ひらつか・ためひろ
平塚為広秀吉の使者から関ヶ原の前線へ、垂井城主の生涯

- 生年
- 不詳出生地・家系にも諸説
- 没年
- 慶長5年1600年・関ヶ原で戦死
- 領地
- 一万二千石美濃国・垂井城主
- 主君
- 豊臣秀吉使者・供奉の記録が残る
平塚為広は、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで大谷吉継とともに戦死した武将である。 垂井一万二千石の城主として知られるが、その足跡は最期の合戦だけにあるのではない。 福原城での戦功、秀吉の命令を伝える使者、醍醐の花見での供奉。 異なる記録をつなぐと、主君のそばで役目を重ねた二十年以上が見えてくる。
大谷との辞世の応酬はよく知られた伝承だ。 その言葉に耳を傾けながらも、伝承だけで為広の生涯を埋めない。 書状が伝える仕事と、後世が語った武勇を読み分けるところから、この垂井城主に近づいてみたい。
秀吉の書状に刻まれた名

平塚為広の名が、城攻めの戦功とともに現れる。天正5年(1577)、舞台は播磨の福原城だった。織田信長のもとで中国地方への進出を進める羽柴秀吉に従い、為広もこの戦いに加わっていた。のちの関ヶ原から、二十三年前のことである。
秀吉は戦果を伝える書状に、平塚三郎兵衛が敵方の城主とその弟を討ったと記した。三郎兵衛は為広の通称だ。数多くの兵が動く城攻めのなかで、一人の働きが名指しされている。為広の武功は、後世に作られた勇ましい人物評だけでなく、戦いを報じた主君の言葉に残った。
福原城攻めには、竹中半兵衛や黒田官兵衛も関わった。為広は、その名だたる武将たちが働く戦場で成果を挙げたのである。城を囲む側にも攻められる側にも、それぞれの役目と動きがあった。そのなかで、為広は敵の城主を討ち取った武将として報告された。秀吉の中国攻めにおける、一つの戦功だった。
関ヶ原の最期より先に、為広には秀吉のもとで積み重ねた年月があった。生年や幼いころの暮らしは明らかでないが、福原城での戦功は、その歩みをたどる確かな足場になる。ここから見えるのは、すでに主君の軍事行動の一端を担っていた武将の姿だ。次に書状へ現れるとき、為広は自ら戦うだけでなく、主君の意向を届ける役目も負っていた。
戦場を結んだ、秀吉の言葉

城を攻め落とす武功だけが、為広の仕事ではなかった。天正7年(1579)10月28日付の秀吉書状には、黒田休夢へ平塚を遣わす旨が記されている。為広は、主君の軍事行動を人と人の間でつなぐ使者としても姿を見せる。
このころの播磨では、三木城をはじめとする諸城への対応が続いていた。秀吉の軍勢が一つの場所に集まれば、すべてが片づく状況ではない。城ごとの情勢をつかみ、離れて動く人々へ指示を伝える必要があった。書状に残る為広の派遣は、そうした戦いの一場面に位置づけられる。
使者は、紙を届けて終わるとは限らない。文面だけでは伝えきれない事情を説明し、受け手の返答を持ち帰ることもある。秀吉が為広を名指して遣わしたという短い記載は、城攻めとは違う仕事を伝えている。福原城で戦功を挙げた人物が、その後も軍事上の連絡に用いられていた。
為広の働きは、槍を取る場面だけには収まらない。戦場の結果を報じる書状には討ち取った相手が記され、命令を運ぶ書状には派遣される本人の名が記される。記録の種類が変わると、同じ武将の違う仕事が見えてくる。秀吉の勢力が広がるにつれ、為広もまた、軍勢を動かすための連絡に関わっていく。
合戦の背後で命令を伝える

天正12年(1584)、秀吉は織田信雄・徳川家康と戦った。小牧・長久手の戦いとして知られるこの戦役でも、為広の名は命令を伝える役として現れる。華々しい正面の激突とは別に、兵や人夫を集め、拠点を整える仕事が進められていた。
4月11日付の秀吉朱印状には、美濃の拠点に関する普請の指示があり、その口頭説明を平塚が担う旨が記されている。普請とは、城や陣地などを築き、直す仕事である。戦いに備えるには、戦闘員だけでなく、こうした作業に従う人々も動かさなければならなかった。
書面で大枠を示し、使者が口頭で補う。その間に立つ為広は、命令を受ける側へ秀吉の意向を伝えた。ここで確認できるのは、長久手の戦場で何人を討ったかという手柄ではない。戦役を続けるための具体的な指示に、為広が関わっていたということである。軍勢の動きと拠点の整備は、別々の営みではなかった。
福原城の戦功、播磨での派遣、そして美濃に関わる普請の口達。残る記録は断片でも、そこには一つの経歴が通っている。為広は必要に応じて役目を変えながら、秀吉に仕え続けた。前線で働く武将が、主君の命令を他者へ伝える。その兼ね合いこそ、関ヶ原の勇将という印象だけでは見えにくい、為広のもう一つの顔だった。
花見の供奉と、金五枚の記録

慶長3年(1598)、秀吉が催した醍醐の花見に、為広も関わった。秀吉の側室である三の丸様に、片桐且元とともに供奉したのである。供奉とは、行列や外出に付き従うことだ。軍事の使者として働いた為広は、秀吉の家族を伴う催しでも役目を負っていた。
戦場から遠い華やかな行事にも、人の配置と役目があった。誰に誰が付き従うかを記した記録は、為広が秀吉の周辺で用いられていたことを伝えてくれる。同じ役目を負った且元の名と並べてみると、為広の仕事が合戦だけに限られなかったことが、いっそうはっきりする。
同年7月15日の遺物分配を記す史料には、「御用被仰付候衆」の一人として平塚因幡の名がある。受ける品は金五枚だった。これは、秀吉の死後を見据えた分配の記録であり、為広を含む奉仕者たちが、具体的な受取人として書き留められている。金五枚を今の金額へ単純に置き換えることはできないが、名前と分配内容が一緒に残る意味は小さくない。
この年、秀吉は世を去った。福原城の戦功から二十年以上、為広は秀吉の軍事や身辺の用務に関わってきた。その主君を失い、以後は豊臣家をめぐる新たな政治状況のなかで行動することになる。秀吉への奉仕は、最期の恩顧を語る伝説ではなく、複数の記録でたどれる経歴である。
一万二千石の城から関ヶ原へ

関ヶ原の戦いを迎えるころ、為広は美濃国の垂井城主で、一万二千石を領していた。垂井は関ヶ原の東に位置する。為広にとって、慶長5年(1600)の決戦は、自分の拠点から遠く離れた土地で起きた出来事ではなかった。
石高は、領地の規模を示す数字である。一万二千石という規模の城主が、全国の大名を巻き込む対立のなかへ入っていく。為広が選んだのは西軍だった。関ヶ原では大谷吉継と行動をともにし、その前線を担う。秀吉のもとで長く働いた武将が、秀吉没後の戦いでは、別の指揮系統と協力関係のなかで兵を率いたのである。
大谷と為広の共闘は、二人を理解するうえで欠かせない。ただ、為広は自身の領地を持つ城主だった。「大谷隊の前線を担う」という戦場での役目と、大谷家に代々仕えた家臣であることは同じではない。自らの手勢を率いた為広が、大谷の軍勢と一体となって戦う。その関係を押さえると、一人の家臣が主君に殉じた話とは違う姿が見えてくる。
大谷の陣は、関ヶ原西方の山中に置かれた。その前方へ出る為広は、味方の軍勢を背に敵を受けることになる。秀吉の使者として働いてきた城主は、この決戦で前線を引き受けた。主君の意向を届ける仕事から、自らの手勢で戦場を支える仕事へ。垂井での立場と、関ヶ原で負った役目が、ここで重なる。
大谷の前方で、攻撃を受け止める

慶長5年9月15日、為広は関ヶ原で戦った。大谷吉継の陣が置かれた山中の一帯は、松尾山方面との位置関係が重要になる場所だった。岐阜関ケ原古戦場記念館の案内では、為広は大谷隊の前線を任された武将とされている。決戦のなかで、味方の前方に立つ役目を負っていた。
正面の交戦相手としては、藤堂・京極の軍勢が挙げられる。さらに小早川秀秋側が大谷隊へ攻撃を加え、脇坂安治らの動きも重なった。大谷と為広の側は、当初向き合っていた敵だけに対処すればよい状況ではなくなった。複数の方向から迫る軍勢を受けることになったのである。
為広の前線は、西軍として布陣していた側からも脅かされた。小早川や脇坂の軍勢を受けることは、正面の戦いとは別の対応を迫られることだった。大谷と為広は、この状況のなかで戦った。やがて軍勢は崩れ、為広も命を落とした。
為広は戦場から帰らなかった。大谷吉継もまた、この戦いで命を落とす。秀吉の書状に戦功を記された武将の生涯は、こうして関ヶ原で閉じた。福原城で武功を挙げ、使者となり、花見の供奉も務めた年月の先に、この一日があった。為広をめぐる記憶は、この後、大谷との辞世の応酬という形でも語り継がれていく。
残ったのは、辞世だけではない

為広の名は、大谷吉継と交わしたと伝わる辞世によって、長く語られてきた。死を前にして名を惜しむ歌と、先に冥途で待ってほしいという返歌。短い言葉の組み合わせが、関ヶ原でともに倒れた二人の姿を、後の時代の人々へ伝えた。
その記憶には、場所も与えられた。昭和15年(1940)、関ヶ原の藤川ノ台に為広を顕彰する碑が建てられた。丸山幸太郎の研究は、これを子孫による建立として記している。戦場を訪れた人は、為広の名を石碑で確かめ、大谷の陣跡との位置関係を歩いて考えることができるようになった。
さらに令和2年(2020)10月、長浜市平塚町から垂井町へ一幅の肖像画が寄贈された。垂井町の広報によると、天神像として伝わっていた絵に、為広を示す裏書が見つかったという。現代の文化財調査によって、地域に守られてきた絵が、垂井城主の記憶と結び直されたのである。
石碑も肖像も、為広が生きた時代からそのまま残った戦場の記録とは限らない。それぞれに、後の人々が彼をどう受け継いだかという歴史がある。為広をたどる道は、関ヶ原の一日だけでは終わらない。秀吉の書状、供奉の記録、遺物の分配、そして郷土に残る絵や碑。異なる時代のものを読み分けることで、辞世の主として知られる武将に、奉仕者としての長い生涯が戻ってくる。
史料の読み解き
秀吉の書状と『黒田家譜』は、同じ戦いを違って描く
為広の経歴を考えるうえで、福原城攻めは重要な場面になる。 ただし、この戦功を伝える話を一つに混ぜると、史料の違いが見えなくなる。 『広報たるい』2014年3月号は、秀吉の書状と『黒田家譜』を対比しながら為広を紹介している。
秀吉の書状では、平塚三郎兵衛が敵方の城主とその弟を討ったとされる。 戦果を報告する文脈で、為広の働きが名指しされるのである。 一方、後世の『黒田家譜』は、竹森新次郎の助力を含む場面を描く。 為広だけの活躍を簡潔に報じる形と、黒田側の人物の働きも伝える形とでは、読者に残る印象が違う。
ここで、どちらか一方をそのまま捨てる必要はない。 秀吉の書状は戦いに近い時点の報告として重要だが、一通に戦闘の全経過が載っているわけではない。 『黒田家譜』には書状にない情報があるものの、後の時代に黒田家の事跡をまとめた叙述である。 詳しいから正しい、とも、短いから不十分だ、とも直ちには言えない。
『黒田家譜』に見える官兵衛の助力による再仕官の話も、同じ注意が必要になる。 浪人していた為広が救われ、武功で報いたと読めば、筋の通った人物伝になる。 しかし、その筋のよさを理由に、家譜の話をすべて同時代の確定事実へ移すことはできない。 本記事では福原城での戦功を中心に据え、再仕官や戦闘の細部は、その内容を伝える史料名とともに扱う。
二つの記録を比べると、為広が弱い武将だったか、強い武将だったかという採点から離れられる。 戦果を主君へ知らせるときと、家の功績を後世へ残すときでは、語る目的が違う。 為広の戦功を受け取るには、その違いごと読むほうがよい。 一人で何もかも成し遂げた英雄に仕立てなくても、秀吉が名を挙げた働きの価値は失われない。
「使者」という役目から見える、奉仕の幅
1579年と1584年の書状に見える為広は、戦いの勝者としてではなく、秀吉の意向を伝える人物として現れる。 本記事が確認したのは、郷土史資料に掲載された紹介と引用であり、古文書の原本を実見したものではない。 したがって、文面にない密命や、独自の交渉成果を付け加えることは避けた。
それでも、記録を読む意味はある。 秀吉の軍勢が動くとき、離れた場所にいる人々が指示を共有しなければならない。 書面と口頭説明を組み合わせる用務に為広が現れることは、彼が軍事上の伝達に使われていたと示す。 福原城の武功と、この役目は矛盾しない。 戦国の武将にとって、戦うことと使者を務めることが、必ずしも別々の職業だったわけではないからだ。
ただし、使者に選ばれたという事実から、「秀吉が誰より信頼した腹心」とまで言うことはできない。 他の家臣との序列や、個人的な親密さを測る材料は不足している。 わかる範囲で役目を積み上げれば十分だ。 為広は複数の時点で秀吉の用務を担い、晩年には花見の供奉や遺物分配の記録にも現れる。 一度だけ名の出た武功者ではないことが、ここで確かめられる。
金五枚は、何を教えてくれるのか
福田千鶴の論文は、小出秀政をめぐる史料を検討するなかで、秀吉周辺の奉仕者たちにも光を当てている。 為広については、醍醐の花見で三の丸様に付き従った記録と、慶長3年7月15日の遺物分配の記録が重要だ。 同じ研究論文に載っていても、もとになる記録は異なる。 一つは催しの供奉、もう一つは分配を受ける人と品を記したものだ。
遺物分配では、「御用被仰付候衆」のなかに平塚因幡が置かれ、金五枚と記される。 この数字を現代のお金へ換算すれば、読者には規模を想像しやすくなるかもしれない。 しかし、当時の金の単位や価値を十分に検討せず、今の円に置き換えると、かえって確かな情報を失う。 この史料で大切なのは、為広の名が受取人として記されていることと、その分類である。
「御用」を仰せ付けられた人々の一員という記載は、為広の奉仕を具体的に示す。 一方、それをそのまま固定的な役職名へ読み替えてはいけない。 秀吉の側近に関する集団名へ為広を機械的に当てはめたり、同じ表にいる人物の仕事を彼にも割り振ったりすれば、史料にない経歴を作ってしまう。 為広自身に結びつく記載を拾うことが先になる。
花見と遺物分配には、合戦のような勝敗がない。 それでも、為広が秀吉の身辺に関わる役目を負っていたことを教えてくれる。 生涯を武功の大小だけで追うと、こうした記録は脇へ押しやられやすい。 関ヶ原で倒れた一人の城主が、それ以前に何をして生きていたかを考えるには、むしろ外せない部分だ。
大谷吉継の「家臣」と呼んでよいか
為広は関ヶ原で大谷隊の前線を担い、大谷とともに戦死した。 このため、簡略な説明では大谷の配下という姿が強くなる。 戦場で指揮を受ける関係を述べるなら理解できるが、それだけで平時の主従関係まで決まるわけではない。 為広には、豊臣家に仕えた経歴と、垂井一万二千石の城主という立場がある。
合戦の一部を共同で担当する武将同士は、一つの軍勢として語られることがある。 その場の指揮関係と、家そのものへの従属を分けて考えれば、為広の位置づけはわかりやすい。 為広と大谷は、それぞれの立場を持ちながら同じ側で戦ったのである。 大谷家の譜代家臣だった、という説明にはしていない。
二人の結びつきが薄いという意味ではない。 為広が大谷の前方を担ったことは、戦場で重要な役目を分け合ったことを示す。 さらに辞世と返歌の伝承が、その関係を強く印象づけてきた。 しかし、伝承を使って本人の内心を埋めるのは慎重でありたい。 大谷への友情だけで西軍に加わったのか、豊臣家への奉仕をどう考えていたのかは、確実な本人の言葉なしには決められない。
為広が引き受けた役目を見つめることと、彼の気持ちを代弁することは違う。 前者を丁寧にたどるだけでも、関ヶ原の前線に立った一万二千石の城主の姿は浮かぶ。 後者を劇的な台詞で補わなくても、その選択の重さは伝わるはずだ。
為広を討ったのは誰なのか
関ヶ原における為広の戦死を認めることと、討ち取った人物を特定することには、必要な根拠の差がある。 現代の史跡解説には、樫井太兵衛や小早川方の横田某など、異なる名が挙がる。 複数の名を並べたうえで、好ましい一人を選ぶだけでは解決しない。 それぞれがどの記録に基づき、何を伝えるのかを見る必要がある。
小西愛之助の論文は、樫井太兵衛をめぐって『奥家系図』や『関ヶ原軍記』などを検討している。 そこでは、太兵衛が平塚を討ったとする話だけでなく、彼を山内家の家臣とする記述への疑問も示される。 小川祐忠との関係が考察され、赤座直保の戦功を記す別の叙述にも言及する。 討取者の名だけを抜き出すと、こうした検討が消えてしまう。
これは、為広の最期を何も語れないということではない。 大谷と共闘したこと、攻撃を受けて軍勢が崩れたこと、本人が戦死したことと、最期の一対一の場面は分けられる。 本記事が細かな討死の描写を置かなかったのは、このためだ。 誰の槍がどこへ届いたかを創作しなくても、為広が戦死した戦況は説明できる。
為広と敵対した人物を読むときも、関係の範囲に注意したい。 小早川秀秋や脇坂安治は、大谷・平塚側を攻撃した勢力の指揮官として挙げている。 藤堂高虎は、史跡解説で正面の交戦相手に数えられる武将だ。 徳川家康は戦役における対立勢力の中心人物であって、為広を直接討ったという意味ではない。 また、京極高知を、別人の京極高次と取り違えてはいけない。 戦役全体の対立、部隊同士の交戦、個人による討取は、それぞれ別の問題なのである。
歌、碑、肖像が伝えるものは同じではない
為広をしのぶ材料は、史料としての性質がそれぞれ違う。 辞世は、彼の最期がどのような言葉で受け継がれたかを伝える。 1940年の碑は、近代の人々が古戦場に何を記念しようとしたかを示す。 長浜から垂井へ寄贈された肖像は、一幅の絵が地域で保存され、意味を見直されてきた歩みを持つ。
碑が建っているから、その場所で為広が最後の一撃を受けたと確定するわけではない。 肖像に為広を示す裏書があるから、顔立ちが本人そのままだと決まるわけでもない。 だから価値がない、という話ではない。 何を知るために使える材料かを分けると、それぞれの価値が見えてくる。
為広の姿を一枚の絵にまとめるより、異なる種類の記録を残したまま読むほうが、この人物には近づける。 秀吉の書状が伝える戦功と使者の仕事。 供奉や遺物分配が伝える奉仕。 そして関ヶ原の戦死と、その後に続く記憶。 大谷吉継の隣にいた勇将という入り口から、秀吉のもとで働いた一人の武将の生涯へ、視野を広げてみたい。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 秀吉に仕え、福原城で戦功を挙げた | 高 | 自治体が紹介する秀吉書状に通称と戦功が残る。原本は未実見 |
| 秀吉の命令を伝える使者を務めた | 中 | 書状・朱印状の引用紹介に基づく。原本未見で、詳細な任務は限定する |
| 醍醐の花見で三の丸様に供奉し、遺物分配に名がある | 高 | 福田千鶴の研究が示す、別系統の供奉記録と分配史料 |
| 垂井一万二千石の城主として大谷と共闘し、関ヶ原で戦死した | 高 | 自治体・記念館の解説と、家伝・軍記を検討する研究で骨格が一致する |
| 小早川勢を決まった回数だけ撃退した | 低 | 後世の叙述の細部。回数は本文で確定しない |
| 特定の武将・家臣が為広を討ち取った | 低 | 討取者や所属に異説があり、研究でも問題が指摘される |
| 辞世と返歌が戦場で実際に往復した | 低 | 伝承として残るが、本人の自筆や伝達経路は確認できない |
| 娘が京都で追手を振り切った | 低 | 人名辞典が伝える逸話。細部の実証は別問題 |
| 1940年の碑建立、2020年の肖像寄贈 | 高 | 文化財保護史の研究と垂井町の広報で確認できる |
参戦合戦
平塚為広の逸話
- 逸話 01
名のために――大谷吉継と交わしたと伝わる歌

辞世と返歌の伝承を表した和紙と筆の創作静物。実物の短冊ではない · AI生成イメージ 「名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば」。為広の辞世として伝わる歌だ。関ケ原観光ガイドでは、これに対する大谷吉継の返歌も紹介される。「契りあらば 六つの巷に待て暫し おくれ先立つ事はありとも」。死後の世界で先に待っていてほしい、という趣旨の言葉が、二人の結びつきを印象づける。
ただし、歌が伝わっていることと、戦闘中に実際の往復があったことは分けたい。自筆の短冊や、届けた人物・時刻を裏づける記録を、この解説から確かめることはできない。傷を負った為広が使者を走らせた、と細部まで描けば、それは史料が保証する範囲を超える。
この歌は、まず為広と大谷の最期がどう記憶されたかを伝えるものとして読める。為広は名を惜しみ、大谷は友との再会を願う。その組み合わせが、二人の戦死に後世の読者が意味を見いだしてきた理由なのだろう。共闘と戦死の史実を土台に置き、歌のやり取りは伝承として味わいたい。
- 逸話 02
京都から逃れた娘の話

戦後の家族を思わせる京都の創作情景。伝承上の娘の容貌や逃走場面を復元したものではない · AI生成イメージ 為広の死後を語る伝承には、娘の姿も現れる。講談社の『日本人名大辞典』は「平塚為広女」の項目を立て、父が関ヶ原で戦死した後、京都に潜んだ女性の話を載せている。本人の名前や生没年は明らかでなく、父との関係によって呼ばれている。
伝承によれば、娘は板倉勝重に所在を知られ、二人の子を乳母に託した。そして降伏するふりをして相手を打ち、馬を奪って逃れたという。敵の手から身を脱する大胆な人物として描かれているが、辞典の記述も「という」と結んでいる。出来事の細部まで確認された実録として読むべきではない。
父の武勇を娘へ受け継がせる物語なのか、それとも具体的な出来事の記憶を含むのか。現状の根拠だけでは決められない。この話から確かな子どもの人数や家系図を作ることも避ける。戦死した武将の家族を、後の人々がどのような姿で語ったのか。その問いを残す逸話である。
- 逸話 03
天神像として守られていた一幅

古い絵の伝来調査を表す創作静物。平塚為広像や所蔵施設の実写ではない · AI生成イメージ 長浜市平塚町に伝わった絵は、長く天神像として扱われていた。ところが、裏書には為広を示す記載があった。『広報たるい』2021年2月号は、この絵が2020年10月に垂井町へ寄贈されたことを伝えている。町の文化財アーカイブにも「平塚為広像」として掲載される作品だ。
絵の表だけを眺めていたときと、裏側の文字を読んだ後とでは、作品に向けられる問いが変わる。誰を描いた絵なのか。なぜその土地に伝わったのか。町の解説では表装が江戸時代のものとされているが、それだけで顔が本人そっくりだと判断することはできない。
肖像画には、描かれた人物の歴史と、絵が保存されてきた歴史の両方がある。この一幅は、為広の顔立ちを確定する写真の代わりではなく、彼の名が地域で受け継がれた痕跡として大切にしたい。本記事のAI画像は、この現存画を復元したものではない。史料としての肖像と、記事の場面を伝える創作画像は、用途を分けている。
関連人物
所縁の地
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 広報たるい2021年2月号・24頁「歴史探訪 垂井城主 平塚為広」垂井町参照日 2026-10-03
- 広報たるい2014年3月号・24頁「軍師官兵衛にかかわるもう一人の武将」垂井町参照日 2026-10-03
- 垂井城主平塚因幡守為広公(著者・刊年未詳、書状の引用は原本未見)郷土史資料公開サイト参照日 2026-10-03
- 福田千鶴「小出秀政に関する基礎的研究」九州文化史研究所紀要66、32–33頁九州大学附属図書館・九州大学学術情報リポジトリ参照日 2026-10-03
- 平塚為広像垂井町教育委員会・垂井町文化財アーカイブ参照日 2026-10-03
- 平塚為広碑関ケ原観光ガイド参照日 2026-10-03
- 大谷吉継コース岐阜関ケ原古戦場記念館参照日 2026-10-03
- 小西愛之助「統一政権の成立と部落の成立―和泉国樫井部落の成立を中心として―」『藝術8 論文集』11頁大阪芸術大学参照日 2026-10-03
- 丸山幸太郎「文化財の保護と活用の史的考察」岐阜女子大学紀要30、103頁岐阜女子大学参照日 2026-10-03
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus「平塚為広女」講談社・コトバンク参照日 2026-10-03
- 西美濃 TRAIL JOURNEY 史跡解説・3頁「平塚為広陣跡」西美濃山城トレイルサイト参照日 2026-10-03












