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安土桃山宮部家1599
宮部継潤|僧形のまま大名となった秀吉古参の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
近江因幡鳥取城
みやべ けいじゅん

宮部継潤|僧形のまま大名となった秀吉古参

MIYABE KEIJUN · — 1599
宮部
生年
不詳
一説に享禄元年(1528)
没年
慶長4年
1599・3月25日
出身
近江国
浅井郡宮部
居城
鳥取城
因幡

宮部継潤

宮部継潤は、比叡山の流れを汲む一介の山法師から身を起こし、ついには因幡4郡5万石の主・鳥取城主へとのし上がった、戦国でも類を見ない異色の経歴を持つ武将である。

その名は、華々しい槍働きで残ったのではない。剃髪・法衣の僧形のまま大名となり、検地や普請といった政権の実務までこなした——その地味だが確かな働きと、山法師から大名へという立身の鮮やかさに、継潤の生涯の凄みがある。

継潤は、近江国浅井郡宮部、いまの滋賀県長浜市宮部町のあたりの出身である。僧名は史料によって「善浄坊」「善祥坊」「善祥房」と揺れる。生年ははっきりせず、一説に享禄元年(1528年)とされるが定かではない。もとは天台系の山法師であった彼は、まず浅井長政に仕える元山法師として、北近江の戦乱に立っていた。

転機は、元亀年間に訪れる。対浅井戦のさなか、彼は羽柴(木下)秀吉の調略に応じて織田方へ転じた。要衝・宮部郷を押さえる僧将を引き込むことは、秀吉にとって大きな手であった。この一度の選択が、継潤を秀吉古参の臣へと押し上げ、長い立身の道を開くことになる。

織田方に転じた継潤は、秀吉の中国攻めに従い、天正9年(1581年)の鳥取城攻めで武功を重ねた。城将・吉川経家が籠もる鳥取城を、秀吉は付城群と兵糧の買い占めで飢えへ追い込んでいく。後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれるこの包囲戦で、継潤は雁金山城の攻略などに関与したと伝わる。落城ののち、彼はまず城代として鳥取城に入った

そして、城代から正式な城主への道のりは長かった。名実ともに鳥取城主となり、因幡4郡およそ5万石を与えられたのは、落城から八年を経た天正17年(1589年)のことである。継潤は鳥取城の城郭を強化し、城下の整備を進めた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐天正18年(1590年)の小田原征伐に従い、文禄2年(1593年)には豊後の検地奉行を、伏見城の普請をも担った。秀吉の朱印状は彼を「中務卿法印」「宮部法印」と記す。

慶長4年(1599年)3月25日、継潤は世を去る。家を継いだ宮部長熙は、翌年の関ヶ原の戦いののちに西軍方として所領を失い、宮部家は一代で大名の座を退いた。

だから、「秀吉古参の一武将」という一枚の絵だけでは、宮部継潤を語り切れない。継潤の真価は、僧形のまま大名となり、検地や普請という実務で豊臣政権を支えた、その異色の立ち位置にある。 僧名はどれが正しいのか。鳥取城主になったのはいつなのか。朝鮮へ渡ったのは誰なのか。改易されたのは継潤自身なのか——この先の「読み解き」で、ひとつずつ史料の層を分けて確かめていく。

01山法師MONK

近江宮部の山法師

近江宮部の山法師・善浄坊
近江宮部の山法師・善浄坊

宮部継潤は、近江国浅井郡宮部——いまの滋賀県長浜市宮部町のあたり——に生まれた。生年は確かな記録に乏しく、一説に享禄元年(1528年)とされるが、これも後世の推定の域を出ない。父を土肥真舜とする伝えもあるが、出自の細部は今もはっきりしない。確かなのは、彼がもともと比叡山の流れを汲む山法師、すなわち天台系の僧であったということである。

僧としての名は、史料によって表記が揺れる。『信長公記』の系統では「善祥坊」、文書の系統では「善浄坊」、人名辞典の系統では「善祥房」と記される。本記事では、最も広く通じる「善浄坊(善祥坊・善祥房とも)」を初出とし、以下では便宜上「継潤」と呼ぶ。ただし、この「継潤」という名も、確かな法号と断定できるわけではなく、僧名・法名のひとつとして伝わっているにすぎない。

では、なぜ一人の山法師が、やがて戦国の表舞台へと躍り出ることになったのか。鍵は、彼が拠った土地そのものにあった。宮部郷は、北近江の支配をめぐる浅井と織田の争いのなかで、戦略上の要衝として浮かび上がっていく場所だったのである。剃髪の身でありながら武の世界へ踏み出していく——その異色の出発点が、ここにある。

法衣をまとった僧が、寺の静けさを離れて戦国の野へ出る。それは、信仰と武力が分かちがたく結びついていた時代だからこそ、ありえた転身であった。山法師・善浄坊は、まず近江の地縁のなかで、浅井氏という主君を見いだすことになる。

秀吉朱印状などに見える継潤の呼称(叙任の年月の根拠は未確認)

「中務卿法印」「宮部法印」

—— 秀吉発給文書系
02調略DEFECTION

秀吉の調略と転身

秀吉の調略に応じ織田方へ転じる継潤
秀吉の調略に応じ織田方へ転じる継潤

山法師から身を起こした継潤は、まず浅井長政に仕える元山法師として、北近江の戦乱のただなかに立っていた。彼の拠った宮部郷・宮部城は、織田方が築いた虎御前山の陣と、浅井方の横山城とを結ぶ線上にあり、まさに両軍がせめぎ合う最前線であった。横山城そのものの城主だったというより、この一帯を押さえる要の地に根を張っていた、と読むのが正確である。

この立地が、継潤の運命を大きく動かす。元亀年間——元亀2年(1571年)説と元亀3年(1572年)説があり、年次は一点に絞りきれない——対浅井戦が激しさを増すなかで、彼は羽柴(当時は木下)秀吉の調略に応じ、織田方へ転じた。要衝を押さえる僧将を味方に引き込むことは、北近江の戦況を有利に運ぶうえで、秀吉にとって大きな手であった。

なぜ継潤は寝返ったのか。同時代の記録は、その内心まで語ってはくれない。だが、浅井氏の劣勢が見えはじめた局面で、要地を握る者として去就を迫られたことは想像に難くない。剃髪の身でありながら、彼は信仰でも血筋でもなく、戦国の現実の力学に従って身の振り方を選んだのである。

こうして継潤は、秀吉という新興の将のもとに身を寄せた。この一度の選択が、のちに彼を因幡4郡5万石の主へと押し上げていく、長い道の始まりとなる。山法師は、いまや織田方の一武将として、新しい主君の戦に従っていくことになった。

天正9年(1581)城代 → 天正17年(1589)正式知行宛行という二段の経過

城代として鳥取城に入り、八年を経て因幡4郡5万石の主となる

—— 新鳥取県史・鳥取市資料系
03中国CAMPAIGN

中国攻めの僧将

鳥取城を包囲する秀吉軍と継潤
鳥取城を包囲する秀吉軍と継潤

織田方に転じた継潤は、秀吉の古参の臣として、その中国攻めに従っていく。播磨から但馬、そして因幡へと、毛利氏の勢力圏へ食い込んでいく長い戦いのなかで、僧形の将は着実に武功を重ねていった。彼が黒田官兵衛蜂須賀小六といった秀吉子飼いの面々と肩を並べていたのも、この時期である。

その戦いの山場が、天正9年(1581年)の鳥取城攻めであった。城には毛利方から吉川経家が城将として送り込まれ、籠城戦の構えを取っていた。秀吉はこれに対し、力攻めを避けて兵糧の道を断つ作戦に出る。城の周囲に付城を築き、兵糧そのものを買い占めて城内を飢えへと追い込んでいく——後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれることになる、過酷な兵糧攻めである。

継潤はこの包囲戦のなかで、雁金山城の攻略などに関与したと伝わる。ただし、彼が包囲網全体の主担当だったと書くのは行き過ぎで、あくまで作戦の一翼を担った将として位置づけるのが妥当である。「渇え殺し」という凄惨な呼称自体も、後世に定着した言い方であり、本記事ではそこに一定の距離を置く。

鳥取城は、長い飢えの末についに落ちた。城将・吉川経家は、城兵の命と引き換えに自刃する。この落城こそが、山法師・継潤を因幡の地と固く結びつける転機となった。秀吉は、戦いの直後、この要地の差配を継潤に委ねていくのである。

04因幡INABA

鳥取城代から因幡の主へ

織豊系城郭へ改築される鳥取城と継潤
織豊系城郭へ改築される鳥取城と継潤

天正9年(1581年)の鳥取城落城ののち、継潤はまず**「城代」として鳥取城に入った**。これは、城を任されはしたものの、正式な領主としての地位をまだ得てはいない、いわば管理役の段階である。ここを取り違えてはならない。彼が名実ともに鳥取城主となったのは、天正17年(1589年)のことであった。落城から、実に八年もの歳月が流れている。

この年、継潤は正式な知行宛行を受け、因幡4郡におよそ5万石を与えられた。石高は5万0970石とも伝わる。「1581年の落城と同時に5万石の城主になった」と書くのは誤りで、城代の時期と正式な大名化の時期は、はっきり分けて読む必要がある。なお、文禄期には8.1万石、後継の長熙が相続したころには13万石余とする記述もあるが、これらは本記事では慎重に別説として扱う。

因幡の主となった継潤は、領国の経営に手を入れていく。鳥取城は、それまでの土造りの中世城郭から、城郭を強化し、城下の整備を進める手が加えられたと伝わる。なお、石垣をそなえた本格的な織豊系城郭への大改修は、後の池田氏の時代に大きく進んだとみるのが妥当である。ただし、継潤自身は秀吉に従って各地を転戦し、領国を留守にすることも多かった。実際に領内を取りしきったのは、後継の長熙であったと伝わる。

因幡の支配は、継潤一人の力で成ったものではない。亀井茲矩や垣屋豊続といった周辺の大名・与力との配置のなかで、はじめて成り立っていた。僧形の将は、いまや一国の差配を担う「因幡の主」として、新しい時代の領主像を体現していくのである。

05実務ADMINISTRATOR

天下普請と実務官僚

豊後の検地奉行を務める継潤
豊後の検地奉行を務める継潤

因幡の主となった継潤の働きは、戦場だけにとどまらなかった。むしろ彼の真価は、豊臣政権を支える実務官僚としての顔にあったと言ってよい。秀吉の天下統一が進むなかで、継潤は各地の戦と政務に、古参の臣として動員されていく。

まず戦の側では、天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し、高城方面で功を挙げたと伝わる。続く天正18年(1590年)の小田原征伐にも従った。秀吉が全国を平らげていく節目の戦いに、継潤は古参として顔を並べている。

だが、より注目すべきは政務の側である。文禄2年(1593年)、大友義統が改易されたのち、継潤は豊後の検地奉行を務めた。検地は、土地と石高を測り直して支配の基礎を作る、政権にとって極めて重い仕事である。さらに伏見城の普請にも関わるなど、彼は豊臣政権の実務を担う官僚として働いた。剃髪の僧でありながら、検地や普請といった行政の実務をこなす——これは、戦国の武将像のなかでも稀な、際立った特徴である。

「僧形の実務官僚」——この一語こそ、宮部継潤という人物の輪郭を最もよく言い当てる。槍や采配だけでなく、算用と差配で政権を支えた古参の臣。その地味だが確かな働きが、彼を秀吉のもとで長く重んじられる存在にしていたのである。

06法印HOIN

中務卿法印という座

中務卿法印を称する継潤と与力たち
中務卿法印を称する継潤と与力たち

豊臣政権のなかで重きをなした継潤には、僧としての高い格式を示す呼称が与えられていた。秀吉の朱印状などには、「中務卿法印」あるいは「宮部法印」と記されている。法印とは、もともと僧位の最高位を指す称号である。剃髪の身のまま大名となった継潤にとって、この称号は、武と僧の両面を併せ持つ彼の立場を象徴していた。

ただし、いつ正式に法印に叙されたのか、その年月の根拠ははっきりしない。だから本記事では、「法印に叙された」と断定するより、「中務卿法印を称した」と書くにとどめる。称号の重みは確かだが、その由来の細部までは史料が支えてくれないのである。

継潤の周辺には、興味深い人脈の網が広がっていた。彼の室は松寿院(松樹院、永禄8年・1565年生)といい、垣屋豊続の従妹にあたる。垣屋豊続は但馬の水軍を率い、継潤の与力として働いた。また、松寿院の弟である宮部木工は継潤の養子となり、善祥坊の名跡を継いだと伝わる。さらに、後の関白・豊臣秀次を一時養子にしたという伝承も残るが、これはあくまで伝承として扱うべき話である。

亀井茲矩や垣屋豊続といった与力大名との結びつき、そして婚姻と養子による縁の網——継潤は、こうした人脈のなかで因幡に根を張っていた。 僧形の将が築いたのは、武力だけでなく、縁と格式に支えられた一個の「家」だったのである。
07最期LEGACY

継潤の最期と宮部家のゆくえ

因幡を望む晩年の継潤
因幡を望む晩年の継潤

慶長4年(1599年)3月25日、宮部継潤はその生涯を閉じた。秀吉が前年に没したあと、天下の行方が大きく揺れはじめる、まさにその直前のことであった。山法師から因幡4郡5万石の主へとのし上がった異色の生涯は、こうして静かに幕を下ろす。

だが、宮部家の物語は、継潤の死で終わらなかった。家を継いだのは宮部長熙(ながひろ、長煕とも)である。彼が継潤の実子なのか養子なのかについては、諸説あって定まらない。宮部家が改易されたのは、継潤の死の翌年、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののちのことであった。ここを混同してはならない。改易は、継潤本人への処分ではなく、後継の長熙の代に起きた出来事である。

長熙は、当初は東軍方に身を置いたとされる。だが、その後西軍へと転じ、伏見城や大津城の攻めに関与した。これを当初から東軍として動こうとしたが失策だったとする見方もあり、その去就には諸説がある。いずれにせよ、西軍の敗北とともに宮部家は所領を没収され、長熙は南部利直に預けられた——いわゆる南部への配流である。

宮部家を支えた人々も、それぞれの道を歩んだ。継潤の室・松寿院は、夫の死後、慶長4年のうちに藤堂高虎のもとへ再嫁したと伝わる。戦国の世では、こうした再縁も家と縁をつなぐ営みであった。山法師から大名へ、そして一代で消えた家——宮部継潤の生涯は、立身の鮮やかさと、その家の儚さとを、ともに後世へ残したのである。