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戦国時代土岐氏・美濃守護家1582
武将列伝戦国時代土岐

とき・よりのり

土岐頼芸家系図・斎藤道三による追放と鷹の絵

TOKI YORINORI
生没年
?–1582
出身
美濃
家
土岐
土岐頼芸の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 指定参照をもとにした想像肖像
  • 美濃
  • 守護
  • 大桑城
生年
文亀年間1501年・1502年の説がある
没年
天正10年1582年・美濃で没したと伝わる
家系
土岐守護家父は土岐政房
本拠
大桑城現在の岐阜県山県市
家紋
桔梗

土岐頼芸の読み方は「とき・よりのり」。戦国時代の美濃守護で、家臣の斎藤道三に領国を追われた人物である。鷹の絵を描いたことでも知られ、天正10年(1582)に美濃で没したと伝わる。

「道三に国を奪われた殿様」と聞けば、弱い主君を思い浮かべるかもしれない。だが、大桑城には庭園があり、頼芸の名で発給された文書も残る。守護家の内紛、道三との協力と対立、追放後の長い時間。その順にたどると、頼芸自身の歴史が見えてくる。

01守護家の争いORIGIN

土岐政房の子、美濃の家督を争う

若い頼芸が美濃の館を歩く想像場面(AI生成イメージ)
若い頼芸が美濃の館を歩く想像場面 · AI生成イメージ

土岐頼芸が生まれたのは、美濃を長く治めてきた守護の家だった。父は土岐政房。だが、名門に生まれたことが、そのまま領国の安定を約束したわけではない。父の子である頼武と頼芸の対立は、家臣や隣国の勢力を巻き込み、次の世代にも続いていった。

守護とは室町幕府のもとで一国の軍事や統治を担う役職である。ところが、美濃では守護を補佐する斎藤氏や、その下にいた長井氏も力を持っていた。家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を争う土岐一族にとって、こうした家臣の支持は欠かせない。頼芸も長井氏の支援を受け、守護家の争いを進んでいく。

兄の頼武に続いて、甥の頼純も頼芸と対立した。土岐一族の誰を支えるかによって、美濃の内外にできる陣営は変わる。頼芸の前半生を、道三と二人だけの物語として読むと、この争いが見えなくなる。守護の座を求める頼芸と、家中で伸びる長井氏は、互いを必要としていた。のちに主君を追う斎藤道三は、その長井氏から登場する。

02道三の台頭ALLIANCE

頼芸を支えた長井氏から斎藤道三が現れる

書状に目を通す頼芸の想像場面(AI生成イメージ)
書状に目を通す頼芸の想像場面 · AI生成イメージ

頼芸を押し上げた勢力の中に、長井長弘と長井新左衛門尉がいた。新左衛門尉は斎藤道三の父である。道三一人が油売りから身を起こし、短期間で美濃を奪ったという有名な筋書きは、父子二代の活動を重ねたものと考えられている。

父の跡を継いだ道三は、長井規秀などの名を経て、斎藤利政を名乗るようになる。頼芸に仕える一方で、家中の地位を高め、稲葉山城とその城下を整えていった。守護を支える立場にあった人物が、自らの拠点と勢力を育てていたのである。

ここで、頼芸がただ肩書を貸していたと決めるのは早い。頼芸の名で出された文書も伝わり、土地の権利に関わる守護の働きを考える手がかりになる。主君の権威と有力家臣の実力は、初めからどちらか一方に集まっていたわけではない。だが、頼芸を支えた道三の成長は、やがて頼芸自身の地位を脅かす。協力していた二人の間に、美濃の主導権をめぐる争いが生まれた。

03守護の城STRONGHOLD

福光・枝広から大桑城へ、拠点を移す

山城と麓の集落を望む頼芸の想像場面(城の復元図ではない)(AI生成イメージ)
山城と麓の集落を望む頼芸の想像場面(城の復元図ではない) · AI生成イメージ

頼芸の活動を地図に置くと、美濃の政治が一つの城だけで動いていなかったことが分かる。福光から枝広へ、さらに大桑へ。守護の拠点は移り、そのたびに家臣や城下との関係も組み直された。

山県市の解説冊子では、天文元年(1532)に福光から枝広へ移り、天文4年(1535)の洪水を経て大桑へ移ったと整理される。大桑城は現在の山県市にある山城だ。山上には建物を置くための平坦地が連なり、麓には城下町が広がっていた。

後年の発掘では、山の上から庭園の池や輸入陶磁器が見つかった。大桑城は、敵を防ぐためだけの場所ではない。守護の暮らしと、人を迎える空間を備えた拠点でもあった。頼芸の政治を、のちの敗北だけから小さく見ることはできない。

一方、道三は稲葉山城を整えていた。同じ美濃に、守護の大桑と有力家臣の稲葉山が並び立つ。この二つの拠点に目を向けると、頼芸から道三への権力の移動は、単なる城主の交代よりも大きな変化として見えてくる。

04美濃追放EXPULSION

大桑城の争いを経て、守護の座を失う

従者と山道を離れる頼芸の想像場面(AI生成イメージ)
従者と山道を離れる頼芸の想像場面 · AI生成イメージ

頼芸を取り巻く争いは大桑城にも及んだ。天文12年(1543)には大きな戦いが起こり、頼純を支える勢力と、道三から距離を置こうとする頼芸の側の力が削られたと考えられている。後世の碑には前年の出来事として刻まれており、年次には注意が必要だ。

それでも、この戦いだけで土岐氏の争いが終わったわけではない。頼純は道三の娘婿となって大桑へ戻ったが、天文16年(1547)に死去する。頼芸、頼純、道三の間には対立だけでなく、和睦によって関係を結び直す時期もあった。

最終的に頼芸は道三に美濃を追われた。同時代文書の検討から天文19年(1550)後半とする研究があり、従来は天文21年(1552)とも説明されてきた。いずれを採るにせよ、頼芸を支えた家臣が、頼芸を領国から退けた。美濃守護家の地位は、この過程で失われていく。

ただし、追放は頼芸の死を意味しない。道三に敗れた人物として記憶される頼芸には、このあとも長い生涯が残っていた。美濃の外で庇護を受けながら、彼は戦国の世を生き続ける。

05他国での日々EXILE

近江に身を寄せ、道三の死後も生きる

他国の寺の軒下で過ごす頼芸の想像場面(AI生成イメージ)
他国の寺の軒下で過ごす頼芸の想像場面 · AI生成イメージ

美濃を去った頼芸は他国の有力者を頼る立場になった。永禄3年(1560)の六角承禎の文書からは、近江の六角氏のもとにいたことが分かる。かつて美濃の守護だった人物が、隣国の保護を受けて暮らしていた。

その間に、美濃の支配者も代わっていた。道三は子の義龍と争い、弘治2年(1556)の長良川の戦いで命を落とす。頼芸を追った道三の方が先に世を去ったのである。さらに義龍の後は龍興が継ぎ、やがて織田信長が美濃の中心を押さえた。

頼芸は奈良や上総などを転々としたとも伝えられる。ただ、各地への移動を、年月まで確かな旅程として並べることは難しい。美濃を失った後の足取りには、同時代の文書で分かる部分と、後世の記録に頼る部分がある。

頼芸が各地で何を考え、復帰をどこまで望んだかは、本人の言葉で確かめられない。それでも、追放後の存在をたどると、領国を奪われることと、家や人のつながりが直ちに消えることは同じでないと分かる。守護の政治は終わっても、頼芸という人物の生涯は続いていた。

06鷹の絵PAINTING

土岐鷹として伝わる、もう一つの名声

鷹を描く頼芸の想像場面(画中の絵も創作)(AI生成イメージ)
鷹を描く頼芸の想像場面(画中の絵も創作) · AI生成イメージ

頼芸の名を今日まで伝えたものは、道三との争いだけではない。鷹を描いた画人としても知られ、その作と伝わる絵は土岐鷹と呼ばれてきた。美濃の守護だった人物の記憶が、美術の世界にも残っている。

山県市の南泉寺には、頼芸筆と伝えられる鷹の絵がある。岐阜県博物館の展示目録でも、作者名に「伝」を付けて紹介されている。長く頼芸の作品として受け継がれた一方、作者を確定した作品と同じようには扱わない。作品と伝承の両方を見ていく必要がある。

鷹の絵が得意だったという話から、政治を放り出して絵ばかり描いていた、という人物像が生まれやすい。だが、絵を描くこと自体は、統治を怠った証拠にはならない。大桑城の遺構や頼芸の文書を見れば、守護の活動は別に検討すべきだと分かる。

美濃を支配する地位は道三へ移った。けれども、頼芸の名は城主の一覧だけに閉じ込められなかった。絵が伝わったことで、戦いに敗れた守護にも文化に関わる顔があったと知ることができる。その作品をどう評価するかは、政治の勝敗とは別の問いなのである。

07帰郷と最期LAST YEARS

天正10年、美濃で生涯を閉じる

晩年の頼芸が窓辺に座る想像場面(AI生成イメージ)
晩年の頼芸が窓辺に座る想像場面 · AI生成イメージ

頼芸が美濃へ戻ったのは、天正10年(1582)のことと伝わる。武田氏が滅びたときに甲斐にいた頼芸が見いだされ、帰国したという。故郷を離れてから、およそ三十年が過ぎていた。

その年、美濃を手に入れた織田信長も本能寺の変で命を落とした。頼芸は、道三とその子孫が美濃の支配者だった時代を生き抜き、信長の死を越えるところまで生きたことになる。長い年月をへだてて戻った故郷は、守護として治めていたころとは大きく違っていた。

頼芸は同年、美濃の岐礼で没したとされる。現在の揖斐川町谷汲岐礼に伝わる最期の地が東春庵で、墓は法雲寺にある。没日は旧暦の十二月四日とする記載があるが、具体的な病名や死に至った事情までは分からない。

美濃守護への復帰を果たした結末ではなかった。それでも、追放されたまま消息を絶った人物でもない。城跡、寺に伝わる絵、そして墓。異なる形で残った手がかりを重ねると、頼芸の生涯は道三の国盗りの一場面を越えて見えてくる。

02
READING

史料の読み解き

頼芸を知る入口は、読み方、家系図、道三、鷹の絵とさまざまだ。ただし、これらを一つの物語にまとめすぎると、確かでない親子関係や動機まで事実に見えてしまう。以下では、関係が分かること、解釈が分かれること、まだ分からないことを分けてたどる。

土岐頼芸の読み方は「よりのり」か「よりなり」か

このページでは、山県市の大桑城跡の解説に合わせて「とき・よりのり」と読む。辞典には「よりなり」もあり、どちらかを単純な誤読として退けるのは適切でない。「頼藝」は「頼芸」の旧字体表記で、別人を示す名前ではない。

生年にも揺れがある。コトバンク所収の『世界大百科事典』は1502年、『日本人名大辞典』は1501年を掲げる。没年を1582年としたときの数え年は、それぞれ81歳と82歳になる。生年の説を示さず、一つの享年だけを確定値として書くことは避けたい。各辞典の記載を比べると、名前の読みも含め、情報の違いを確認できる。

また、「頼芸」と「頼純」は似た文字でも、同一人物ではない。頼芸は政房の子、頼純は頼武の子として整理される。守護家の争いを読むときは、名前だけを追わず、誰の子で、どの世代に属するかを確かめると混乱しにくい。

家系図で分かる頼武・頼純との関係

頼芸の父は土岐政房。兄の頼武、その子の頼純が、家督争いを考えるうえで欠かせない人物である。政房から頼芸へ一本の線だけを引くと、実際に争ったもう一方の系統が消えてしまう。簡略な家系図を、世代ごとの表で補っておこう。

世代頼芸の側対立した系統関係を読む要点
父の世代土岐政房同じ政房につながる頼芸と頼武は兄弟
頼芸の世代土岐頼芸兄・土岐頼武守護家の家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を争う
子の世代頼次ら甥・土岐頼純頼純は頼武の子で、頼芸の子ではない

この関係は、山県市の冊子に掲載された土岐氏関係図でも確認できる。一方、古い辞典や地域の紹介には、兄の名前や家督争いの年次を別の形で記すものがある。複数の説明をそのまま足すと、兄と甥が同じ世代に置かれてしまう。ここでは、父・兄・甥を区別する形で整理した。内堀信雄「土岐頼芸と大桑城」

家系図は、血縁を示す道具として便利だが、それだけでは誰が実権を持ったかは分からない。頼芸の側には長井氏が関わり、頼武・頼純の側には越前の朝倉氏などとのつながりがあった。縦の血縁関係に、横の支援関係を重ねて初めて、守護家の争いが領国内外へ広がった理由を理解できる。

子孫は続いたのか、守護家と旗本の家を分ける

頼芸の子孫は、江戸時代に旗本として続いたとされる。『世界大百科事典』の「土岐氏」は頼芸の子孫の存続を記し、『日本史小辞典』は頼次らの子孫を挙げている。このページの家系欄は、頼次を子の一人として載せた簡略図であり、全子女を網羅した系図ではない。土岐氏の項

ここで区別したいのが、「美濃守護としての土岐氏」と「頼芸から続く家」である。道三による追放で、頼芸は領国を治める地位を失った。だが、それは子孫がすべて絶えたことを意味しない。大名の領国支配が終わることと、血筋や家名が存続することは別に考える必要がある。

さらに、江戸時代に大名となった土岐氏を、すべて頼芸の直系とするのも誤りだ。沼田藩主へつながる土岐定政の系統は、頼芸の子孫として語られる旗本家と区別される。同じ土岐姓であっても、系統と仕えた先を確かめなければならない。

現代の人物については、同姓であることや自称だけで頼芸の子孫と判断できない。間の世代を結ぶ家譜や戸籍などの確認が必要になる。本記事では、確認できた辞典の範囲を越えて、現在の特定個人を子孫として紹介していない。

子孫を具体的にたどる資料として、岐阜県歴史資料館が公開する江戸時代の『土岐家伝大系図』がある。同館の解説では、頼次の子・頼勝は江戸幕府から美濃に500石を与えられた。頼次の嫡流は幕府の儀礼に関わる高家を務めたが、頼泰の代に改易となった。一方、それ以前に領地を分けられた頼泰の弟・頼行の系統は続いたという。土岐家伝大系図の解説

この経過からも、ある家の改易と、一族全体の断絶が同じではないと分かる。なお、同館は頼次を嫡男と説明するが、子の出生順や名には系譜ごとの検討が必要なため、ここでは子の一人として示した。江戸時代に作られた系図は、戦国期と同時代の記録ではない点にも注意したい。

斎藤義龍は頼芸の子なのか

斎藤義龍は、通常、斎藤道三の子として扱われる。頼芸の実子だったという話は知られているが、確定した血縁関係ではない。『日本大百科全書』の義龍の項で、執筆者の谷口研語はこの話を俗説として位置付けている。斎藤義龍の項

物語では、頼芸の子を身ごもった三芳野が道三のもとへ移り、生まれたのが義龍だったと説明される。そこから、義龍が実父・頼芸の恨みを晴らすため道三を討った、という筋書きも作られた。出自と復讐が一つにつながるため、印象に残りやすい話である。

しかし、印象の強さは裏付けの強さではない。義龍の実父を頼芸とする根拠が確定していない以上、そこから義龍の動機を説明することもできない。父子の対立を論じるなら、斎藤家の家督や家中の支持など、確認できる政治的な関係を先に考えるべきだろう。

そのため、本記事の家系図に義龍を頼芸の子として載せていない。同じ理由で、義龍の子である斎藤龍興も、頼芸の孫と断定しない。系図に線を引く行為は、短い説明文より強く関係を印象付ける。留保のある説は、図の外で根拠とともに読む方がよい。

義龍が道三を破った長良川の戦いは1556年の出来事である。頼芸の追放と道三の敗死は別の事件だ。二つを結ぶ物語を知ることと、頼芸が戦いを計画・指揮したと認めることも、同じではない。

なぜ追放されたのか、斎藤道三との関係

頼芸が追放された背景には、土岐守護家の内紛と、長井・斎藤氏の台頭がある。道三は初めから頼芸の外敵だったのではなく、頼芸を支えた側の人物だった。主君を助けて勢力を増した家臣が、やがて主君の地位を奪う。この関係の変化こそが、頼芸と道三を読む中心になる。

岐阜市の歴代城主の解説は、道三の父・長井新左衛門尉から続く台頭を整理している。道三は長井氏の惣領となり、斎藤の名を継いで、稲葉山城と井口の城下を整えた。頼芸一人の性格や失策に原因を求めるよりも、家臣側に拠点と支配の力が蓄積した過程を見る方が、実権の移動を理解しやすい。岐阜城の歴代城主

追放の年はしばしば1552年と紹介される。一方、山県市の冊子は同時代文書を踏まえ、1550年後半説を有力としている。記事や年表を比べたときに二つの年が現れても、直ちに片方を誤記とみなすことはできない。どの史料と研究に基づく説明かを確かめたい。

また、1543年の大桑城での戦いを、そのまま最終追放と同一視するのも避けるべきだ。城での軍事衝突、頼純の帰還と死、頼芸の追放は、段階の異なる出来事である。長い争いを「道三が一度の謀略で主君を追い払った」と縮めると、和睦や勢力の組み替えが抜け落ちてしまう。

頼芸の城は大桑城か、鷺山城か

頼芸の城としてまず押さえたいのは、現在の山県市にある大桑城である。ただし、頼芸は生涯を通じて同じ場所にいたわけではない。福光城や枝広館、追放前後の居所として論じられる鷺山城も、時期を分けて読む必要がある。

城・館現在の地域頼芸との関係
福光城岐阜市枝広へ移る以前の拠点として挙げられる
枝広館岐阜市1532年の移転先とされ、洪水後に大桑へ移ったと整理される
大桑城山県市頼芸ら土岐守護家の拠点。山上の居住・接客空間も調査されている
鷺山城岐阜市大桑城の戦い後に頼芸がいた可能性が論じられるが、居住時期の確定には留保がある
稲葉山城岐阜市道三側の拠点。頼芸の大桑城と混同しない

大桑城では、令和2年度の調査で従来知られていた範囲を超える石垣が確認された。令和3年度には庭園や建物に関わる遺構も見つかっている。守護が山上で暮らし、人を迎える空間としても使った城だと分かってきた。石垣調査・庭園などの発掘調査

大桑城跡は2026年2月17日に国史跡に指定された。城を訪ねる際は、現存する遺構と、発掘後に埋め戻されたものを区別したい。このページの城の画像は想像図であり、建物の配置や外観を再現した学術的な復元図ではない。山県市の国史跡指定のお知らせ

鷹の絵は、頼芸の政治的な評価を変えるか

頼芸は鷹の絵で知られる。けれども、それを理由に「芸術家だから政治ができなかった」と結論付けることはできない。絵の才能と、家臣をまとめて領国を守る力は、別々に確かめなければならないからだ。

岐阜県歴史資料館は、頼芸が河合弥太郎に土地を与えた知行宛行状を公開している。谷家文書3598で、海老名藤三郎の遺領を恩賞として与えたものだ。同館は、頼芸が在地の土豪を家臣として掌握していたことを示す文書と説明する。道三の指示に従うだけの人物だったのか、という問いを考える具体的な材料になる。土岐頼芸知行宛行状

この一通だけで、頼芸が美濃全体を思いどおりに治めていたとは言えない。それでも、土地を与える主君と、恩賞を受ける家臣の関係は読み取れる。頼芸を評価するなら、絵にまつわる評判とともに、こうした政治上の働きも見ておく必要がある。

一方、鷹の絵は作品ごとに作者や伝来を確かめる必要がある。南泉寺の作品について、博物館の展示目録が「伝土岐頼芸筆」と記す点は外せない。「土岐鷹」と呼ばれる絵を見つけても、すべてが確実な本人作だと一括りにはできない。岐阜県博物館の展示目録・資料21

政治の敗者としてだけ見れば、絵は現実逃避の証拠に見えてしまう。逆に画人として持ち上げすぎれば、守護として争いに関わった側面が薄くなる。文書、城跡、美術作品は、それぞれ異なる問いに答える史料だ。頼芸の評価は、一つの逸話ですべてを説明するよりも、それぞれが示す範囲を重ねて考える方が確かになる。

明智光秀とはどのような関係か

明智光秀は、土岐氏につながる明智氏の出身とされる。だが、そこから光秀を頼芸の子孫や近い親族と決めることはできない。土岐一族という大きな系統の話と、頼芸本人から続く系図は区別する必要がある。

光秀の前半生には不明点が多い。谷口研語は、道三への仕官や、長良川の戦いをきっかけに美濃を離れたとする筋書きにも、確かな裏付けがない部分を指摘している。軍記に出てくる話をつなげれば整った生涯になるが、整っていることが史実の保証になるわけではない。光秀の前半生をめぐる検討

同じことは、頼芸と光秀の直接の主従関係にも当てはまる。美濃の武士であり、土岐氏に由来するという説明だけでは、頼芸にいつ、どこで、どのような役目で仕えたかまでは分からない。具体的な仕官の経緯を示す史料がなければ、直接の主従関係は確定できない。

頼芸の没年と本能寺の変は、ともに1582年である。しかし、年が同じというだけで二人の行動が結び付くわけではない。頼芸の帰郷や最期を、光秀の挙兵の動機にまで広げるには、それを支える別の根拠が必要になる。

死因と最期、追放後はどこで亡くなったのか

頼芸は1582年、美濃の岐礼で亡くなったと伝わる。旧暦の十二月四日を没日とする記載がある。岐阜県の文化財解説は病死としているが、具体的な病名や死に至る経過までは示していない。高齢だったことから老衰と決める根拠もなく、詳しい死因は不明とするのが適切だ。岐阜県「土岐頼芸の墓」

現在、墓があるのは岐阜県揖斐川町の法雲寺である。揖斐川町の説明によれば、墓石は高さ約1.4メートルの自然石で、1974年に旧地から移された。したがって、現在の墓所を、そのまま当初から動いていない埋葬位置として見ることもできない。揖斐川町「土岐頼芸の墓」

最期を過ごした場所として紹介されるのは東春庵だ。墓と晩年の居所は役割の違う場所であり、どちらも頼芸をしのぶ土地として伝わっている。訪問先を調べる場合には、この違いを押さえると分かりやすい。岐阜県観光連盟「土岐頼芸の墓・東春庵」

追放された頼芸が、道三に殺されたわけではないことは、ここまでの経過から明らかになる。美濃の支配者としての時間は終わっても、生涯は続いた。頼芸の最期を読む際には、領国を失った時点で人物の歴史まで終わらせないことが大切だ。

確度のまとめ

主張確度根拠・読み筋
頼芸は美濃守護で、父は土岐政房高自治体の研究解説と辞典を照合できる
頼芸は斎藤道三に美濃を追われた高複数の研究・自治体解説で共通する。年次は別に検討する
最終追放は1550年後半中同時代文書の検討に基づく説。1552年とする従来説もある
頼芸の子孫が旗本として続いた高辞典の系譜整理で確認できる。現代の個人の系譜までは示さない
南泉寺の鷹の絵は頼芸筆と伝わる高博物館目録で伝承を確認できる。真筆の確定とは異なる
義龍は頼芸の実子だった低後世の俗説として扱われる。家系図の確定線には用いない
頼芸と光秀に直接の主従関係があった低本記事の確認資料では確定できない
1582年に美濃で没した中辞典・地域の伝承資料が伝える。死因は特定できない
04
EPISODES

土岐頼芸の逸話

  1. 逸話 01

    鷹の絵の「伝」は、何を意味するのか

    鷹を見つめる頼芸の想像図(飼育や写生の史実を示すものではない)(AI生成イメージ)
    鷹を見つめる頼芸の想像図(飼育や写生の史実を示すものではない) · AI生成イメージ

    南泉寺の鷹の絵は、岐阜県博物館の目録で「伝土岐頼芸筆」とされる。「伝」は、作者がその人物であると伝えられてきた、という留保だ。本人の制作が確定した、という意味ではない。

    だからといって、伝来そのものに価値がないわけでもない。どの寺で、誰の作品として受け継がれたかは、頼芸が後世にどう記憶されたかを考える材料になる。絵の筆者を調べることと、絵に託された記憶を調べることは、どちらも歴史の仕事だ。

    また、鷹の絵を描いたという知識から、本人が鷹を飼っていた、毎朝写生した、といった場面まで確定することはできない。このページの人物画も、顔や行動を記録した史料ではなく、記事の題材を表す想像図として見る必要がある。

  2. 逸話 02

    大桑城の山上で見つかった庭園

    山城の庭で客を迎える想像場面(発掘庭園の復元図ではない)(AI生成イメージ)
    山城の庭で客を迎える想像場面(発掘庭園の復元図ではない) · AI生成イメージ

    大桑城の発掘では、庭園の池と考えられる遺構が確認された。山県市が公表した令和3年度の調査成果によると、池底には白い粘土を敷き、その上に黒い丸石を並べていた。山城の内部に、見せることを意識した空間があったのである。

    近くからは中国産の陶磁器なども出土し、客を迎える場だった可能性が指摘される。ただし、その池の前で頼芸が誰と会ったかまでは分からない。発掘で明らかになる建物や道具の使い方と、個々の会見の記録は分けて考えたい。

    庭園の遺構は保存のため埋め戻されている。現地で当時の池がそのまま見えるわけではないが、山の上に文化的な空間を設けた事実は、守護の城の性格を考える具体的な手がかりになる。

  3. 逸話 03

    帰郷を助けた稲葉一鉄という伝承

    晩年の頼芸が茶碗を手にする想像場面(AI生成イメージ)
    晩年の頼芸が茶碗を手にする想像場面 · AI生成イメージ

    頼芸の晩年には、稲葉一鉄が美濃への帰還を助けたという話が伝わる。岐阜県の墓の解説は、一鉄が頼芸を岐礼に迎え、東春庵を設けて住まわせたと紹介する。追放から長い時がたっても、かつての守護と美濃の武将を結ぶ関係が残っていた、と読める逸話だ。

    ただし、頼芸の帰国と、その場で一鉄が何を語ったかは別問題である。二人が涙を流して再会した、旧恩に報いると誓った、といった会話や感情を史実として加えることはできない。伝承を紹介するときにも、確認できる範囲を守る必要がある。

    一鉄は斎藤氏や織田氏の時代を生きた武将だった。頼芸との接点からは、主家が代わっても、人のつながりまで一度に消えるわけではなかったことがうかがえる。頼芸の帰郷を美濃守護の復活とせず、晩年の身の置き場を得た話として読むと、逸話の意味がはっきりする。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 土岐政房
本人土岐頼芸
子
  • 土岐頼次(子の一人)

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 土岐家伝大系図(徳山家文書A-(2)-4)
    岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-26
  2. 土岐頼芸知行宛行状(谷家文書3598)
    岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-26
  3. 土岐頼芸の墓(稲葉一鉄による迎え入れの伝承)
    岐阜県文化伝承課参照日 2026-10-26
  4. 広報かに・明智光秀を知る(桔梗紋)
    可児市参照日 2026-10-26
  5. 大桑城跡が国史跡に指定されました
    山県市参照日 2026-10-26
  6. 大桑城跡の石垣調査成果
    山県市参照日 2026-10-26
  7. 大桑城跡の令和3年度発掘調査成果
    山県市参照日 2026-10-26
  8. 土岐頼芸(世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)
    平凡社・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-10-26
  9. 土岐氏(世界大百科事典・日本史小辞典ほか)
    平凡社・山川出版社ほか/コトバンク参照日 2026-10-26
  10. 斎藤義龍(日本大百科全書・谷口研語)
    小学館/コトバンク参照日 2026-10-26
  11. 岐阜城の歴代城主
    岐阜市参照日 2026-10-26
  12. 谷口研語による明智光秀の前半生・系譜の検討
    PHP研究所・歴史街道参照日 2026-10-26
  13. 土岐頼芸の墓
    揖斐川町参照日 2026-10-26
  14. 土岐頼芸の墓・東春庵
    岐阜県観光連盟参照日 2026-10-26

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-27

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