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戦国時代〜江戸初期毛利氏15531625
毛利輝元|元就の遺志を継いだ男~関ヶ原西軍総大将~の肖像
毛利元就両川体制関ヶ原の戦い
もうり てるもと

毛利輝元|元就の遺志を継いだ男~関ヶ原西軍総大将~

MORI TERUMOTO · 1553 — 1625 · 享年 73

元就の遺志を継いだ毛利三代目当主、関ヶ原西軍総大将に擁立され防長転封で長州藩祖となった男

毛利
生年
天文22年1月22日
1553年2月4日(グレゴリオ暦換算)
没年
寛永2年4月27日
1625年6月2日/享年73(数え)
出身
安芸国吉田
毛利隆元の嫡男・元就の嫡孫
居城
広島城→萩城
1589広島城築城着手/1604萩城築城開始
家紋
一文字三星
ICHIMONJI-MITSUBOSHI
CONTENTS · 七章
  1. 01安芸吉田の世子 — 幸鶴丸の誕生
  2. 02十一歳の家督相続 — 元就と両川の輔佐
  3. 03信長との抗争から秀吉への臣従 — 高松城水攻めと和睦
  4. 04豊臣政権の重鎮 — 広島築城・朝鮮出兵・五大老就任
  5. 05西軍総大将 — 大坂城に拠る輝元と南宮山不戦
  6. 06百二十万石から三十六万石へ — 萩築城と長州藩祖
  7. 07長州毛利の礎 — 寛永2年の死と幕末への影響
01
誕生
BIRTH

安芸吉田の世子 — 幸鶴丸の誕生

安芸吉田の世子・幸鶴丸の誕生
安芸吉田の世子・幸鶴丸の誕生
天文二十二年(1553年)一月二十二日(旧暦)、毛利輝元は安芸国吉田(現・広島県安芸高田市吉田町)の毛利氏本拠・吉田郡山城に、毛利隆元の嫡男として生まれた。幼名は幸鶴丸(こうづるまる)と伝えられる。父・隆元は毛利元就の嫡男で、当時すでに元就から家督を譲られて毛利家当主を務めていた。母は内藤興盛の娘・尾崎局(おざきのつぼね)で、輝元は隆元・尾崎局の長子であった。誕生の時、祖父・元就は五十六歳、毛利家は弘治元年(1555年)の厳島合戦を目前に控え、陶晴賢を破って中国地方の覇権を確立する歴史的転機に立っていた。輝元は元就の嫡孫として、戦国大名・毛利家を継ぐべき世子の地位を生まれながらに約束された幸運の子であった。少年期の動静は史料に乏しいが、祖父・元就の薫陶のもとで毛利家の家風と「家を継ぐ者の覚悟」を学んだ時期であったと考えられる。安芸の世子としての安穏な日々は長くは続かず、運命は突如として輝元に過酷な家督相続を迫ることになる。
関ヶ原開戦前夜、安国寺恵瓊の主導で輝元が大坂城西の丸に入り、西軍盟主の座に就いた

「慶長五年七月、毛利輝元、大坂城西の丸に入る — 五大老の一人、西軍総大将に擁立される」

02
家督
SUCCESSION

十一歳の家督相続 — 元就と両川の輔佐

永禄六年・十一歳の家督相続と両川体制
永禄六年・十一歳の家督相続と両川体制
永禄六年(1563年)八月、毛利家を覆う悲報が走った。父・毛利隆元が出雲遠征から帰陣する途上、安芸佐東郡の和智誠春の館で急死したのである。享年四十一。死因については毒殺説(饗応の魚に毒)も含めて諸説があり、現在も確定されていない。隆元の死により、わずか十一歳(数え)の幸鶴丸が毛利家の家督を継ぐことになった。これがのちの毛利輝元である。永禄八年(1565年)に元服し、室町幕府第十三代将軍・足利義輝から偏諱「輝」の一字を拝領して「輝元」と名乗った。だが十一歳の少年に毛利家を率いる力量はなく、実権は当然ながら祖父・元就が握り続けた。元就の指揮下、輝元の叔父にあたる吉川元春(元就の次男、吉川家を継承)と小早川隆景(元就の三男、小早川家を継承)の両川(りょうせん)が輝元を補佐する体制が確立された。元就が元亀二年(1571年)に七十五歳で世を去った後も、両川は輝元を支え続け、毛利家中の結束は失われなかった。輝元は両川の輔佐を受けながら、戦国大名としての歩みを始めていく。
輝元は西の丸に在城して本戦不出陣、名代の毛利秀元・吉川広家らは吉川広家の内通により毛利勢は不戦に終わる

「九月十五日、関ヶ原本戦 — 西軍総大将は大坂城を動かず、毛利は南宮山で不戦」

03
秀吉との接近
TOWARD HIDEYOSHI

信長との抗争から秀吉への臣従 — 高松城水攻めと和睦

備中高松城水攻めと秀吉との和睦
備中高松城水攻めと秀吉との和睦
元就死後の毛利家は、足利義昭の毛利領庇護をきっかけとして、織田信長との対立を深めていった。元亀四年(1573年)に信長に追放された第十五代将軍・足利義昭は、天正四年(1576年)二月に備後鞆(とも、現・広島県福山市)へ下向し、毛利家は義昭を庇護する形で「鞆幕府」体制を支援した。これにより毛利家と織田家の関係は決定的に悪化し、織田・徳川と反信長勢力が中央政界で連動する構図が生まれた。元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)に及ぶ石山合戦のなかで、毛利水軍は大坂湾を経由して石山本願寺への兵糧搬入を担い、天正四年(1576年)七月の第一次木津川口海戦で織田水軍を破った。だが天正六年(1578年)十一月の第二次木津川口海戦では、九鬼嘉隆率いる織田の鉄甲船に毛利水軍が大敗。同じ天正六年には播磨上月城をめぐる攻防で毛利勢が織田方の尼子残党を破り、城将・尼子勝久は自害、山中鹿介(幸盛)は捕えられて護送中に討たれた。天正十年(1582年)、羽柴秀吉率いる織田軍が備中高松城を水攻めにし、毛利方の城将・清水宗治を包囲した。輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利本陣も後方に布陣したが、現地の指揮は秀吉と小早川隆景の交渉が中心であった。本能寺の変の報が秀吉に届くと和睦交渉が急展開し、清水宗治の切腹で講和が成立する。これが秀吉「中国大返し」の出発点となり、毛利家は信長との抗争を終え、のち秀吉に臣従する道へと進んでいく。天正十六年(1588年)、輝元は上洛して秀吉に正式に臣従し、羽柴姓と豊臣朝臣の称号を賜った。
04
五大老
FIVE ELDERS

豊臣政権の重鎮 — 広島築城・朝鮮出兵・五大老就任

広島築城と五大老就任
広島築城と五大老就任
秀吉政権下、毛利輝元は中国地方の有力大名として豊臣政権の重鎮的地位を占めた。天正十九年(1591年)、秀吉は輝元に百十二万石(朱印状による)の所領を安堵し、毛利氏領は安芸・備後・周防・長門・出雲・石見・隠岐の七ヶ国全域に加えて伯耆・備中の一部にも及び、通称・概数として「百二十万石余」とも呼ばれた。この大領を治めるため、輝元は太田川河口デルタの広島に新城を築くことを決断する。広島城の築城は天正十七年(1589年)に着手され、天正十九年(1591年)に本拠を吉田郡山城から広島へ移した。「広島」の地名は、吉田郡山城のような山城ではなく河口低地に城下町を計画的に整備した、毛利氏の戦国大名から近世大名への転換を象徴する事業であった。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、文禄の役で輝元自身が渡海し、釜山・慶尚道方面の守備や後方的役割を担った。慶長の役では輝元本人は壱岐までで、朝鮮現地は嗣子格の毛利秀元(実子・秀就の誕生前の名代)が率いた。慶長三年(1598年)、秀吉は死を前に五大老制度を定め、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝とともに毛利輝元を五大老の一人に任じた。豊臣政権の中枢に位置する大名としての地位は、ここに頂点を迎えた。豊臣家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は輝元の側近として政権中枢との交渉を支え、その存在は次の関ヶ原で輝元の運命を大きく左右することになる。
05
関ヶ原
SEKIGAHARA

西軍総大将 — 大坂城に拠る輝元と南宮山不戦

大坂城西軍総大将と南宮山不戦
大坂城西軍総大将と南宮山不戦
慶長五年(1600年)、徳川家康による会津上杉征伐を契機として、石田三成が反家康の兵を挙げた。輝元の側近・安国寺恵瓊は三成と早くから通じており、輝元を西軍の総大将に擁立する動きに深く関与したとされる。輝元はこれを受けて広島から大坂に上り、大坂城西の丸に入って西軍の盟主の座に就いた。豊臣公儀の名を掲げる西軍にとって、五大老の一人である輝元が総大将となることは、東軍に対する大義名分の中核であった。だが輝元自身は、関ヶ原本戦が行われた慶長五年九月十五日(旧暦)に大坂城西の丸にあって本戦には出陣しなかった。名代として南宮山方面に布陣したのは、嗣子格の毛利秀元・分家の吉川広家・側近の安国寺恵瓊らであった。ところが吉川広家は事前に東軍と密かに通じており、毛利勢の前を遮って参戦を阻止した。このため毛利の主力は南宮山で動かず、西軍の敗北を傍観する形となった。関ヶ原で西軍が壊滅した後も、輝元は大坂城に拠って継戦を主張する声を抑えきれず、家康との交渉に応じて大坂城を退去した。形の上では西軍総大将でありながら軍事指揮の実態は限定的であり、毛利家全体としても「総大将なのに本戦不参戦・吉川広家内通による不戦」という複雑な構図が、戦後処分の議論を難しいものにしていく。
06
防長転封
BOCHO RELOCATION

百二十万石から三十六万石へ — 萩築城と長州藩祖

防長転封と萩城築城・長州藩の出発
防長転封と萩城築城・長州藩の出発
関ヶ原直後、輝元は剃髪して宗瑞(そうずい)と号し、幻庵宗瑞とも称された。家督を嫡男・毛利秀就に譲って隠居の形を取ったが、この「隠居」は形式的なもので、実権は寛永二年(1625年)の死去近くまで輝元自身が握り続けたとされる。戦後処分の交渉では吉川広家らが家康との折衝にあたり、当初は本領安堵に向けた感触も得たとされるが、最終的には西軍総大将としての輝元の責任を問う形で減封処分が決定し、毛利家は豊臣期の所領百十二万石(通称百二十万石余)から周防・長門の二ヶ国三十六万九千石余へと大幅な減封となった(防長転封)。本拠地も安芸広島から長門萩へ移すことが命じられ、慶長九年(1604年)、輝元は萩の指月山麓に新たな居城・萩城(別名 指月城)の築城を開始した。慶長十三年(1608年)、萩城は整い、毛利氏は長州藩の藩政を本格化させた。減封後の毛利家は石高こそ四分の一以下となったが、輝元は両川以来の家臣団を維持するために多くの陪臣を抱え、藩財政は当初から逼迫した。それでも輝元は防長検地・知行制整備・港湾の経営など長州藩政の基礎を着実に整え、後の長州藩としての制度的礎を築いていく。安芸広島に代わって萩が中国地方西部の拠点となり、明治維新の震源地となる長州藩の歴史は、ここから始まる。
07
遺産
LEGACY

長州毛利の礎 — 寛永2年の死と幕末への影響

長州毛利の礎・幕末への遺産
長州毛利の礎・幕末への遺産
寛永二年(1625年)四月二十七日(旧暦、グレゴリオ暦では六月二日)、毛利輝元は萩において七十三歳(数え)でその生涯を閉じた。戒名は「天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士」、墓所は萩の天樹院に営まれた。輝元の長い晩年は、長州藩を「家臣団を抱えながら減封を生き残る藩」として安定させる試行錯誤の連続であった。輝元が築いた長州毛利の体制は、敵対する徳川幕府との微妙な距離感を保ちつつ、家臣団の結束を維持することで二世紀半にわたって存続した。長州藩は十八世紀以降の財政改革や軍制改革を経て、十九世紀には吉田松陰・木戸孝允・伊藤博文・山県有朋らを輩出し、薩摩藩と並んで明治維新の主役となる。輝元自身は明治維新を見ることなく死んだが、関ヶ原で滅ばずに防長に存続した毛利家こそが、二百六十年後の倒幕運動の起点となった。「もし輝元が西軍総大将を辞退していれば、毛利は百二十万石余を保ち、幕末の長州藩は生まれず、明治維新はまったく違う形となっていた」という見方も後世にはあり、輝元の決断の歴史的重さを物語る。元就の遺志を背負って毛利家三代目を継いだ少年が、激動の戦国・近世初期を生き抜いた末に長州藩の礎を築いた、その生涯は今日まで長く語り継がれている。