
合戦KASSEN
第一次木津川口の戦い|1576年、村上水軍と毛利の本願寺救援
第一次木津川口の戦いは1576年、村上水軍を含む毛利方が織田信長方を破り、本願寺への補給に成功した海戦。村上元吉の連署状、雑賀衆との合流、佐久間信盛の陸戦から経過と勝因、第二次との違いをたどる。
この戦いの要点
目的は本願寺へ兵糧を届けること
村上水軍などを含む毛利方が織田方の海上封鎖を破った。本願寺は補給を受け、抗戦を続けた。
村上元吉と雑賀衆の動きを連署状で追う
元吉ら15名の報告は、貝塚での雑賀衆との合流や戦闘前の協議を伝える。元吉一人の指揮とは書かない。
佐久間信盛は陸上の攻防に関わる
『信長公記』には、信盛が天王寺から出動した記録がある。海戦と同時に、本願寺方と織田方は陸でも戦っていた。
第一次木津川口の戦いとは|本願寺への補給をめぐる海戦
兵糧を積んだ船を、本願寺まで通せるか。 1576年、木津川口で争われたのは、海から大坂へ物資を運ぶ道だった。
第一次木津川口の戦いは、天正4年7月、村上水軍などを含む毛利方の船団が織田信長方を破った海戦である。毛利方は石山本願寺への補給に成功した。村上元吉らの戦況報告には雑賀衆との合流や協議も記されている。陸では佐久間信盛が兵を動かしており、海上だけで完結した戦いではなかった。
日付には史料による違いがある。当事者の連署状は7月13日から14日早朝までの戦闘を伝え、『信長公記』は15日と記す。本記事では連署状に従って13〜14日を採り、月日は旧暦で表す。二度の海戦の全体像と地図は、木津川口の戦いを参照されたい。
織田信長はなぜ木津川口を封鎖したのか
織田信長と本願寺顕如らの争いは1570年から続いていた。 大坂の本願寺を周囲から攻めても、外から兵糧が入れば籠城は続く。木津はその物資を受け取るための重要な場所だった。
『信長公記』巻九によれば、1576年4月、信長は諸将に本願寺への通路を断たせようとした。荒木村重らが配置され、木津への攻撃も命じられる。ところが5月3日、木津を攻めた原田直政らが本願寺方に敗れた。天王寺にいた織田方も包囲を受け、信長自身が救援に向かう事態になったのである。
信長は5月7日の戦いで味方を救い、その後、天王寺などに守備の将を置いた。住吉の浜にも拠点を設け、真鍋・沼野らに海上の警固を担わせた。夏の海戦はこの春から続く陸海の封鎖を破ろうとする動きの中で起きた。

織田信長の想像肖像。木津川口の船上にいた場面を示すものではない。
一方、兵糧を届ける側には毛利輝元の勢力があった。連署状の宛先は、毛利・吉川・小早川方の奉行人たちである。
小早川隆景らを含む毛利方の支援と、現場で船を動かす諸将の働きを分けて捉えると、作戦の広がりが分かる。輝元や隆景が自ら木津川口の船上で指揮した、と言い換えることはできない。
戦いの場所|海と川をつなぐ木津
木津川口は現在の大阪市の木津周辺と、その沖合にあたる。ただし、今の地図の河口に戦場をそのまま重ねると位置を取り違える。近世以降の陸地化などによって、海岸線も川筋も変わっているからだ。
大阪歴史博物館の木津城調査
は現在の浪速区敷津西から西成区出城にかけての地域を取り上げる。中世の木津集落は河口から東へ延びる入江に面していたと考えられている。海から来た物資を、川や陸の交通へ受け渡せる場所だった。
木津城の所在地・規模・構造は、なお確定していない。そのため、本記事では船の陣形を現代地図に描き込まない。木津、天王寺、住吉、本願寺の位置関係は、陸の拠点を示す模式図で確認できる。この図も正確な砦跡や当日の船の配置を示すものではない。

海から届く兵糧を陸へ渡す情景。木津の港や倉の構造を復元した図ではない。
村上元吉と村上水軍|15名の署名が伝える参加者
村上元吉は能島村上氏の村上武吉の長男である。第一次木津川口の戦いへの関与を示す重要な史料が、「村上元吉外十四名連署注進状」だ。注進状とは戦況などを上へ知らせる報告書をいう。元吉を含む15名が名を連ね、戦闘直後の7月15日付で送っている。
『毛利家文書』338号の翻刻
と
村上海賊ミュージアムの解説
を読むと、元吉のほかにも多くの名が見える。 村上吉充、村上吉継、乃美宗勝、児玉就英などである。村上氏だけでなく、毛利方の複数の将が作戦に加わっていた。
「村上水軍」は、能島・因島・来島の三家などをまとめて語る際によく使われる名である。この戦いの船団全体を、元吉一人が率いる一枚岩の組織と考えるのは適切でない。連署という文書の形からも、複数の将が共同で戦果を報告していることが分かる。

村上元吉の想像肖像。顔貌や装束の確定した復元ではなく、特定の指揮場面も示していない。
元吉の参戦を記すことと、父・武吉の名声をそのまま元吉の武功へ移すことは別である。逆に、「村上武吉の水軍」という呼び方だけで説明すれば、実際に報告へ署名した元吉たちの姿が隠れてしまう。ここでは船団の構成を、戦場に近い記録から見ていきたい。
雑賀衆との合流|岩屋から貝塚、そして木津川口へ
連署状が伝える出発点は、淡路島の岩屋である。 7月12日、毛利方の船団は岩屋を出て、和泉の貝塚へ渡った。そこで紀伊の雑賀衆と合流する。翌日、堺・住吉方面から木津川口の様子を確かめると、織田方が大船や多数の船で備えていた。
報告には河口に「かし」を渡したことも記されている。ミュージアムの解説はこれを船をつなぐための杭や竿と説明する。毛利方は、戦わずに兵糧を運び入れるのは難しいと判断した。そこで雑賀衆と相談し、織田方への攻撃に移ったという。
雑賀衆の役割は鉄砲の名手という印象だけでは捉えきれない。この文書では、合流し、敵情を踏まえて協議する相手として登場する。海から来た船団と、紀伊から加わった勢力が、補給のために行動を合わせていたのである。
和歌山市の人物紹介
も、雑賀孫市らが1576年に毛利方とともに本願寺を支援したとする。 ただし、連署状の「雑賀衆」を、すべて雑賀孫市個人の命令や射撃へ置き換えることはできない。どこから何挺の鉄砲を撃ったかという細部まで、この報告は教えてくれない。

本願寺を支えた武装勢力をイメージした情景。雑賀衆の具体的な射撃地点を示すものではない。
佐久間信盛の陸戦|天王寺から兵を出す
船団がぶつかるころ、陸でも戦いが起きていた。『信長公記』巻九は、本願寺方が楼の岸や木津の拠点から出て、住吉の織田方の城を攻めたと記す。これに対して、天王寺の佐久間信盛が兵を出した。双方が押し合う戦いは、しばらく続いたという。
この記述で信盛が担うのは、陸上部隊への対応である。海上では真鍋・沼野らの船団が戦っており、信盛を織田水軍の船上の総大将として描く根拠にはならない。また、本願寺方の陸上部隊と雑賀衆は、記録上の呼び分けを保つ必要がある。陸で攻めた全員を雑賀の鉄砲衆とみなすこともできない。

佐久間信盛の想像肖像。天王寺からの出動を考えるための挿絵で、陣所の位置や服装を再現したものではない。
陸の砦を守れば、海の補給も自動的に止まるわけではなかった。船を阻む者と、岸に出る本願寺方を押さえる者には、それぞれの戦いがあった。毛利方の補給を止めるには、織田方はその両方で封鎖を保つ必要があったのである。
毛利方はなぜ勝ったのか|火攻めと補給成功
『信長公記』は、毛利方の船を700〜800艘、織田方を300余艘と記す。毛利方は船を寄せ、「ほうろく火矢」と呼ばれる火器を使って織田方の船を焼き崩した。真鍋・沼野らを含む織田方の将たちが討死したという。
同書は、織田方が相手の数に抗しきれなかったとも述べる。多数の船と火を使う攻撃が、同書の描く敗北の要因である。一方、毛利方の連署状も大船を焼いたと報告する。両者の立場は異なるが、織田方の船団が敗れた点は一致している。

火を用いた海戦の想像図。焙烙火矢の形や投げ方、船同士の配置は確定した復元ではない。
ただし、船数をそのまま兵士の人数や戦闘力に換算することはできない。輸送を担う船と戦う船の内訳も、これらの記述からはそろえられない。連署状が数える織田方の船は200余艘で、『信長公記』とも違う。数の大きさだけで勝敗を説明すると、史料の差を消してしまう。
勝敗を最もはっきり示すのは、戦闘後の兵糧の行き先だ。『信長公記』は、毛利方が大坂へ兵糧を入れ、西国へ引き返したと記す。織田方の封鎖は破られ、船団は補給という目的を果たした。本願寺の抗戦を続けさせることが、この勝利の成果だった。
通説と俗説の射程|日付・総大将・焙烙火矢
7月13日と15日は、何が違うのか
二つの日付は単なる表記の揺れではない。連署状は13日から14日早朝までの戦果を、15日付で報告している。『信長公記』は海戦の記事を15日のこととして載せる。
ミュージアムの比較解説
は、戦闘直後に当事者が書いた連署状を重視している。 本記事もこの判断に従う。ただし、当事者の報告にも戦果を大きく述べる可能性はある。日付の近さを評価することと、敵をことごとく討ったという表現を額面どおりに採ることは別である。
| 論点 | 連署注進状 | 『信長公記』巻九 |
|---|---|---|
| 戦闘の時期 | 7月13〜14日早朝。文書は15日付 | 7月15日 |
| 織田方の船数 | 200余艘との記載 | 300余艘との記載 |
| 攻撃の記述 | 大船を焼き崩したと報告 | 「ほうろく火矢」の使用を記す |
| 読む際の注意 | 勝者側の戦果報告 | 戦後にまとめられた織田側の叙述 |
元吉の参戦と「村上水軍の総大将」は同じか
元吉の名は連署状にある。しかし、その文書から船団全体の単独総司令官まで決めることはできない。父・武吉が現地ですべてを指揮したとする説明にも、別の根拠が必要だ。
文書の取り違えにも注意したい。今治市の2020年の展示資料はかつて第一次合戦に結びつけられた小早川隆景書状を1577年のものとして紹介する。これは宮窪村上文書の書状で、元吉ら15名の連署注進状とは別物である。一通の年代の見直しを、元吉の参戦そのものの否定へ広げてはならない。
焙烙火矢は、陶器の手榴弾だったのか
火器を投じて船を焼いたことは『信長公記』に見える。しかし、材質や形、大きさ、投げ方まで同書が説明しているわけではない。
ミュージアムの武器解説
は、能島城で出土し、かつて武器とされた破片に、生活用の鍋や釜が含まれることを紹介している。
火攻めの記録は残るが、使われた道具の細部は未確定である。復元品や挿絵の形を、そのまま1576年の実物と受け取ることはできない。本記事の画像も史料で伝わる海戦や補給を題材にした想像図として掲載している。
第二次との違いと、石山合戦への影響
1578年の第二次木津川口の戦いでは、勝敗が逆転した。 11月6日、九鬼嘉隆の大船が毛利方の船団を退ける。第一次の織田方として記されるのは真鍋・沼野らであり、二度の海戦を同じ指揮官同士の再戦と考えることはできない。
| 比較 | 第一次・1576年 | 第二次・1578年 |
|---|---|---|
| 勝った側 | 村上水軍などを含む毛利方 | 九鬼嘉隆ら織田方 |
| 史料が伝える攻撃 | 毛利方の火器と船への接近 | 九鬼方の大船と大鉄砲 |
| 補給への影響 | 本願寺への兵糧搬入に成功 | 織田方が海上封鎖を進める |
いわゆる鉄甲船の構造と第二次の経過は、二度の木津川口の戦いを扱う記事で詳しく述べている。本願寺が大坂を退去するのは、さらに後の1580年である。第一次の勝利が本願寺の最終的な勝利を意味しなかったように、第二次の敗北が即日の落城をもたらしたわけでもない。
佐久間信盛も1580年に信長から追放される。『信長公記』に載る折檻状には、天王寺での不功など複数の非難が並ぶ。 1576年の海戦敗北だけが追放の原因だった、と一本道で結ぶことはできない。
第一次木津川口の戦いで毛利方が守ったのは、兵糧を本願寺へ届ける機会だった。海を渡る船団、協議に加わる雑賀衆、陸で戦う双方の軍勢が、その補給をめぐって動いた。この一度の成功を石山合戦の全体の経過へ戻して見ると、本願寺の長い抗戦が、城内だけの力で成り立っていたのではないことが分かる。
両軍の対比
真鍋・沼野ら織田方の船団
村上元吉・乃美宗勝・児玉就英ら
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書之一・338「村上元吉外十四名連署注進状」東京大学史料編纂所 SHIPS参照日 2026-10-31
- 太田牛一『信長公記』巻九・十一・十三(転記本文)ウィキソース参照日 2026-10-31
- 村上海賊の戦いを描いた絵図(連署注進状・信長公記の解説)村上海賊ミュージアム参照日 2026-10-31
- 村上海賊の戦いを描いた絵図・こたえ(日付と参加者の比較)村上海賊ミュージアム参照日 2026-10-31
- 共同研究成果報告書17 第2章・木津城(32〜34頁)大阪歴史博物館参照日 2026-10-31
- ほうろく玉の謎・こたえ(材質・構造・投射法の検討)村上海賊ミュージアム参照日 2026-10-31
- 和歌山市ゆかりの人物「雑賀衆のリーダー 雑賀孫市」和歌山市参照日 2026-10-31
- 村上海賊ミュージアム2020年展示資料・小早川隆景書状の年代再検討今治市参照日 2026-10-31






