大坂冬の陣図屏風大坂冬の陣|1614年 徳川対豊臣の第一幕(真田丸/淀川陣屋)
1614年、徳川家康が約20万の大軍で大坂城を包囲、真田信繁は南面弱点を補う真田丸で井伊・松平勢を撃退。方広寺鐘銘から堀の埋め立てまで、豊臣家滅亡の伏線となった冬の陣を整理する。
戦いの概要
大坂冬の陣は、七十三歳の徳川家康と二十二歳の豊臣秀頼が、天下の主を決めるべく激突した戦国最後の攻城戦である。慶長十九年(1614年)十一月、家康は約二十万の大軍を率いて摂津国大坂へ押し寄せ、豊臣方は秀吉が築いた天下の名城に約十万を集めて籠城した。関ヶ原から十四年、征夷大将軍を退いてなお駿府で実権を握る家康と、大坂城で成人した豊臣家の若き当主が、初めて直接刃を交えたのである。冬の陣は、豊臣家滅亡へ至る二段構えの前半戦であり、「堀」という物理装置をめぐる交渉戦でもあった。
一般には「真田信繁が真田丸で徳川先鋒を撃退した合戦」として記憶されている。だが、開戦に至る政治過程、真田丸の形状諸説、講和条件をめぐる並立解釈まで含めると、冬の陣は決して単純な攻城戦ではない。方広寺の鐘銘に付けられた因縁、二十万を集めた徳川方の政治動員、大坂城へ流れ込んだ関ヶ原の敗残者たちの再起、そして講和成立の翌日から堀を埋めにかかった徳川方の戦後処理まで、半年足らずの短期間で戦国乱世の終着点が姿を現しはじめる。この戦いを一枚絵で捉えると、堀と講和と伏線がすべて欠け落ちる。
秀吉が慶長三年(1598年)に没して以降、豊臣政権の主導権は関ヶ原を経て徳川家の側へ大きく傾いていた。慶長八年(1603年)二月、家康は征夷大将軍に補任され江戸幕府を開き、二年後には秀忠に将軍職を譲って徳川家の世襲を内外に示した。一方、大坂の秀頼六十五万石余は、この新しい秩序にとって最後の障害となっていた。冬の陣は、突然湧いた怨恨ではない。関ヶ原後の天下を誰の名で確定させるのかという問題が、方広寺の鐘銘という一点に集約されて、ついに大坂城の石垣の前まで押し寄せたのである。冬の陣は、関ヶ原以後に組み上がりつつあった徳川支配体制が、大坂へ最後の圧力を送り込んだ戦役である。
方広寺鐘銘事件と出陣の口実
開戦の直接の口実は、慶長十九年(1614年)七月に転がり込んできた。秀頼が再建した京都方広寺の梵鐘に刻まれた銘文「国家安康 君臣豊楽」を、家康の側近・金地院崇伝と林羅山が「家康の名を分断し、豊臣を君として楽しむ呪詛である」と糾弾したのである。世にいう方広寺鐘銘事件である。豊臣方は使者・片桐且元を駿府に派遣して弁明を試みたが、家康は且元と直接会わず、複数の和解条件を示したと伝わる。鐘の文字をめぐる論争は、豊臣を戦場へ引きずり出すための、十分すぎる政治的導火線となった。
且元は大坂帰還後、豊臣家中で徳川内通の疑いをかけられて大坂城を退去するに至る。豊臣方の重臣が城を離れるのは、指揮系統そのものが揺らぐ深刻な事態である。しかも且元は賤ヶ岳七本槍の一員として秀吉に仕えた古参であり、彼を追い出したことは豊臣方内部の判断力の狭さを示す出来事にもなった。家康はこれを契機として、諸大名に出陣を命じた。かくして、鐘銘の解釈は、その真偽を問われる前に、戦場を開くための号砲へと転化していったのである。

鐘銘の解釈そのものについては、現代の研究では「徳川方が政治的に利用した側面が明らかだ」とする見方が一般的である。ただし、当時の貴人名の取り扱いを不敬とみる論点もあり、単純な曲解だけで片付けられるかは議論が残る。鐘銘事件は宗教的な銘文問題に見えて、実質は政権の主語を決めるための政治の刃だった。いずれにせよ、開戦の政治的口実としては十分に機能した。慶長十九年十月、家康は駿府から西へ動きはじめ、諸大名を大坂へと集めていく。
秀頼と淀殿はもはや戦を避けえぬと覚悟し、関ヶ原で改易・浪人となった旧豊臣恩顧の武将たちを大坂城へ呼び集める。だが、この呼びかけに応じる大名はほとんどおらず、主に呼応したのは主家を失った浪人たちであった。ここに、豊臣家がすでに大名層の忠誠を組織する力を失っていたことが露呈している。方広寺鐘銘事件は、開戦の口実であると同時に、豊臣家の政治的孤立を白日のもとにさらす契機でもあった。
徳川二十万の包囲と大坂五人衆の集結
慶長十九年十一月、家康は約二十万の大軍を率いて大坂に到着した。茶臼山に本陣を敷いた家康、続いて江戸から秀忠が約六万を率いて後着する。徳川方の兵力は、これに諸大名の軍勢を加えて約二十万に及んだと伝わる。もちろん兵力数には諸説あり、二十万は概数にすぎない。しかし規模の大きさそのものは疑いの余地がない。徳川方は関ヶ原以後に固まった大名秩序の総動員をかけたのである。徳川二十万という数字は概数ながら、徳川方の大規模動員と、関ヶ原以後の全国大名を組み上げた徳川支配体制の可視化であった。

これに対し、大坂城に集結した豊臣方は約十万。うち大名として明確に豊臣方へ加わる者はほとんどなく、主力は関ヶ原で改易・浪人となった旧豊臣恩顧の武将たちであった。中でも中核をなしたのが「大坂五人衆」と呼ばれる浪人衆の指揮官である。真田信繁(後世呼称「幸村」)、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登。華やかな名が並ぶ。だが彼らの多くは、関ヶ原後の秩序からこぼれ落ちた者たちでもあった。大坂城は、滅びゆく旧主家の城であると同時に、再起を賭ける者たちの巨大な受け皿となったのである。

大坂城の防御は、秀吉が設計した惣構によって支えられていた。東は玉造口の谷、北は淀川と寝屋川、西は海寄りの低地。三方は自然の水域に守られ、攻め手は容易に近づけない。ただ一つ、南面のみが平地に開いていた。どれほど堅い城にも、攻め手が集中する口はある。この構造こそが冬の陣の戦い方を決定づける。すなわち、徳川方は南面を主攻とせざるをえず、豊臣方はその南面を守り抜けば城は落ちない。三方を水と川に守られた大坂城で攻め手が集中しやすい主要な弱点は南面であり、冬の陣の力学はこの一点に集中していた。
戦端は十一月十九日の木津川口の戦いで開かれる。徳川方の九鬼守隆・向井忠勝らが、豊臣方の水軍を破って大坂湾側の制海権を確保した。続いて十九日から二十六日にかけて、博労淵・野田福島の砦がつぎつぎと徳川方の手に落ちる。豊臣方は城下の出丸を失い、大坂城本体への籠城へと押し戻された。徳川方が予定していた包囲網の完成である。
真田丸攻防
十二月三日、家康はついに大坂城への総攻撃を諸大名に命じる。しかし、総攻撃命令の翌日、徳川方は冬の陣最大の失敗を経験することになる。十二月四日、井伊直孝・松平忠直らの徳川先鋒(前田利常勢も真田丸方面に加わったと伝わる)が、大坂城南東の出城真田丸へ攻めかかったのである。真田丸は、大坂城南面の弱点を補うべく真田信繁が急造した独立曲輪であった。土塁と堀、そして柵列で防御を固めたこの砦は、比較的少数の兵で大軍の徳川先鋒を受け止める装置として設計されていた。真田丸は、大坂城南面の弱点を、そのまま徳川先鋒の吸い込み口へ変える装置であった。

信繁の防戦は、後世には緻密な迎撃戦として語り継がれてきた。柵越しに敵を引き寄せ、頃合いを見て鉄砲一斉射撃を浴びせる。突撃した徳川勢は塀際で次々と倒れ、退路にも伏兵の銃撃が降り注いだ。井伊勢を中心に徳川方の損害は甚大で、徳川軍は一日で多くの死傷者を出して撤退を余儀なくされたとされる。冬の陣における最大の局地戦であり、以後家康は力攻めを断念して持久戦へ切り替えた。大軍が小さな出城に絡め取られ、攻め方そのものを変えさせられたのである。真田丸の一戦は、局地戦の勝利であると同時に、徳川方の戦争計画そのものを書き換えさせた戦術的成果であった。

なお真田丸の正確な形状と位置については、長く半月形と図像化されてきた。だが、近年の地中レーダー調査や古絵図の比較研究では、長方形に近い独立曲輪だったとみる説も提示されており、定説は揺れている。ここは人気のある名場面ほど慎重に読むべきところである。絵として強い形が、ただちに史実の形であるとは限らない。伝承地は大阪市天王寺区餌差町・玉造本町一帯とされ、現在は心眼寺や三光神社、真田山公園がその一角に点在する。真田丸は有名であるからこそ、形状も位置も一枚絵で決め切らない史料的慎重さがいる。
真田丸の失敗を受け、家康は戦い方を大きく転換した。城への直接攻撃を控え、大砲による長距離砲撃と兵糧攻めに戦略を切り替えたのである。大坂城本丸への砲撃は、堅牢な石垣を越えて城内へ響き、淀殿の御殿にまで届いたと伝わる。心理的圧力が籠城側を確実に消耗させていく。豊臣方の抗戦意思そのものが、少しずつ揺らぎはじめていた。ここで冬の陣は、力攻めの局面から交渉の局面へと移行していく。
講和と堀の埋め立て
十二月中旬、京・大坂の人心も次第に厭戦へ傾いていく。家康は淀殿の妹・常高院(初)を大坂側の窓口とし、家康側からは阿茶局が交渉役となって、講和交渉が本格化する。両者が主導したとされる講和交渉は、大名同士の直接会談ではなく、女性の縁故を介した迂回ルートで進行した点で、当時の政治文化を色濃く反映している。十二月二十日、ついに講和が成立した。講和は、大砲の連射で消耗した淀殿の意思と、力攻めを断念した家康の判断が、女性の縁故ネットワークを通じて結び直された妥協点であった。

講和条件は「大坂城の外堀埋め立てと出丸・惣構の取り壊し」と伝わる。ただし、その範囲をめぐっては当時から解釈の隔たりがあった。家康は和議成立の翌日から、この合意を徳川方有利に解釈し、実力で堀埋めを推し進めたとされる。徳川方の作事奉行は外堀を埋めるや否や、内堀の埋立てに着手し、二の丸の堀までも一気に埋め尽くしてしまったという。豊臣方が抗議したときには、すでに大坂城は本丸だけが裸で立つ「裸城」と化していた。合意の解釈が割れていたとしても、堀を失った時点で、大坂城の戦う力は決定的に削られた。
もっとも、外堀埋め立てが当初の合意の範囲内とする徳川方の認識と、内堀まで及んだのは違約とする豊臣方の認識とは並立しており、後世の評価も論者によって割れる論点である。だからこの場面は、単なるだまし討ちの物語だけで処理できない。徳川方は合意の文言を拡張解釈し、豊臣方は現場で抵抗しきれなかった。両者の力量差が、講和成立の翌日という速度で表面化したのである。
冬の陣は、こうして開戦から約一か月半で終息した。しかし、講和は終戦の宣言であると同時に、次の敗北条件を作る局面でもあった。堀を失った大坂城は、もはや籠城戦を戦える城ではない。城主が同じでも、城の防御条件は決定的に変質してしまったのである。冬の陣の講和は、戦闘を止めた瞬間であると同時に、豊臣家の次の敗戦条件を先取りして書き込んだ局面である。
夏の陣へつながる冬の陣の意味
大坂冬の陣は、開戦の一か月半で終わった短い戦役だった。だが、その短さは決着の軽さを意味しない。むしろ、この短期間で堀という物理装置が失われたことこそが、翌年(1615年)の夏の陣で豊臣家が滅亡する決定的な条件となったのである。
冬の陣を評価する視点は、大きく分けて二つある。ひとつは真田信繁の武功を軸に語る英雄的物語である。真田丸で徳川先鋒を撃退し、家康の総攻撃計画を破綻させた武功は、戦国末期の合戦史でも屈指の成果として記憶されている。もうひとつは、徳川方の政治的成果を軸に語る戦略的評価である。力攻めを避けつつ、講和という形で堀を奪い、次の戦役の勝算を書き換えたのは、老練な家康ならではの持久戦の勝利であった。冬の陣の本当の勝敗は、真田丸の砲声ではなく、堀を埋めるための鍬の音で決まっていた。
この二つの評価は、どちらも冬の陣の一面を捉えている。しかし、両者を接続すると、冬の陣は「戦闘では豊臣方が善戦しつつ、戦争では徳川方が勝利していた」という奇妙な帰結が見えてくる。真田信繁の勝利は否定できない。だが、その勝利を戦役全体の勝利に翻訳する政治力を、豊臣家はもはや持っていなかったのである。
翌年の夏の陣で、豊臣方は堀のない大坂城から城外野戦に押し出される。道明寺で又兵衛が、若江で重成が、天王寺で信繁が、それぞれ討死し、五月八日に大坂城は落城する。この帰結はすでに、冬の陣の講和成立の瞬間から準備されていたのである。冬の陣は、戦国最後の攻城戦であり、同時に豊臣家の敗北条件を先に書き込んだ講和の戦役でもあった。詳細な野戦展開と豊臣家滅亡の経緯は、続く「大坂夏の陣|1615年 豊臣家滅亡と戦国終焉」で扱う。
KEY POINTS · 合戦のキーポイント
- 01
方広寺鐘銘事件
1614年7月、方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」を家康が呪詛と見なし、開戦の政治的口実となった。
- 02
真田丸攻防
12月4日、真田信繁が大坂城南面に築いた出城で井伊・松平ら徳川先鋒を撃退し、家康に力攻めを断念させた。
- 03
講和と堀埋め立て
12月20日、常高院と阿茶局の交渉で講和成立。翌日から外堀に続き内堀・惣構にまで及ぶ形で埋められたとされ、大坂城は裸城化した。
両軍の対比
徳川家康
豊臣秀頼
布陣図
- 01徳川家康(東軍)
- 02徳川秀忠(東軍)
- 03井伊直孝(東軍)
- 04松平忠直(東軍)
- 05前田利常(東軍)
- 06藤堂高虎(東軍)
- 07上杉景勝(東軍)
- 08豊臣秀頼(西軍)
- 09真田信繁(西軍)
- 10後藤又兵衛(西軍)
- 11毛利勝永(西軍)
- 12長宗我部盛親(西軍)
- 13明石全登(西軍)
山岳: 淀川・大坂城・玉造口・真田丸・茶臼山
布陣図
- 01徳川家康(東軍)
- 02徳川秀忠(東軍)
- 03井伊直孝(東軍)
- 04松平忠直(東軍)
- 05前田利常(東軍)
- 06藤堂高虎(東軍)
- 07上杉景勝(東軍)
- 08豊臣秀頼(西軍)
- 09真田信繁(西軍)
- 10後藤又兵衛(西軍)
- 11毛利勝永(西軍)
- 12長宗我部盛親(西軍)
- 13明石全登(西軍)
山岳: 淀川・大坂城・玉造口・真田丸・茶臼山