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戦国時代吉川氏15301586
吉川元春|毛利両川の山陰を担った猛将と太平記の写し手の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
毛利元就毛利両川小早川隆景
きっかわ もとはる

吉川元春|毛利両川の山陰を担った猛将と太平記の写し手

KIKKAWA MOTOHARU · 1530 — 1586 · 享年 57

毛利両川の山陰軍事を担い、太平記を陣中で書写した武辺と読書を兼ねた毛利家の将

吉川
生年
享禄3年
1530年/毛利元就の次男として安芸吉田郡山城に生まれたと伝わる
没年
天正14年11月15日
新暦1586年12月25日/豊前国小倉にて病没/享年57(数え)
出身
安芸国高田郡吉田
毛利元就の次男・母は妙玖大方
居城
日野山城(駿河丸城→小倉山城→日野山城)
吉川氏本拠は段階的に変遷/天文19年(1550)元春が日野山城へ入る
家紋
丸に三つ引両
MARU-NI-MITSU-HIKIRYO

吉川元春

吉川元春は、毛利元就の次男に生まれながらも、母方の吉川家を継いで山陰の最前線を押し開き、月山富田城で尼子氏を事実上滅亡させ、陣中で『太平記』四十冊を書写した、武辺と読書を兼ねた毛利両川の将である。

享禄三年(一五三〇年)、元春は安芸国高田郡吉田に生まれた。母は妙玖大方、同母兄に毛利隆元、同母弟に小早川隆景がいる。毛利本家を継ぐ嫡男ではなかった。だが、その位置は弱みではなく、母方の吉川氏を継いで毛利家を外側から支える道へ変わっていく。

元春は吉川興経の養嗣子となって吉川家へ入り、安芸北部から石見・出雲・伯耆へ伸びる山陰方面の軍事を主に担った。末弟・隆景が山陽・瀬戸内側を支える一方、元春は日本海側の山城と街道を押さえる。毛利両川の山陰軍事担当として、毛利家の地理を背中で受け止めたのである。

その到達点が、永禄九年(一五六六年)の月山富田城開城だった。長期包囲の末、尼子義久らは降伏し、出雲尼子氏は戦国大名として事実上滅亡した。さらにその長い陣中と重なる永禄六年から八年、元春は重要文化財「太平記 吉川元春筆」として現存する四十冊を書写した。戦場の将でありながら、筆を執る将でもあった。

晩年、元春は天正十年(一五八二年)頃に嫡男・吉川元長へ家督を譲った。それでも毛利一門の重鎮としての重みは残る。天正十四年(一五八六年)、九州征伐の前段で豊前方面へ出陣し、同年十一月十五日、新暦では一五八六年十二月二十五日、豊前小倉で病没した。享年五十七である。

元春を「猛将」の一語だけに閉じると、月山富田の長期戦も、毛利両川の分業も、太平記四十冊の書写も見えにくくなる。吉川元春は、毛利家の山陰戦略を背負い、戦場と書物の両方に足跡を残した一門武将である。 その人物像に重なった物語の層は、この先の読み解きで分けていく。

01誕生&幼少BIRTH

毛利元就の次男 — 安芸吉田に生まれた千法師丸

安芸吉田に生まれた毛利元就の次男・千法師丸
安芸吉田に生まれた毛利元就の次男・千法師丸

享禄三年(一五三〇年)、吉川元春は安芸国高田郡吉田に生まれた。父は毛利元就、母は正室・妙玖大方。幼名は千法師丸、のち松寿丸とも称し、通称は少輔次郎。毛利家の次男として生まれた少年は、まだ中国地方を揺らす将になる前から、元就の家と母方の吉川家という二つの血筋を背負っていた。

同母兄には毛利隆元、同母弟には小早川隆景がいた。隆元は毛利本家を継ぐ嫡兄であり、隆景はやがて小早川家へ入る末弟である。三兄弟の真ん中に立つ元春は、嫡男ではない。だが、その位置こそが後に毛利家を外側から支える力へ変わっていく。

母・妙玖大方の実家である吉川氏は、安芸国山県郡新庄を本拠とする有力国人だった。安芸吉田の山あいで育った千法師丸にとって、毛利の城も吉川の山も、遠い親戚の話ではない。戦国の国人たちが結び、争い、家を残そうとする現実そのものだった。

元就が安芸吉田の小領主から、中国地方を動かす戦国大名へ伸びていく時代である。元春の少年期は、その上昇のただ中にあった。毛利の次男に生まれたことは、脇役の運命ではなく、別の家を継いで前線へ出る入口だった。

やがて千法師丸は、母方の吉川家へ入る。毛利元就の次男という出発点は、山陰を担う吉川元春の物語の伏線だった。

重要文化財「太平記 吉川元春筆」(員数四十冊)の奥書は永禄6年(1563)12月〜永禄8年(1565)7月の書写を伝える

「永禄六〜八年、太平記を陣中に書写す — 武辺と読書の並立」

02吉川養子ADOPTED

吉川氏養子入り — 興経自筆起請文と深川の粛清

吉川興経自筆起請文と日野山城入城
吉川興経自筆起請文と日野山城入城

天文十六年(一五四七年)七月十九日、十八歳前後の元春は、母方の吉川興経の養嗣子となる契約を結んだ。興経は妙玖大方の甥であり、吉川氏は安芸国山県郡新庄を本拠とする有力国人である。毛利の次男は、ここで母方の家を継ぐ道へ進んだ。

吉川氏の本拠は、初期の駿河丸城から、経見の頃の小倉山城へ移り、さらに天文十九年(一五五〇年)に元春が日野山城へ入る流れをたどった。居城が移ることは、ただ住む場所が変わる話ではない。山陰へ抜ける道を押さえ、安芸北部を毛利の力に結びつける前線の配置換えだった。

しかし養子入りの陰には、戦国の冷たい決着があった。天文十九年九月二十七日、毛利元就は熊谷信直・天野隆重らに命じ、興経とその子・千法師を安芸国安北郡深川で殺害させた。元春は、血縁と政治がぶつかる場を越えて吉川家の実権を継ぐ。

その後、元春は日野山城に入った。山県郡の山城は、安芸北部から石見・出雲へ向かう毛利の足場となる。吉川家への養子入りは、家名を受けるだけでなく、毛利家が山陰へ伸びるための楔を打つことだった。

元春の名は、ここから吉川氏の当主として動き始める。毛利の次男は、吉川の山城を得て、山陰経略の入口に立った。

天正14年(1586)11月15日 享年57、九州征伐出陣中の小倉城にて病没(病名断定は史料的に困難)

「天正十四年十一月、豊前小倉に病没す — 隠居後の戦陣に倒る」

03厳島・防長ITSUKUSHIMA

厳島の戦いと防長経略 — 兄弟と共に陶勢を破る

厳島の戦いから防長経略 — 三子教訓状の頃
厳島の戦いから防長経略 — 三子教訓状の頃

弘治元年(一五五五年)十月一日、安芸厳島で毛利元就と陶晴賢がぶつかった。厳島の戦いである。二十六歳前後の元春は、毛利方の主力として戦場に立ち、末弟・隆景が担った水軍工作と並んで、陸上戦線の重い一翼を支えた。

この一戦で陶勢は壊滅する。毛利家は安芸の一国人から、中国地方西部へ伸びる勢力へ一気に姿を変えた。だが勝利は、島の合戦だけで終わらない。続く弘治二年から永禄二年(一五五六〜五九年)の防長経略で、元就は大内氏旧領の周防・長門を段階的に掌握していく。

元春の視線は、やがて山陰へ向かう。石見、出雲、伯耆へ進むため、新庄日山城を後方の根拠とし、安芸北部から山陰へ抜ける街道沿いに陣替えを重ねた。山と街道を押さえる戦いが、毛利の次の拡大を支える。

弘治三年(一五五七年)十一月二十五日、父・元就は嫡兄・隆元、次兄・元春、末弟・隆景に向けて三子教訓状を遺した。そこにあるのは、毛利家の結束と一族相互の輔佐を求める父の言葉である。厳島の勝利後、元春は兄弟とともに、毛利家を一代の勝利で終わらせない役目を負った。

厳島から防長へ、さらに山陰へ。元春の戦場は、毛利家が中国地方の覇権へ進むにつれて、深く広くなっていった。

04両川体制TWO RIVERS

毛利両川体制 — 山陰の元春・山陽の隆景

毛利両川体制 — 山陰の元春と山陽の隆景の分業
毛利両川体制 — 山陰の元春と山陽の隆景の分業

永禄期(一五五八〜七〇年)、毛利家の両側に二つの柱が立つ。元春が継いだ吉川家と、隆景が継いだ小早川家である。これが毛利両川であり、元春は主に山陰方面の軍事を担い、隆景は山陽・水軍・外交を主に担った。

もともと両川の役割は、嫡兄・隆元を支えることにあった。ところが永禄六年(一五六三年)八月四日、隆元は四十一歳で安芸佐々部にて急死する。毛利本家を継いだのは、隆元の嫡男・毛利輝元だった。若い当主を前に、元春と隆景の重みは一段と増す。

元春は山陰の戦場に立ち続けた。出雲、石見、伯耆へ伸びる前線では、山城、街道、補給線、国人の動きが複雑に絡む。そこで必要だったのは、一度の突撃ではなく、長い戦いを崩さず進める前線指揮の粘りである。

元亀二年(一五七一年)六月十四日、父・元就が七十五歳で世を去った後も、両川は輝元を支えた。毛利家は、元就という巨人を失っても、兄弟の分業によって戦国大名として踏みとどまる。山陰の元春と山陽の隆景は、毛利家の地理をそのまま支える二本の柱だった。

元春は、永禄期から天正期にかけて、山陰と北九州の軍事を担う毛利方の主軸であり続けた。毛利両川とは、性格の飾りではなく、毛利家を生き残らせるための実戦的な支えだった。

05月山富田GASSAN-TODA

月山富田城攻め — 尼子氏滅亡と山陰経略の白眉

月山富田城攻め — 尼子氏滅亡の山陰経略
月山富田城攻め — 尼子氏滅亡の山陰経略

永禄五年から九年(一五六二〜六六年)、毛利元就は出雲国の尼子氏討滅へ向け、月山富田城への大攻勢を進めた。月山富田城は出雲の高所に築かれた堅固な山城である。急な尾根と複数の曲輪が、正面からの攻撃を簡単には許さなかった。

元春は山陰方面軍の主力指揮官として、出雲国境を越え、長い包囲戦に従軍した。白鹿城など周辺支城の攻略を担い、尼子方の補給線を断っていく。ここで元春が向き合ったのは、華やかな一騎討ちではない。山城を囲み、道を塞ぎ、籠城方の力を少しずつ削る長期戦の現実だった。

毛利方は、月山富田城をすぐに落とすのではなく、包囲と兵糧攻めで追い詰めた。山陰の空気は重い。城内の粘りと城外の圧力が続く中、元春は山陰方面軍の主力としてその持久戦を支えた。

永禄九年(一五六六年)十一月二十一日、尼子義久ら一族は降伏し、月山富田城は開城した。戦国大名としての尼子氏は、ここで事実上滅亡する。月山富田城の開城は、元春の山陰経略が一つの頂点に届いた瞬間だった。

しかもこの長い陣中で、元春は永禄六年から八年にかけて『太平記』四十冊を書写している。月山富田の包囲戦は、元春を武辺の将であると同時に、筆を執る将としても後世へ刻んだ。

06尼子再興・上月AMAGO REVIVAL

尼子再興軍掃滅と上月城 — 山中鹿介との対峙

上月城開城と山中鹿介の最期 — 阿井の渡
上月城開城と山中鹿介の最期 — 阿井の渡

尼子氏が月山富田城を開いた後も、山陰の戦いは終わらなかった。山中鹿介幸盛らは尼子勝久を擁立し、尼子再興を掲げて動き続ける。元亀元年から天正初年(一五七〇〜七四年頃)にかけて、再興軍は出雲・伯耆・但馬の各地で蜂起し、毛利方の山陰支配を揺さぶった。

元春は山陰方面の毛利方総帥として、再興軍掃滅戦の中核を担った。各地で再興軍を撃破し、山陰の支配秩序を立て直していく。月山富田の開城で終わったはずの尼子との戦いは、姿を変えてなお続き、元春はその残響と向き合うことになった。

天正六年(一五七八年)、織田信長の中国攻めに呼応する形で、尼子勝久・山中鹿介は播磨上月城に拠った。元春・元長父子は備中・備前国境を越えて上月城を包囲し、織田方の救援を退ける。七月三日、勝久は自刃し、上月城は落城した。

鹿介は備中松山への護送中、阿井の渡で天野元明に命じられて殺害されたと「山県長茂覚書」は記す。元春は山陰方面軍の総帥として全体の指揮系統を統べる側にあり、直接の下手人として記録されるわけではない。上月城の結末は、勝者の勇ましさだけで読めない、尼子再興の終わりを告げる重い場面である。

元春にとって山中鹿介との対峙は、山陰支配を完成させるために避けられない戦いだった。月山富田で尼子本家を倒し、上月城で再興軍を退けた時、元春の山陰経略はさらに深く固まった。

07九州・小倉KOKURA

九州出陣と小倉急逝 — 隠居後の戦陣に倒る

九州出陣・小倉城での急逝
九州出陣・小倉城での急逝

天正十年(一五八二年)の本能寺の変前後、元春は備中高松城水攻め講和を経て、段階的に第一線から退いていく。同年頃には嫡男・吉川元長へ家督を譲り、隠居の姿勢を取った。だが、それで毛利家の重鎮としての存在が消えたわけではない。

元春は、輝元・隆景・元長との合議で外政上の判断にも関わり続けた。元就の時代から山陰の前線を支えてきた経験は、家督を譲った後も毛利家にとって重い。世代交代は進む。だが、元春の判断はなお毛利一門の中に残っていた。

天正十四年(一五八六年)、翌年に本格化する豊臣秀吉の九州征伐の前段として、毛利勢は豊前方面への出陣を命じられた。元春は隠居の身ながら、毛利一門の重鎮として豊前へ従い、要衝・小倉城に入る。老いた将にとって、それは余生の静けさではなく、なお戦国の政治と軍事のただ中だった。

同年十一月十五日、新暦では一五八六年十二月二十五日、元春は豊前小倉で病没した。享年五十七。法名は「随浪院殿前駿州太守拈華宗甫大居士」で、安芸国山県郡海応寺の吉川元春館跡内・元春墓所に葬られた。山陰を押し開いた将の最期は、隠居後の戦陣で静かに訪れた。

嫡男・元長も翌天正十五年(一五八七年)六月五日に没し、家督は三男・広家へ継承されていく。小倉での病没は、吉川元春個人の終わりであると同時に、吉川家が次の世代へ移る重い転換点だった。