
結城秀康|将軍を逃し越前を継いだ家康の次男
「双子・鬼子と忌まれたと伝わり、父にすら長く対面を許されなかった家康の次男。それでいて越前六十八万石をまかされ、本来なら将軍だったかもしれぬ男 ―― それが結城秀康である」
双子・鬼子と忌まれ、父にすら長く対面を許されなかった ―― それでいて越前六十八万石をまかされ、本来なら将軍になっていたかもしれぬ男。それが結城秀康だ。徳川家康の次男として天正2年(1574年)に遠江で生まれながら、その誕生は祝福されなかった。母・於万の方の身分や双子の伝説ゆえに父に疎まれ、幼名は於義丸。兄・信康のとりなしでようやく父と対面したと伝わる。天正12年(1584年)、小牧・長久手の和睦の証として羽柴秀吉の養子(人質)に出され、「秀」と「康」をもらって羽柴秀康と名乗る。秀吉に実子・鶴松が生まれると、こんどは下総の名門・結城晴朝の養子となり、結城秀康として関東の名族を継いだ。剛毅な武人として武名を高め、関ヶ原では宇都宮で上杉景勝を抑える大役を果たす。戦後は越前北ノ庄六十八万石を与えられて松平に復し、越前松平家の祖となった。従三位・権中納言にのぼり「越前宰相」と呼ばれたが、慶長12年(1607年)、北ノ庄で病没。享年34。将軍位は弟・秀忠に渡った、不遇と栄達のふり幅に満ちた家康の次男である。
父に疎まれた次男 — 於義丸と呼ばれた子

天下を取る男には、たいてい立派な跡継ぎがいる。ところが徳川家康の次男は、生まれた瞬間から父に疎まれた。双子だ、鬼子だと忌まれ、父の顔すら長く見られずに育つ。それでいてのちに越前六十八万石をまかされ、本来なら将軍になっていたかもしれない ―― そんな数奇な男の名を、結城秀康という。
秀康が生まれたのは天正2年(1574年)、遠江国。母は於万の方といって、家康の側室である。だが、その誕生はちっとも祝福されなかった。一説には双子で生まれたといい、当時、双子は不吉とされる土地柄だった。しかも母の身分は高くない。家康は正室・築山殿の手前もあってか、この子を手元に置こうとせず、家臣に預けて密かに育てさせたと伝わる。
幼名は於義丸。なんでも、顔つきが「ぎぎ」という魚に似ていたから、という俗っぽい説まで残っている。名前の由来からして、どこか軽んじられているのだ。父はなかなか対面を許さなかった。見かねたのが、家康の嫡男で秀康の兄にあたる松平信康である。信康が「弟に一度会ってやってください」と父にとりなして、ようやく親子の対面がかなったとも語り継がれている。
天下人の子に生まれながら、その子であることをなかなか認めてもらえない。父に疎まれた次男という出発点こそ、秀康の生涯につきまとう影であり、同時に彼を鍛えた逆境でもあった。この不遇からどう這い上がるか ―― 秀康の物語は、その重いハンデを背負ったところから始まる。
越前松平家の祖双子・鬼子と忌まれた家康の次男が、ついに越前六十八万石の祖となった。
羽柴の養子へ — 「秀」と「康」を背負って

天正12年(1584年)、家康は羽柴秀吉と正面からぶつかった。小牧・長久手の戦いである。戦そのものは徳川がうまく立ち回り、局地戦では秀吉方を打ち破った。だが、国力の差は埋めようもない。やがて両者は和睦へと向かう。そして、その和睦の証として差し出されたのが、まだ十一歳の於義丸だった。
名目は「秀吉の養子」。だが、実態は人質である。父に疎まれた次男は、こんどは天下人のもとへ差し出された。秀康はこのとき、秀吉から「秀」の一字を、父から「康」の一字をもらい、羽柴秀康と名乗ることになる。皮肉なものだ。父の名と、その父が頭を下げた相手の名と。二つの一字が、そのまま秀康の立場を物語っていた。
ところが、である。冷遇され続けた秀康にとって、秀吉のもとはむしろ居心地がよかったらしい。子のなかった秀吉は、この聡明で武勇に秀でた少年をたいそう可愛がったと伝わる。実の父にうとまれた子が、養父にこそ愛された。なんとも切ない巡り合わせだが、秀康はここで一個の武将として頭角をあらわしていく。
和睦の駒として差し出され、天下人の養子という重い名を背負わされる。羽柴秀康という名そのものが、父と天下人のあいだで翻弄される秀康の運命を、くっきりと刻んでいた。だが秀康は、その人質という立場をただ嘆くのではなく、武勇でおのれの値打ちを示していくのである。
将軍を逃した男長幼の序でいえば、将軍に最も近かったのは秀康だったかもしれない。
二度目の養子 — 下総の名門・結城家へ

秀吉に可愛がられた秀康だったが、その立場は長くは続かなかった。天正17年(1589年)、秀吉に待望の実子・鶴松が生まれたのだ。これで養子・秀康の存在意義は、すうっと薄れてしまう。天下人の跡継ぎは、やはり実の子でなければならない。秀康はまたしても、行き場を探されることになった。
そして天正18年(1590年)、小田原征伐の後、秀康は二度目の養子に出される。こんどの行き先は、下総の名門・結城晴朝のもとだった。結城氏は鎌倉以来の由緒ある関東の名族である。晴朝には跡継ぎがなく、秀康を養嗣子として迎え入れた。ここに秀康は結城家を継ぎ、結城秀康と名乗ることになる。所領は下総結城十万石あまり。
考えてみれば、秀康の名はこれで三つ目だ。徳川(松平)に生まれ、羽柴を名乗り、いままた結城を継ぐ。実の父からも、養父の秀吉からも、いわば「よそ」へ回された格好である。だが秀康は腐らなかった。関東の名門当主として、北条滅亡後の混乱した東国で、着実におのれの地歩を固めていった。武勇はいよいよ評判となり、「天下の武将」と並び称されるほどになる。
実父に疎まれ、養父に手放され、こんどは関東の名族を継がされる。二度の養子という数奇な経歴は、秀康がどこにも本当の居場所を持たぬまま、それでも立ち続けた男だったことを示している。名前が変わるたびに立場が移ろうこの半生こそ、戦国の貴種が背負わされた過酷な現実だった。
槍をとる宰相 — 剛毅と評された男

秀康という人を語るとき、忘れてはならないのが、その武勇である。父に疎まれ、転々と養子に回された不遇の貴公子。だが、その中身は、めっぽう剛毅な武人だった。
文禄・慶長の役では、九州の名護屋に在陣している。戦国の世のなかで揉まれ、合戦の駆け引きを肌で覚えていった。秀康は弱々しい貴公子ではない。むしろ、いざとなれば自ら槍をとって突っ込んでいくたぐいの、骨太な武将だった。その豪胆さは秀吉も家中も認めるところで、人々は秀康を頼もしい将として遇したと伝わる。
気性ははっきりしていて、剛直。曲がったことを嫌い、思ったことを率直に口にする。だからこそ、敵にも味方にも一目置かれた。父・家康が天下取りへ着々と駒を進めるなか、秀康もまた、徳川一門の有力な一員として、その武名を確かなものにしていく。やがて従三位・権中納言という高い官位にのぼり、人々から「越前宰相」と呼ばれるようになるが、その内実はあくまで戦場を知る一個の武将だったのである。
貴種に生まれながら、机上の人ではなく、自ら槍をとる骨太の武人であった。剛毅という評判は、不遇のなかでも卑屈にならず、おのれの武でまっすぐ値打ちを示し続けた秀康の生き方そのものだった。転々とさせられても折れない芯の強さ ―― それが武将・結城秀康の真骨頂だった。
宇都宮の留守居 — 背中を守った大役

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原が近づいていた。家康は会津の上杉景勝を討つべく東国へ兵を進めるが、その途中、上方で石田三成が挙兵したとの報せが届く。家康は軍を返して西へ向かうが、ここで大きな問題が残った。背後の上杉を、誰が抑えるのか、である。
この難しい大役を家康から託されたのが、秀康だった。家康は西へ取って返すにあたり、秀康を下野の宇都宮城に置き、会津の上杉勢を牽制させたのだ。もし上杉が南下して家康の背後を突けば、関ヶ原どころではなくなる。秀康は本戦の華々しい舞台には立たなかったが、徳川の背中をまるごと預かるという、地味だが決定的な役目を果たした。
上杉景勝もまた百戦錬磨の大大名である。その上杉を、秀康はにらみを利かせて動かさなかった。表舞台で槍を合わせる戦ではない。にらみ合いという、忍耐のいる戦である。秀康がここを抑えていたからこそ、家康は安心して西へ全力を傾けられた。関ヶ原の勝利の陰には、東国でじっと敵を見据えていた秀康の存在があったのだ。
晴れ舞台ではなく、誰かがやらねばならぬ背中の守りを、黙ってやり遂げる。宇都宮の抑えという大役は、家康がこの次男の力量と忠節を、本心では深く信頼していたことの何よりの証だった。関ヶ原の勝利は、東国で上杉を動かさなかった秀康の忍耐に、確かに支えられていた。
北ノ庄の太守 — 松平に復し、越前家を興す

関ヶ原の勝利で、徳川の天下はほぼ定まった。論功行賞のとき、背後を守り抜いた秀康に与えられたのは、越前一国。北ノ庄を本拠とする、実に六十八万石という大封だった。徳川一門のなかでも飛び抜けた格である。父に疎まれた次男が、ついに大国のあるじとなったのだ。
秀康はこのとき、結城の姓を改め、徳川の本来の名字である松平に復した。越前松平家 ―― のちに「御家門」と呼ばれ、将軍家に次ぐ家格を誇る一門の、これが始まりである。秀康は北ノ庄に大規模な城を築き、城下を整え、越前の地に新たな大名家の礎を据えた。かつて名前が変わるたびに振り回された男が、いまや自分の家を、自分の国を、自分の手で打ち立てたのである。
官位もまた破格だった。従三位・権中納言。これは徳川一門のなかでも飛び抜けて高い位である。「越前宰相」と呼ばれた秀康の家格は、徳川一門の頂点に近かった。実の父に冷遇された少年が、徳川の天下にあって最も尊い血筋の一つとして遇される ―― その立場の逆転は、見ていて胸が熱くなるものがある。
疎まれた次男が、越前一国の太守となり、将軍家に次ぐ名門を興す。北ノ庄六十八万石という大封は、不遇の幼少期からは想像もつかない、秀康の到達した頂だった。越前松平家の祖 ―― この一事こそ、秀康がただの悲運の貴公子では終わらなかったことの、揺るがぬ証である。
三十四年の生涯 — 将軍になれなかった男の最期

越前の太守として頂点に立った秀康だったが、その栄華は、あまりに短かった。慶長12年(1607年)、秀康は本拠・北ノ庄で病に倒れ、世を去る。享年34。あまりにも若い死だった。一説にはその病は唐瘡(からかさ)、いまでいう難しい病だったとも伝わる。大国を得てこれからという矢先の、早すぎる幕切れである。
秀康の死は、ひとつの「もし」を歴史に残した。彼は家康の次男であり、嫡男・信康が早くに世を去ったのち、事実上の長子の立場にあった。本来の長幼の序でいえば、将軍の座に最も近かったのは秀康だったかもしれない。だが、その座は弟の秀忠が継いだ。秀康は将軍にはなれず、越前一国のあるじとして、三十四年の生を閉じたのである。
とはいえ、秀康が遺したものは小さくなかった。彼の血を引く越前松平家は、子の松平忠直、忠昌、直政らへと受け継がれ、福井・松江をはじめ各地に広がって、徳川一門の名門として近世を生き抜いていく。父に疎まれて始まり、二度の養子に翻弄され、それでも越前六十八万石の祖となった男の血脈は、確かに後の世へとつながった。
将軍にはなれず、三十四という若さで燃え尽きながら、なお大名家の祖として血脈を遺す。早すぎる死は、秀康の生涯を「もし」の物語にしたが、その不遇と栄達のふり幅こそが、人々の心をいまも惹きつけてやまない。将軍を逃した家康の次男 ―― この一言に込められた哀しみと誇りこそ、結城秀康という男の生涯のすべてだった。
史料の読み解き
結城秀康ほど、評価のしづらい武将も珍しい。父に疎まれた悲運の子と見れば、これほど哀れな貴公子もいない。だが越前六十八万石の祖と見れば、これほど恵まれた一門もない。人質、養子、宰相、そして「将軍になれなかった男」 ―― いくつもの顔が、一人の人間に同居している。ここでは、誕生の伝説・将軍位・二度の養子・越前家の格・早すぎる死という切り口から、後世の脚色と史実の地金を見分けつつ、秀康の素顔に近づいてみたい。
「双子・鬼子」の伝説は、どこまで本当か
秀康を語るとき必ず出てくるのが、双子で生まれたために忌まれた、鬼子と呼ばれた、という誕生の伝説だ。だが、この話はそのまま史実として受け取らないほうがいい。
家康が秀康に冷淡で、長く対面を許さなかったという話自体は、複数の記録に見える。父に疎まれた子だったという点は、おおむね認めてよさそうだ。問題は、その理由である。「双子だったから」という説明は、いかにもドラマチックで分かりやすい。だが、双子説そのものを確実に裏づける同時代の一次史料は乏しく、後世に不遇を際立たせるなかで強調された可能性がある。
むしろ現実的なのは、母・於万の方の身分がさほど高くなかったこと、家康が正室・築山殿への遠慮を抱えていたこと、といった事情だろう。戦国大名にとって、側室の子をどう扱うかは政治の問題でもあった。そこへ「双子・鬼子」という分かりやすい物語が乗り、伝説として育っていった ―― そう読むのが穏当だ。
それでも、幼名「於義丸」の由来の俗説まで含めて、秀康が軽んじられていたという当時の感覚は確かに伝わってくる。双子・鬼子の真偽は断定できない。けれど、父に愛されなかった子という記憶そのものは、伝説の衣をまといながら、秀康の出発点を確かに刻んでいる。事実と伝説の境目は曖昧でも、その孤独だけは本物だったのだろう。
なぜ秀康は将軍になれなかったのか
秀康をめぐる最大の「もし」は、やはりこれだ。兄・信康が早くに世を去ったあと、家康の子で最年長だったのは秀康である。長幼の序からすれば、将軍に最も近かったのは彼だったかもしれない。なのに、その座は弟・秀忠が継いだ。なぜか。
理由は一つではない。まず、秀康が長く人質・養子として外に出され、徳川の家中をじかに率いてこなかったこと。当主に必要なのは血筋だけではなく、家臣団を束ねる実績である。その点、秀忠は手元で育ち、徳川の組織を背負う立場にいた。次に、母の身分。秀忠の母・西郷局に対し、秀康の母・於万の方は出自の重みで劣るとされた。家督相続では、母方の格も無視できない。
加えて、秀康が一度は豊臣秀吉の養子だったという経歴も、無関係ではあるまい。徳川が豊臣に取って代わろうとする時代に、豊臣と深く結びついた過去を持つ秀康を将軍に据えるのは、政治的にためらわれた、という見方もできる。これらが重なり、家康は剛毅な秀康より堅実な秀忠を選んだ ―― というのが、大筋の理解だ。
ただし、家康が実際にどんな天秤で後継を決めたかを直接語る史料は乏しく、ここはあくまで状況からの推測になる。秀康が将軍を逃したのは、不吉な伝説のせいというより、人質・養子に出された立場と母の身分という、きわめて現実的な事情の積み重ねだったとみるのが妥当だ。運命の不公平は、案外、地味な政治の論理から生まれていた。
人質か、優遇か — 二度の養子をどう見るか
秀康の半生は、二度の養子に貫かれている。羽柴秀吉の養子、そして結城晴朝の養子。これを「翻弄された悲劇」と読むか、「結果的に恵まれた境遇」と読むかで、秀康像はずいぶん変わる。
悲劇として読めば、こうなる。実の父に疎まれ、和睦の駒として天下人に差し出され、養父に実子が生まれればまた別家へ回される。秀康自身の意思とは関わりなく、名前も立場も次々に書き換えられていった。どこにも本当の居場所がない ―― これは確かに、戦国の貴種が背負わされた過酷な現実だ。
だが、別の見方もできる。秀吉の養子だった時期、子のなかった秀吉に可愛がられたとも伝わる。結城家を継いだことで、関東の名門当主という確かな地歩を得た。そして最後には越前六十八万石である。外に出されたからこそ得た縁や立場も、確かにあった。少なくとも、徳川一門の他の庶子たちと比べて、秀康の到達点は破格だった。
おそらく、どちらか一方が正解なのではない。不本意に翻弄された不遇と、結果として手にした破格の栄達 ―― この二つが矛盾なく同居しているところに、秀康という人の複雑さがある。悲運の貴公子と、恵まれた一門の祖。秀康は、その両方だったのだ。
越前松平家の格 — なぜ「御家門」筆頭格なのか
秀康が興した越前松平家は、のちに「御家門」と呼ばれ、将軍家に次ぐ別格の家として遇された。なぜ、これほどの家格が与えられたのか。ここには、秀康の立場が深く関わっている。
ポイントは、秀康が「将軍にならなかった家康の次男」だったことだ。秀忠が将軍家を継いだ以上、その兄である秀康の家は、将軍家とごく近い血筋でありながら、将軍を出す家ではない。この微妙な位置が、かえって特別な敬意の対象となった。越前家は石高でも六十八万石と一門随一であり、官位の上でも秀康自身が権中納言という高位にのぼっている。
実際、越前家はのちに福井藩を中心に、松江藩・前橋藩など各地へ分かれて広がり、徳川一門の名門として近世を生き抜いた。幕末の名君として知られる福井藩主・松平春嶽も、この越前家を継いだ当主の一人である(春嶽自身は徳川一門の田安家から越前家へ入った養子だが、秀康の興した家を背負った)。秀康が将軍にならなかったことが、皮肉にも、将軍家を脅かさない別格の名門という独特の家格を生んだ ―― そう整理すると分かりやすい。
将軍を逃したことが、かえって一門随一の家格につながる。越前松平家の特別な地位は、秀康個人の不遇と、徳川という巨大な家のなかでの血筋の力学とが、複雑に絡み合った産物だった。秀康は将軍になれなかったが、将軍家に最も近い名門の祖になったのである。
早すぎる死と、歴史の「もし」
最後に、秀康の早すぎる死について考えたい。慶長12年(1607年)、越前の太守として頂点に立ったばかりの秀康は、わずか三十四歳でこの世を去った。この若さでの死が、秀康をいっそう「もし」の人にしている。
死因については、唐瘡 ―― いまでいう難しい病だったとする説が知られる。ただ、その病状や経過を詳しく伝える確かな記録は限られており、断定は避けたほうがよい。はっきりしているのは、大国を得てこれからという時期の、あまりに早い死だったということだ。
もし秀康がもっと長く生きていたら、と想像したくなるのも無理はない。徳川一門の頂点に近い格を持ち、武勇に秀でた秀康が長命であれば、幕府草創期の政局にどう関わったか。あるいは、将軍位をめぐる空気は変わっていたか。もっとも、こうした「もし」は史実ではなく、あくまで想像の遊びである。歴史は、秀康が三十四で逝き、将軍にはなれなかったという事実だけを残した。
それでも、その短い生涯が遺したものは確かにある。早すぎる死は秀康を永遠に「将軍になれなかった男」のままとどめたが、彼の血を引く越前松平家は、その後の世に長く続いていった。本人が頂点を極めきれなかったぶん、その血脈が歴史のなかで役割を果たし続けた ―― そこに、秀康の生涯の意味が静かに宿っている。
確度のまとめ
| 論点 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 秀康は天正2年(1574年)生まれ・慶長12年(1607年)没 | 高 | 系譜・記録が享年34歳でほぼ一致 |
| 家康に疎まれ、長く対面を許されなかった | 中〜高 | 冷遇を伝える記録は複数あるが、理由の特定には幅がある |
| 双子で生まれた「鬼子」だった | 低〜中 | 双子・鬼子の伝説は後世の脚色の可能性。一次史料の裏づけは乏しい |
| 小牧・長久手の和睦で秀吉の養子(人質)に出された | 高 | 羽柴秀康としての豊臣家入りは史料に一致 |
| 鶴松誕生後に結城晴朝の養子となり結城家を継いだ | 高 | 結城家相続・結城姓は史料に一致 |
| 七将襲撃の際に石田三成を佐和山へ護送した | 低〜中 | 護送の逸話は伝わるが、史料により細部が異なり史実性は確実でない |
| 関ヶ原で宇都宮に在陣し上杉景勝を抑えた | 高 | 宇都宮の抑えとしての在陣は史料に一致 |
| 戦後に越前北ノ庄六十八万石を得て松平に復した | 高 | 越前一国の拝領・松平復姓は史料に一致(石高は六十七万石とも) |
| 将軍位は弟・秀忠が継いだ(秀康は最年長の子だった) | 高 | 信康死後に秀康が最年長だった点・秀忠の将軍就任は史実 |
| 越前松平家が「御家門」筆頭格の名門として続いた | 中〜高 | 越前家の家格・分流の繁栄は史料に整合(呼称は後世の制度的整理を含む) |
| 死因は唐瘡(とされる難しい病)だった | 中 | 唐瘡説は知られるが、病状・経過を詳しく伝える確かな記録は限られる |
参戦合戦
結城秀康|将軍を逃し越前を継いだ家康の次男の逸話
- 01
双子・鬼子の伝説 — 疎まれた誕生

双子・鬼子と忌まれ、父に長く対面を許されなかった幼き秀康の伝説 · AI生成イメージ 結城秀康といえば、まず語られるのが、その不吉な誕生の伝説である。一説に、秀康は双子で生まれたといい、当時、双子を忌む風があったために父・家康にうとまれた、と伝わる。「鬼子」と呼ばれたという話まで残っている。
ただ、この双子・鬼子の伝説をどこまで信じてよいかは、慎重に見たほうがいい。確かに家康が秀康に冷淡で、長く対面を許さなかったという話は、複数の記録に見える。だが、その理由が本当に「双子だったから」なのかは、はっきりしない。母・於万の方の身分があまり高くなかったこと、正室・築山殿への遠慮があったことなど、もっと現実的な事情が背景にあったとも考えられる。後世、秀康の不遇を際立たせるなかで、伝説に尾ひれがついた可能性もある。
とはいえ、幼名「於義丸」が魚の「ぎぎ」に由来するという俗説まで添えられているあたり、当時から秀康が軽んじられていたという感覚は、確かにあったのだろう。兄・信康のとりなしで父と対面できたという逸話も、その冷遇ぶりを裏から物語っている。
伝説の真偽はともかく、父に愛されなかった子という記憶は、深く根を張った。双子・鬼子の伝説は、史実かどうかを超えて、秀康という人の出発点にあった孤独を、いまに伝えている。
- 02
三成を護った男 — 敵将を佐和山へ送る

七将に襲われた石田三成を護衛し、居城・佐和山へ送り届ける秀康 · AI生成イメージ 関ヶ原の前年、慶長4年(1599年)に起きた、ある事件に秀康は顔を出す。豊臣政権を二分する対立のなか、石田三成が加藤清正ら七人の武将に命を狙われ、窮地に陥った。世にいう「七将襲撃」である。
このとき、三成の身を守って居城・佐和山まで無事に送り届けた役を、秀康が務めたと伝えられている。家康の意を受けてのことだという。三成といえば、翌年の関ヶ原で家康と天下を争う西軍の中心人物である。いわば最大の敵となる相手を、秀康が護衛したというのだから、なんとも因縁めいた話だ。三成はこの恩に深く感じ入り、自慢の名刀を秀康に贈ったとも語られるが、こうした美談めいた尾ひれは割り引いて聞いたほうがいい。
もっとも、この護送の逸話には史料によって食い違いもあり、細部をどこまで事実とみるかは難しい。だが、敵となるべき三成と秀康のあいだに、こうした一場面が語り継がれてきたこと自体が興味深い。剛毅で、筋を通す秀康だからこそ、敵将を守るという役回りが似合った、ともいえる。
のちに天下を分かつ相手を、いちどは身をもって守った。三成護送の逸話は、立場を超えて人に頼られた秀康の器の大きさを、鮮やかに伝えている。
- 03
将軍になれなかった兄 — 弟・秀忠との対照

弟・秀忠が将軍位を継ぐなか、越前宰相として一門の頂点に近い格を保った秀康 · AI生成イメージ 秀康の生涯を語るうえで、どうしても影のようについて回るのが、弟・徳川秀忠の存在である。秀康は家康の次男、秀忠は三男。兄・信康が早くに世を去ったのち、家康の子のなかで最も年長だったのは秀康だった。だが、二代将軍の座についたのは、弟の秀忠である。
なぜ、年長の秀康ではなく、秀忠だったのか。理由はいくつも考えられる。秀康が長く人質や養子として外に出され、徳川の家中を直接率いてこなかったこと。母の身分。そして、秀忠が早くから家康の手元で世継ぎとして育てられてきたこと。家康は天下を継がせる相手として、外に出された剛毅な秀康より、手元で育てた堅実な秀忠を選んだ、というわけだ。
おもしろいのは、官位の上では秀康がむしろ秀忠に劣らぬ、あるいは凌ぐほどの高位にあったことだ。越前宰相と呼ばれた秀康の家格は、徳川一門の頂点に近い。将軍にはなれなかったが、その血筋と格は別格の重みをもって遇された。秀康自身が将軍位をどう思っていたかを伝える確かな記録は乏しく、その胸中は推し量るしかない。
長子格でありながら将軍を逃し、それでも一門の頂点に近い格を保った。秀康と秀忠の対照は、戦国から泰平へ移る徳川家にとって、「家を継ぐとは何か」を映し出す鏡でもあった。
関連人物
所縁の地
- 北ノ庄城跡(福井城)福井県福井市
関ヶ原の戦いののち、越前六十八万石を与えられた結城秀康が本拠とした城である。秀康は北ノ庄に大規模な城と城下を築き、越前松平家の礎をここに据えた。のちに福井城として整備され、越前一国を治める政庁として栄えた。父・家康に疎まれた次男が、ついに大国のあるじへとのぼりつめた地であり、越前松平家発祥の地として、その名を今に伝えている。
- 運正寺(結城秀康墓所)福井県福井市
慶長12年(1607年)に北ノ庄で世を去った結城秀康が葬られた寺である。越前松平家の菩提寺の一つとして、秀康の墓所が今も残されている。将軍位に最も近い血筋に生まれながら、二度の養子に翻弄され、越前一国のあるじとして三十四歳で生涯を閉じた男の眠る地として、その足跡を伝えている。
- 孝顕寺(結城・秀康ゆかりの寺)福井県福井市
結城秀康が下総結城から越前へ移った際、ゆかりの寺として越前の地に移し整えたと伝わる寺である。秀康が継いだ結城家の由緒と、越前松平家へとつながる歴史を今に伝えている。名門・結城家の当主から越前の太守へと立場を変えていった秀康の、数奇な歩みを物語る土地である。


