まえだ・げんい
前田玄以京都を治めた五奉行と関ヶ原の選択

- 生年
- 天文8年1539年・美濃出身
- 没年
- 慶長7年1602年・数え64歳
- 所領
- 丹波亀山五万石
- 役職
- 五奉行京都の行政・朝廷と寺社への対応
前田玄以は、豊臣政権の五奉行の一人として、京都の行政や朝廷・寺社との交渉を担った人物である。 丹波亀山五万石の領主でもあり、町の定書、検地帳、宮家の領地に関する判物などから、その仕事をたどることができる。
関ヶ原の戦いでは西軍側に属し、家康を弾劾する三奉行の書状に連署した。 それでも戦後には領地を保った。 この一見食い違う経歴を理解するには、戦場での行動、政権内の立場、戦後の処分を分けて考える必要がある。
織田家に仕えた時期は本能寺の変と、その後の後継問題につながる。 晩年の選択は関ヶ原の戦いの政治過程につながる。 その間にある京都の日々の政務こそ、玄以の生涯の大きな部分を占めていた。
美濃から織田信忠のもとへ

豊臣政権の五奉行に数えられる前田玄以は、僧侶として歩み始めたと伝わる人物である。 生まれは天文八年(一五三九)の美濃。 のちに徳善院、半夢斎とも呼ばれ、民部卿法印の名でも知られた。
若年期については、比叡山に入った、尾張の小松寺で住職を務めた、という経歴が伝えられている。 その後、玄以は織田信長の嫡男・信忠に仕えた。 寺の世界にいた人物が、織田家の後継者を支える家臣へと進んだのである。 ただし、いつ、誰の紹介で信忠のもとへ入ったのかを、ここで確かな年表にすることはできない。
玄以の仕事として後年の史料に残るのは、朝廷や寺社との交渉、土地に関する命令、町の規則の制定である。 戦場での一番槍よりも、相手の申し分を聞き、支配者の決定を文書にして届ける場面に、その名は現れる。 僧侶としての経験がこうした役目にどう結びついたかは、経歴だけから言い切れない。 それでも、信忠への奉公が、玄以を天下の政治へつなぐ入口になった。
信忠に仕えた時期の玄以を、後年の五奉行という地位から逆算して見ると、その前半生まで整然として見えてしまう。 実際には、まだ分からない部分が多い。 その玄以の人生を大きく変えたのが、天正十年(一五八二)の本能寺の変だった。
三法師を守ったと伝わる家臣

本能寺の変で信長が倒れ、信忠も二条の御所で命を落とした。 主君を失った玄以について、その後の伝記が伝えるのは、幼い三法師を保護したという働きである。 三法師は信忠の子で、のちの織田秀信にあたる。
伝記には玄以が岐阜へ逃れ、三法師を清洲へ移したとする説明がある。 この幼児は、織田家の後継をめぐる政治の中心に置かれていく。 玄以の役目は、合戦で敵を破ることではなかった。 主君の子を保護することが、織田家の存続に関わる働きとなったのである。
一方、この話を、京都の炎の中から玄以が三法師を抱えて脱出した場面に置き換えてはならない。 岐阜から清洲へ移したという伝承と、信忠が京都で最期を迎えた出来事は、場所を分けて読む必要がある。 玄以がいつ、どの道を通り、誰とともに動いたのかまで、詳しい逃避行が確定しているわけではない。
その後、玄以は信長の次男・織田信雄に仕えた。 さらに豊臣秀吉のもとで、京都の政務を担っていく。 主君は変わったが、織田家の危機をくぐった玄以の仕事は、京都とその周辺で続いた。
三法師を保護したと伝えられる家臣が、今度は朝廷や寺社に向き合う奉行になる。 玄以の生涯は、織田から豊臣への政権交代を、仕える側からたどる道筋でもある。
朝廷と寺社が玄以を訪ねた理由

京都には、武家の命令を待つだけではない人々がいた。 朝廷、公家、寺社は、それぞれの由緒や所領を持ち、支配者に認めさせたい要求を抱えていた。 その申し出を受け、秀吉との間を取り次ぐ役目を担った一人が玄以だった。
天正十一年(一五八三)、玄以は京都の政務を担当する立場に入った。 賀茂社の社家に関わる日記や書状を検討した研究では、同年五月の就任が示されている。 残された書状からは、社家側が玄以を通じて秀吉へ働きかけようとする様子も読み取れる。 相手にとって玄以は、要望を政権へ届けるための重要な窓口だった。
こうした仕事は、一通の命令を出せば終わるものではない。 寺社の権利や慣行をめぐって訴えが出れば、関係者の言い分を整理し、裁定につなげる必要があった。 朝廷への対応と市中の行政も、同じ手続きで片づくわけではない。 玄以の役割を京都奉行、京都所司代という名称だけで捉えると、その仕事の幅が見えにくくなる。
玄以の下では、奉行人の松田政行らも京都の行政にあたった。 京都市歴史資料館が紹介する大中院文書には、その実務に関わる文書が伝わる。 玄以一人が都のすべてを処理したのではなく、奉行人たちの働きを通じて命令や調整が行われていた。
秀吉の政権で玄以が占めた位置は、華々しい戦功だけでは測れない。 京都の人々と政権をつなぐ仕事を担い、その積み重ねの先に、五奉行の一人として知られる地位があった。
向日町に家を建てさせる定書

天正二十年(一五九二)八月、玄以は向日前新町に宛てて定書を出した。 舞台は京都の西南、西国街道が通る向日神社の門前である。 そこに新たな町を形づくるため、誰を住まわせ、土地をどう扱うかを定めた文書だった。
定書では、道の西側にある神社領を従来どおりとした。 一方、三町の区間には、村方の役を負担する者を居住させないと定めている。 町の区画を設けるだけでなく、周辺の村とどのように区別するかも決めようとしていたのである。
もう一つ、目を引くのが家を建てる条件である。 屋敷地を割り当てられても建築しない場合、先に家を建てる者にその土地の権利を認める。 土地を受け取ることと、実際に家を建てて町を動かすことは、同じではなかった。 玄以の定書は、土地が空いたままになる事態にも手を打っていた。
向日町は、のちに周辺地域の商業や文化の中心となっていく。 ただし、後年の発展をすべて玄以一人の功績とすることはできない。 この文書から直接分かるのは、町づくりに必要な条件を玄以が具体的に命じたことである。
土地の境界、住民の負担、家の建築。 京都周辺の統治は、こうした生活に近い決め事によっても進んだ。 五奉行という肩書の下に、街道沿いの一軒一軒をどう成立させるかという仕事があった。
京都で働く城主と丹波の家臣たち

京都の政務を担う玄以は、丹波亀山五万石の領主でもあった。 亀岡市文化資料館は、小早川秀俊が丹波を離れたのち、文禄四年(一五九五)に玄以が亀山へ封じられたと説明する。 入封年を天正十三年(一五八五)とする辞典もあり、年次には資料間の違いが残る。
城主になっても、玄以の仕事の中心は京都にあった。 資料館の解説によれば、京都を離れにくい父に代わり、長男の秀以が鍬山神社への寄進を行った。 領主が城に常駐しなくても、家族や家臣を通じて領内の仕事を進める必要があったのである。
その実務を伝える史料が、文禄五年(一五九六)の下矢田の検地帳である。 玄以の家臣・尾池清左衛門が作成した帳簿には、土地の種類や等級、面積、石高、名請人などが記された。 五万石という領主全体の数字を、村や耕地の記録へと下ろす仕事だった。
ただし、玄以が扱った丹波の土地が、すべて自身の領地だったわけではない。 慶長三年(一五九八)には、八条宮智仁親王の知行地となった丹波多紀郡小多田村の百姓に宛て、年貢納入が済んだことを踏まえて他への納入を禁じている。 そこでは、自分の家の領主としてではなく、朝廷に関わる所領を扱う立場の玄以が見える。
同じ丹波でも、家臣を通じて治める亀山の領地と、宮家の権利を扱う仕事は区別される。 京都の奉行と地方の領主という二つの役割が、玄以のもとで重なっていた。
家康への弾劾に名を連ねる

慶長三年(一五九八)に秀吉が死ぬと、豊臣政権の内部で対立が深まった。 玄以も、その外側にいたわけではない。 慶長五年(一六〇〇)七月十七日、増田長盛、長束正家とともに、中川秀成へ宛てた書状に名を連ねた。
三奉行の書状は、徳川家康が誓約や秀吉の定めに背いたと伝え、軍勢を率いて大坂へ来るよう求める内容である。 家康の違反を列挙する別紙、いわゆる「内府ちかひの条々」を送ったことにも触れている。 神戸大学に伝わる中川家文書には、この送り状が残る。
ここでの玄以は、単に成り行きを見守る奉行ではない。 家康を非難し、諸大名に出兵を求める三奉行の一人として、政治的な対抗行動に加わっていた。 この署名によって、玄以が家康への政治的な対抗行動に加わったことは確かめられる。
ただし、書状に連署したことと、関ヶ原の野で軍勢を指揮したことは別である。 玄以は大坂の留守居にあたり、関ヶ原本戦で戦った武将としては扱われない。 大名を動員する政治の場と、実際に軍勢がぶつかる戦場では、役割が異なっていた。
玄以は西軍側に名を置きながら、本戦の勝敗を大坂で迎える立場になった。 秀吉のもとで政務を担った奉行たちが分かれ、築いてきた政治の仕組みそのものが争いの場となっていたのである。
所領を保って迎えた晩年

関ヶ原の戦いは、家康方の勝利に終わった。 家康を弾劾する三奉行に加わった玄以も、戦後処分を受ける側にいた。 ところが、玄以は丹波亀山五万石の所領を安堵された。
同じ西軍側に属しても、戦後の扱いは一律ではなかった。 玄以が家康と内々に通じていたと説明する辞典もある。 ただし、どの時点で、誰を介し、どのような条件を交わしたかまで、この結末から埋めることはできない。 領地が残ったという結果は確かでも、そこへ至る交渉の全容が明らかになったわけではないのである。
玄以の人生を「関ヶ原を巧みに切り抜けた人」の一言で終えると、それ以前の二十年近い仕事が見えなくなる。 織田信忠に仕え、三法師を保護したと伝えられ、京都では朝廷や寺社の要望を取り次いだ。 向日町の家づくりにも、丹波の年貢にも、その命令は届いていた。
慶長七年(一六〇二)、玄以は没した。 天文八年生まれとすれば、数え六十四歳である。 家康が征夷大将軍に任じられる前年であり、玄以自身が江戸幕府の長い統治を見ることはなかった。
玄以の姿は、派手な合戦の場面より、宛先の異なる何通もの文書の中に残る。 寺社、町、村、大名へと向けられたその文書をたどると、天下を治めるために必要だった日々の仕事が見えてくる。
史料の読み解き
玄以の経歴でよく取り上げられるのは、三法師の保護と関ヶ原後の所領安堵である。 どちらも重要だが、その二つだけでは、なぜ玄以が豊臣政権の中枢にいたのかが分かりにくい。 町や村、寺社へ送られた文書を読むと、合戦とは別の場で支配を成り立たせる仕事が見えてくる。
関ヶ原で玄以は「中立」だったのか
玄以が関ヶ原本戦に出陣しなかったことをもって、最初から中立だったとするのは無理がある。 慶長五年七月十七日付の中川秀成宛三奉行連署状には、増田長盛、長束正家とともに玄以の名がある。 家康が誓約や秀吉の定めに背いたとして、大坂への出兵を求める文書である。 政治的な対抗行動への参加は、まずこの同時代の書状によって確認できる。
一方、この書状から、玄以が関ヶ原のどこに陣を敷き、誰の部隊と戦ったかを導くことはできない。 玄以は大坂の留守居にあたったとされる。 家康への政治的な敵対と、関ヶ原での軍勢同士の交戦は区別しなければならない。 東軍の個々の武将が、玄以と直接戦ったことになるわけではない。
ここでは、三つの問いを分けたい。 家康に対抗する政治行動に加わったか。 関ヶ原本戦で指揮を執ったか。 戦後に所領を失ったか。 玄以の場合、それぞれの答えが同じ方向に揃うわけではない。
また、神戸大学に残る中川家文書の当該史料は、家康の罪状を列挙した本文そのものではなく、それを送ったことを知らせる送り状である。 同大学の解題は、十三か条からなる「内府ちかひの条々」に触れつつ、その別紙が中川家には伝わっていないと説明する。 書状と別紙を一つの現存史料として扱わないことも、確認の要点になる。
政治的に西軍側へ参加したことと、領地を残したことは両立する。 その間に何があったかを考えるために、まず両端の事実を混ぜずに置く必要がある。
京都所司代という役職名の内側
玄以を京都所司代と紹介するのは一般的である。 しかし、同じ役職名で呼ばれる人物でも、時期によって担当範囲や朝廷との関係は異なる。 江戸幕府の京都所司代の仕組みを、そのまま玄以の時代へ持ち込むことはできない。
伊藤真昭の博士論文要旨は、織田政権下の村井貞勝と、豊臣政権下の玄以とで、朝廷に対する立場にも違いがあったと指摘する。 また、文禄四年(一五九五)の秀次事件後には、京都の職掌が分かれ、下京を石田三成、上京を増田長盛、朝廷・寺社への対応を玄以が担う形になったと整理している。 玄以が京都に関わる仕事を長くしたとしても、市中のすべてを一貫して独占していたわけではない。
この区別を置くと、玄以の文書の宛先が理解しやすくなる。 宮家の領地、寺社の権利、町の規則は、いずれも京都の統治に関わる。 ただし、対象とする相手も、守るべき権利も、調整すべき問題も違っていた。 玄以がどんな仕事をしたかは、役職名に加え、いつ、誰に、何を命じたかで見る必要がある。
さらに、玄以の下で動く奉行人にも目を向けたい。 京都市歴史資料館による大中院文書の紹介は、玄以の奉行人である松田政行と、京都行政に関する文書の存在を伝える。 命令を出す玄以と、その下で実務にあたる奉行人の両方を追うことで、京都行政の動きが分かる。
玄以の力量を考える際にも、何でも本人が直接片づけたという説明はかえって仕事を小さく見せる。 奉行人が案件を扱い、寺社側が取次を求め、その先に政権の判断がある。 複数の人々を通じて命令が届く仕組みの中に、玄以はいた。
寺社は命令を受けるだけだったか
戦国大名と寺社の関係を、武力で従わせる側と従う側だけに分けると、玄以の仕事は捉えきれない。 寺社は自分たちの権利や内部の秩序を守るため、政権の裁定を求めることもあった。 訴えを受けた奉行は、相手の主張を調べ、既存の慣行との関係を判断しなければならない。
遠藤珠紀による『天正十一年・十二年日次記』の解題は、その周辺の書状から、賀茂社の社家が玄以を通じて秀吉へ働きかける様子を指摘する。 玄以は上から命令を伝えるだけの存在ではなく、下からの申し出が政権へ向かう際の窓口でもあった。 寺社側が誰に取り次いでもらうかを考えていたこと自体が、交渉の余地を示している。
伊藤真昭の『前田玄以発給文書集成(結)』には、祇園の供僧が設けようとした格子をめぐり、社人や神楽衆が訴え出た案件も収録される。 玄以は、自分が見たうえで判断するまで、新しい変更を進めないよう命じた。 ここで問題になっているのは、寺社全体と武家政権との対立というより、寺社の内部にも存在する利害の違いである。
格子の設置という小さく見える問題でも、誰が空間を使い、誰が変更を決められるかという権利に関わる。 奉行の裁定を求める行為は、寺社の自治が単純に消えたことだけを意味しない。 自分たちの主張を通すため、政権の権威を利用しようとする動きとしても読むことができる。
ただし、一件の裁定から、玄以が常に寺社の味方だった、あるいは常に抑圧した、と性格づけるべきではない。 訴えた側、命令された側、命令の内容を一件ずつ確かめる。 その積み重ねによって、奉行と寺社の関係を具体的に捉えられる。
亀山入封の年をどう読むか
玄以の丹波亀山入封については、参照資料の年次が揃わない。 コトバンク所収の辞典には天正十三年(一五八五)とする説明があり、亀岡市文化資料館の「前田秀以寄進状」の解説は文禄四年(一五九五)としている。 十年の差を、表記の違いとして無視することはできない。
同資料館は、秀俊が小早川隆景の養子となったのち、翌年に丹波を離れ、その後に玄以が亀山へ封じられたという経過を示す。 本記事の生涯では、この地域史料に即した説明を紹介し、別の年次があることもその場で示した。 亀山五万石の領主だったという点と、入封の年がいつだったかという点は、分けて扱っている。
こうした違いがあると、両方を成立させるために「一五八五年に一部を得て、一五九五年に正式入封した」と補いたくなる。 だが、その二段階を裏付ける史料がなければ、新しい説明を創作したことになる。 年次の不一致を埋めることより、不一致の所在を明らかにする方が先である。
また、資料館ページには和暦と西暦の対応が一致しない箇所もある。 文禄四年は一五九五年であり、文禄五年は一五九六年にあたる。 展示資料の名称、文書の年紀、解説中の西暦を別々に確かめる必要がある。
一方、文禄五年の下矢田検地帳は、その年に玄以の家臣が領内の実務に携わったことを伝える。 この帳簿があるからといって入封年の問題がすべて解決するわけではないが、支配の具体像を考えるための確かな足場にはなる。
年貢の文書から見える朝廷との関係
宮家に関わる仕事は、儀礼の場だけではない。 小多田村への判物は、同村が八条宮智仁親王の知行地となり、今回の年貢納入が済んだことを前提に、他への納入を禁じた文書である。 宛先が宮家そのものではなく、現地の百姓である点に、奉行の命令が届く範囲が表れている。
慶應義塾図書館の展示図録には、この判物の解説と翻刻が載る。 同じ文書は、伊藤真昭の発給文書集成にも収録される。 二つの刊行物で確認できるのは有用だが、それを独立した二通の史料と数えることはできない。 伝来した一通の文書を、別の場所から照合しているのである。
命令の内容も、言葉を広げすぎずに読む必要がある。 ほかへ納入してはならないとする条項は、今回の納入を終えた百姓に向けられている。 村のすべての負担を永久に免じる約束でも、玄以個人が米を与える善行でもない。 納入の完了を確認し、さらに他へ納めることを禁じる仕事だった。
検地帳と並べると、土地を把握する仕事と、土地からの収入が納められたことを確認する仕事の違いも分かる。 どちらも土地に関わるが、同じ書式でも同じ目的でもない。 玄以の行政を考えるには、文書をすべて「領内の善政」の証拠として一括するより、各文書が何をしようとしたかを読む方が役に立つ。
所領安堵から玄以の本心は分かるか
玄以が関ヶ原後も亀山の所領を保ったことは、日本大百科全書や世界大百科事典などの辞典で確認できる。 辞典には家康との内通を記すものもあり、戦後の処分を説明する手掛かりとなる。 しかし、結果が分かることと、その結果を生んだ交渉がすべて分かることは同じではない。
七月十七日の三奉行連署状を読めば、玄以が家康に対抗する行動へ加わったことは否定できない。 戦後の安堵を読めば、家康方が玄以の領地を没収しなかったことが分かる。 この二点の間を「実は最初から家康の味方だった」という一文でつなぐには、なお別の根拠が要る。
玄以が何を恐れ、誰を信頼し、いつ決断したかという内面は、読者の関心を引く。 だが、本人が語った裏付けのない独白を添えると、政治の説明が創作された性格に置き換わってしまう。 領地を守るための行動だったという推測も、推測として示す必要がある。
京都行政での経験が戦後の扱いに影響したのではないか、と考える余地はある。 ただし、玄以の専門性が知られていたことだけでは、安堵の直接の理由になったと証明できない。 政務の能力、交渉の有無、戦場での行動、戦後の判断は、それぞれ根拠を分けて確かめるべき問題である。
玄以は、合戦に出なかったから政治と無関係だった人物でも、領地が残ったから一貫して家康側だった人物でもない。 同時代の書状が示す立場と、後の処分をともに残して読む。 そこに、関ヶ原を勝者と敗者だけで二分しない見方が生まれる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 玄以は京都の政務や朝廷・寺社への対応を担った | 高 | 向日町の定書、宮家領の判物、日記・書状の研究など、異なる史料群で確認できる |
| 慶長五年七月十七日の三奉行連署状に加わった | 高 | 神戸大学所蔵の中川家文書86号と解題による |
| 家康弾劾の別紙そのものが中川家文書86号に残る | 低 | 当該資料は送り状であり、解題は別紙が伝存しないと説明する |
| 玄以は関ヶ原本戦で部隊を指揮した | 低 | 今回確認した史料に根拠がなく、辞典は大坂の留守居とする |
| 丹波亀山五万石の領主で、関ヶ原後も所領を保った | 高 | 複数の辞典が記す。亀岡市の解説も亀山五万石の領主だったことを確認する |
| 亀山入封は文禄四年(一五九五)だった | 中 | 亀岡市文化資料館の解説によるが、一五八五年とする辞典もある |
| 本能寺の変後に三法師を保護した | 中 | 辞典に記載される伝承。具体的な移動経路や同行者までは確定しない |
| 家康との内通が所領安堵につながった | 中 | 辞典に説明があるが、今回確認した史料では交渉の日時や条件まで復元できない |
| 玄以が向日町の建築や下矢田の測量に自ら立ち会った | 低 | 定書や検地帳の存在から、本人の現地訪問までは確認できない |
前田玄以の逸話
- 逸話 01
家を建てなければ、土地は先に建てる者へ

町づくりの文書と道具を表した想像図・実物の定書ではない · AI生成イメージ 向日前新町への定書には、屋敷地を得ても家を建てない者が出た場合の扱いが書かれている。 先に家を建てる者へ権利を認めるという条件は、土地の割当だけでは町が完成しないことを示す。 建物が立ち、人が暮らして初めて、新町は動き出すからである。
この条項は、玄以の行政を具体的に知る手掛かりになる。 ただし「働かない者を嫌った」「庶民思いだった」といった性格まで、ここから読み取るのは難しい。 文書が伝えるのは、町をつくるために出された条件であって、玄以が心の内を語った言葉ではない。
向日市文化資料館の解説では、向日町はのちに周辺地域の商業・文化の中心になったとされる。 定書の存在と町の発展は、ともに押さえてよい。 その間にどれほどの人々が移り住み、どんな商いを始めたかは、別の記録で確かめるべき事柄である。 一枚の命令を出発点にできても、町の歴史全体をそこへ折り畳むことはできない。
- 逸話 02
検地帳に残るのは、玄以だけの名ではない

田畑の測量を表した想像図・下矢田の現地景観や検地の実景ではない · AI生成イメージ 亀岡市文化資料館に伝わる下矢田の検地帳は、文禄五年(一五九六)の領地支配を伝える。 作成にあたったのは、玄以の家臣・尾池清左衛門だった。 土地の種類、面積、石高、名請人などを記す帳簿は、現地の土地を誰のどの負担につなぐかを整理するものだった。
領主の伝記では「玄以が検地を行った」と短くまとめられがちである。 しかし、帳簿に実務を担う家臣の名が残ることは大切である。 領主の命令と、村々で測量や記録を進める仕事との間には、家臣たちの働きがあった。
この帳簿から、玄以がすべての田畑へ自ら赴いたと想像する必要はない。 逆に、京都にいたから領内の支配に関わらなかった、とするのも早計である。 家臣が現地の仕事を担い、領主の支配を具体的な記録にする。 五万石の大名という肩書の内側を知るには、城主の動向とともに、こうした帳簿にも目を向けたい。
- 逸話 03
皇族の領地にも届いた玄以の判物

文書を受け取る玄以の想像図・判物の発給場面を復元したものではない · AI生成イメージ 慶長三年(一五九八)九月二十八日、玄以は丹波多紀郡小多田村の百姓に宛てて判物を出した。 慶應義塾図書館の展示図録が紹介する文書で、八条宮智仁親王の知行地に関するものである。 同村が八条宮の知行地となり、今回の年貢納入は完了したとして、ほかへ納めてはならないと命じている。
ここで玄以が扱ったのは、宮家が持つ所領からの収入だった。 村の年貢をどこへ納めるのかは、耕作する側にも、所領を持つ側にも重要な問題である。 朝廷との交渉といっても、儀礼や挨拶だけではなかった。 その生活や活動を支える土地の権利にも、奉行の仕事は及んでいた。
この文書を「玄以が村の年貢を免除した」と紹介するのは誤りである。 今回の納入が済んだことを確認して、ほかへの納入を禁じたのであり、将来にわたる年貢免除を定めたものではない。 一通の判物に何が書かれ、何が書かれていないか。 そこを押さえると、京都の政治と丹波の村が、同じ行政の仕事で結ばれていたことが分かる。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 前田玄以(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)コトバンク参照日 2026-09-27
- 前田玄以・増田長盛・長束正家連署状(中川家文書86号)神戸大学附属図書館参照日 2026-09-27
- 前田玄以定書(向日前新町宛)文化遺産オンライン・向日市文化資料館参照日 2026-09-27
- 前田秀以寄進状亀岡市文化資料館参照日 2026-09-27
- 丹州桑田郡矢田庄下矢田御検地帳亀岡市文化資料館参照日 2026-09-27
- ブック紹介 第9回 大中院文書・永運院文書京都市歴史資料館参照日 2026-09-27
- 第29回慶應義塾図書館貴重書展示会図録・前田玄以判物(展示19)慶應義塾図書館参照日 2026-09-27
- 遠藤珠紀「國學院大學図書館所蔵『天正十一年・十二年日次記』(座田文書)の解題と翻刻」國學院大學 校史・学術資産研究 第10号(2018年)参照日 2026-09-27
- 伊藤真昭「近世初頭の所司代に関する研究-寺社との関係を通して-」博士論文要旨大阪大学(1999年)参照日 2026-09-27
- 前田玄以亀岡市参照日 2026-09-27
- 伊藤真昭「前田玄以発給文書集成(結)」西山学苑研究紀要 第18号(2023年)参照日 2026-09-27












