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戦国時代〜江戸初期筒井氏15621615
武将列伝戦国時代〜江戸初期豊臣

つつい・さだつぐ

筒井定次伊賀上野城を築いた順慶の後継者と改易

1562 – 1615享年 54TSUTSUI SADATSUGU
筒井定次の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 人物像と衣装は想像による表現
  • 伊賀上野城
  • 筒井順慶の養子
  • 改易
生年
永禄5年1562年
没年
慶長20年1615年・数え54歳
家督
順慶の後継1584年に継承
拠点
伊賀上野1585年に国替え

筒井定次は、筒井順慶の養子として家督を継ぎ、伊賀上野城を築いた大名である。 1585年に伊賀へ移り、1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康の側に属した。 戦後も領地を保ったが、1608年に改易され、1615年には豊臣方との内通を疑われて自害した。

関ヶ原、改易、最期。この三つを一続きの敗北として読むと、定次の歩みを取り違える。 関ヶ原から改易までは8年、改易から死までは約7年あった。 その間に何があり、どこまで分かっているのか。 上野城や伊賀の村々に関わる記録、信仰と茶の湯を伝える資料から、定次の生涯をたどる。

01家督SUCCESSION

順慶の養子が継いだ郡山城

家督を継ぐ頃の定次を描いた想像図。特定の儀式の再現ではない(AI生成イメージ)
家督を継ぐ頃の定次を描いた想像図。特定の儀式の再現ではない · AI生成イメージ

筒井定次が継いだのは、大和で戦いを重ねてきた筒井順慶の家だった。順慶は織田信長に従い、本能寺の変を経て羽柴秀吉の側に立った大名である。その後継者となった定次には、領地だけでなく、家臣や周囲の大名との関係も引き継ぐ役割があった。

定次は1562年(永禄5)に生まれた。もとは慈明寺氏の出身で、筒井順慶の養子となる。大和郡山市の歴史年表は、1572年(元亀3)1月に慈明寺定次が順慶の養子になったと記す。若いうちから筒井家に入り、後継者として歩む道が開かれた。

1584年(天正12)8月、順慶が死去する。定次は家督を継ぎ、大和の郡山城を本拠とする当主になった。数え年で23歳。養父が築いた基盤を受け継ぐ一方、自分の名で軍勢を動かし、秀吉の命令に応える立場に移ったのである。

同市の年表には、その年10月の定次の東国出陣も載る。家督を継いで間もない時期から、秀吉の戦争に加わっていたことが分かる。葬儀を終えれば落ち着いて領内を見回れる、という状況ではなかった。

翌年には紀州と四国への出兵が続いた。その先に待っていたのは、大和から伊賀への国替えだった。順慶の後継者として始まった定次の当主時代は、ほどなく新しい領国での統治へと転じる。郡山で受け継いだ家を、別の土地で支えていくことになる。

02国替えRELOCATION

秀吉の軍役から伊賀へ

伊賀へ向かう定次と一行の想像図。移動経路を特定したものではない(AI生成イメージ)
伊賀へ向かう定次と一行の想像図。移動経路を特定したものではない · AI生成イメージ

1585年(天正13)、秀吉は紀州と四国へ軍を進めた。定次もこの年の軍役を担っている。大和郡山市の歴史年表は、3月の根来攻めで定次が戦功を挙げ、6月には四国征伐に参加したと伝える。家を継いだ翌年から、秀吉の領国拡大に組み込まれていた。

四国で秀吉に対抗したのは、長宗我部元親だった。秀吉の弟・羽柴秀長を総大将とする軍勢が海を渡り、元親の支配地を攻めた。定次の参戦も、この大きな軍事行動の一部である。伊賀へ移る以前の定次は、まず秀吉のもとで出兵する大名として姿を現す。

同年、定次は大和から伊賀へ移された。大和郡山市の年表は8月に国替えを置き、その翌月には秀長が郡山城へ入ったと記す。定次が去った郡山は、秀吉に近い一族が治める拠点となった。一方の定次は、伊賀で自らの居城と領国支配を整えることになった。

新しい領国は、上野の城だけで治められるものではなかった。伊賀市の歴史資料は、定次が平田・名張・阿保に支城を配置して国内を統治したと説明する。大和で受け継いだ家臣団を率い、伊賀の各地を結ぶ支配を整える仕事が始まった。

定次は上野を本拠とし、城の整備を進めた。家督の継承からわずかな間に、軍役と国替えを経験したことになる。以後、1608年(慶長13)に領地を失うまで、伊賀上野が定次の大名としての活動の中心となった。その治世は、関ヶ原の戦いを挟んで20年以上に及ぶ。

03城と村IGA UENO

上野城と領国の実務

検地の様子を眺める定次の想像図。本人の現場立会いを示す史料に基づく場面ではない(AI生成イメージ)
検地の様子を眺める定次の想像図。本人の現場立会いを示す史料に基づく場面ではない · AI生成イメージ

伊賀へ入った定次は、上野に城を築いた。現在の上野城跡へつながる城である。ただし、目の前に残る城の姿を、すべて定次が造ったものと考えることはできない。定次の時代に始まった整備の後には、藤堂高虎による大きな改修が続いている。

上野には、定次が来る前から人の住む町や寺があった。歴史地理学者の渡辺康代は、城と町の配置を検討し、筒井氏の城下町が北側の小田にあった町場との関係を持っていたと論じている。城だけを新しく置けば領国が動くわけではない。すでにある道や町と、城をどう結びつけるかが関わっていた。

村々の耕地や年貢を把握する仕事も進められた。三重県立図書館の調査回答が紹介する『伊賀市史』には、1586年(天正14)の野間村の検地、1599年(慶長4)の猪田の年貢算用などが挙げられている。検地は田畑を調べ、年貢算用は収入や納付の勘定を確かめる実務だった。

これらの仕事を担ったのは、定次一人ではない。家臣が村の調査や帳簿の処理を行い、その積み重ねが大名の支配を支えた。城に軍勢を集めるにも、家臣の知行を維持するにも、領内からどれだけ収入が得られるかを知る必要があった。

後年の改易から、定次の治世は失敗の結末だけで語られやすい。それでも、城の整備と村々の記録は、伊賀を治めるための仕事が実際に行われていたことを伝える。20年以上の統治を振り返るには、最後の処分に加え、こうした日々の実務にも目を向けたい。

04信仰FAITH

長崎での受洗と茶の湯

長崎で信仰に触れる定次の想像図。室内や所持品、受洗の場面の復元ではない(AI生成イメージ)
長崎で信仰に触れる定次の想像図。室内や所持品、受洗の場面の復元ではない · AI生成イメージ

定次の生涯には、領国や戦場だけでは見えてこない一面がある。キリシタンとしての信仰である。『日本人名大辞典+Plus』は、1592年(文禄元)、定次が長崎で宣教師ヴァリニャーノから洗礼を受けたと記す。伊賀へ移ってから数年を経た時期の出来事だった。

定次は数え年で31歳。順慶から家を継ぎ、秀吉の軍役を務め、伊賀に居城を定めた後の受洗だった。若い後継者として大和を出た時期と、領主として年月を重ねた時期との間に、この宗教上の選択が置かれる。以後、定次はキリシタンの大名としても名を伝えることになった。

茶の湯も、定次を知るうえで外せない。三重県立美術館が公開する森本孝の論考は、定次を古田織部に学んだ数寄者として紹介する。数寄者とは、茶の湯などの風流を好む人を指す。定次の名は、伊賀の茶陶を語る美術史の中にも残った。

とりわけ「筒井伊賀」という呼び名は、伊賀焼と定次の時代を結びつけている。茶席に置かれる水指や花入には、土の肌や焼け方そのものを見どころとする器がある。ただし、筒井伊賀という分類に入る器を、すべて定次が注文したと考えることはできない。

信仰と茶の湯は、軍役や年貢の記録とは異なる角度から定次を伝えている。どちらも後の運命を説明する材料として使われることがあるが、この時期の定次は、まず伊賀の領主として暮らす一人の大名だった。その生活に宗教と文化が重なっていた。

05関ヶ原SEKIGAHARA

東軍への参加と上野城の危機

戦時の城門付近に立つ定次の想像図。上野城の構造や特定の戦闘の再現ではない(AI生成イメージ)
戦時の城門付近に立つ定次の想像図。上野城の構造や特定の戦闘の再現ではない · AI生成イメージ

1600年(慶長5)、定次は徳川家康の側に立った。関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後も領地を保っている。秀吉に仕えて伊賀を得たという経歴だけで、西軍を選んだと考えてはいけない。秀吉の死後、定次は家康のもとで戦う道を選んだ。

この戦役では、定次の本拠である上野城も争奪の対象となった。滋賀県米原市が公開する新庄直頼の紹介によれば、西軍に属した直頼は上野城を占拠したが、城は奪還されたという。主君がどちらの陣営に属するかは、領国の城や家臣の安全にも直接関わっていた。

上野は、定次が伊賀へ入って以来の本拠だった。自らが属する東軍の勝敗と、領内の城を保てるかどうかは、どちらも家の将来に関わる問題となった。関ヶ原という一日の合戦の外側でも、大名の城と領地をめぐる争いが起きていたのである。

上野城を占拠した新庄直頼は、戦後に会津の蒲生氏へ預けられた。定次が領地を保ったのに対し、直頼は大名としての地位を失った。ただし、米原市の解説によれば直頼は4年後に赦免され、常陸麻生の藩主となる。同じ城を争った二人は、関ヶ原の後、それぞれ異なる道を歩んだ。

戦後、定次は伊賀の領主であり続けた。関ヶ原で領地を失った大名ではない。改易が命じられるのは1608年(慶長13)で、関ヶ原から8年が過ぎていた。東軍に参加して得た戦後の地位も、その後の処分を防ぐ保証にはならなかった。

06改易DISPOSSESSION

1608年、領国を失う

領国を去る頃の定次の想像図。改易時の行動や屋敷の復元ではない(AI生成イメージ)
領国を去る頃の定次の想像図。改易時の行動や屋敷の復元ではない · AI生成イメージ

1608年(慶長13)、定次は改易された。大名として領地を治める地位を失う処分である。伊賀へ移ってから20年以上が過ぎ、関ヶ原の後も支配を続けていた定次にとって、生涯を大きく変える出来事となった。

なぜ改易されたのか。いわき総合図書館の調査回答は、『国史大辞典』をもとに、中坊秀祐から不行跡を訴えられたことを理由として紹介している。不行跡とは、身持ちや行動がよくないという評価である。ただし、この語だけで、その場の言動を具体的に描けるわけではない。

キリシタン信仰を処分の理由とする説もある。事情には不明な点が残るものの、改易によって定次は上野城主の地位を失った。城と領地を拠り所にしてきた家は、これまでの形では続けられなくなる。関ヶ原で東軍に属した大名にも、安定した将来が約束されていたわけではなかった。

定次が去った後、伊賀には藤堂高虎が入った。高虎は上野城を大きく改修し、その城は豊臣氏の大坂に備える拠点として整えられていく。定次が始めた城の歴史は、領主を変えて続いた。今日の城跡には、こうした時代の重なりがある。

領地を失った定次は、鳥居忠政に預けられた。ここで終わったのは伊賀を治める大名としての日々であり、定次の生涯そのものではない。改易から最期までは、さらに約7年の隔たりがある。この間の暮らしを詳しく伝える記録は乏しく、華やかな大名時代から姿が遠のいていく。

07最期LAST YEARS

預けられた身から死命へ

晩年の定次を描いた想像図。幽閉先や最期の場所を特定するものではない(AI生成イメージ)
晩年の定次を描いた想像図。幽閉先や最期の場所を特定するものではない · AI生成イメージ

改易後の定次は、鳥居忠政のもとへ預けられた。いわき総合図書館の調査回答は、奥州磐城での幽閉を伝える辞典の記述を紹介する一方、地域の資料から詳しい暮らしぶりを見いだせなかったとしている。住まいや行動を細かく追える状態ではない。

定次の最期は1615年(慶長20)に訪れた。豊臣方との内通を疑われ、自害したとされる。『日本人名大辞典+Plus』が挙げる没日は慶長20年3月5日で、数え年では54歳だった。この3月5日は当時の暦の日付であり、現代の西暦3月5日を指すものではない。

大坂の豊臣氏と徳川氏が対立を深める時期、定次も内通の嫌疑によって死を命じられた。かつて秀吉の命令で伊賀へ移り、関ヶ原では家康に従った大名が、今度は豊臣方とのつながりを疑われる側に立たされた。領国を離れた後も、両家をめぐる政治から自由ではいられなかった。

また、改易の直後に命を奪われたわけでもない。1608年の処分と1615年の死をつなげると、約7年の時間が見えなくなる。大名の地位を失ってからも生きた年月があり、その末に別の局面で死を迎えたのである。

定次を語る言葉には、順慶の養子、上野城主、キリシタン、改易された大名といったものがある。そのどれか一つで生涯のすべてを表すことは難しい。伊賀で城を整え、村々を治め、関ヶ原の後も領地を保った。最後の処分だけに目を奪われず、その前に重ねた仕事も定次の生涯として受け止めたい。

02
READING

史料の読み解き

定次の生涯の大筋は、辞典や自治体の年表を重ねることで追える。 しかし、領地が何万石だったか、改易の決め手は何だったかという問いになると、資料の答えは一致しない。 出来事の存在と、その規模や理由を分けて読む必要がある。

伊賀への国替えは、どれほどの減封だったのか

定次の伊賀領は、一般に20万石と紹介される。 ところが、同じコトバンクのページでも、『日本人名大辞典+Plus』は20万石とし、旧版『世界大百科事典』の「伊賀国」の記述には5万石という数値が現れる。 同じ人物、同じ国替えを扱っていても、数字は一つではない。コトバンク「筒井定次」

三重県立図書館の調査回答を転載した資料は、この問題をもう少し詳しく扱っている。 同回答が紹介する『伊賀市史』第1巻は、20万石を伊賀12万石・伊勢5万石・山城3万石とする内訳について、確実なものとはしがたいとする。 一方、『当代記』に見える文禄期の伏見城普請の負担を手がかりに、伊賀10万石、定次の領知5万石という捉え方も紹介されている。三重県立図書館の調査回答転載

数値の違いを解くには、何を数えた石高なのかをそろえなければならない。 一国全体の石高と一人の大名の領知は同じではなく、他国にある所領を含めるかどうかでも合計は変わる。 さらに、検地の時期や、軍役・普請の負担を記した帳簿の性格も関わる。 ここに挙げた数字を、そのまま同じ条件で比較することはできない。

大和から伊賀へ移ったことで、定次の支配の範囲と本拠が変わったのは確かである。 ただし、異なる資料から数字を一つずつ拾い、「何万石から何万石へ減らされた」と計算すれば、その差だけで国替えの意味を決めてしまう危険がある。 秀吉の評価が下がったから移されたのか、領国配置の変更によるものかという政治的な説明も、石高の引き算だけでは導けない。

本記事では通説の20万石を紹介しつつ、固定した内訳や正確な減封率は採らなかった。 定次が伊賀で20年以上にわたり大名として支配したことを軸に置き、規模については資料の違いを残している。

改易の理由と、後世の悪評をどう読むか

定次の改易には、不行跡、家臣からの訴え、キリシタン信仰といった説明が結びついている。 いわき総合図書館の調査回答は、『国史大辞典』を参照し、1608年6月に中坊秀祐から不行跡を訴えられて改易されたと紹介する。 同時に、キリシタンであったためとする説も掲げている。いわき総合図書館の調査回答

ここで確かめたいのは、訴えの内容と、訴えられた人物の日常は同じものではないという点である。 「不行跡」という評価が伝わっていても、それだけで宴席での振る舞いや家臣との会話を再現することはできない。 告発した側の説明、処分した権力の判断、実際に行われた行為は、それぞれ分けて検討する必要がある。

定次が領国をまったく顧みなかったという説明にも注意がいる。 『伊賀市史』をもとにした図書館の調査回答には、検地、知行の給付、年貢の算用、未納分への対応などが挙がっている。 これらは、定次の支配下で領国の実務が行われたことを示す。 一方で、実務の記録が残るというだけで、家中の対立や政治上の問題が一切なかったと証明できるわけでもない。伊賀での支配に関する調査回答

信仰をめぐる説明も、受洗の事実から改易の原因へ飛ばないようにしたい。 1592年に洗礼を受けたとする記述と、1608年に処分されたという記述の間には時間がある。 宗教だけが理由だったと主張するには、その間の政策や定次への具体的な命令、処分の経緯を示す根拠が必要になる。

後の処分を知っていると、それ以前の行動もすべて失政の予兆に見えてしまう。 だが、改易という結末は、領国経営の一場面一場面を評価するための代わりにはならない。 本記事では、中坊の訴えを辞典に基づく説明として紹介し、信仰に関わる説は別に置いた。 定次を愚かな当主と決めつける描写も、逆に理由のない犠牲者と断定する描写も採っていない。

藤堂高虎の入封は、陰謀の証拠になるか

定次の改易後に藤堂高虎が伊賀へ入り、上野城を改修したことは、城の歴史の重要な節目である。 三重県の解説は、高虎が大坂に備えて城を大規模に整えたことを紹介している。 伊賀という場所が、徳川氏にとって軍事上の意味を持ったことは読み取れる。三重県の上野城解説

この前後関係から、高虎を入れるために定次を追い出したのではないか、という疑問は生まれる。 しかし、処分の後に誰が利益を得たかと、誰が処分を企てたかは同じ問いではない。 高虎の入封や築城という結果だけで、定次に対する訴えが最初から仕組まれていたとまでは言えない。

陰謀を事実として描くなら、関係者が事前に相談した記録や、告発を準備したことを示す史料が必要になる。 今回確認した自治体の解説と図書館の調査回答は、そこまでの証拠を示していない。 そのため、物語としてはつながりがよく見えても、本記事では高虎による追い落としを確定した出来事として扱わない。

むしろ、城を二つの時代に分けて見ると、それぞれの仕事が見えやすい。 定次は既存の町や交通との関係を持つ上野城を整え、高虎は徳川氏の軍事的な配置の中で改修を進めた。 上野城跡は、どちらか一人の業績だけを伝える場所ではない。 同じ場所が領主と時代を変えながら使われたことに、その歴史の厚みがある。

関ヶ原の帰属と、個々の戦闘を分ける

定次が関ヶ原で東軍に属し、戦後に領地を保ったことは、人物辞典で確認できる。 ただし、東軍の大名をまとめた一覧に名前があることと、本戦での配置や戦闘開始の時刻が確かめられることは別である。 後世の布陣図に置かれた駒を、そのまま当日の行動記録として読むことはできない。コトバンク「筒井定次」

上野城については、米原市の新庄直頼の紹介が、西軍の直頼による占拠と、その後の奪還を記している。 これは定次の本拠が戦争に巻き込まれたことを示す材料になる。 一方、この短い記述だけで、定次本人が城のどの門から入り、誰と戦ったかまで描くことはできない。米原市「新庄直頼」

同じ注意は、関連人物の関係にも当てはまる。 本記事で石田三成を対戦側の人物に挙げるのは、関ヶ原の戦役で敵対する陣営に属したためである。 長宗我部元親についても、1585年の四国征伐という戦役上の敵対を表している。 定次とそれぞれの人物が直接一騎打ちをした、あるいは本人同士が同じ場所で部隊をぶつけたという意味ではない。

四国征伐については、神戸大学附属図書館が公開する秀吉朱印状の解題から、秀長を総大将とする軍事行動の背景を確認した。 定次の参戦は大和郡山市の年表を根拠としており、朱印状そのものが定次の全行動を証明するものではない。 戦役全体の説明と当人の経歴を、それぞれの資料で支える形にしている。神戸大学「羽柴秀吉朱印状」解題、大和郡山市の歴史年表

内通の嫌疑と、1615年の死

定次の最期について、人物辞典は豊臣方との内通を疑われて自害したと記す。 ここで「疑われた」という言葉を落とすと、内通が確認された事実であるかのように意味が変わる。 逆に、疑いであったというだけで、無実だったことまで確定するわけでもない。コトバンク「筒井定次」

何が問題視され、誰がどう判断したのかを詳しく論じるには、具体的な連絡の内容や命令の記録が必要になる。 今回確認した資料だけでは、定次の意図や、豊臣方への忠誠心の強さまで描くことはできない。 本記事が記すのは、内通の嫌疑と死という経過であり、本人の心中を補った最期の物語ではない。

年月日にも注意したい。 辞典に載る慶長20年3月5日は旧暦の日付である。 また、1615年は途中で元和へ改元されるため、同じ西暦年を指して「元和元年」とする概説があっても、この没日を元和元年3月5日と書き換えることはできない。 西暦年だけが一致している記述と、和暦の年月日まで示す記述を区別した。

改易後の居場所と死亡地も、混同しやすい。 いわき総合図書館の回答は、鳥居忠政に預けられて磐城にいたという辞典の記述を紹介するが、当地での詳細を記した地域資料は見つけられなかったとしている。 一方、筒井氏の研究団体が載せた解説には、遺骸を伊賀で受け取り、奈良で荼毘に付したという伝承が紹介される。 遺骸を受け取った場所は、そのまま死去した場所を証明するものではない。磐城での調査回答、筒井氏研究団体の解説

そのため、本文では最期の屋敷や地名を一つに断定していない。 明確に追えるのは、1608年に大名の地位を失い、それから約7年を経て1615年に死んだという時間の流れである。 生涯の終わりに不明な点が残っても、伊賀で城を整え、領国を支えた年月まで消えるわけではない。 定次の評価を考える出発点は、処分の理由を一言で決めることより、分かる出来事をその順序に戻すことにある。

確度のまとめ

主張確度根拠・留意点
1584年に順慶の後を継ぎ、1585年に伊賀へ移った高人物辞典と大和郡山市の年表で照合できる。伊賀入国は伊賀市資料にも記載がある。
定次が上野城を築き、領内で検地などを行った高伊賀市資料、城下町研究、『伊賀市史』を紹介する調査回答がある。現存景観の全体を定次の築造とはしない。
関ヶ原で東軍に属し、戦後も領地を保った高人物辞典に記載。本戦の細かな配置や戦闘経過まで確定するものではない。
伊賀領は常に20万石で、内訳も確定している留保20万石は通説だが、5万石とする記述や内訳への疑問がある。
1608年に改易された高人物辞典、図書館の調査回答、伊賀市資料が一致する。
中坊秀祐の不行跡の訴えが改易につながった中『国史大辞典』を参照した図書館の回答による。告発内容のすべてを実証したわけではない。
キリシタン信仰だけが改易の原因だった低〜中信仰に関わる説はあるが、単独の決定要因とするには根拠が足りない。
高虎が定次を追い落とす陰謀を仕組んだ低改易後の高虎入封は確認できるが、事前の謀議を示す証拠を今回の資料では確認できない。
1615年、内通を疑われて自害した高人物辞典の経過に基づく。内通の実態や死亡地まで確定したという意味ではない。
筒井伊賀の器はすべて定次の注文品である低美術史上の分類名から、個々の器の注文主までは特定できない。
03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

筒井定次の逸話

  1. 逸話 01

    「筒井伊賀」は定次が焼いた器なのか

    古伊賀の茶陶をイメージした架空の水指。実在の名品の写真ではない(AI生成イメージ)
    古伊賀の茶陶をイメージした架空の水指。実在の名品の写真ではない · AI生成イメージ

    「筒井伊賀」という名を聞くと、定次自身が窯を築き、名高い器を次々に焼かせた姿を思い浮かべるかもしれない。しかし、この呼称は個々の作品の作者や注文主を保証する銘ではない。古伊賀の作品を時代や作風によって捉える際に使われてきた分類である。

    三重県立美術館が公開する森本孝の論考は、古伊賀を筒井・藤堂・遠州の伊賀に分ける呼び方を紹介しつつ、その区分には大まかなところがあると説明する。作品の制作年代や窯の実態にも、なお不明な点がある。

    同論考が確かな早い用例として挙げるのは、1581年(天正9)11月の茶会記に見える伊賀壺である。これは定次の伊賀入国より前に当たる。もっとも、生活用の壺が茶席で使われることと、最初から茶の湯のために水指や花入を作ることも、同じではない。

    定次の時代と伊賀の茶陶には関係がある。それでも「定次が伊賀焼を初めて作った」「筒井伊賀はすべて定次の注文品だった」とまで言い切ることはできない。器の呼び名を手がかりにしながら、個々の作品の年代や来歴は別に確かめる必要がある。

  2. 逸話 02

    城の入口から見える定次と高虎の違い

    近世初頭の城と町のつながりを描く想像図。筒井期上野城の復元図ではない(AI生成イメージ)
    近世初頭の城と町のつながりを描く想像図。筒井期上野城の復元図ではない · AI生成イメージ

    定次の城と高虎の城は、同じ丘陵にあっても、町との向き合い方が異なっていた。渡辺康代の歴史地理学研究は、上野城と城下町の関係を、門の位置や町の広がりから検討している。

    同研究が引用する『高山公実録』の記述では、筒井氏時代の城には西側に南北二つの出入口があり、北の口が表だった。これに対し、藤堂氏の城では南が表となる。単に建物を豪華にしたという違いではなく、人や物がどちらから城へ入るかにも変化があった。

    渡辺は、筒井氏が北側の小田にあった既存の町場を取り込んだ点に注目している。上野城下町を、何もない土地へ一度に造られた町と考えると、その前からあった町とのつながりを見落とすことになる。

    一方、この記述だけで定次時代の門の外観や天守の細部まで再現できるわけではない。「三層の天守」という伝承があっても、屋根や窓の形まですべて分かることにはならない。現在見られる城郭景観を手がかりにする際にも、筒井氏と藤堂氏、さらに後世の建物を分けて考えたい。

  3. 逸話 03

    順慶と定次、二人の城主を分ける

    家督の継承をイメージした書院の想像図。史料原本や系図の再現ではない(AI生成イメージ)
    家督の継承をイメージした書院の想像図。史料原本や系図の再現ではない · AI生成イメージ

    筒井氏の人物として、定次より先に順慶の名を思い出す人も多いだろう。順慶は定次の養父であり、両者は別人である。同じ家を治め、郡山城にも関わったため、経歴を読むときには年次を確かめておきたい。

    順慶が死去したのは1584年(天正12)。定次が家督を継ぎ、伊賀へ移るのはその翌年だった。関ヶ原の戦いは1600年なので、順慶の死から16年後に当たる。東軍に属した上野城主という経歴は、定次のものになる。

    順慶に結びつけて語られる洞ヶ峠の話や人物評価を、そのまま定次へ移すこともできない。養子が家を継ぐことと、養父と同じ性格や判断を持つことは別である。定次については、秀吉の軍役、伊賀の統治、関ヶ原後の地位をそれぞれ確認する必要がある。

    さらに、定次の改易をもって、筒井姓の人々や筒井氏の一族がすべて消えたという意味に受け取ってはいけない。領地を治める大名家の処分と、一族全体の行方も異なる問題である。人名、家督、領地を分けるだけで、二人の城主の歩みはずっと追いやすくなる。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 筒井定次(日本人名大辞典+Plusほか)
    コトバンク/講談社・平凡社参照日 2026-10-03
  2. 大和郡山市の歴史年表
    大和郡山市参照日 2026-10-03
  3. 筒井定次の磐城での幽閉期間に関する調査回答
    いわき市立いわき総合図書館/レファレンス協同データベース参照日 2026-10-03
  4. 新庄直頼
    米原市参照日 2026-10-03
  5. 上野城跡
    三重県参照日 2026-10-03
  6. 羽柴秀吉朱印状(天正13年6月17日付、中川家文書15)解題
    神戸大学附属図書館参照日 2026-10-03

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-03

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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