犬姫(お犬の方)は、織田信秀の娘で、織田信長の妹である。最初の夫は大野城主の佐治信方(為興)。死別後、1576年ごろに細川昭元と再婚した。お市の方とは別人で、ともに信長の妹として知られる。
没日は天正10年(1582年)旧暦9月8日と伝わるが、死因は確定できない。兄を失った本能寺の変と同じ年であることが、さまざまな推測につながっている。信長がお犬に宛てた朱印状、龍安寺の肖像、子孫につながる寺院文書の研究を読み合わせ、その生涯と残された疑問を見ていこう。
犬姫とは誰か。信長の妹「お犬」の名をたどる

犬姫は、お犬の方として知られる織田信長の妹である。美術史家の渡邊一は、龍安寺に伝わる「細川昭元夫人像」の解説で、名を犬、父を織田信秀と記している。現在の人名辞典でも、お犬は信長の妹として立項される。まず押さえたいのは、この人物関係だ。
呼び方は資料によって変わる。人名辞典では「お犬」、京都府の朱印状解説では「おいぬ」、肖像画の作品名では「細川昭元夫人」となる。大野殿という呼称も伝わる。名前、暮らした土地や婚家、夫との関係を示す語が、一人の女性を別の角度から指している。
本稿では検索で使われる犬姫を見出しに置き、本文ではお犬とも呼ぶ。ただし「犬姫」が当時の正式な称号だったという意味ではない。また、現代の解説で用いられる名がすべて本人の自署で確認されているわけでもない。信長の妹で佐治氏に嫁ぎ、のちに昭元の妻となった女性、という経歴と合わせて見分ける。
生年は確定できない。1550年生まれとする紹介もあるが、名の「犬」を戌年に結び付けて年を選ぶだけでは、生年月日の証明にはならない。十二支は十二年で巡るうえ、そもそも生まれ年に由来する命名だったかどうかを確かめる必要がある。このため、本稿では生年を不詳とした。
母についても同じ慎重さが要る。信長の妹という続柄は、信長と母が同じだったことまで含まない。母を土田御前とする説明を、そのまま確定した家系図へ移すことは避ける。幼少期の居所や教育、兄との会話も詳しくは追えないが、成人後には婚姻と収入に関わる具体的な記録が現れる。
お市の方との関係と、二つの家族を結ぶ婚姻

お市の方も、犬姫も、織田信長の妹として知られる。お市は浅井長政の妻、犬姫は尾張の佐治氏、のち細川昭元の妻となった女性であり、同じ人物の別名ではない。二人を区別するには、誰の妻になり、どの子供につながるかを見ると分かりやすい。
愛知県総合教育センターの大野城の解説には、姉妹それぞれの婚姻を一緒に考えられる記述がある。大野城主佐治信方の正室をお犬の方とし、次の代の佐治一成の妻に、お市の三女・小督の方を挙げている。小督の方は、お江として知られる女性である。
犬姫とお市の関係は、次の世代でも婚姻によって結び付く。犬姫の子・一成と、お市の娘・江はいとこにあたる。ただし、この縁組は犬姫自身の結婚とは別の出来事だ。江を犬姫の娘としたり、一成をお市の子としたりすると、母子の関係を取り違えてしまう。
姉妹の長幼には注意したい。犬姫をお市の妹とする紹介はあるものの、犬姫の生年を確定できない以上、年齢差を数字で示すことはできない。本稿では、確かな出発点である「ともに信長の妹」という表現を用い、同母の姉妹とまでは断定しない。
二人が仲の良い姉妹だったのか、互いに似た顔だったのかも、親族関係だけでは分からない。美人姉妹として並べたくなるところだが、容貌や仲を比べた同時代の記録を本稿では確認できていない。お市の物語に犬姫を当てはめるより、佐治氏への婚姻と、兄から届いた朱印状を追うほうが、犬姫固有の歩みを知ることができる。
最初の夫・佐治信方と、伊勢湾に面した大野城

犬姫の最初の夫は、尾張の大野城主だった佐治氏の人物である。愛知県の教材や養林庵文書の研究は佐治信方と記し、人名辞典と京都府の解説は佐治為興とする。本稿では読み比べる際に見失わないよう、佐治信方(為興)と併記する。表記の違いを理由に、夫がさらに一人いたとは数えない。
大野城は、現在の愛知県常滑市にあたる地域にあった。愛知県の解説が伝えるのは、伊勢湾を見渡す高台の城と、海上交通に関わる佐治氏の立場である。織田氏の勢力を尾張の内陸だけで考えていると、信長の妹がこの家に嫁いだ意味を見落としやすい。
伊勢湾を渡る船の行き来は、対岸や周辺の土地とのつながりを生んだ。地域の有力者と婚姻関係を結ぶことは、こうした交通圏との結び付きを考える手掛かりになる。ただし、それは家同士の関係についての解釈である。犬姫本人が船団を指揮した、港の交渉に出た、といった活動を示す記録は別に必要だ。
佐治氏との間の子として知られるのが一成である。さらに、西口順子・佐藤文子による養林庵文書の研究は、尼僧・永松院の父を信方、母をお犬とし、一成を永松院の兄にあたる人物としている。一成の名だけを取り上げた略伝から「子供は男子一人だけだった」と結論することはできない。
夫は長島一揆との戦いで亡くなったと人名辞典に記される。ここで注意したいのは、戦死したのが夫である点だ。犬姫が同じ戦場にいた、戦死を目の前で見た、といった場面までは分からない。夫との死別後も犬姫の消息は途切れず、1575年には信長から収入を与えられたことが文書の解説から確かめられる。
1575年、信長が妹に与えた毎月の地子銭

天正3年(1575年)、信長はお犬に宛てて朱印状を出した。龍安寺に伝わるこの文書について、京都府は、京都下京の地子銭を毎月百二十貫文与える内容だと解説している。兄妹の関係を考えるうえで、宛先と給付の中身が確かめられる記録である。
地子銭は土地に関わる収入を表す語で、ここでの貫文は銭の額を数える単位だ。米の量を示す石高とは区別する必要がある。百二十という数字だけを取り出し、百二十石の領地を与えたと書き換えることはできない。また、当時の物価や銭の流通を検討せず、現在の何円と換算するのも避けたい。
この記録からは、犬姫が収入を受ける立場にあったことが分かる。婚姻先や子供の名だけでは見えにくかった生活の基盤が、具体的な数字とともに現れる。夫との死別から次の婚姻へ至る時期にも、文書で定められた権利があったと捉えられる。
一方で、収入を与えられたことと、自ら現地を回って徴収したことは別である。どの家に住み、誰を使い、実際にいくら受け取ったかまで、この短い解説からは追えない。百二十貫文を私的な贈り物とだけ呼んだり、兄の愛情の深さを数値化したりするのも、文書の内容を越える。
京都府のページは、この朱印状の修理についても紹介している。紙の折れや表装の傷みを補修し、文書を保存するための事業だった。現在読める情報の背後には、寺での保管と文化財修理がある。戦国期の女性の生涯を考える材料は、合戦記だけでなく、こうした暮らしに関わる一通にも残されている。
細川昭元との再婚と、細川家に生まれた子供

犬姫は佐治氏の夫と死別したのち、細川昭元と再婚した。時期は、人名辞典では天正4年(1576年)ごろとされ、京都府の朱印状解説も1576年としている。本稿ではこの記述に従う。紹介によって異なる年を見かけても、婚礼の月日まで分かったかのような年表にはしない。
1575年の朱印状と1576年ごろの再婚を並べると、兄からの給付が再婚の前に位置する。再婚に備えた経済的な手当てだった可能性を考える余地はあるが、文書に書かれた給付の内容と、その目的についての解釈は分けたい。誰が縁談を持ち込み、本人がどう応じたかは、確認した資料からは分からない。
再婚後の犬姫は、作品名や伝記の中で「細川昭元夫人」と呼ばれる。昭元の妻を描いたという龍安寺の肖像も、この呼称で受け継がれてきた。「お犬」という名で資料を探した場合と、「昭元夫人」で探した場合とで、同じ女性に関わる別種の記録が見つかる。
昭元との間には、元勝という男子と二人の女子があったと人名辞典に記される。佐治家の一成や永松院とは父が異なるので、子供の一覧では婚姻ごとに分ける必要がある。子の名前が省かれた略伝を読む際も、記載の少なさを出生の有無と取り違えないようにしたい。
細川姓の女性だからといって、細川ガラシャと同じ人物ではない。犬姫の夫は昭元であり、「昭元夫人」という作品名がその区別を助ける。同じ時代の著名な女性の経歴を重ねず、夫の名と出自を一つずつ確認すれば、再婚後の犬姫を別人の悲劇へ結び付けずに読める。
本能寺の変と同じ1582年に死去。死因は分かるのか

天正10年(1582年)旧暦6月2日、明智光秀による本能寺襲撃で信長が亡くなった。国立公文書館の解説でも確認できる、この年の大きな事件である。犬姫の死も同じ年に置かれるが、兄と同じ場所、同じ日に亡くなったという意味ではない。
渡邊一の肖像解説は、犬姫の没日を天正10年9月8日と記す。同論文は『大日本史料』第十一編之三の該当日条を参照し、供養や肖像の由来を論じている。人名辞典にも1582年9月没とある。本稿では日付を示す際、当時の暦による旧暦9月8日であることを添える。
この順序なら、本能寺の変より後に亡くなったことになる。しかし「後に起きた」という時間の前後だけで、死の原因が決まるわけではない。兄を失った悲しみや家の将来への不安は想像できても、それを本人の病歴として書くことはできない。
確認した資料から、具体的な死因や病名は特定できなかった。本能寺の変による心労が原因だった、政治的な事件に巻き込まれて殺された、といった説明にも、それぞれ別の根拠が必要である。没日の記録があるからといって、臨終までの経過がすべて残っているわけではない。
享年についても固定しない。生年に仮説を置き、確かめられた没年との差を計算すると、もっともらしい数字は出せる。それでも生年の不確かさは消えない。犬姫の最期を伝える際は、1582年旧暦9月8日という没日と、分からないままの死因・年齢を並べて示すのが適切である。
龍安寺の肖像と、犬姫を供養した人々

犬姫の姿を考える手掛かりとして、京都の龍安寺に「細川昭元夫人像」が伝わる。渡邊一が1935年に解説した作品で、東京文化財研究所には1939年に撮影されたガラス乾板の記録もある。現代の想像画とは区別すべき、歴史のある肖像だ。
肖像には月航宗津による賛がある。賛とは、絵に添えられた詩文などを指す。この場合、賛を書いた僧の名が分かることと、絵を描いた画家の名が分かることは同じではない。渡邊の解説は画家を特定しておらず、本稿でも月航宗津をそのまま絵の作者とはしない。
同論文には、昭元と犬姫の乳母が供養に関わった経緯が紹介されている。死後の犬姫を記憶したのは、兄・信長だけを語る歴史の枠内の人々ではなかった。夫や身近な女性、僧侶の関わりをたどると、婚姻先に残った供養の場が見えてくる。
ただし、供養のために安置された像と現存する像の結び付きについて、渡邊は推定を含めて論じている。誰が何月何日に発注し、どのような制作過程を経たかまで、確実な記録として語ることは避けたい。賛の日付や寺の伝来は手掛かりになるが、制作の全工程を示すものではない。
福井県立美術館の2011年の展示一覧では、お犬宛の信長書状と、この夫人像が別の作品として挙げられる。一方は生前の収入に関わる文書、もう一方は姿と追悼を伝える肖像である。二つを読み合わせることで、犬姫は「信長の妹」という短い紹介を越え、権利を持ち、家族に記憶された女性として見えてくる。
史料の読み解き
犬姫の死因は?本能寺の変から分かること
犬姫の死因について、本稿で確認した史料や研究から特定の病名や事件を挙げることはできない。没日を記す肖像解説はあるが、医療記録や臨終の目撃談を確認できたわけではない。「1582年に死去した」という情報と「なぜ亡くなったか」という問いを分ける必要がある。
渡邊一の肖像解説
は、天正10年9月8日の死去と、その後の供養に関わる記録を紹介する。一方、国立公文書館の解説が示す本能寺の変は、同年旧暦6月2日である。二つを並べれば、犬姫の没日は兄の死より後に位置する。
ここから、信長の死を悲しんで衰弱したという筋書きは作れる。しかし、その筋書きを裏付ける本人の症状、周囲の証言、経過の記録が必要だ。出来事の順序が分かることと、原因が分かることは異なる。同じ年に亡くなった親族の死を、すべて一つの事件の直接の結果と考えることもできない。
病没と紹介する記事を読んだ場合も、そこに具体的な病名や治療の記録が示されているかを見るとよい。病没という分類、病気の種類、発症の原因は、それぞれ違う段階の説明である。本稿では裏付けを確かめられない部分を足さず、死因不詳とする。これは暗殺説を有力とする意味でもない。
明智光秀・長宗我部元親と犬姫を結び付けてよいのか
明智光秀と長宗我部元親は、本能寺の変の背景を考える研究で論じられる人物である。とくに四国政策や、長宗我部氏との交渉に関わる文書が注目されてきた。しかし、この研究上の論点が存在することは、犬姫本人が秘密の連絡に加わったことの証明にはならない。
三重大学が2017年に公表した藤田達生の研究
は、土橋重治宛の光秀書状を検討し、足利義昭を奉じた幕府再興の構想を論じている。石谷家文書を踏まえた四国説との関係も説明する。これは藤田による史料解釈であり、研究発表があることだけで本能寺の動機が一つに確定するわけではない。
そのうえで、犬姫が元親と通じていた、光秀側に関わったため命を狙われた、と説明するには、犬姫を特定できる通信や証言が要る。確認した研究発表は、そのような本人の行動を示していない。夫や親族の政治的な位置から、妻や妹の行動まで同じだったと推定することも避けたい。
本能寺の変の背景と、犬姫の死因は、調べる史料の範囲が重なることはあっても、同じ問いではない。兄が信長だったというつながりだけで、犬姫を事件の黒幕や密使に仕立てることはできない。本能寺の変の経過を読む際も、本人を名指す証拠があるかを確かめる必要がある。
美人だったのか。お市との比較と肖像画の見方
犬姫が美人だったかという問いに、現存する絵の印象だけで客観的な順位を付けることはできない。龍安寺の肖像は、犬姫がどう描かれ、どう記憶されたかを考える資料である。現代の人物写真と同じ条件で、顔立ちを測れるものではない。
渡邊の解説は、女性肖像の形式や顔の表現を論じるとともに、画中の賛を紹介している。その賛に見える楊妃、すなわち楊貴妃への言及は、美しさをたたえる表現として読む余地がある。ただし、追悼の詩文が使うたとえを、そのまま容貌についての実測や目撃証言に置き換えることはできない。
お市より美しかった、見る方向によって姿が変わるほどだった、といった話を採るには、その評価を誰がいつ書いたかの確認が必要だ。姉妹だから同じ顔だったはずだ、という推定も根拠にはならない。本稿では、肖像と賛が伝える人物像を紹介しつつ、姉妹の美貌の優劣を史実として示すことはしない。
また、絵に付いた「月航宗津賛」という情報は、月航宗津が文章を書いたことを示す。絵を描いた人まで同じと決めないことも大切だ。画家、賛者、描かれた人物、所蔵する寺は、それぞれ異なる役割を担う。東京文化財研究所の作品記録も、その区別を確かめる手掛かりになる。
子供と子孫は?佐治家・細川家・永松院を整理する
犬姫の子供を考えるときは、最初の夫との家族と、再婚後の家族を分けると分かりやすい。佐治一成はお市の娘・江との婚姻で知られ、永松院は養林庵に関わる研究に現れる。細川昭元との間には、元勝ら一男二女があったと人名辞典に記されている。
| 関わる家 | 人物 | 本稿で確認した関係 |
|---|---|---|
| 佐治氏 | 佐治一成 | 犬姫の子。お市の娘・江と婚姻した |
| 佐治氏 | 永松院 | 佐治信方とお犬の娘とする研究がある。一成の妹 |
| 細川氏 | 細川元勝と二人の女子 | 人名辞典が昭元とお犬の間の子として記す |
| 永松院の子 | 佐治一久 | 永松院の兄・一成の養子となったとされる |
| 永松院の孫 | 祖倫 | 養林庵の住持相続に関わる女性。一久の娘 |
西口順子・佐藤文子「養林庵文書について」
は、永松院が藤方朝成の子に嫁ぎ、その子が佐治一成の養子となった経緯を紹介する。ここでは実親と養親が異なる。一久を一成の養子と書くことと、一成が実父だったと書くことは同じではない。
この研究が扱うのは、寺の文書や系譜に残った後の世代の関係である。孫を後見する永松院の活動を、その母・犬姫の事績へ移してはいけない。犬姫が養林庵を運営したという意味ではなく、彼女につながる女性の系譜を、娘の活動からたどれるということだ。
寺院の相続を調べた研究に、戦国期の女性の子供の情報が残る点は興味深い。大名家の男子を中心にした略伝と、尼僧や寺庵を追う研究では、詳しく記される人物が異なる。前者に名前がないから存在しなかった、と決めると、娘へ続く系譜を見落としてしまう。
一成の妻となった江(お江)の歩みと合わせて読むと、お市の子と犬姫の子がどこで結び付くかも分かる。ただし、ここで確認した近い世代の系譜だけから、現在の特定の人物を犬姫の子孫と認定することはできない。現代までの子孫を論じるには、途中の各世代を裏付ける資料が必要になる。
呼び名が違う資料をどう読み合わせるか
犬姫の資料を探すとき、名前一つだけでは拾いきれない。お犬の方という呼称に加え、朱印状では「おいぬ」、肖像では「細川昭元夫人」、伝記では大野殿という呼び方も手掛かりになる。呼称が違っても、父や兄、婚姻先などを照合することで、同じ女性の記録として読める。
| 呼び方 | 出てくる資料・文脈 | 読む際の注意 |
|---|---|---|
| 犬姫 | 現代の記事や人物紹介 | 当時の正式な称号と決めない |
| お犬・おいぬ | 人名辞典、信長朱印状の解説 | 字の違いだけで別人にしない |
| 大野殿 | 渡邊一の肖像解説が紹介する呼称 | 呼称だけで居住年数を決めない |
| 細川昭元夫人 | 龍安寺の肖像の作品名 | 他の細川氏の妻と混同しない |
福井県立美術館の展示一覧
は、書状と肖像を別々に掲載している。このような目録は、どの資料がどこに伝わるかを確かめる入口になる。一方、一覧の作品名だけでは、書状の全文や絵の制作事情までは分からない。内容を論じる際には、京都府の文書解説や渡邊の研究へ進む必要がある。
生涯をたどる簡単な年表
| 時期 | 確認できる出来事 | 留保 |
|---|---|---|
| 生年不詳 | 織田信秀の娘として生まれる | 母・生年・幼少期の詳細は確定しない |
| 婚姻年不詳 | 大野城主佐治信方(為興)の妻となる | 婚礼の日や本人の意向は分からない |
| 夫の死去後 | 佐治氏の夫と死別した女性として伝わる | 夫は長島一揆との戦いで死去とされる |
| 1575年 | 信長から京都下京の地子銭を与えられる | 文書解説が伝える給付。実収入の帳簿ではない |
| 1576年ごろ | 細川昭元と再婚 | 人名辞典の年代に従う |
| 1582年旧暦9月8日 | 死去 | 没日と死因は別。享年は固定しない |
| 1582年旧暦10月 | 肖像の賛に記された時期 | 賛の日付を制作工程全体の日付とみなさない |
年表に空欄があるのは、出来事がなかったという意味ではない。婚姻、収入、供養という形で残った情報の間に、記録から追えない生活がある。残っている部分を結びつつ、その間の会話や感情を創作しないことで、確かな記述と想像の境目を保てる。
史実・研究・推測の確度を整理する
| 主張 | 確度 | 根拠・留保 |
|---|---|---|
| 犬姫は信長の妹 | 高い | 人名辞典、京都府の朱印状解説、養林庵文書研究が一致 |
| 佐治氏の夫と死別し、昭元と再婚 | 高い | 人名辞典と京都府解説。最初の夫の表記に差がある |
| 信長から月120貫文の地子銭を与えられた | 文書解説で確認 | 京都府。石高や現代円には置き換えない |
| 1582年旧暦9月8日没 | 研究が具体的に示す | 渡邊一の解説。日付を記す資料と死因を区別 |
| 母は土田御前、生年は1550年 | 本稿では未確定 | 信長の妹という続柄や名前だけでは決まらない |
| お市より美人だった | 確定できない | 肖像や追悼の賛を客観的な比較にしない |
| 本能寺の変の心労が死因だった | 根拠を確認できない | 時間の前後だけでは因果を示せない |
| 光秀・元親との連絡が死の原因だった | 根拠を確認できない | 本能寺研究と犬姫本人の行動の立証は別 |
犬姫の生涯では、信長の妹という出自に加え、婚姻と収入、子供、死後の供養が記録に残る。なかでもお犬宛の信長朱印状は、彼女の生活を支えた権利を具体的に伝える。美人説や最期の謎に目を向けるときも、このように本人へ直接つながる記録を出発点にしたい。
犬姫(お犬の方)の逸話
- 逸話 01
「犬」という名から、生まれ年を決められるか

縁側で穏やかな表情を見せる犬姫の想像図。名前の由来を物語る場面ではない · AI生成イメージ 犬姫の名に出会うと、なぜ犬と呼ばれたのかが気になる。戌年生まれだったから、という説明は分かりやすいが、名前の由来を示す記録と、生まれ年を示す記録の両方を確かめる必要がある。音や字が似ていることだけでは、命名の事情は決まらない。
たとえば1550年説を採れば、1582年までの年数から年齢を計算できる。しかし、その計算は生年の仮定を引き継いでいる。計算が正しくても、出発点となる年が確定していなければ、得られた享年も確定値にはならない。
犬姫の場合、呼称と婚姻歴を組み合わせることで人物の輪郭は追える。一方、幼名を付けた人、名付けの願い、本人がその名をどう感じたかまでは分からない。現在の感覚から珍しい名前と感じても、そこへ家族の感情を補うことはできない。
読み方を知りたいときは「犬姫はいぬひめ、お犬の方はおいぬのかた」と整理すれば足りる。名の由来や出生年は別の問いとして残す。短いプロフィールほど、読み仮名の確かさと、生年説の確かさが同じに見えないようにする必要がある。
- 逸話 02
修理された朱印状が伝える、妹の生活の基盤

文を箱に納める犬姫の想像図。文書の保管方法や本人の行動を示す史料ではない · AI生成イメージ 京都府の文化財修理の紹介では、お犬宛の信長朱印状の本紙寸法を、丈17.7センチ、幅40.6センチとしている。大きな巻物を想像しがちだが、一人の女性への給付を知る手掛かりは、この一通に収まっている。
紙には多くの折れがあり、表装にも傷みが及んでいたという。平成22年度の修理助成は、こうした損傷に対応したものだった。文書が今日まで残ったという事実には、戦国時代に書かれた後の長い保存の歴史も含まれる。
文書を読むときは、目立つ名前と金額だけでなく、誰に何を与えたのかという関係を押さえたい。信長が出した文書であると同時に、お犬が受ける収入を伝える文書でもある。兄の業績の一例としてだけ扱うと、受取人である女性の側の歴史が見えにくくなる。
もちろん、修理の紹介だけで犬姫の家計簿を作ることはできない。分かるのは一定の収入を与える内容であり、支出先や日々の暮らしは記されていない。残る情報を具体的に読むことと、空白まで埋めることを区別すれば、この小さな文書の価値を過不足なく伝えられる。
- 逸話 03
肖像の片膝と合掌を、性格の証拠にしない

片膝を立て数珠を持つ犬姫の想像図。龍安寺像の複製ではなく、性格はこの姿勢から判断できない · AI生成イメージ 渡邊一の解説は、犬姫の肖像の姿勢や衣装にも目を向けている。片膝を立てて合掌する姿は、現代の写真で見慣れた座り方と異なり、目を引く。けれども、姿勢だけから気の強い女性だった、自由奔放だった、と性格を読み取ることはできない。
肖像には、描かれた人を後世へ伝える役割がある。追善に関わる作品であれば、見たままの一瞬だけでなく、供養される人にふさわしい姿や表現が選ばれる。合掌を、犬姫が日常のどの場面でもしていたしぐさだと受け取る必要はない。
同じことは衣装にも言える。模様や色は絵画を読む材料になるが、本人が毎日身に着けた一着と確定するには別の裏付けが要る。肖像の細部を楽しむことと、そこから私生活を断定することには距離がある。
本記事の画像は、現代に新たに制作した想像図である。歴史上の肖像画を写真へ変換したものではない。史料として残る龍安寺の作品と、記事の理解を助ける現代の人物画を区別して見ることで、絵にできることと史料から言えることを混同せずに済む。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- お犬|デジタル版日本人名大辞典+Plus講談社/コトバンク参照日 2026-10-26
- 渡邊一「図版解説 細川昭元夫人像」美術研究48(1935年)580–581頁東京文化財研究所参照日 2026-10-26
- 紙本墨書織田信長朱印状(龍安寺 京都市右京区)京都府参照日 2026-10-26
- 大野城愛知県総合教育センター参照日 2026-10-26
- 西口順子・佐藤文子「養林庵文書について」相愛大学研究論集16(2000年)、特に61–62頁相愛大学参照日 2026-10-26
- 「江〜姫たちの戦国〜」福井展 展示替え表(2011年)、No.22・23福井県立美術館参照日 2026-10-26
- 細川昭元夫人像(龍安寺)ガラス乾板データベース03336東京文化財研究所参照日 2026-10-26
- 本能寺の変|徳川家康・将軍家蔵書からみるその生涯国立公文書館参照日 2026-10-26
- 「土橋重治宛光秀書状」原本発見に関する藤田達生の研究発表(2017年)三重大学参照日 2026-10-26









