名が見えても、それだけでは土橋の所在や指揮した部隊まで決まらない。本人を追うには、土橋の名が出る記録を確かめる必要がある。
土橋の立場が明瞭になるのが、信長による1577年の雑賀攻めである。信長にとって、本願寺を攻めながら、その外側で支援する勢力を放置するわけにはいかなかった。大坂で続く戦争は、雑賀の本拠にも軍勢を呼び込むことになった。
雑賀側から見れば、遠方の本願寺を助ける戦いが、自分たちの暮らす土地を守る戦いへ移ったのである。ここで土橋と孫一は、織田の大軍に向き合う。何を守り、どこで戦いを収めるか。その判断が、彼ら自身に迫られることになる。
川岸で抗戦し、七人の連署で戦いを収める

天正5年(1577年)、信長の軍勢が雑賀へ入った。山側と海側に分かれて進む軍勢を、根来の杉之坊や雑賀の一部勢力が案内した。外から来る織田軍だけでなく、土地を知る協力者もいたのである。
『信長公記』は、小雑賀川を前に柵を設けて守る側の戦いを記す。堀秀政の軍勢は川を渡ったものの、高い岸に阻まれた。そこへ鉄砲を受け、損害を出して退いている。川岸の高さと柵が、銃を使う守備側の力になった。
一方、織田方も攻撃を止めなかった。鈴木孫一の居城に迫る部隊は、竹束を用いて攻め寄せた。銃弾を防ぐ工夫をしながら、城を取り巻いて圧力をかける。鉄砲が強力だからといって、守る側がいつまでも有利でいられるとは限らなかった。
この防戦を土橋一人の指揮で進めたとは、記録に書かれていない。だが、戦いを収める段階になると、土橋の名前が前面に出る。『信長公記』は、土橋平次、鈴木孫一ら七人が連署の誓紙を差し出したと伝える。大坂への対応について信長の意向に沿うことを約し、赦免を受けた。
激しく抵抗した末の講和だった。雑賀の勢力は生き残ったが、信長への服従を約した事実も残る。土橋が関わったのは、敵を退ける戦いだけでなく、土地と勢力を残すために戦いを終える交渉でもあった。
信長は撤兵した。しかし、これで大坂本願寺との戦争が終わったわけではない。雑賀の有力者たちは、本願寺との関係と、織田の圧力の間で活動を続けることになる。
石山合戦の終わりが、雑賀の安定を意味しなかった

天正8年(1580年)、本願寺と信長の講和が進み、顕如は大坂を離れた。移った先は紀伊の鷺森である。長く支えてきた本願寺の中心が、雑賀の地へやって来た。
顕如の退去後も、息子の教如はしばらく大坂に残って抗戦した。教団の中でも、講和をどう受け止めるかは一つにまとまらなかった。外の敵と戦う間には並び立てた人々が、戦争を終える段階で同じ道を選ぶとは限らない。
雑賀でも、土橋氏と鈴木氏の対立が表面化する。孫一は信長と結び、土橋氏を攻撃する側へ回った。1577年には同じ講和に名を連ねた二人が、今度は雑賀内部の争いで向き合ったのである。
その対立には、個人的な遺恨も伝えられる。『信長公記』によれば、土橋が孫一の継父を殺したことが、後の殺害の理由になったという。これは同書が記す説明であり、土橋側が何を語っていたかまで分かるわけではない。それでも、両者の争いが対外方針の違いだけでは説明しきれないことを示す。
顕如が鷺森にいても、雑賀の有力者をすべて思い通りに動かせたわけではなかった。寺と地域の有力者は結びついていたが、利害まで同じになるわけではない。本願寺を助けるための協力関係が、その後の内部対立を防ぐ仕組みにはならなかった。
やがて孫一は、土橋を排除する行動に出る。かつて共に抗した信長の力が、今度は孫一を支える側にあった。
天正10年正月、孫一との内紛で命を落とす

天正10年(1582年)正月、土橋は鈴木孫一によって殺害された。鷺森御坊への参詣中に刺客に襲われたと伝えられる。大軍が押し寄せた1577年の雑賀攻めを生き延びた有力者は、雑賀内部の争いで最期を迎えた。
『信長公記』は、この事件を孫一の継父をめぐる報復として説明する。さらに、孫一が内々に信長の意向を得て土橋を殺害したことを記す。土橋の死は、地域の二家だけに閉じた出来事ではなかった。
孫一は続いて土橋方の拠点を攻めた。信長側は、鈴木を助けるために根来・和泉の軍勢を送る。土橋側では、根来寺にいた子の千職坊が駆けつけ、兄弟とともに籠城した。根来の名が、攻める側にも守る側にも現れるのである。
攻防は正月だけでは収まらなかった。『信長公記』には、城攻めの検使を送ったことや、千職坊が城を出た後に討たれたことが続く。2月には土橋方の拠点が落ち、織田側の城代が置かれた。指導者を失った土橋氏は、さらに大きな打撃を受けた。
ただし、この城攻めを土橋本人の最後の籠城戦として描くことはできない。本人が殺された後、残された一族の抗戦が続いたのである。土橋の死と土橋氏の敗北はつながっているが、一つの場面ではない。
没日の細部には、記録の違いがある。本稿では生涯の区切りを1582年正月とし、23日とする資料と『信長公記』の27日条の違いを、読み解きで確認する。
本能寺の変で反撃する土橋氏。守重はもういなかった

土橋の死から数か月後、天正10年6月に本能寺の変が起きた。信長が死ぬと、雑賀の情勢も変わる。信長と結んでいた孫一は、本拠を離れて岸和田へ逃れたとされる。
『宇野主水日記』を参照する地名辞典は、孫一の退去後、土橋氏が鈴木方の城を焼いたと紹介する。正月には追い詰められていた側が、反撃に転じたのである。外部の支援者を失うことが、地域の勢力関係を大きく動かした。
ここで行動した「土橋氏」を、守重本人と取り違えてはいけない。守重はすでに亡くなっている。一人の死を越えて家や勢力が残り、情勢の変化に応じて再び動いた。その違いを押さえると、正月の事件が土橋氏全体の終わりではなかったことが分かる。
さらに3年後の1585年、豊臣秀吉による紀州征伐が起こる。根来衆や雑賀衆は、今度は秀吉の軍勢と戦う。だが、守重がこの戦役で討たれたわけではない。信長の1577年の雑賀攻め、1582年の内紛、秀吉の1585年の紀州征伐は、別々の出来事である。
土橋の生涯をたどると、雑賀の歴史を孫市一人で語ることが難しくなる。そこには複数の有力者がおり、協力もあれば対立もあった。本願寺、信長、根来との関係も、そのつど組み替わっている。
土橋は、信長に抗した有力者であると同時に、同じ地域の孫一に倒された人物でもある。対外戦争の強さだけでは守れなかったものが、雑賀の内部にはあった。
史料の読み解き
土橋守重の記録は、幼年から晩年までそろった伝記ではない。 1577年の対外交渉と、1582年の殺害・一族の抗戦が、その姿を捉える大きな手がかりになる。記録が詳しい部分と、後から説明を補いたくなる部分を分けて読んでいこう。
土橋守重と土橋胤継は同じ人物か
本稿では、守重の名で広く知られる土橋の有力者を、胤継と併記して扱う。
安田清人による解説は、同時代史料の名前として「若太夫胤継」を挙げ、「守重」と表記されることにも触れている。ただし、この説明から改名の時期まで分かるわけではない。「若いころは胤継、後に守重」といった順序を付ける根拠にはならない。
通称にも表記の違いがある。『角川日本地名大辞典』では土橋若大夫、『信長公記』の事件記事では土橋平次の名が出る。現代の人物名をそのまま検索するだけでは、関係する記録を見落とす場合がある。若太夫・若大夫・平次という呼び方と、1577年や1582年という時期を合わせて確かめる必要がある。
ただし、別の時期の史料に「土橋平次」とあれば、すべて同じ人物だと決めることもできない。通称は実名と働きが違い、家の中で受け継がれる場合もある。本稿で結びつけるのは、資料が扱うこの時期の雑賀の有力者と事件であり、土橋姓の人物すべてではない。
「守重」という名前の広まりと、当時どの名前が記録されたかは、異なる問いである。記事名には読者が探す守重を残し、胤継も併記した。同じ人物を調べる入口を確保しながら、史料の呼称まで一つに塗り替えないためである。
雑賀孫市・鈴木重秀との関係は、家臣か同盟者か
土橋を孫市の家臣とするのは適切ではない。確認できるのは、同じ雑賀の有力者として本願寺を支え、後には激しく対立した関係である。 1577年の七人連署は、土橋が交渉の当事者だったことを示す。孫一に率いられた末端の兵として登場するわけではない。
この時期の雑賀孫市は、一般に鈴木孫一重秀とされる人物である。和歌山市立博物館の学習資料も、孫市を鈴木孫一重秀として説明している。「雑賀孫市」と「鈴木重秀」を二人の別々の対立相手として数える必要はない。一方、後世の「孫一」に関する話を、すべて重秀一人の経歴に集めることはできない。
二人の関係を「友情が裏切られた」と表すには、心情を示す根拠が足りない。共に行動したことは確認できても、親友だったかどうかまでは分からないのである。反対に、初めから仲が悪かったと決めると、本願寺を支えた時期の協力が説明しにくくなる。
外部の敵を前に協力することと、地域の主導権を競うことは、両立する。土橋と孫一の関係では、いつ、何をめぐって行動したかを分けて見る必要がある。誰かの下にいたと考えるより、独自の力を持つ有力者同士だったと捉える方が、史料の経過に合う。
なぜ殺されたのか。報復と信長の介入
『信長公記』巻十五は、孫一の継父を土橋が前年に殺したことを、殺害の理由として挙げる。これは報復という説明である。同じ記事には、孫一が内々に信長の意向を得たことと、事件後に信長側が鈴木を支援したことも記される。私的な遺恨の説明と、織田の軍事的な介入が、一続きになっている。
ここから、信長と無関係な家同士の争いだったとは言いにくい。ただし、信長の関与が記されることと、事件の理由がすべて明らかになることは別である。孫一がどう判断したか、土橋側が何を企図していたかについて、同書だけで双方の事情を復元することはできない。
別の解釈として、藤田達生は信長の四国政策との関係を指摘している。安田清人の記事が紹介するのは、長宗我部元親とつながる土橋の存在が、四国攻めを進める信長にとって問題になったという見方だ。これは事件を広い政治情勢に置く仮説であり、殺害命令の文書が示されているという話ではない。
したがって、本稿では「信長が四国攻略のために暗殺を命じた」とまでは断定しない。確認できる軸は、孫一による土橋の殺害、土橋側への攻撃、織田側による鈴木支援である。その動機を考える際に、報復の記述と政策上の解釈を区別して読む。事件を「裏切り」や「黒幕」という一語で片づけるより、誰の行動がどの記録に残るかを追う方が、関与の範囲を見失わずに済む。
最期は1月23日か、27日か
1582年正月に土橋が殺害されたことは、複数の資料が伝える。ただし、日付の示し方は一致しない。
『角川日本地名大辞典』の「鈴木郷」は、『宇野主水日記』を参照して正月23日とする。一方、『信長公記』では正月27日条に殺害とその事情が記される。
同じ正月の事件だとしても、片方の日付を黙って消すのは避けたい。また、この四日の差を、事件が起きた日と報告が届いた日の差だと断定する材料も、ここではそろっていない。記録の日付が違うことは確かめられるが、違いの理由まで自動的に決まるわけではないのである。
そのため、プロフィールや生涯では「1582年正月」とした。日付を詳しく調べる場合には、23日とする資料と27日条の記録を併記して読むのが妥当である。いずれも旧暦の日付であり、そのまま現在のカレンダーの1月23日・27日へ置き換えることはできない。
殺害場所や状況についても、記述の詳しさは異なる。鷺森御坊への参詣時に殺されたという説明はあるが、掲載画像は現場の復元ではない。死の直前の言葉や刺客との応酬を、空白を埋めるために付け足すこともしない。
根来衆は土橋の味方だったのか
一貫した味方だったとは言えない。 1577年には、根来の杉之坊が信長に協力した。 1582年には、鈴木支援の軍勢に根来衆が加わる一方、土橋の子である千職坊が根来寺から土橋方へ入っている。『信長公記』を時期と人物に分けて読むと、この違いが見えてくる。
根来寺には多くの坊院があり、僧たちは地域社会と関係を持っていた。寺に属することと、生まれた家や地域との結びつきは、互いに打ち消し合うものではない。千職坊の行動は、その関係を考える具体例になる。寺院名だけで敵味方を色分けすると、一族を助けるために城へ入った人物の動きが見えなくなる。
雑賀衆と根来衆も、同じ集団の別名ではない。どちらも紀伊の軍事や鉄砲と結びつけて語られるが、活動の基盤と構成員は重なり合いながらも異なる。土橋の一族が根来寺と関係を持つことは、その境界を越えるつながりを示すのであって、二つの集団が一体だったという証拠ではない。
土橋と根来の関係は、「同盟していたか」という一問だけでは捉えにくい。誰が、いつ、どちら側に立ったのか。この問いに置き換えると、1577年の協力者と1582年の籠城者を取り違えずに読める。
1577年・1582年・1585年を分ける年表
- 1577年(天正5年)
- 信長が雑賀を攻め、七人の連署を経て講和
- 土橋は抗戦側の有力者・講和の当事者
- 1580年(天正8年)
- 本願寺と信長が講和し、顕如が鷺森へ移る
- 本願寺を支えた雑賀をめぐる情勢が変わる
- 1582年(天正10年)正月
- 鈴木孫一が土橋を殺害
- 本人の生涯の終わり
- 同年2月
- 土橋方の拠点が落ちる
- 死後に残された一族の抗戦
| 年 | 出来事 | 土橋守重との関係 |
|---|---|---|
| 1577年(天正5年) | 信長が雑賀を攻め、七人の連署を経て講和 | 土橋は抗戦側の有力者・講和の当事者 |
| 1580年(天正8年) | 本願寺と信長が講和し、顕如が鷺森へ移る | 本願寺を支えた雑賀をめぐる情勢が変わる |
| 1582年(天正10年)正月 | 鈴木孫一が土橋を殺害 | 本人の生涯の終わり |
| 同年2月 | 土橋方の拠点が落ちる | 死後に残された一族の抗戦 |
| 同年6月 | 本能寺の変後、孫一が退去し土橋氏が反撃 | 守重本人の行動ではない |
| 1585年(天正13年) | 秀吉が紀州征伐を行う | 守重は参戦していない |
「紀州攻め」という呼び方だけでは、信長と秀吉の二つの戦役が混ざりやすい。土橋本人の生涯を追うなら、1577年の雑賀攻めと1582年の内紛が中心になる。後の紀州征伐は、土橋の死後に雑賀や根来が迎えた変化として読む必要がある。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 土橋は孫一と並ぶ雑賀の有力者だった | 高 | 講和の連署者として『信長公記』と文書を紹介する地名辞典に現れる |
| 1577年に信長と戦い、講和に関わった | 高 | 『信長公記』巻十、土橋家文書を参照する地名辞典 |
| 1582年正月、孫一によって殺害された | 高 | 『信長公記』と日記を参照する地名辞典で事件を照合できる |
| 没日は正月23日と確定できる | 中 | 23日とする資料がある一方、『信長公記』は27日条に記す |
| 信長側が鈴木を支援した | 高 | 『信長公記』巻十五に援軍・城攻めへの関与がある |
| 殺害は四国政策に基づく排除だった | 低 | 研究者が提示する解釈。事件の動機を確定する直接証拠とは分ける |
| 根来衆全体が常に土橋の味方だった | 低 | 杉之坊や援軍、千職坊の行動を一つの方針にまとめられない |
土橋を孫市の敵役としてだけ眺めると、かつて同じ戦争を戦い、同じ講和に関わった姿が見えなくなる。反対に、雑賀の結束だけを強調すると、本人を倒した内部の争いが抜け落ちる。両方の記録をつなぐことで、本願寺を支えた地域が戦争の終結後に抱えた難しさを読むことができる。
参戦合戦
土橋守重(胤継)の逸話
- 逸話 01
七人の名前が並ぶ誓紙から見える立場

文書に向き合う土橋守重の想像図。現存文書や本人の筆跡の再現ではない · AI生成イメージ 1577年の戦いを記す『信長公記』には、七人の連署者が並ぶ。土橋平次、鈴木孫一に続き、岡崎三郎太夫、松田源三太夫、岡本兵太夫、島本左衛門太夫、栗本二郎太夫が挙がる。土橋と孫一だけで雑賀を説明しきれないことが、名前の列から伝わる。
七人が連署したことは、七人の力が完全に同じだったという意味ではない。また、先頭に名が出る土橋が、あらゆる場面で孫一より上位だったとも決められない。分かるのは、信長との交渉に複数の有力者が加わり、責任を負う形をとったことである。
誓紙の提出は、戦場で抵抗できなかったことの証拠でもない。同じ巻には、織田方が川岸で損害を出したことが記される。防戦と講和は、どちらか一方だけが真実という関係ではない。戦いながら条件を探り、最後に誓いを交わして収めることもある。
土橋の働きを知る手がかりは、華々しい一騎打ちだけではない。交渉の記録に残った名前もまた、地域で担っていた役割を伝えている。
- 逸話 02
鉄砲の名手だったのか。戦場の記録が語る範囲

火縄銃を手にする土橋守重の想像図。本人の所用品を写したものではない · AI生成イメージ 雑賀の武将というだけで、個人の射撃の腕前まで分かるわけではない。土橋が特定の敵将を撃ち倒した、信長を狙撃した、といった話を裏付ける史料は、今回確認した資料には見当たらない。鉄砲衆の有力者であることと、伝説的な射手であることは区別したい。
一方、1577年の戦いでは、鉄砲がどう効いたかを具体的に読める。『信長公記』にあるのは、川を渡った攻め手が高い岸に阻まれ、守備側の鉄砲にさらされた場面だ。武器だけが独立して勝敗を決めたのではなく、地形と防御の組み合わせが働いている。
攻め手が竹束を使ったことも、同じ視点から理解できる。撃たれる側も防護を工夫し、接近する方法を探した。雑賀の強さを知るには、命中率の伝説よりも、何を前に置き、どこから敵を迎えたかを見る方が役に立つ。
掲載する火縄銃や甲冑の画像は、そうした時代の場面を伝える想像図である。土橋本人の遺品や、実際に用いた武器の形を証明するものではない。
- 逸話 03
根来寺の千職坊は、土橋方の城へ入った

寺院と土橋守重を題材にした想像図。千職坊の肖像ではない · AI生成イメージ 土橋と根来の関係を示す一つの場面が、1582年の籠城である。『信長公記』は、土橋の子で根来寺にいた千職坊が城へ入り、兄弟と籠もったと記す。寺に属する人物と、雑賀の家の結びつきが見える記述だ。
ところが、同じ記事には、鈴木を助けるために根来・和泉の軍勢が送られたことも載る。「根来」という名だけを拾うと、土橋の味方なのか敵なのか分からなくなる。人や坊院を分けて読む必要があるのは、このためである。
1577年にも、根来の杉之坊は信長の進軍を助けていた。根来衆を一つの人格のように扱い、誰に対しても同じ方針をとったと考えると、記録にある違いを説明できない。
千職坊の行動から確かめられるのは、土橋の一族と根来寺との具体的なつながりである。そこから、根来寺全体が常に土橋氏と同盟していたと広げることはできない。個人の関係と集団全体の動きを分けると、雑賀と根来の距離が見えてくる。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 太田牛一『信長公記』巻十(一)(三)・巻十五(四)(五)(明治14年刊本の翻刻)Wikisource参照日 2026-11-04
- 角川日本地名大辞典(旧地名編)「鈴木郷(中世)」KADOKAWA/JLogos参照日 2026-11-04
- 安田清人による本願寺・本能寺の変の解説(「土橋若太夫殺害の真相」の節)小学館・サライ.jp参照日 2026-11-04
- 特別展「紀州の戦国時代」展示のみどころ(雑賀衆・信長朱印状)和歌山県立博物館参照日 2026-11-04
- 楠見西小学校ふるさと学習フィールドワーク資料(2021年11月12日、2〜3頁)和歌山市立博物館参照日 2026-11-04
- 山川日本史小辞典ほか「雑賀衆」山川出版社・平凡社/コトバンク参照日 2026-11-04
- 『わかやま発見』第2章「武士の活躍と信仰」(雑賀衆・根来寺の解説)和歌山県教育委員会参照日 2026-11-04










