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戦国時代別所家15581580
別所長治|三木の干殺しに散った播磨の若名門の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
播磨三木城三木合戦
べっしょ・ながはる

別所長治|三木の干殺しに散った播磨の若名門

BESSHO NAGAHARU · 1558 — 1580 · 享年 23
別所
生年
永禄元年
1558・通説
没年
天正8年
1580・享年23(数え・通説)
出身
播磨国
居城
三木城
播磨
家紋
左二つ巴
LEFT TWO COMMA

別所長治

別所長治は、わずか二十三歳で一族と城兵およそ五千の命を背負い、約一年十か月の兵糧攻めを耐え抜いたうえで、城兵助命と引き換えに自ら腹を切った、戦国屈指の悲劇の最期を背負わされた若き名門である。

その名は、合戦の派手な槍働きで残ったのではない。播磨の名門「別所氏」の若き当主として、織田信長から離反し、毛利・本願寺・荒木村重とともに反織田方の連動の一翼を担い、羽柴秀吉の包囲をおよそ一年十か月のあいだ持ちこたえた——その持久と最期の引き際に、長治の生涯の凄みがある。

別所氏は、播磨守護・赤松氏の流れを汲むと伝わる東播磨の名族である。長治は永禄元年(1558年)に生まれ、父・別所安治の早世(元亀元年・1570年没説が有力)を受けて、若年で三木城主の座を継いだ。叔父・吉親(賀相、通称「山城」)と重棟が後見役となり、別所家は当初、織田政権との関係を保ちながら東播磨に勢力を張る。長治自身、元亀から天正初年にかけて織田信長のもとに伺候し、『信長公記』も長治の参洛を複数記す。

しかし、天正六年(1578年)二月末から三月初め、別所長治はついに信長から離反する。本願寺顕如の三月八日付書状にすでに「三木・高砂・明石」らの一味が見え、離反の体制はこの段階で確定していた。動機は、加古川評定での秀吉不興説、赤松流の名門意識説、叔父・吉親主導の主戦派説など複数の伝承が積み重なっており、近年は『羽柴家文書写』から、秀吉方が別所方の八城を先に攻撃したことが要因とする見方も出ている。いずれにせよ、別所長治は毛利・本願寺・荒木と連動する反織田方の連動の一翼を、自らの三木城に背負うことになった。

秀吉は三木城を直接攻めず、城を取り巻く付城群と平井山本陣で兵糧路を封じる包囲戦に持ち込んだ。後世「三木の干殺し」と呼ばれることになる戦法である。野口城、神吉城、志方城、淡河城、丹生寺と、三木城を支える支城群は順に陥落していく。天正七年(1579年)六月十三日、秀吉の参謀・竹中半兵衛は平井山陣中で病没したと伝わる。同年秋には荒木村重の有岡城も落城し、黒田官兵衛も救出された。城を包む網は、ゆっくり、しかし確実に閉じていく。

それでも長治は、城兵およそ五千とともに、約一年十か月のあいだ三木城に踏みとどまった。援軍はついに来なかった。 毛利水軍は補給の道を阻まれ、荒木は摂津から逃亡し、有岡・花隈方面の織田方支配が確立する(本願寺の大坂退去は三木落城後の天正八年閏三月以降である)。三木城だけが、播磨の中央に孤立して残った。

そして天正八年(1580年)正月十五日、長治・山城(吉親)・彦進(友之)の三人は、別所孫右衛門を介して秀吉方の小森与三左衛門に書状を出す。秀吉はこれを受けて城兵助命を許し、酒を城中へ送ったと『信長公記』は記す。正月十七日申刻、長治は妻子をみずから害したうえで切腹した。介錯した三宅肥前入道は殉死する。弟・彦進(友之)もまた切腹し、叔父・山城(吉親)は火を放とうとして諸士に生害された。三人の首は安土の信長のもとへ送られ、城兵は助命される。

長治が三木城内で詠んだとされる辞世は、『信長公記』巻十三にこう載る——「いまはたゝうらみもなしや諸人の命にかはる我身と思へは」。

だから、「兵糧攻めに屈した若き敗将」「忠義の鑑」という一枚の絵だけでは、別所長治を語り切れない。長治の凄みは、二十三歳という若さで反織田方の連動の一翼を背負い、約一年十か月の極限の持久ののちに、城兵助命と引き換えに自ら腹を切った、その引き際の重さにある。 享年は数えで二十三が通説か、それとも『信長公記』が記す「廿六」か。妻はどこから来たのか。離反は誰の判断だったのか。「忠義の鑑」という像はいつ作られたのか——この先の「読み解き」で、ひとつずつ史料の層を分けて確かめていく。

01名門PEDIGREE

別所家と播磨の名門

別所家の名門と若き当主・小三郎
別所家の名門と若き当主・小三郎

別所長治は永禄元年(1558年)、播磨国・三木城主別所安治の子として生まれた。通称は小三郎で、『信長公記』も最期まで「小三郎」と呼ぶ。別所氏は、播磨守護・赤松氏の一族とも被官とも伝わる東播磨の名門である。則治の代に三木城を拠点に勢力を張り、嘉吉の乱以降に揺らいだ赤松一族の勢威のなかで、東播磨を実質的に束ねる立場へと押し上がってきた。

ところが、長治がまだ年若いうちに、父・安治が没してしまう。没年は元亀元年(1570年)説が有力とされ、三木市の年表もこの整理を採る。一説には永禄四年(1561年)没とも伝わるが、これは祖父世代・別所就治や別系の人物との混同である可能性が高い。いずれにせよ、長治はまだ十代前半で家督を継ぐことになった。

若年の当主を支えたのは、叔父・別所吉親(賀相・通称「山城」)と重棟であった。吉親は『信長公記』にも「別所山城よしちか」と明記される人物で、長治政権の中軸として最終局面まで前面に出てくる。重棟は別所家のもう一翼を担い、後に長治の離反のさいに袂を分かつことになる。幼くして家を継いだ若名門の当主と、その背後に立つ叔父二人——この三角形こそが、別所家の運命を左右する基本構造であった。

赤松氏の流れを汲む播磨の名族として、別所家には侮りがたい誇りがあった。だが、その誇りは、やがて中央から押し寄せる新しい権力——尾張の信長と、その先鋒となる成り上がりの秀吉——とのあいだで、軋みを生んでいくことになる。

別所長治が三木城内で詠んだとされる辞世の和歌(『信長公記』翻刻本文の表記)

「いまはたゝうらみもなしや諸人の命にかはる我身と思へは」

—— 『信長公記』巻十三 播州三木落居之事
02上洛OBEDIENCE

上洛軍と織田信長との縁

若き当主、織田信長のもとに伺候する
若き当主、織田信長のもとに伺候する

別所氏が織田信長のもとに伺候を始めるのは、永禄十一年(1568年)頃とされる。信長の上洛と前後して、播磨の有力国人衆も中央政権への接近を試みていた。元亀元年(1570年)正月、十代の小三郎自身が上洛したと三木市の年表は伝える。家を継いだばかりの若き当主が、京の信長のもとに姿を見せた——これが長治と信長との縁の出発点である。

その後の長治の動きは、『信長公記』にいくつもの足跡として残る。天正三年(1575年)十月、天正四年(1576年)十一月、天正五年(1577年)正月から二月にかけてなど、長治の参洛は同時代史料で確認できる。つまり、長治は元亀から天正初年にかけて、織田政権のなかで「播磨の若き同盟者」としての顔を確かに持っていたのである。

この時期の別所家は、信長と毛利のあいだに立つ播磨において、明らかに織田側に傾いた立ち位置を取っていた。秀吉が中国攻めの先鋒として播磨に入ってくると、長治もまた当初はこれに歩調を合わせる。名門意識と新興政権——この二つは、この段階ではまだ折り合いをつけて並んでいた。

だが、織田政権の中核から遣わされる秀吉と、赤松流の名門意識を担う別所家とのあいだには、対等な同盟者なのか、それとも秀吉の指揮下に置かれる一国人なのか、という微妙な温度差が潜んでいた。若き当主・小三郎が信長のもとへ赴いたあの上洛から数年、別所家と織田政権の関係は、表向きの友好の下で、ゆっくりと張り詰めていく。

後世に流布した辞世の通行表記の一例(「あらじ/あらず」「我身/我が身」「かはる/代はる」などの諸本異同がある)

「今はただ恨みもあらず諸人の命に代はる我が身と思へば」

—— 後世通行表記
03東播磨HARIMA

三木城主と東播磨の盟主

東播磨を束ねる三木城と若き盟主
東播磨を束ねる三木城と若き盟主

別所長治が腰を据えた居城・三木城は、播磨国の中央部、三木山に築かれた東播磨随一の大城であった。本丸・二の丸・新城を備え、城下を抱え、神吉城・志方城などの別所方拠点と、淡河城・端谷城など周辺の反織田方拠点が、東播磨に網状に連なっていた。その配置は、東播磨を別所氏の影響下に置く要石として機能していた。

長治の時代、三木城の威光は最盛期にあった。播磨は、東に別所、西に小寺・赤松、南に播磨灘の海上勢力、北に山陰の毛利、と複数の勢力が入り組む地である。そのなかで、長治は東播磨を実質的に束ねる「盟主」として振る舞った。家臣団は別所七家を中心に組織され、若き当主のもとで、三木城は東播磨の意思決定の中枢となっていた。

長治の周辺には、小寺政職黒田官兵衛の主君)や、播磨灘を挟んで連動しうる宇喜多直家、北近江で揺れる浅井氏の旧縁など、複雑な人脈が重なっていた。波多野秀治(丹波八上城主)との婚姻伝承もこの段階に位置づけられる。播磨の名門の若き当主は、地縁・血縁の網のなかで、それぞれの相手と微妙な距離を測っていた。

一方で、織田政権の先鋒として中央から派遣されてくる秀吉の存在は、別所家の「東播磨の盟主」としての立ち位置を、徐々に圧迫していく。名門の盟主か、それとも織田の一武将か。その答えは、まだ天正六年の春までは、別所家の自尊と織田の権威のあいだで宙づりにされていた。三木城の威光と、長治の若き矜持——この二つが、やがて中央権力に対する離反という、戦国でも稀な選択を生むことになる。

04離反REVOLT

天正六年の離反

三木城評定の間で離反を決する長治と吉親
三木城評定の間で離反を決する長治と吉親

天正六年(1578年)の春、別所長治は信長から離反する。長く後世の語り草となるこの決断は、しかし、史料を厳密に見ていくと、「二月離反」と日付を一点に確定することは難しい。『信長公記』巻十は天正六年二月二十三日条で別所方の三木「楯籠」を記し、本願寺顕如の三月八日付書状でも「三木・高砂・明石」らの一味化が確認できることから、二月末から三月初めには離反の体制が固まっていた——これがいちばん堅い書き方である。神戸市史系の解説も「三月開始」を採る。

離反の動機について、後世はいくつもの説を積み重ねてきた。(1)加古川評定で秀吉に対面した長治が、成り上がりの秀吉の振る舞いに不興を示したとする伝承。(2)叔父・吉親(山城)が主戦派の中核となり、若い長治を引きずったとする見方。(3)赤松流の名門意識から、秀吉の指揮下に立つことを潔しとしなかったとする説。これらは『別所記』『播州太平記』などの近世軍記系で繰り返し語られてきた。

近年は、『羽柴家文書写』の検討から、秀吉方が別所方の八城を先に攻撃したことが離反の引き金になったとする見方も浮上している。三木市の解説もこの新しい整理を視野に入れる。ひとつの劇的な動機で一気に説明してしまうのではなく、複数の要因が重なった結果として、別所家は反信長の側へ踏み出した——そう読むのが、現時点で誠実である。

離反した別所家は、毛利輝元を当主とする西国の毛利氏、本願寺顕如の門徒衆、そして摂津の荒木村重と連なる「反織田方の連動」の一翼を担うことになる。三木城は、その播磨における最前線拠点となった。若き当主・別所小三郎長治は、二十一歳の春に、戦国で最も難しい選択肢——「中央権力に対する離反」を、自らの城に背負ったのである。

05包囲SIEGE

三木の干殺し前半

三木城外・平井山に押し寄せる秀吉軍
三木城外・平井山に押し寄せる秀吉軍

別所長治の離反を受けて、羽柴秀吉は中国攻めの主軸を、三木城の制圧へと切り替える。だが、秀吉は三木城そのものを直接攻めなかった。城を取り巻く付城群と平井山本陣で兵糧路を封じる包囲戦——後世「三木の干殺し」と呼ばれることになる長期戦略へと移行したのである。

まず東播磨の別所方支城が、順に攻撃を受けていく。天正六年(1578年)四月十二日頃には野口城が早くも開城。同年六月から七月にかけて、神吉城・志方城織田信忠の率いる軍勢によって攻め落とされる。神吉頼定は神吉城で戦死し、志方城も落ちる。高砂城は攻撃を受けつつも一定期間持久する。

天正七年(1579年)五月末には、別所方の淡河城丹生寺もまた落城する。これは小早川隆景の書状にも見えるところで、堅い情報である。三木の北西を支えていた拠点の喪失は、長治にとって致命的だった。端谷城については、後世軍記では志方城の後に落城したと伝えられるが、一次史料は乏しく、落城時期は未詳とするのが正確である。

支城が次々と陥落するなか、秀吉の本陣は三木城の北西の小山・平井山に置かれた。「干殺し」という言葉自体は『信長公記』にも見えるが、「三木の干殺し」という固定句は同時代の固有呼称ではない。『甫庵信長記』『太閤記』系の普及によって、近世になってから秀吉の三大兵糧攻めの一つとして定着していく呼称である。本記事でも、「後に『三木の干殺し』と呼ばれる包囲戦」という距離感を保つ。

長治は、毛利方からの海路の援軍を頼みの綱とした。支城を奪われ、平井山に本陣を構えられた三木城は、地上の通路を断たれ、海と山陰の毛利を頼みに、あと何か月、あと何年と数える籠城戦へと突入していったのである。

06極限STARVATION

援軍待ちの極限

干飯の蔵が空いた三木城内と援軍を案じる長治
干飯の蔵が空いた三木城内と援軍を案じる長治

包囲戦は長引いていく。一年が過ぎ、城内の備蓄は尽き、毛利方からの海路補給は、播磨灘の織田方水軍によって細々と寸断されていった。城内では飢えが進み、『信長公記』が「牛馬を食し」と記す極限状態へと、長治と城兵およそ五千の生活は追い込まれていく(人馬の屍を食らったとする凄惨な描写は、後世軍記・地誌の段階に色濃く見える)。

その渦中、秀吉方にも大きな喪失が訪れる。天正七年(1579年)六月十三日、秀吉の参謀・竹中半兵衛重治が、三木合戦中に病没したと伝わる。没地は平井山陣中とするのが通説で、平井山本陣内か、別陣かは伝承差がある。死因は病死で、肺病・労咳とする具体的な病名は後世の推定である。三木城を絞り上げる側にも、若くして倒れる名将がいた。半兵衛の死は、敵側の物語ながら、後世の三木合戦叙述で重要な挿話として語り継がれていくことになる。

同じ年の秋、摂津で別所と歩調を合わせて離反していた荒木村重の有岡城もまた落城する。荒木は妻子・一族を残して城を脱し、毛利のもとへ逃れる。秀吉の参謀・黒田官兵衛もまた、有岡城落城前後に救出された。官兵衛の幽閉は天正六年(1578年)十月頃から天正七年(1579年)秋まで続いたとされ、三木合戦への直接的影響は秀吉方の作戦面に影を落とした程度に留まる。

毛利水軍の援軍計画もまた、天正七年(1579年)以降の兵糧搬入路の遮断、平田大村合戦後の補給途絶、有岡・花隈方面の織田方支配の確立が重なって、別所方への直接救援にまでは届かなかった(本願寺の大坂退去は三木落城後の天正八年閏三月以降のことで、三木救援不達の直接原因とは時系列が異なる)。援軍は、ついに来なかった。三木城は、播磨の中央に、たった一つ取り残された。

飢えの城内で、長治はそれでも矜持を失わなかったと、近世の地誌は伝える。東播磨の盟主としての名門の誇りが、最後の最後まで、城兵を支える背骨であり続けた。極限のなかで、城は静かに、最終局面へと近づいていく。

07辞世FAREWELL

辞世と最期

三方と硯と落日の城内・辞世を詠む直前の長治
三方と硯と落日の城内・辞世を詠む直前の長治

天正八年(1580年)正月、三木城を支えていた最後の防衛線が次々と崩れる。正月六日には宮上構が、十一日には鷹尾山の砦が落ちる。城を取り巻く秀吉方の包囲は、いよいよ城内に手が届くところまで迫った。

正月十五日、城内から動きが起こる。『信長公記』巻十三「播州三木落居之事」によれば、城内の別所孫右衛門が城外の小森与三左衛門を取次の使者として呼び出し、長治・山城(吉親)・彦進(友之)三人の連署した書状が、秀吉方の浅野弥兵衛と別所孫右衛門ら宛に申し送られた。書状の趣旨は、城兵助命と引き換えに、自分たち三人の命を差し出す——という最期の交渉である。秀吉はこれを許し、酒を城中へ送ったと『信長公記』は記す。後世の地元伝承では「大屋安兵衛を使者とした」と語られることも多いが、これは後世軍記・地元伝承の系統で、同時代の一次史料は『信長公記』の小森与三左衛門を伝える。

正月十七日、申刻(午後四時ごろ)。別所長治は、妻子をみずから手にかけたうえで、三木城内で切腹した。介錯した家臣・三宅肥前入道は、長治の介錯ののちに殉死する。続けて弟・**彦進(友之)**もまた切腹した。叔父・山城(吉親)は、自刃せず火を放とうとし、これを諸士の手で生害された——『信長公記』は、三人の最期をこのように書き分けている。「整然たる三人同時自刃」として語られるのは後世軍記の整理であって、同時代の現場像とは温度が違う。

長治が三木城内で詠んだとされる辞世は、『信長公記』巻十三にこう載る——「いまはたゝうらみもなしや諸人の命にかはる我身と思へは」。現代に広く伝わる「今はただ恨みもあらず諸人の命に代はる我が身と思へば」は、後世の通行表記である。

三人の首は、安土の信長のもとへ送られた。『信長公記』は「城中之者共助被出」と記し、城兵は助命された(その数は地誌・後世資料で五千前後とも伝わる)。三木城は、その後、秀吉の手による東播磨支配の拠点として再編されていく。反織田方の連動の一翼を、二十三歳の身で背負った若き名門の当主は、城兵の命に自らの命を代えて、播磨の中央に名を残した。別所長治の生涯は、戦国の名門の誇りと、極限の引き際の重さを、一首の和歌のなかに刻みつけて閉じる。