
宮部継潤
宮部継潤は、比叡山の流れを汲む一介の山法師から身を起こし、ついには因幡4郡5万石の主・鳥取城主へとのし上がった、戦国でも類を見ない異色の経歴を持つ武将である。
その名は、華々しい槍働きで残ったのではない。剃髪・法衣の僧形のまま大名となり、検地や普請といった政権の実務までこなした——その地味だが確かな働きと、山法師から大名へという立身の鮮やかさに、継潤の生涯の凄みがある。
継潤は、近江国浅井郡宮部、いまの滋賀県長浜市宮部町のあたりの出身である。僧名は史料によって「善浄坊」「善祥坊」「善祥房」と揺れる。生年ははっきりせず、一説に享禄元年(1528年)とされるが定かではない。もとは天台系の山法師であった彼は、まず浅井長政に仕える元山法師として、北近江の戦乱に立っていた。
転機は、元亀年間に訪れる。対浅井戦のさなか、彼は羽柴(木下)秀吉の調略に応じて織田方へ転じた。要衝・宮部郷を押さえる僧将を引き込むことは、秀吉にとって大きな手であった。この一度の選択が、継潤を秀吉古参の臣へと押し上げ、長い立身の道を開くことになる。
織田方に転じた継潤は、秀吉の中国攻めに従い、天正9年(1581年)の鳥取城攻めで武功を重ねた。城将・吉川経家が籠もる鳥取城を、秀吉は付城群と兵糧の買い占めで飢えへ追い込んでいく。後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれるこの包囲戦で、継潤は雁金山城の攻略などに関与したと伝わる。落城ののち、彼はまず城代として鳥取城に入った。
そして、城代から正式な城主への道のりは長かった。名実ともに鳥取城主となり、因幡4郡およそ5万石を与えられたのは、落城から八年を経た天正17年(1589年)のことである。継潤は鳥取城の城郭を強化し、城下の整備を進めた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐に従い、文禄2年(1593年)には豊後の検地奉行を、伏見城の普請をも担った。秀吉の朱印状は彼を「中務卿法印」「宮部法印」と記す。
慶長4年(1599年)3月25日、継潤は世を去る。家を継いだ宮部長熙は、翌年の関ヶ原の戦いののちに西軍方として所領を失い、宮部家は一代で大名の座を退いた。
だから、「秀吉古参の一武将」という一枚の絵だけでは、宮部継潤を語り切れない。継潤の真価は、僧形のまま大名となり、検地や普請という実務で豊臣政権を支えた、その異色の立ち位置にある。 僧名はどれが正しいのか。鳥取城主になったのはいつなのか。朝鮮へ渡ったのは誰なのか。改易されたのは継潤自身なのか——この先の「読み解き」で、ひとつずつ史料の層を分けて確かめていく。
近江宮部の山法師

宮部継潤は、近江国浅井郡宮部——いまの滋賀県長浜市宮部町のあたり——に生まれた。生年は確かな記録に乏しく、一説に享禄元年(1528年)とされるが、これも後世の推定の域を出ない。父を土肥真舜とする伝えもあるが、出自の細部は今もはっきりしない。確かなのは、彼がもともと比叡山の流れを汲む山法師、すなわち天台系の僧であったということである。
僧としての名は、史料によって表記が揺れる。『信長公記』の系統では「善祥坊」、文書の系統では「善浄坊」、人名辞典の系統では「善祥房」と記される。本記事では、最も広く通じる「善浄坊(善祥坊・善祥房とも)」を初出とし、以下では便宜上「継潤」と呼ぶ。ただし、この「継潤」という名も、確かな法号と断定できるわけではなく、僧名・法名のひとつとして伝わっているにすぎない。
では、なぜ一人の山法師が、やがて戦国の表舞台へと躍り出ることになったのか。鍵は、彼が拠った土地そのものにあった。宮部郷は、北近江の支配をめぐる浅井と織田の争いのなかで、戦略上の要衝として浮かび上がっていく場所だったのである。剃髪の身でありながら武の世界へ踏み出していく——その異色の出発点が、ここにある。
法衣をまとった僧が、寺の静けさを離れて戦国の野へ出る。それは、信仰と武力が分かちがたく結びついていた時代だからこそ、ありえた転身であった。山法師・善浄坊は、まず近江の地縁のなかで、浅井氏という主君を見いだすことになる。
秀吉朱印状などに見える継潤の呼称(叙任の年月の根拠は未確認)「中務卿法印」「宮部法印」
秀吉の調略と転身

山法師から身を起こした継潤は、まず浅井長政に仕える元山法師として、北近江の戦乱のただなかに立っていた。彼の拠った宮部郷・宮部城は、織田方が築いた虎御前山の陣と、浅井方の横山城とを結ぶ線上にあり、まさに両軍がせめぎ合う最前線であった。横山城そのものの城主だったというより、この一帯を押さえる要の地に根を張っていた、と読むのが正確である。
この立地が、継潤の運命を大きく動かす。元亀年間——元亀2年(1571年)説と元亀3年(1572年)説があり、年次は一点に絞りきれない——対浅井戦が激しさを増すなかで、彼は羽柴(当時は木下)秀吉の調略に応じ、織田方へ転じた。要衝を押さえる僧将を味方に引き込むことは、北近江の戦況を有利に運ぶうえで、秀吉にとって大きな手であった。
なぜ継潤は寝返ったのか。同時代の記録は、その内心まで語ってはくれない。だが、浅井氏の劣勢が見えはじめた局面で、要地を握る者として去就を迫られたことは想像に難くない。剃髪の身でありながら、彼は信仰でも血筋でもなく、戦国の現実の力学に従って身の振り方を選んだのである。
こうして継潤は、秀吉という新興の将のもとに身を寄せた。この一度の選択が、のちに彼を因幡4郡5万石の主へと押し上げていく、長い道の始まりとなる。山法師は、いまや織田方の一武将として、新しい主君の戦に従っていくことになった。
天正9年(1581)城代 → 天正17年(1589)正式知行宛行という二段の経過城代として鳥取城に入り、八年を経て因幡4郡5万石の主となる
中国攻めの僧将

織田方に転じた継潤は、秀吉の古参の臣として、その中国攻めに従っていく。播磨から但馬、そして因幡へと、毛利氏の勢力圏へ食い込んでいく長い戦いのなかで、僧形の将は着実に武功を重ねていった。彼が黒田官兵衛や蜂須賀小六といった秀吉子飼いの面々と肩を並べていたのも、この時期である。
その戦いの山場が、天正9年(1581年)の鳥取城攻めであった。城には毛利方から吉川経家が城将として送り込まれ、籠城戦の構えを取っていた。秀吉はこれに対し、力攻めを避けて兵糧の道を断つ作戦に出る。城の周囲に付城を築き、兵糧そのものを買い占めて城内を飢えへと追い込んでいく——後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれることになる、過酷な兵糧攻めである。
継潤はこの包囲戦のなかで、雁金山城の攻略などに関与したと伝わる。ただし、彼が包囲網全体の主担当だったと書くのは行き過ぎで、あくまで作戦の一翼を担った将として位置づけるのが妥当である。「渇え殺し」という凄惨な呼称自体も、後世に定着した言い方であり、本記事ではそこに一定の距離を置く。
鳥取城は、長い飢えの末についに落ちた。城将・吉川経家は、城兵の命と引き換えに自刃する。この落城こそが、山法師・継潤を因幡の地と固く結びつける転機となった。秀吉は、戦いの直後、この要地の差配を継潤に委ねていくのである。
鳥取城代から因幡の主へ

天正9年(1581年)の鳥取城落城ののち、継潤はまず**「城代」として鳥取城に入った**。これは、城を任されはしたものの、正式な領主としての地位をまだ得てはいない、いわば管理役の段階である。ここを取り違えてはならない。彼が名実ともに鳥取城主となったのは、天正17年(1589年)のことであった。落城から、実に八年もの歳月が流れている。
この年、継潤は正式な知行宛行を受け、因幡4郡におよそ5万石を与えられた。石高は5万0970石とも伝わる。「1581年の落城と同時に5万石の城主になった」と書くのは誤りで、城代の時期と正式な大名化の時期は、はっきり分けて読む必要がある。なお、文禄期には8.1万石、後継の長熙が相続したころには13万石余とする記述もあるが、これらは本記事では慎重に別説として扱う。
因幡の主となった継潤は、領国の経営に手を入れていく。鳥取城は、それまでの土造りの中世城郭から、城郭を強化し、城下の整備を進める手が加えられたと伝わる。なお、石垣をそなえた本格的な織豊系城郭への大改修は、後の池田氏の時代に大きく進んだとみるのが妥当である。ただし、継潤自身は秀吉に従って各地を転戦し、領国を留守にすることも多かった。実際に領内を取りしきったのは、後継の長熙であったと伝わる。
因幡の支配は、継潤一人の力で成ったものではない。亀井茲矩や垣屋豊続といった周辺の大名・与力との配置のなかで、はじめて成り立っていた。僧形の将は、いまや一国の差配を担う「因幡の主」として、新しい時代の領主像を体現していくのである。
天下普請と実務官僚

因幡の主となった継潤の働きは、戦場だけにとどまらなかった。むしろ彼の真価は、豊臣政権を支える実務官僚としての顔にあったと言ってよい。秀吉の天下統一が進むなかで、継潤は各地の戦と政務に、古参の臣として動員されていく。
まず戦の側では、天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し、高城方面で功を挙げたと伝わる。続く天正18年(1590年)の小田原征伐にも従った。秀吉が全国を平らげていく節目の戦いに、継潤は古参として顔を並べている。
だが、より注目すべきは政務の側である。文禄2年(1593年)、大友義統が改易されたのち、継潤は豊後の検地奉行を務めた。検地は、土地と石高を測り直して支配の基礎を作る、政権にとって極めて重い仕事である。さらに伏見城の普請にも関わるなど、彼は豊臣政権の実務を担う官僚として働いた。剃髪の僧でありながら、検地や普請といった行政の実務をこなす——これは、戦国の武将像のなかでも稀な、際立った特徴である。
「僧形の実務官僚」——この一語こそ、宮部継潤という人物の輪郭を最もよく言い当てる。槍や采配だけでなく、算用と差配で政権を支えた古参の臣。その地味だが確かな働きが、彼を秀吉のもとで長く重んじられる存在にしていたのである。
中務卿法印という座

豊臣政権のなかで重きをなした継潤には、僧としての高い格式を示す呼称が与えられていた。秀吉の朱印状などには、「中務卿法印」あるいは「宮部法印」と記されている。法印とは、もともと僧位の最高位を指す称号である。剃髪の身のまま大名となった継潤にとって、この称号は、武と僧の両面を併せ持つ彼の立場を象徴していた。
ただし、いつ正式に法印に叙されたのか、その年月の根拠ははっきりしない。だから本記事では、「法印に叙された」と断定するより、「中務卿法印を称した」と書くにとどめる。称号の重みは確かだが、その由来の細部までは史料が支えてくれないのである。
継潤の周辺には、興味深い人脈の網が広がっていた。彼の室は松寿院(松樹院、永禄8年・1565年生)といい、垣屋豊続の従妹にあたる。垣屋豊続は但馬の水軍を率い、継潤の与力として働いた。また、松寿院の弟である宮部木工は継潤の養子となり、善祥坊の名跡を継いだと伝わる。さらに、後の関白・豊臣秀次を一時養子にしたという伝承も残るが、これはあくまで伝承として扱うべき話である。
亀井茲矩や垣屋豊続といった与力大名との結びつき、そして婚姻と養子による縁の網——継潤は、こうした人脈のなかで因幡に根を張っていた。 僧形の将が築いたのは、武力だけでなく、縁と格式に支えられた一個の「家」だったのである。継潤の最期と宮部家のゆくえ

慶長4年(1599年)3月25日、宮部継潤はその生涯を閉じた。秀吉が前年に没したあと、天下の行方が大きく揺れはじめる、まさにその直前のことであった。山法師から因幡4郡5万石の主へとのし上がった異色の生涯は、こうして静かに幕を下ろす。
だが、宮部家の物語は、継潤の死で終わらなかった。家を継いだのは宮部長熙(ながひろ、長煕とも)である。彼が継潤の実子なのか養子なのかについては、諸説あって定まらない。宮部家が改易されたのは、継潤の死の翌年、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののちのことであった。ここを混同してはならない。改易は、継潤本人への処分ではなく、後継の長熙の代に起きた出来事である。
長熙は、当初は東軍方に身を置いたとされる。だが、その後西軍へと転じ、伏見城や大津城の攻めに関与した。これを当初から東軍として動こうとしたが失策だったとする見方もあり、その去就には諸説がある。いずれにせよ、西軍の敗北とともに宮部家は所領を没収され、長熙は南部利直に預けられた——いわゆる南部への配流である。
宮部家を支えた人々も、それぞれの道を歩んだ。継潤の室・松寿院は、夫の死後、慶長4年のうちに藤堂高虎のもとへ再嫁したと伝わる。戦国の世では、こうした再縁も家と縁をつなぐ営みであった。山法師から大名へ、そして一代で消えた家——宮部継潤の生涯は、立身の鮮やかさと、その家の儚さとを、ともに後世へ残したのである。
史料の読み解き
僧名の表記はなぜ揺れるのか — 善浄坊・善祥坊・善祥房
宮部継潤の僧名は、史料の系統によって表記が一定しない。『信長公記』の系統では「善祥坊」、古文書の系統では「善浄坊」、人名辞典の系統では「善祥房」と記される。読みはほぼ共通だが、「祥/浄」「坊/房」の字がそろわないのである。
この揺れは、継潤がもとは比叡山の流れを汲む山法師であり、僧名のまま武の世界へ出たことと無関係ではない。僧籍の記録と武家の記録の双方に名が残った結果、表記の地層が積み重なった。所属した寺院も確定しにくく、僧としての来歴は今も霞んでいる。本記事が「善浄坊(善祥坊・善祥房とも)」と注記したのは、どれか一つを正しいと断ずるのではなく、この表記の地層をそのまま尊重するためである。
「継潤」という名についても、確かな法号と断定はできない。あくまで彼に伝わる僧名・法名のひとつとして扱うのが、現時点で誠実な書き方である。
鳥取城主になったのはいつか — 城代と正式知行の二段
宮部継潤をめぐって最も誤りやすいのが、鳥取城主となった時期である。「天正9年(1581年)の落城と同時に5万石の城主になった」と書かれることがあるが、これは正確ではない。
落城の直後、継潤がまず入ったのは「城代」としてであった。城代とは、城を任されはしても、正式な領主の地位をまだ得ていない管理役の段階を指す。彼が正式な知行宛行を受け、因幡4郡およそ5万石(5万0970石とも)の主として名実ともに鳥取城主となったのは、天正17年(1589年)のことである。落城から八年が経っている。城代の時期と正式な大名化の時期は、必ず分けて読む必要がある。
なお、文禄期には8.1万石、後継の長熙が相続したころには13万石余とする記述も見えるが、これらは慎重に別説として扱うのが妥当である。
「鳥取の渇え殺し」で継潤は何をしたか
天正9年(1581年)の鳥取城攻めは、秀吉が城を直接攻めず、付城群と兵糧の買い占めで城内を飢えへ追い込んだ包囲戦であった。城将は毛利方の吉川経家で、城兵の命と引き換えに自刃したと伝わる。
この包囲戦のなかで、継潤は雁金山城の攻略などに関与したと伝わる。ただし、彼が包囲網全体の主担当だったと書くのは行き過ぎである。あくまで作戦の一翼を担った将として位置づけるのが、史料に即した読み方だろう。「鳥取の渇え殺し」という凄惨な呼称も、後世に定着した言い方であり、本記事ではそこに一定の距離を置く。
朝鮮へ渡ったのは誰か — 継潤か、長熙か
文禄の役をめぐっては、宮部継潤本人が朝鮮へ渡海したかのように書かれることがある。だが、これは正確ではない。
史料を丁寧にたどると、答えははっきりしている。文禄の役で朝鮮半島へ渡海した主体は、継潤本人ではなく、養子の長熙であった。継潤自身は名護屋に在って、後方・政務の側を担っていたと読むのが妥当である。高齢であったことも、本人渡海ではなかった背景にあるだろう。「本人渡海」と書くのは誤りで、渡海したのは長熙、継潤は後方、と分けて読む必要がある。
この点は、継潤の役割を理解するうえで象徴的でもある。戦の最前線に立つよりも、政権の実務と差配を担う——それが、晩年の継潤の立ち位置であった。
「僧形の実務官僚」という切り口
宮部継潤の生涯で、他の武将と最も際立って異なるのが、その実務官僚としての顔である。
文禄2年(1593年)、大友義統が改易されたのち、継潤は豊後の検地奉行を務めた。検地は、土地と石高を測り直して支配の基礎を作る、政権にとって重い仕事である。さらに伏見城の普請にも関わるなど、彼は豊臣政権の行政実務を担った。剃髪の僧でありながら、検地や普請をこなす将——これは、戦国の武将像のなかでも稀な、異例の存在である。「僧形の実務官僚」という一語こそ、宮部継潤の輪郭を最もよく言い当てる。
御咄衆として秀吉のそば近くに仕えたとも伝わり、彼の重用は、武功だけでなくこの実務の確かさに支えられていたと読める。
「中務卿法印」をめぐって
秀吉の朱印状などには、継潤が「中務卿法印」「宮部法印」と記されている。法印とは、もともと僧位の最高位を指す称号で、剃髪のまま大名となった継潤の立場を象徴していた。
ただし、いつ正式に法印に叙されたのか、その年月の確かな根拠は見あたらない。だから本記事では、「法印に叙された」と断定するより、「中務卿法印を称した」と書くにとどめる。称号の重みは確かでも、その由来の細部までは史料が支えてくれないからである。
また、後の関白・豊臣秀次を一時養子にしたという伝承も残るが、これは確実な事実というより、伝承として距離を置いて扱うべき話である。
家紋は確定できるか
宮部継潤の家紋は、一次級の典拠では確定しがたい。地元の郷土資料には「丸に菱橘」や「五七桐」が見えるとも言われるが、いずれも断定はできない。本記事の人物メタでも、家紋は確定値を出さず「不詳」とする。
これは、宮部家が一代で改易され、家の記録が早く散逸したことと無縁ではないだろう。家紋ひとつをとっても、継潤の実像が後世に十分伝わらなかった事情がうかがえる。
改易されたのは継潤本人か
宮部家の改易を、継潤本人への処分のように語るのは誤りである。継潤は慶長4年(1599年)に没しており、宮部家の改易はその翌年、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののちに起きた。改易を受けたのは、後継の長熙である。
長熙は当初は東軍方とされながら、やがて西軍へ転じ、伏見城や大津城の攻めに加わった。これを失策とする見方もあれば、最初から西軍寄りだったとする見方もあり、その去就には諸説がある。いずれにせよ、西軍の敗北とともに所領は没収され、長熙は南部利直に預けられた。後継の長熙が継潤の実子なのか養子なのかについても、諸説あって定まらない。
宮部継潤像を確度で整理する
宮部継潤の人物像は、「山法師から大名へ」「僧形の異色の将」というドラマで語られがちである。立身の鮮やかさはそのままに、史実の層は冷静に分けて読みたい。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 生年 享禄元年(1528)説 | 後世の推定・一説 | 低 |
| 没年 慶長4年(1599)3月25日 | 諸資料の通説 | 中〜高 |
| 出自 近江国浅井郡宮部 | 人名辞典・郷土資料 | 中〜高 |
| 父を土肥真舜とする伝 | 系譜上の伝承 | 低 |
| もと比叡山系の山法師 | 諸資料に共通 | 中〜高 |
| 僧名「善浄坊/善祥坊/善祥房」 | 史料系統で表記が揺れる | 中 |
| 「継潤」が確たる法号か | 僧名・法名の一つで断定不可 | 中 |
| 浅井長政に仕えた元山法師 | 諸資料の通説 | 中〜高 |
| 元亀年間に秀吉の調略で織田方へ | 年次は元亀2年説・3年説で幅 | 中 |
| 中国攻めに古参として従軍 | 諸資料の通説 | 中〜高 |
| 天正9年(1581)落城後まず城代として入城 | 鳥取県史・鳥取市資料 | 中〜高 |
| 正式な5万石城主は天正17年(1589) | 鳥取県史・知行宛行 | 中〜高 |
| 「1581年に正式5万石城主」 | 城代と正式知行の混同・誤り | 低 |
| 文禄期8.1万石・相続時13万石余 | 別説として慎重に扱う | 低〜中 |
| 城郭強化・城下整備 | 城郭研究・郷土資料 | 中 |
| 渇え殺しの城将は吉川経家 | 諸資料の通説 | 高 |
| 継潤は雁金山城攻略などに関与 | 包囲の一翼・主担当とは書かない | 中 |
| 「渇え殺し」は後世の呼称 | 同時代の固有呼称ではない | 中 |
| 領内を取りしきったのは長熙(継潤は不在多し) | 郷土資料の伝 | 中 |
| 九州征伐(1587)高城方面で功 | 諸資料の通説 | 中 |
| 小田原征伐(1590)従軍 | 諸資料の通説 | 中 |
| 文禄の役の渡海は長熙・継潤は後方 | 渡海主体は養子の長熙 | 中〜高 |
| 「継潤本人が渡海」 | 誤り(後方・政務側) | 低 |
| 文禄2年(1593)豊後検地奉行 | 大友義統改易後の実務 | 中〜高 |
| 伏見城普請への関与 | 豊臣政権の実務役 | 中 |
| 「中務卿法印」「宮部法印」を称す | 秀吉朱印状系 | 中〜高 |
| 法印叙任の年月 | 根拠未確認・「称した」にとどめる | 低 |
| 豊臣秀次を一時養子にした伝承 | 伝承として扱う | 低 |
| 室・松寿院(垣屋豊続の従妹) | 垣屋系図・藤堂家譜 | 中 |
| 松寿院が継潤死後に藤堂高虎へ再嫁 | 藤堂家譜系 | 中 |
| 宮部木工(松寿院の弟)が養子で善祥坊名跡 | 郷土資料の伝 | 低〜中 |
| 後継・長熙が実子か養子か | 諸説あり定まらない | 中 |
| 宮部家改易は慶長5年(1600)関ヶ原後 | 継潤没の翌年・長熙の代 | 中〜高 |
| 改易を継潤本人の処分とする | 誤り(継潤は前年に没) | 低 |
| 長熙が東軍から西軍へ転じ伏見・大津攻めに関与 | 去就に諸説(失策説も) | 中 |
| 長熙は南部利直へ預け(南部配流) | 諸資料の通説 | 中〜高 |
| 家紋(丸に菱橘・五七桐) | 一次典拠で未確定・郷土本に見える程度 | 低 |
こうして並べると、宮部継潤という人物の輪郭が、より落ち着いて見えてくる。山法師から因幡4郡5万石の主へとのし上がり、検地や普請という実務で豊臣政権を支えた——その立身の鮮やかさと実務派としての確かさは、史料の段階差を分けて読んでもなお、揺るがない。 僧名はどれが原か、城主になったのはいつか、渡海したのは誰か、改易されたのは継潤本人か——後世が継潤に重ねてきた語りや混同の層を一つひとつ剝がしていくと、僧形のまま大名となり、一代で家を興しては失った、等身大の実務派の将が立ち上がってくる。
参戦合戦
宮部継潤|僧形のまま大名となった秀吉古参の逸話
- 01
善浄坊か善祥坊か

宮部継潤の僧名は、史料によって表記がばらつく。『信長公記』の系統では「善祥坊」、古文書の系統では「善浄坊」、そして人名辞典の系統では「善祥房」と記される。読みはほぼ共通でも、「祥/浄」「坊/房」の字が一定しないのである。これは、彼が同時代に複数の経路で記録されたことの、かえって確かな証でもある。
なぜこれほど揺れるのか。継潤がもとは比叡山の流れを汲む山法師であり、僧名のまま武の世界へ出たため、僧籍の記録と武家の記録の双方に名が残ったことが一因だろう。所属した寺院も確定しにくく、僧としての来歴は霞んでいる。表記の揺れそのものが、僧形の将という彼の異色さを物語っている。
生涯を通じて剃髪・法衣を保ったと細部まで断定するのは難しい。確かなのは、彼が僧号を称し、のちに法印の格式を帯びた、戦国でも稀な「僧形の将」であったということである。本記事が「善浄坊(善祥坊・善祥房とも)」とまず注記したのは、この表記の地層を尊重するためである。
- 02
室・松寿院と藤堂高虎

継潤の室は松寿院(松樹院とも)といい、永禄8年(1565年)の生まれと伝わる。彼女は、但馬の水軍を率いて継潤の与力を務めた垣屋豊続の従妹にあたる。継潤の妻が垣屋一族から迎えられていたことは、彼が因幡・但馬の在地勢力と縁を結んで根を張っていたことを示している。
興味深いのは、その後の松寿院の歩みである。継潤が没した慶長4年(1599年)ののち、彼女は藤堂高虎のもとへ再嫁したと伝わる。戦国から江戸初期にかけて、家と家を縁でつなぎ直す再縁は珍しいことではなかった。この縁は、垣屋系の系図や藤堂家の家譜のなかに残されている。
松寿院の弟・宮部木工は継潤の養子となり、善祥坊の名跡を継いだとも伝わる。妻の出自、与力との縁、養子による名跡の継承——宮部家は、武力だけでなく、こうした縁の網のうえに立っていた。松寿院という一人の女性の歩みを追うと、継潤の築いた家の輪郭が、より立体的に見えてくる。
- 03
宮部家の改易

宮部継潤の名が、後世それほど大きく語られてこなかった理由のひとつは、その家が一代で消えてしまったことにある。継潤は慶長4年(1599年)に没し、その翌年の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いののちに宮部家は改易された。改易を受けたのは、継潤本人ではなく、後継の長熙である。ここは丁寧に分けて読みたい。
長熙の去就には諸説がある。当初は東軍方とされながら、やがて西軍へと転じ、伏見城や大津城の攻めに加わった。これを失策とする見方もあれば、最初から西軍寄りだったとする見方もあり、定まらない。いずれにせよ、西軍の敗北とともに所領は没収され、長熙は南部利直に預けられた。
こうして、山法師から一国の主へとのし上がった継潤の家は、わずか一代で大名の座を失った。家が早く絶えたことで、継潤の業績を伝える一次史料は散逸し、その実像は長く霞んだままになった。「僧形の実務派」という珍しい立身が、なお十分に知られていないのは、この改易と無縁ではないのである。
関連人物
所縁の地
- 鳥取城跡鳥取県鳥取市東町
宮部継潤が城代を経て因幡4郡5万石の主となった居城の跡である。継潤の時代に、土造りの中世城郭の城郭が強化され、城下の整備も進められたと伝わる。なお、石垣をそなえた本格的な織豊系城郭への大改修は、後の池田氏の時代に大きく進んだとみられる。久松山の険しい地形を生かした山城で、後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれる兵糧攻めの舞台ともなった。僧形の将が一国の差配を担った、その営みの跡をいまに伝える因幡随一の史跡である。
- 太閤ヶ平鳥取県鳥取市百谷ほか
天正9年(1581年)の鳥取城攻めで、羽柴秀吉が本陣を構えた陣城群の跡である。鳥取城を見おろす尾根筋に、土塁や堀切をそなえた大規模な付城が築かれ、城への兵糧の道を断つ包囲網の中枢となった。後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれる過酷な兵糧攻めを、地形のうえから読み解くことのできる貴重な遺構である。継潤が一翼を担った包囲戦の構えが、いまも山中に静かに残されている。
- 宮部城跡滋賀県長浜市宮部町
宮部継潤の発祥の地であり、その名の由来ともなった近江国浅井郡宮部の城跡である。織田方の虎御前山の陣と浅井方の横山城とを結ぶ線上にあり、北近江の戦略上の要衝として機能した。山法師であった継潤が、この地を押さえる立場から戦国の表舞台へと踏み出していった、立身の起点といえる場所である。一人の僧将がのし上がっていく物語の、まさに出発点となった土地である。
- 雁金山城跡鳥取県鳥取市湯所町一丁目ほか
天正9年(1581年)の鳥取城攻めの際に争われた、鳥取城をめぐる支城のひとつである。継潤がその攻略に関与したと伝わり、包囲網のなかで重要な役割を果たした拠点とされる。鳥取城と毛利方の補給路とを結ぶ要所に位置し、ここを押さえることが城内を飢えへ追い込む包囲戦の鍵を握っていた。継潤が一翼を担った中国攻めの実相を、地形のうえからしのぶことのできる遺構である。






