
井伊直政|井伊の赤鬼と呼ばれた徳川四天王
「今川に追いつめられた井伊家の遺児として生まれながら、徳川家康にその才を見出され、武田の赤備えを受け継いで「井伊の赤鬼」と天下に恐れられ、徳川四天王の最年少として関ヶ原を駆け抜けた猛将」
井伊直政
井伊直政は、今川に滅ぼされかけた井伊家の遺児として生まれながら、徳川家康にその才を見出され、武田の赤備えを継いで「井伊の赤鬼」と天下に恐れられた、徳川四天王の最年少である。
直政——幼名を虎松、のちに万千代という——は永禄四年(1561年)、遠江国井伊谷に井伊直親の子として生まれた。二歳で父を今川に誅殺され、命を狙われて各地を流転したが、十五歳で家康に出仕して井伊家を再興する。やがて滅亡した武田の遺臣を束ね、赤一色に統一された徳川随一の精鋭「井伊の赤備え」を率いた。
直政の名は、いくさを重ねるたびに高まっていった。小牧・長久手の戦いで武名を轟かせて「赤鬼」と恐れられ、関東移封では徳川家臣随一の上野箕輪十二万石を得た。やがて関ヶ原では先陣を切り、退却する島津勢を追って深手を負いながらも、戦後は近江佐和山十八万石に封じられ、敵将の調停にも奔走した。だが、その関ヶ原の傷が癒えぬまま、わずか四十二歳でこの世を去る。
滅びの淵に生まれた遺児が、武と知の双方を兼ね備えた譜代筆頭へと駆け上がり、彦根藩井伊家の礎を据えた。その生涯には、戦国の終わりと徳川の天下が始まる、時代の転換が刻み込まれている。
井伊谷の遺児 — 滅びの淵に生まれて

永禄四年(1561年)、井伊直政は遠江国井伊谷に生まれた。幼名を虎松という。井伊氏は、遠江の山あいに古くから根を張った国衆であった。だが、この一族には暗い影が差していた。当時の井伊谷は、駿河の大守・今川氏の強い圧迫のもとに置かれていたのである。
虎松がわずか数え二歳の永禄五年(1562年)、その父・井伊直親が今川氏真の疑いを受け、誅殺された。井伊の当主は次々と非業の死を遂げ、一族は滅亡の淵に立たされる。生まれたばかりの虎松にもまた、命を狙う手が迫った。彼は寺へ逃され、名を変え、各地を転々として、わずかに命をつないだのである。
その井伊谷を、辛うじて守り抜いた者がいた。出家して次郎法師と名乗り、女地頭として井伊家の名跡を背負ったと伝わる井伊直虎である。直虎やゆかりの人々は虎松をかくまい育て、来たるべき日に備えて、この一粒種を絶やすまいとした。井伊家は、まさに風前の灯火であった。だが、滅びの淵にあったその遺児こそが、のちに徳川の天下を支える柱の一本へと育っていくのである。
二歳で父を今川に誅殺され流転した虎松は、十五歳で家康に出仕して井伊家を再興し、武田の遺臣を束ねて徳川随一の精鋭・赤備えを率いた「今川に追いつめられた井伊家の遺児が、徳川家康に見出され、武田の赤備えを継いで『井伊の赤鬼』と恐れられた」
家康に見出される — 万千代、徳川へ

流転の少年に、転機が訪れる。天正三年(1575年)、十五歳となった虎松は、遠江を治める徳川家康のもとへ出仕した。家康は、滅びかけた名族の遺児であるこの若者を、ことのほか気に入ったと伝わる。虎松はあらためて万千代と名を改め、家康の小姓として、その身辺近くに仕えることになった。
家康は、ただ憐れみで万千代を取り立てたのではない。万千代には、人を惹きつける器量と、何ごとにも臆さぬ覇気があった。だからこそ家康は、彼に井伊谷の旧領を安堵し、井伊家の再興を許したのである。一度は地上から消えかけた井伊の名が、徳川の旗の下によみがえった瞬間であった。
やがて元服して直政と名乗った彼は、めきめきと頭角を現していく。家康は、武辺一辺倒の老臣たちとは違う、若い直政の才を高く買った。滅びの淵で拾った命を、直政は主君への忠勤で報いようとした。家康に見出されたこの一事こそが、井伊直政という武将の出発点であった。
長久手で武名を轟かせ、関東移封で徳川家臣随一の箕輪十二万石を得て、関ヶ原の功で佐和山十八万石に封じられたが、戦傷がもとで四十二歳で早世した「小牧・長久手から関ヶ原まで先鋒を担い、近江佐和山十八万石で彦根藩の礎を築いた徳川四天王の最年少」
井伊の赤備え — 武田の精鋭を継ぐ

天正十年(1582年)、織田・徳川の前に名門・武田氏が滅び去った。かつて天下に「最強」とうたわれた武田の軍団は、主を失って散り散りとなる。その武田の遺臣たちの少なからぬ数が、徳川家康のもとへ引き取られた。
家康は、この精鋭たちを、まだ二十歳をいくらか過ぎたばかりの直政に預けた。なかでも、武田で赤備えを率いた飯富虎昌や山県昌景以来の伝統を引く旧臣たちが、直政の手にゆだねられたと伝わる。直政はこれを束ね、おのれの部隊を朱に染め上げた。世に名高い「井伊の赤備え」の誕生である。
若き直政に、なぜ家康は武田の精鋭という重い駒を託したのか。それは、直政にそれだけの統率の器を見たからにほかならない。だが、寄せ集めの旧敵の兵を、忠実な精兵へと鍛え上げるのは並大抵ではなかった。直政は峻烈な軍規でこれを束ね、徳川随一の戦闘集団へと磨き上げた。赤備えは、武田の遺産と直政の苛烈な統率とが溶け合って生まれた、戦国屈指の精鋭であった。
小牧・長久手 — 「井伊の赤鬼」天下に轟く

天正十二年(1584年)、徳川家康は羽柴秀吉と干戈を交えた。世に言う小牧・長久手の戦いである。このいくさで、直政は手塩にかけた赤備えを率い、初めて大舞台に立った。
長久手の決戦で、朱に統一された井伊隊は、戦場を縦横に駆けめぐった。燃え立つような赤い具足の一団が突き進むさまは、敵の度肝を抜いた。直政の采配は鋭く、その猛攻ぶりに、秀吉方の兵は震え上がったと伝わる。このとき直政、わずか二十四歳。この鮮烈な働きが、のちに「井伊の赤鬼」と称される猛将像を形づくっていく。
もっとも、直政の真価は槍働きだけではなかった。やがて家康と秀吉が和睦へ向かうと、直政は両家のあいだを取り持つ外交の役目をも担った。秀吉からも一目置かれ、豊臣姓と高い官位を与えられている。戦場では赤鬼と恐れられ、和議の席では巧みに立ち回る。武と外交の双方をこなすこの器用さこそが、直政を徳川家中で別格の存在へと押し上げていった。
上野箕輪十二万石 — 徳川随一の重臣へ

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め滅ぼした。戦後、家康は本拠の東海五か国を召し上げられ、代わって北条氏の旧領である関東へと移される。徳川家にとって、大きな転機であった。
この関東移封にあたり、家康は重臣たちに新たな領地を割り当てた。直政が与えられたのは、上野国の箕輪、十二万石である。これは、徳川家臣のなかでも飛び抜けて大きな知行であった。本多忠勝も榊原康政も、直政には及ばない。家康がいかに直政を頼みとしていたかが、この一事によく表れている。
直政はやがて、本拠を要害の箕輪から、交通の便のよい和田の地へと移し、ここを高崎と名づけて新たな城下町を築いた。武勇だけの将ではなく、領国を治める為政者としての顔も、ここで確かなものとなる。滅びかけた井伊の遺児は、いまや徳川を背負って立つ大身の重臣であった。赤備えの将は、関東の地に、揺るがぬ井伊家の礎を据えたのである。
関ヶ原 — 先陣を切り、島津を追う

慶長五年(1600年)、豊臣秀吉亡きあとの天下は、徳川家康と石田三成の手で二つに割れた。関ヶ原の戦いである。直政は、東軍の中核として、また家康四男・松平忠吉の後見役として、この天下分け目に臨んだ。
合戦の火蓋は、直政が切った。本来であれば先鋒は福島正則の役目であったが、直政は婿の忠吉を導いて先頭へ進み、最初の銃声を響かせたと伝わる。これは忠吉の初陣を飾るためとも、徳川主導の戦と世に印象づける策だったともいわれる。赤備えは、この日もまた戦場の先頭にあった。
戦いは一日で東軍の勝利に帰した。だが直政の働きは、それだけでは終わらない。敵中に取り残された島津義弘の一隊が、あろうことか家康の本陣前を突き破って退却を図る。世に言う「島津の退き口」である。直政はこれを見逃さず、執拗に追撃した。その途上、彼は銃弾を受けて負傷する。勝ちいくさのただ中で、赤鬼はみずから矢面に立ち、深手を負った。この関ヶ原の傷が、のちに直政の命を縮めることになるとは、まだ誰も知らなかった。
佐和山十八万石 — 早すぎた終焉

関ヶ原での抜群の功により、直政は近江佐和山十八万石を与えられた。石田三成の旧領であり、中山道と北国街道、琵琶湖の水運を押さえる要衝である。徳川の天下にとって、西国ににらみを利かせる枢要の地を、家康は譜代第一の臣・直政に託したのである。
直政の働きは、戦場にとどまらなかった。彼は戦後処理の取次として、降伏した西軍の諸大名や、なお手強い島津氏との和睦交渉に奔走した。武でねじ伏せるだけでなく、敵をも生かして徳川の秩序へ取り込む——直政は、新たな天下の屋台骨を組む仕事に、その才を惜しみなく注いだ。この佐和山の地は、やがて徳川の西国支配を担う新たな城へと生まれ変わっていくことになる。
しかし、その身体はすでに限界にあった。関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化したともいわれ、慶長七年(1602年)二月、直政は佐和山にその生涯を閉じた。享年四十二。あまりに早すぎる死であった。彼の死後、井伊家の本拠は琵琶湖畔へと移され、子の代に彦根城として結実する。井伊の赤鬼が遺した忠勤と器量は、譜代筆頭・彦根藩井伊家として、徳川の世を二百六十余年にわたり支え続けた。
史料の読み解き
「井伊の赤備え」は、なぜ最強と謳われたのか
井伊直政を語るうえで欠かせないのが、赤一色に統一された軍団「井伊の赤備え」である。なぜこの部隊は、これほどまでに恐れられたのか。その答えは、二つの要素の組み合わせにある。
第一は、武田という出自である。赤備えの源流は、武田家で飯富虎昌や山県昌景が率いた部隊にあった。武田滅亡後、その武田旧臣の少なからぬ数が直政に付属されたと伝わる。つまり井伊の赤備えは、最強と恐れられた武田の赤備えの伝統を受け継ぐ集団だったのである。歴戦の旧武田兵の練度は、急ごしらえの部隊とは比べものにならなかった。
第二は、直政自身の統率である。だが、旧敵の寄せ集めを忠実な精兵へとまとめ上げるのは、容易ではない。直政は峻烈な軍規でこれを束ね、みずからも常に先頭に立って戦った。武田の遺産という「素材」と、直政の苛烈な統率という「鍛え」とが噛み合って、初めて赤備えは戦国屈指の精鋭となったのである。ただし、付属された武田旧臣の規模や、赤備えがどこまで山県隊を直接継いだかについては、史料ごとに振れ幅があり、伝承の色も含む点には留意したい。
「井伊の赤鬼」と「人斬り兵部」 — 猛将像の二面性
直政には、相反するように見える二つの異名が伝わる。敵から恐れられた「井伊の赤鬼」と、味方に対する厳しさを語る「人斬り兵部」である。この二面は、矛盾するものではない。
「赤鬼」は、戦場での猛勇を示す。長久手でも関ヶ原でも、直政は常に最前線にあり、みずから槍を振るって敵を圧倒した。一方「人斬り兵部」は、その官途名にちなんで、家臣や兵への苛烈な統率を語る異名とされる。わずかな落ち度も許さず、軍規を厳しく守らせたと伝わる。
注目すべきは、この厳しさが、けっして身勝手な暴威ではなかった点である。直政は人に厳しいのと同じだけ、おのれにも厳しかった。誰よりも危険な場所に飛び込み、関ヶ原ではみずから深手を負っている。おのれを最も苛烈に律する将だからこそ、兵もその下知に従った。「赤鬼」と「人斬り兵部」は、同じ一人の武将の、表と裏の顔だったのである。もっとも、これらの異名がどこまで同時代の呼称で、どこまで後世の語りで膨らんだかは、慎重に見る必要がある。
関ヶ原の負傷は、その死を早めたのか
直政は関ヶ原の戦いで、退却する島津勢を追撃する途上で銃弾を受け、負傷した。そして、その二年後の慶長七年(1602年)に四十二歳で世を去る。この早すぎる死は、はたして関ヶ原の傷がもたらしたものだったのか。
傷が一因だったとする見方には、相応の根拠がある。直政の死は負傷から二年と隔たっておらず、戦後も傷が癒えなかったと伝える史料がある。深手が長く彼を蝕み、ついに命を奪ったと考えるのは自然である。死因を、傷から生じた破傷風とする説も語られてきた。
一方で、戦傷だけを死因と断じるのも、慎重を要する。当時の記録は乏しく、直政の最期の病状を細かく伝える確かな史料は限られている。過労や別の病が重なった可能性も否めない。関ヶ原の傷が死を早めたという見方は説得力をもつが、それを唯一の死因と断定できるほどの確証はない。いずれにせよ、彼が天下平定の直後に、その完成を見ることなく逝ったことは、まぎれもない事実である。
譜代筆頭・彦根藩の礎 — 直政が遺したもの
直政の生涯を締めくくるのは、彼が徳川の天下に遺した、目に見える遺産である。それは、近江に築かれた井伊家の地位であった。
関ヶ原の功で、直政は石田三成の旧領・佐和山十八万石を与えられた。これは、西国ににらみを利かせる枢要の地である。家康がこの要地を譜代第一の臣に託したことは、直政への信頼の深さを物語る。直政はこの要地を任されたが、新たな城の完成を見ることなく没した。井伊家の本拠はその死後、家老や子の代の手で琵琶湖畔へと移され、彦根城として結実する。
彦根藩井伊家は、のちに譜代大名の筆頭として、たびたび幕府の大老を務めた。徳川の世を支える柱の一本が、直政の遺した地位の上に立ったのである。滅びの淵に生まれた遺児が築いた礎は、二百六十余年の太平を、その根もとから支え続けた。戦場の赤鬼であると同時に、徳川の屋台骨を組んだ為政者——それが、井伊直政という武将の到達点であった。
確度で読み解く井伊直政
本記事の主要な論点について、史料的な確かさの度合いを整理しておく。確度「高」はほぼ動かない事実、「中」は有力だが異説や不確かさを含むもの、「低」は後世の脚色や諸説が多く慎重に扱うべきものを示す。
| 論点 | 確度 | 補足 |
|---|---|---|
| 永禄4年(1561)に井伊谷で生まれた | 高 | 遠江井伊氏・井伊直親の子として諸書に一致 |
| 父・直親が今川に誅殺された | 高 | 永禄5年ごろ・今川氏真の疑いを受けた |
| 幼少期に流転して命をつないだ | 高 | 井伊家没落のなか各地を転々とした |
| 井伊直虎が虎松を養育した | 中 | 女地頭説が知られるが直虎の実像は諸説ある |
| 天正3年(1575)に家康へ出仕した | 高 | 十五歳で小姓となり万千代と名乗る |
| 家康に旧領井伊谷を安堵された | 高 | 井伊家再興を許された |
| 武田の遺臣を付属された | 高 | 武田滅亡後に旧臣を引き取り部隊を編成 |
| 赤備えは武田の赤備えを継いだ | 中 | 飯富虎昌・山県昌景以来の伝統・継承範囲は諸説 |
| 小牧・長久手で武名を轟かせた | 高 | 天正12年・長久手で赤備えを率いて奮戦 |
| 「井伊の赤鬼」と呼ばれた | 中 | 武勇を示す異名だが呼称の初出は確定しない |
| 「人斬り兵部」と称された | 中 | 苛烈な統率を語る異名・後世の語りも含む |
| 豊臣姓と高い官位を与えられた | 高 | 秀吉から侍従・豊臣姓を受けた |
| 関東移封で箕輪12万石を得た | 高 | 天正18年・徳川家臣随一の知行 |
| 本拠を高崎へ移した | 高 | 和田を高崎と名づけ城下を築いた |
| 関ヶ原で先陣を切った | 中 | 松平忠吉を伴う抜け駆けと伝わるが諸説 |
| 島津勢を追撃して負傷した | 高 | 島津の退き口を追い銃弾を受けた |
| 戦後に佐和山18万石を与えられた | 高 | 石田三成旧領・関ヶ原の功による |
| 西軍諸将や島津の調停に当たった | 高 | 戦後処理の取次として交渉に奔走 |
| 関ヶ原の傷が死を早めた | 中 | 有力だが唯一の死因とは断定しにくい |
| 慶長7年(1602)に佐和山で病没した | 高 | 享年42・徳川四天王の最年少 |
| 彦根城は直政の死後に築かれた | 高 | 家老や子の直継・直孝の代に琵琶湖畔へ築城 |
井伊直政の生涯は、滅びの淵に生まれた一人の遺児が、武と知の双方を尽くして、徳川の天下を支える柱へと駆け上がった軌跡であった。家康に拾われた命を忠勤で報い、武田の遺産を継いで戦場を制し、勝者の側に立ってもなお敗者を秩序へ取り込む難事に身を削った。
天下平定の直後、その完成を見ることなく四十二歳で逝った早さは、惜しまれてやまない。それでもなお、彼が遺した彦根藩井伊家は、譜代筆頭として徳川の世を最後まで支え続けた。井伊直政の名が今に語り継がれるのは、燃え立つ赤備えの猛勇だけでなく、滅びから始まった一族を未来へつないだ、その不屈の生きざまゆえにほかならない。
参戦合戦
井伊直政|井伊の赤鬼と呼ばれた徳川四天王の逸話
- 01
「井伊の赤鬼」 — 武田の赤備えを継ぐ者

赤一色に統一された井伊の赤備え · AI生成イメージ 井伊直政を語るとき、誰もがまず思い浮かべるのが、燃え立つような朱色の軍団「井伊の赤備え」である。具足も旗指物も、ことごとく赤一色に統一されたその一団は、戦場でひときわ目立ち、敵に強烈な威圧を与えた。
この赤備えの源流は、滅びた武田氏にあった。武田では飯富虎昌や山県昌景の部隊が、赤い具足で全軍を揃え、その武勇を恐れられていたのである。武田が滅んだのち、その旧臣の一部が直政に付属され、直政はあえて同じ赤で部隊を染め上げた。最強と恐れられた武田の武威を、そっくり受け継ごうという気概であった。
直政自身の勇猛さも相まって、赤備えはたちまち徳川随一の戦闘集団となる。敵は赤い一団を見ただけで色を失ったと伝わり、直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれた。滅亡した武田の遺産が、井伊の名のもとに、ふたたび戦場で猛威を振るったのである。
- 02
「人斬り兵部」 — 苛烈さの裏にあるもの

峻烈な軍規で赤備えを統率する直政 · AI生成イメージ 勇将・直政には、もう一つの顔があった。家臣や兵に対する、並々ならぬ厳しさである。官途名から「人斬り兵部」とまで呼ばれたと伝わるほど、その軍規は峻烈をきわめた。わずかな落ち度も見逃さず、みずからも常に最前線に身を置いて部下を叱咤した。
なぜ、これほどまでに苛烈だったのか。一つには、直政が束ねた赤備えが、もとは旧敵・武田の寄せ集めであったことが大きい。雑多な兵を一糸乱れぬ精鋭へと鍛えるには、生半可な統率では足りなかった。厳しさは、強さを生むための代償でもあった。
もっとも、直政は人にだけ厳しかったのではない。関ヶ原でみずから深手を負ったように、誰よりも危険な場所に飛び込むのが彼であった。おのれを最も苛烈に律したからこそ、兵もまた従った。「人斬り兵部」の異名は、その凄烈な生きざまの、裏返しの勲章でもあった。
- 03
槍だけではない — 戦後を縫った調停者

関ヶ原後の戦後処理に奔走する直政 · AI生成イメージ 直政の名は猛将として高いが、その真骨頂は武勇にとどまらなかった。とりわけ関ヶ原ののち、彼が果たした調停者としての役割は、見落とされがちな大功である。
勝利した東軍にとって、難題は戦後の始末であった。降伏した西軍の大名をどう処し、なお薩摩に健在な島津氏とどう折り合うか。一つ間違えば、再び戦火が広がりかねない。直政は、この危うい交渉を一身に引き受けた。敵将の助命を家康に取りなし、島津との和睦の糸口を粘り強く探ったのである。
力で押し切るだけなら、ただの猛将で済む。だが直政は、勝者の驕りを抑え、敗者を秩序のなかへ取り込む難事をやってのけた。戦場の赤鬼が、和平の席では冷静な交渉人となる。この武と知のふり幅こそが、家康が直政を手放せなかった理由であった。
関連人物
所縁の地
- 井伊谷静岡県浜松市浜名区引佐町
井伊氏の本貫地で、直政が生まれ育った遠江の山あいの里である。今川氏の圧迫のなかで井伊家が苦難を耐え、女地頭・井伊直虎が一族の名跡を守ったと伝わる地でもある。現在は井伊氏ゆかりの龍潭寺や井伊谷宮が残り、一族の歴史をしのぶ史跡として知られている。
- 高崎城跡群馬県高崎市
関東移封後、直政が箕輪から本拠を移して築いた城で、和田の地をあらため高崎と名づけた城下町の中心であった。中山道と三国街道が交わる交通の要衝に位置し、関東支配の拠点となった。現在は乾櫓や石垣、堀の一部が残り、城址公園として市民に親しまれている。
- 佐和山城跡滋賀県彦根市
関ヶ原の功で直政が与えられた近江の要衝で、もとは石田三成の居城であった。中山道と北国街道、琵琶湖の水運を押さえ、西国ににらみを利かせる枢要の地であった。直政の死後、井伊家の本拠は琵琶湖畔の彦根城へと移される。現在は山上に石垣や曲輪跡が残り、登山道から城下を一望できる。
- 彦根城滋賀県彦根市
直政が構想した新城が、その死後に子の代へ受け継がれて琵琶湖畔に築かれた、井伊家代々の居城である。天守が現存する数少ない城の一つで、国宝に指定されている。譜代筆頭・彦根藩の中心として、江戸時代を通じて井伊家の威勢を象徴した。今も往時の姿をよくとどめ、多くの観光客が訪れる。

