まんみ・せんちよ
万見仙千代(重元)信長の小姓と有岡城での最期
- 生没年
- ?–1579
- 出身
- 不詳
- 家
- 織田
- 主な合戦
- 1

- 生年
- 不詳享年も確定しない
- 没年
- 天正6年旧暦12月8日/新暦1579年1月15日
- 活動地
- 安土・畿内出身地は不詳
- 役割
- 小姓・側近使者・検使・合戦の奉行
万見仙千代(重元)は、織田信長の小姓・側近として、使者や接待、戦場の検使を務めた武将である。最後は有岡城の戦いで、天正6年12月8日、攻撃の奉行として出陣し討死したと『信長公記』に記される。森蘭丸と同じく信長に近侍した人物だが、二人の競争関係や、蘭丸が仙千代の後任に指名されたという事実は確認できない。
仙千代の生涯で目を引くのは、役目の幅である。信忠の茶会が開かれた所にも、津田信澄が警固を整えた播磨の海辺にも、その名がある。荒木村重が離反したときには使者として向かい、交渉が決裂すると攻撃の奉行に加わった。ここでは『信長公記』と現存文書を軸に、その働きを追う。神子田正治との血縁は、後世の系譜が何を伝えるのかを分けて見ていく。
仙千代の名で信長に仕える

万見仙千代は、織田信長の身近で用務を担った側近である。重元という実名でも知られるが、太田牛一の『信長公記』に登場するのは、おもに仙千代の名だ。安土で客を迎え、播磨へ出向き、反乱を起こした家臣のもとへも遣わされた。活動をたどると、一つの城にとどまる武将とは違う働き方が見えてくる。
一方で、生まれた年も、幼いころの暮らしも詳しくは分からない。後世の『武家事紀』は神子田長門の子だったと伝えるが、そこから信長に仕えるまでの道筋は明らかでない。名の知れた家臣の親族だから取り立てられた、幼少時から信長に育てられた、といった物語を置けるだけの材料はない。
仙千代の姿が具体的になるのは、任された仕事を記す史料の中である。命令を受けて出向く相手、同行する家臣、帰って報告する先が書き留められている。出自の空白に比べると、信長の近くで動いていた時期の記録はずっと鮮明だ。この記事でも、その仕事の足取りを追っていく。
小姓という呼び方から、少年が主君のそばに控える姿を思い浮かべるかもしれない。しかし、仙千代が受け持ったのは身辺の世話だけではなかった。信長の意思を外へ伝え、現場の状況を信長へ戻すことも、その役目に含まれていた。その往復が、彼の生涯を知る手掛かりになる。
命令を届ける、現場を見届ける

信長の側近として働く仙千代は、有力家臣の間を行き来した。広島県立文書館が公開する三好家文書には、信長が仙千代と堀秀政を派遣すると伝える朱印状が残る。宛先は、河内の若江三人衆と呼ばれた多羅尾常陸介、野間左吉兵衛尉、池田丹後守だった。
この書状では、相手に忠節を求める信長の意思と、二人の派遣が結び付いている。仙千代は、相手のもとへ出向いて主君の意向を伝える役を任されていた。文書館の解説は書状を天正6年のものとし、文中の戦場を有岡城と推定する。信長の朱印を伴う文書にも、仙千代の用務が残っている。
天正6年(1578年)6月には、播磨の城攻めにも関わった。『信長公記』によると、信長は羽柴秀吉に神吉城・志方城を攻略させ、その先の三木城を追い詰める方針を示している。仙千代はこのとき、神吉城攻めの検使として名を連ねた。検使とは、主君の命を受けて現場の様子を確認する使者である。
検使の顔ぶれには、菅屋長頼や矢部家定らもいた。大軍を動かす将の働きを、信長の近くにいる者たちが現地で見届ける。その仕組みの中に仙千代が組み込まれていたのである。自分だけの大軍や広い領国が知られていなくても、信長と出陣中の諸将をつなぐ仕事は担えた。
後に有岡城の攻撃で並び立つ堀秀政や菅屋長頼は、このような側近の活動でも姿を現す。使者、検使、そして戦場の奉行。仙千代の仕事は、内向きの奉仕と外での軍務にまたがっていた。
信忠の茶会が開かれた場所

天正6年の正月、仙千代のいた場所には織田家の有力者が集まった。『信長公記』巻十一は、正月4日に織田信忠が仙千代の所で茶会を開いたことを記している。信忠は前年の冬、信長から名物の茶道具を譲られていた。新年の茶会は、それらを披露する機会となった。
招かれた九人の中には、林秀貞、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀らがいた。信長の嫡男が茶道具を披露し、重臣たちがそこへ集まる。その場所として仙千代の所が使われたことは、彼が織田家の中枢に近い位置で活動していた具体例である。
信忠はこの茶会で、信長から受け継いだ名物を披露した。『信長公記』は参加者の名前まで列挙しており、仙千代の所にどのような人々が集まったかをたどれる。戦場へ出ていた家臣たちが、年の初めには茶の湯の場で同席していた。
同じ年の8月10日には、南部宮内少輔を仙千代の所へ招いてもてなすよう、信長が命じている。鷹の献上に続く接待だった。この南部宮内少輔については、遠野市立図書館の調査が、安東愛季に仕えた南部季賢と同定している。名前に南部とあるだけで、南部氏の当主が訪れたと読み替えることはできない。
茶会も、遠方から来た人物への饗応も、武将たちが顔を合わせる機会だった。仙千代の所は、その会合を支える場所になっている。攻城戦の記録だけを追っていては見落とすが、客を迎える仕事もまた、彼が信長の近くで果たした役割の一つだった。
海辺の警固を整え、信長へ報告する

安土で接待を担う一方、仙千代は播磨の海辺にも派遣された。天正6年6月29日、信長は兵庫から明石、さらに明石から高砂に至る区間の警固を命じる。『信長公記』は、その理由として道のりの長さを挙げている。軍勢が進むには、城を攻めるだけでなく、そこへ至る途中の安全も確保しなければならなかった。
任務を受けたのは津田信澄で、山城衆が加わり、仙千代も遣わされた。信澄は同じ年に開かれた安土の相撲でも、仙千代とともに奉行に名を連ねる。仙千代と信澄の関わりを示すのは、漠然とした親交の話ではない。この日付を持つ、同じ現場への派遣記録である。
命令の内容は、舟手の警固のため、適当な場所を見定めて拠点を置くことだった。本文には「能山」を足掛かりにしたことが記され、仙千代は帰って様子を報告したという。現地へ行く、場所を選んで足場を作る、その結果を主君へ伝える。短い記録からも、任務の順序を追うことができる。
この時期の播磨では神吉・志方の城攻めが進み、その後は三木城への圧迫が強まっていった。信長側は攻撃する軍勢と、その活動を支える警固の両方を整えていた。仙千代の沿岸での仕事は、同じ戦役の中で行われたものだった。
拠点を整えた後、仙千代は現地に残らず、信長のもとへ戻った。主君は帰還した側近を通じて、派遣先の様子を知ることができた。仙千代の仕事は、必要な現場へ動き、その結果を持ち帰ることだった。沿岸での任務は、その働き方を具体的に伝えている。
大和との連絡、相撲の奉行

仙千代の活動は、織田家の武将どうしを結ぶ仕事だけに限られなかった。『多聞院日記』の記述を掲げる人物年表では、天正4年(1576年)5月10日、信長が筒井順慶に大和の支配を任せる意思を、明智光秀と仙千代を通じて伝えたとされる。翌年10月20日には、順慶が成身院で仙千代をもてなした記事も紹介されている。
大和を任された側と、信長の側近が往来する。寺院を舞台とする記録にも仙千代の名が現れることは、彼の仕事を安土の城内だけで考えられない理由の一つだ。ただし、訪問や接待の記録だけで、仙千代が寺社領全体を支配したとまではいえない。ここでは具体的に確認できる連絡の役を押さえておきたい。
安土での大きな催しにも、仙千代は関わっていた。天正6年8月15日、信長は近江や京都の相撲取を集め、朝から夕方まで相撲を見物した。『信長公記』が記す人数は千五百人。仙千代は津田信澄、堀秀政らとともに、この催しの奉行に挙げられている。
記録はそこで終わらない。日暮れが近づくと、信長は力が強いと聞いていた永田刑部少輔と阿閉孫五郎の取組を見たいと望んだ。その前に、堀秀政や蒲生氏郷、仙千代らも相撲を取ったと記される。運営に関わった側近が、自ら取り組む場面まで書き留められているのである。
勝敗が詳しく残るのは永田と阿閉の取組で、仙千代の強さの順位は分からない。それでも、使者や検使の名簿に現れる人物が、主君の前で相撲を取っていたことは興味深い。文書を介した連絡から、人々が集まる催しの運営まで。仙千代の任務には、日々の用務の幅広さが表れている。
反乱を確かめに有岡へ向かう

天正6年の秋、摂津の荒木村重が信長に背く動きを見せた。『信長公記』の10月21日条によると、信長のもとには村重の謀反を伝える報告が届いたが、信長は当初、それを容易には信じなかった。不満があるなら申し出るようにと、村重へ使者を送る。
選ばれたのは松井友閑、明智光秀、そして仙千代だった。信長の意向を直接伝え、相手の答えを確かめる役である。仙千代は、茶会や行事を支える側近であると同時に、有力家臣の離反という重大な局面にも送り出された。
村重は謀反の意思を否定したと記される。信長はそれを喜び、母を人質に出し、別心がないのなら出仕するよう求めた。しかし、村重は出てこなかった。信長側の働きかけは続いたものの、対立は解けず、11月には信長自身が出陣する事態となった。
村重の拠点・有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった。伊丹市の史跡解説によれば、主郭だけでなく侍町や町屋も取り込む惣構の城である。町を含む範囲を堀や土塁で囲い、その規模は東西およそ800メートル、南北およそ1700メートルに及んだ。攻める側は、天守のある小さな一区画だけを相手にしたのではない。
仙千代はこの城の主に、まず信長の言葉を届けた。その後、同じ村重を相手に攻城戦へ加わることになる。6月に始まった神吉城攻めでは、村重も信長方の武将として戦っていた。それから数か月で、かつて同じ側で動いた武将が攻撃対象に変わったのである。
鉄砲衆を率い、町口へ押し寄せる

交渉の使者だった仙千代は、やがて攻撃を指揮する側に回った。天正6年12月8日、『信長公記』によれば、織田方は伊丹へ軍勢を寄せ、町口から攻め込もうとした。その奉行に挙げられたのが、堀秀政、仙千代、菅屋長頼の三人である。
攻撃には鉄砲衆と弓衆が用いられた。鉄砲を撃ち掛け、その後に弓衆が三手に分かれて火矢を射入れ、町に火を放つ計画だったという。城門へ一人で駆け寄る武勇談とは違い、記録がまず示すのは、複数の奉行が受け持つ組織的な攻撃である。
戦いは夕刻から夜に及んだ。しかし、攻め手は防御を突破できず、壁際で食い止められる。牛一は、その流れの中で「万見仙千代 討死候」と記した。信長のそばで用務をこなし、播磨では状況を報告して戻った仙千代は、この攻撃では帰ってこなかった。
誰が仙千代を討ったのか、致命傷となった武器は何か。『信長公記』のこの条は、そこまで書いていない。倒れる直前の会話も、信長の前に遺骸が運ばれた場面も残していない。分かるのは、鉄砲衆を伴う攻撃の奉行を務め、壁際で戦いが止められる中で討死した、という経過である。
この日付は旧暦の天正6年12月8日で、グレゴリオ暦に直すと1579年1月15日に当たる。「天正6年=1578年」という年の対応だけで、西暦1578年12月8日と読み替えないようにしたい。生年が確定しないため、何歳での戦死だったかも断定できない。
仙千代の死で有岡城の戦いが終わったわけではない。城はさらに持ちこたえ、村重が尼崎へ移った後、天正7年(1579年)に落城へ至る。仙千代の最期は、長期化した包囲戦の途中に起きた。安土での接待、沿岸の警固、使者の任務を重ねた側近の活動は、城が落ちる前に絶たれたのである。
史料の読み解き
仙千代を知るには、主君との近さと、実際に担った仕事の両方を見る必要がある。信長に気に入られた小姓、という一言だけでは、接待の場から攻城戦へ動く彼の姿を捉えきれない。以下では、他の人物との比較、系譜の読み方、最期の記述を順に確かめる。
森蘭丸とはどのような関係だったのか
万見仙千代と森蘭丸は、いずれも信長の身近で仕えた人物として比較できる。ただし、同じ立場に近い人物が二人いることと、二人が主君の寵愛を争ったことは別である。ここで確認した『信長公記』の仙千代の記事や文書館の資料には、そのような争いは記されていない。
最期の時期と場所も違う。仙千代は天正6年の有岡城攻撃で討死し、蘭丸は天正10年(1582年)の本能寺の変で信長とともに命を落とした。仙千代の死は、蘭丸の死より先である。しかし、先に亡くなった者と後に活動した者を並べるだけで、「仙千代の後任が蘭丸だった」という人事は証明できない。
側近の仕事も、近代の会社にある一人分の役職のように考えると分かりにくくなる。『信長公記』では、仙千代が堀秀政、菅屋長頼、津田信澄らと一緒に任務を担っている。信長の近くには複数の家臣がいて、行事や戦役に応じて役を分担していた。仙千代一人の死で空いた席に、蘭丸がそのまま収まったとする必要はない。
比較するなら、主君との距離がどのような仕事につながったかが手掛かりになる。仙千代については、信長の命を伝える使者、現場を確認する検使、催しや攻撃の奉行という役目が具体的に残る。蘭丸についても、容貌や忠義の逸話だけでなく、伝達や取次の仕事に目を向けると、小姓の務めをより広く理解できる。二人を架空のライバルにしなくても、比べる意味はある。
神子田正治との血縁を『武家事紀』から読む
仙千代と神子田正治の関係は、名前を並べるだけでは間違えやすい。江戸時代に山鹿素行が編んだ『武家事紀』の神子田半左衛門尉の項には、正治の父を肥前守とし、その弟の子を長門、さらに長門の子を万見仙千代とする注記がある。
この記述を世代ごとに整理すると、次のようになる。『武家事紀』続集506〜507頁の原画像で、本文と系譜の注記を確認できる。
| 人物 | 『武家事紀』に記されたつながり |
|---|---|
| 神子田肥前守 | 正治の父 |
| 肥前守の弟 | 長門の父 |
| 神子田長門 | 仙千代の父とされる人物 |
| 神子田正治と仙千代 | 正治の従兄弟の子が仙千代、という関係になる |
したがって、この系譜に従うなら仙千代は正治の従甥に当たる。正治の実子でも、兄弟でもない。単に「甥」とだけ書くと、正治の兄弟姉妹の子という意味に読まれるため、関係を一段具体的に記した方がよい。
もう一つ気を付けたいのが、史料の成立時期である。『武家事紀』は戦国当時の出生届や本人の自筆系図ではなく、後世の編纂物だ。系譜が伝わっていることは確認できても、その全てを同時代の記録と同じ強さで断定することはできない。本記事のプロフィールで父を「神子田長門と伝わる」とするのは、この違いによる。
系譜から仕官の経緯を補うことにも慎重でありたい。正治が信長や秀吉につながる人物だから、正治の紹介で仙千代が小姓になったはずだ、と考えることはできる。しかし、紹介や推挙の記録を確認しなければ推測のままである。家族のつながりと、主君に仕えるまでの過程は、それぞれ別の根拠が必要になる。
小姓から奉行へ、仕事はどうつながるか
小姓、使者、検使、奉行と呼び名が変わると、仙千代が次々に昇進したように見えるかもしれない。ただし、ここで並べたものは、特定の場面で果たした役目でもある。年ごとの昇進順を示す任官記録として扱うことはできない。
たとえば、津田信澄と播磨へ向かった際の記述では、仙千代は現地の状況を信長に報告している。神吉城では検使の一人として名が挙がる。どちらも主君と戦場を往復する仕事だが、沿岸の警固拠点づくりと、城攻めの確認とでは目的が違う。役名を一括りにするより、誰の命令で、どこへ行き、何をしたかを読む方が実態を捉えやすい。
有岡城でも、使者と攻撃の奉行では任務が変わった。最初の使者は村重の意思を確認し、信長の意向を伝えるために派遣されている。12月8日の奉行は、鉄砲衆を伴って町口へ押し寄せる側だった。同じ家臣に連続して異なる仕事を任せたところに、信長が側近を用いたあり方が表れている。
もちろん、本人の能力を評価したくなる記録ではある。だが、茶会、相撲、沿岸警固、攻城戦を経験したことから、どの分野でも抜群だったと結論することはできない。任された事実と、成果の評価は分けるべきだろう。仙千代の具体的な仕事を列挙するだけでも、身辺の世話という狭い小姓像を超える活動は十分に見える。
「最後」は落城の日ではない
有岡城の戦いは長期戦だった。仙千代が死んだ攻撃と、村重が城を離れた時期、城が最終的に落ちた時期をまとめてしまうと、彼の最期の状況が変わってしまう。
『信長公記』の天正6年12月8日条が描くのは、まだ村重の抵抗を崩せていない段階の攻撃である。鉄砲と火矢で町を攻めようとした織田方は、壁際で防ぎ止められた。仙千代の討死は、その攻撃の経過に続けて記される。落城後の処刑や、敗れた荒木方を追う中での死ではない。
城の構造も、この場面を考える助けになる。有岡城は主郭の外にある町も防御の内側へ取り込んだ城だった。そのため、『信長公記』がいう町口や町への放火は、城攻めの外で起きた無関係な出来事ではない。町を囲む防御を突破しようとした攻撃として読める。ただし、現在見られる遺構のどの地点で仙千代が倒れたかまで、この記述だけで特定することはできない。
また、信長方の記録だからといって、行動を全て美談にする必要もない。牛一は、この攻撃に先立つ時期に、堀秀政と仙千代が山へ逃れた百姓たちに対する攻撃を命じられたことも記す。殺害や食料の奪取を伴う記述であり、側近の軍務には地域の住民を苦しめる面もあった。茶席を支えた人物の活動と、戦場での加害は、同じ記録の中に残っている。
こうした経過を押さえると、仙千代の最後を、信長への忠義だけで説明することは難しい。信長の命令で各地へ出向いた側近が、長期化する戦争の攻撃を担当し、その現場で死んだ。彼の最期は、その任務の延長にあった。
最期の細部と信長の反応はどこまで分かるか
仙千代の死を語るとき、短い記録の前後に情景を付け加えると、物語としては読みやすくなる。だが、城壁を登った瞬間に特定の武器で倒された、信長が遺骸に取りすがった、という細部には、それぞれ別の根拠が要る。
本記事が直接確認した『信長公記』の討死記事は、攻撃の担当者、鉄砲と火矢を使う計画、夜まで続いた戦い、防御側に食い止められたことを記す。その中に仙千代の戦死が置かれている。ここから先の致命傷、討ち手、絶命時の言葉は分からない。信長がどのように悲しんだかについても、この条から具体的な言動を引用することはできない。『信長公記』巻十一、天正6年12月8日条
一方、記述が短いから信長に重んじられていなかった、と逆向きに断定するのも無理がある。死への反応が書かれていないことと、感情がなかったことは同じではない。仙千代への信任を考えるなら、確認できない悲嘆の場面より、荒木村重への使者や攻撃の奉行に選ばれた事実を根拠にした方がよい。
年月日については、和暦と西暦の違いを残しておく必要がある。日本の旧暦では天正6年12月でも、グレゴリオ暦では翌1579年に入っていた。さらに当時の西欧で用いられたユリウス暦と換算すれば日付に10日の違いが出る。本文では旧暦12月8日を基準とし、新暦を併記する際は1579年1月15日に統一した。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 信長の側近として使者などを務めた | 高 | 『信長公記』の派遣記事と、三好家文書の信長朱印状が対応する |
| 信忠の茶会が仙千代の所で開かれた | 高 | 『信長公記』巻十一、天正6年正月4日の記述 |
| 津田信澄と沿岸警固の拠点整備に関わった | 高 | 同年6月29日条。仙千代の帰還報告まで記す |
| 有岡城攻撃の奉行となり討死した | 高 | 同年12月8日条に攻撃の経過と討死が明記される |
| 神子田長門の子で、正治の従甥に当たる | 中 | 後世の『武家事紀』が伝える系譜。出自の確定には留保が要る |
| 天正9年条にも同名が載る | 高 | 『信長公記』巻十四で確認できる。ただし同一人物かは不明 |
| 蘭丸と寵愛を争った、蘭丸が直接の後任だった | 未確認 | 比較できる立場にあったことと、競争・後任人事の証明は別 |
| 生年・享年、致命傷、討ち手、死の直前の言葉 | 未確認 | 今回確認した資料から具体的に定めることはできない |
参戦合戦
万見仙千代(重元)の逸話
- 逸話 01
重元と仙千代、二つの名前

筆を執る万見仙千代の創作場面。自筆署名の再現ではない(AI生成) · AI生成イメージ 万見仙千代と万見重元は、別人として分ける名前ではない。仙千代は通称で、重元は実名である。『信長公記』を読むと、任務や討死の記事には仙千代と記される。一方、広島県立文書館の三好家文書の解説では、万見重元に「仙千代」を添え、書状の人物を同定している。
古い記録を現代の人名索引で探すとき、この違いは役に立つ。実名だけを探しても、通称で書かれた記録を見落とすことがある。逆に、仙千代という呼び名だけで全ての記録を同一人物に結び付けるのも危険だ。姓、仕えた相手、活動年代を合わせて確認する必要がある。
名の読みも、資料によって「まんみ」と「まみ」の両方が使われる。この記事では広島県立文書館の表記に従い、まんみ・せんちよとする。人物年表にある「まみ・しげもと」という読みは、別人の項目を意味するわけではない。実名と通称、読み方の違いをほどくと、散らばった記録を一人の活動としてたどりやすくなる。
- 逸話 02
小姓という役目から年齢は決まらない

用務の話を聞く万見仙千代の創作場面。実年齢を示すものではない(AI生成) · AI生成イメージ 小姓の仙千代と聞くと、森蘭丸のような若い人物を想像しやすい。だが、仙千代について確実な生年や享年は分からない。童名らしい呼び方を使い続けていたことは、戦死時に何歳だったかを計算する根拠にはならない。
年齢よりも具体的に残るのは、任された仕事だ。仙千代は使者を務め、神吉城攻めの検使となり、津田信澄らと沿岸の拠点整備に関わった。有岡城では鉄砲衆を伴う攻撃の奉行に挙げられる。主君のそばにいる者が、その命令によって外の用務も担っていたことが分かる。
本記事の画像も、史料に残る容貌を復元した肖像ではない。外見が成熟しているから壮年であった、美しく描かれているから寵愛された、といった読み方はできない。仙千代の働きを知るには、描かれた顔や小姓という言葉の印象より、任務の内容を手掛かりにする方が確かである。
- 逸話 03
討死後にも現れる「万見仙千代」

戦の合間に座る万見仙千代の創作場面。討死後の生存を描いたものではない(AI生成) · AI生成イメージ 『信長公記』には、天正6年の討死記事より後にも、万見仙千代の名が現れる。巻十四の天正9年(1581年)9月8日条である。知行を与えられた四人の中に、その名前が記されている。
同じ名前があるなら生きていたのか、と考えたくなる箇所だ。ただし、名前の一致だけで、討死記事が誤りだったとは決められない。別の人物が通称を継いだ可能性や、記録の伝わり方の問題も検討しなければならないからだ。逆に、後の仙千代を本人の息子とするにも、親子関係を示す根拠が必要になる。
本記事では天正6年の討死を、同書に記された本人の最期として扱う。そのうえで、天正9年条には同名があることを残しておく。確かめられるのは二つの記事が存在するところまでであり、生存説や息子の経歴をそこへ付け足してはいない。人名を追う難しさが表れる一例である。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 太田牛一『信長公記』巻十一・巻十四(我自刊我書版翻刻)Wikisource/原刊・我自刊我書参照日 2026-11-03
- 山鹿素行『武家事紀』続集・巻十四、神子田半左衛門尉の項、506〜507頁国書刊行会/国立国会図書館デジタルコレクション参照日 2026-11-03
- 『広島藩士三好家文書展』3頁、織田信長朱印状(三好家文書201311-6-3)広島県立文書館参照日 2026-11-03
- 『信長公記』に登場する南部宮内少輔についての調査遠野市立図書館/レファレンス協同データベース参照日 2026-11-03
- 有岡城跡伊丹市参照日 2026-11-03
- 可成寺【宮町】―森蘭丸可児市参照日 2026-11-03
- 藤木久志編『日本中世気象災害史年表稿』天正6年12月の暦日対照東京大学史料編纂所参照日 2026-11-03
- 歴史の目的をめぐって 万見重元―『多聞院日記』ほかの関連年表歴史の目的をめぐって参照日 2026-11-03









