しもつま・らいりゅう
下間頼龍本願寺の坊官、石山合戦と教如を支えた生涯
- 生没年
- ?–1609
- 出身
- 不詳
- 家
- 本願寺
- 主な合戦
- 1

- 生年
- 不詳1552年とする説もある
- 没年
- 慶長14年1609年・旧暦6月15日
- 所属
- 本願寺顕如に仕え、教如を支える
- 役職
- 坊官按察使法橋・法名は了明
下間頼龍(しもつま・らいりゅう)は、本願寺顕如に仕え、石山合戦で織田信長と対立した本願寺の坊官である。1580年の講和では誓紙に署名し、その後は顕如の長男・教如を支えた。法名は了明。下間頼竜とも書く。
頼龍を知る手がかりは、講和の記録と、地方の寺院・門徒へ送った書状にある。同じ本願寺の坊官だった下間頼廉と比べると、東西分立に至るまでに二人の歩みが分かれたことも見えてくる。
石山本願寺を離れた後、教如の側近として何を担ったのか。豊臣秀吉の時代に起きた本願寺の継承問題は、頼龍に何をもたらしたのか。合戦の終結後までたどると、戦場の武功だけでは捉えられない坊官の仕事が浮かび上がる。
門主と門徒を結ぶ下間氏の一員

下間頼龍が仕えた本願寺では、僧侶が武家との交渉にも携わっていた。読経や法会を営む寺を、各地の寺院や門徒と結び、日々の用務を進める。その仕事を代々担った家の一つが下間氏である。頼龍もその一員として、顕如の本願寺に仕えた。
下間氏は本願寺の内衆として活動し、宗教上の務めと世俗の実務の双方に関わった。内衆とは門主の身近に仕える人々のことだ。本願寺が門跡寺院となると、下間氏は坊官として位置づけられる。坊官は寺の運営を支える役職であり、武家との関係が深まる戦国期には、戦争や講和にも無関係ではいられなかった。
頼龍は「下間頼竜」とも表記され、法名を了明という。史料では按察使法橋という呼称でも現れる。実名だけで探していると見落としてしまうが、こうした名前をつなぐことで、誓紙に関わる人物と、地方へ手紙を送る人物が重なってくる。
本願寺を支えるとは門主のそばに控えるだけの仕事ではなかった。遠方の寺院が何を知り、誰の指示に従うのかは教団のまとまりに直結する。頼龍の生涯で繰り返し現れるのは、この門主と地方のあいだを結ぶ役割である。のちに顕如と教如の意見が分かれたとき、その役割は頼龍自身の立場を左右することになった。
石山本願寺が織田信長と戦う

元亀元年(1570)、本願寺と織田信長の戦いが始まった。拠点は大坂の本願寺、後世に石山本願寺と呼ばれる寺である。顕如に仕える頼龍も本願寺側に立ってこの抗争に関わった。講和の誓紙にも関わり、顕如の本願寺を支えた。
石山合戦は、一度の野戦で勝敗が決まった戦いではない。寺を守る側と、周辺に圧力を加える織田側との抗争が長く続いた。本願寺には各地の門徒との結びつきがあり、大坂の寺内だけで戦争が完結していたわけでもなかった。遠くの支援者へ状況を伝えることが、寺の存続とつながっていた。
信長から見れば、大坂に敵対する大きな勢力が残っている。本願寺から見れば、門徒が支えてきた本山を失うかもしれない。両者の対立には政治と軍事が絡み、その一方で本願寺側には、教えを伝える場を守るという問題もあった。
頼龍の活動を知る手がかりは、戦いの終わりに近づくほど具体的になる。敵との講和をどう受け入れるのか。門主の決定を誰が引き受けるのか。坊官は戦時にも寺の実務を担い、戦いを終える段階では約束を文書にする役割を負った。頼龍の名前が残ったのも、その重大な局面である。
木津川口の海戦が本願寺を取り巻く情勢を変える

大坂の本願寺を支えるには、外から物資を運び込む道が必要だった。その重要な入口が海からつながる木津川口である。天正4年(1576)の海戦では毛利方の水軍が織田方を破り、本願寺への補給を支えた。寺の外で起きた戦いの結果が、籠もる人々の持久力に関わっていた。
しかし、天正6年(1578)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆ら織田方の大船が毛利方を退けた。信長は海上からの圧迫も強め、本願寺は厳しい状況に置かれる。戦いを続けるには、寺内の決意だけでなく、外部の助力と補給の見通しが欠かせなかった。
頼龍が属する本願寺は、そうした包囲下で講和を選ぶことになる。海戦だけで直ちに降伏が決まったのではない。陸の戦況、支援勢力の動き、朝廷による仲介が重なり、寺を守る方法そのものが問われるようになった。
信長と和睦すれば、大坂にとどまり続けることはできない。それでも本願寺を存続させる道はある。一方、大坂を守り抜こうとする人々にとって、退去は長年の抗争で守ってきた場所を手放す決断だった。この隔たりがやがて顕如と教如の対立として表れる。頼龍は海上の勝敗を背景に、寺の行く末をめぐる争いへ向き合っていく。
頼廉・仲孝とともに講和の約束を担う

天正8年(1580)、朝廷の仲介によって本願寺と信長の講和が進んだ。このとき、下間頼龍は下間頼廉・下間仲孝とともに、講和の誓紙へ署名した人物として伝わる。誓紙は神仏に誓って約束を守ることを示す文書である。戦いを終える決定に、坊官たちも名を連ねた。
太田牛一の『信長公記』は閏3月の出来事として大坂退去の誓紙を記している。そこには少進法橋、刑部卿法橋、あせち法橋という呼称が並ぶ。按察使法橋と呼ばれた頼龍を、講和の実務から切り離すことはできない。頼龍は戦いを終える約束の当事者でもあった。
顕如は大坂を出て紀伊の鷺森へ移った。しかし、長男の教如は大坂に残る。講和が整ったからといって、本願寺の内側まで直ちに同じ方向へ動いたわけではなかった。退去を受け入れた顕如と、なお大坂を確保しようとする教如のあいだに、大きな亀裂が生じる。
頼龍はその後、教如に従った。後に地方へ送った書状は、頼龍が教如を支えたことをはっきり伝えている。誓紙への関与と教如への支持は、どちらかを消してしまうと頼龍の生涯を見誤る二つの事実である。
石山退去後も、地方の寺院へ書状を送る

教如もやがて大坂を退いた。だが、石山合戦の終わりは本願寺の内部対立の終わりにはならなかった。教如は顕如との関係を損ない、頼龍も教如に従ったことで顕如の勘気を受ける。門主の不興を買った頼龍は、その後も教如を支える側に立ち続けた。
その活動を伝えるのが、常陸の寺院と門徒へ宛てた書状である。水戸市の善重寺には教如の手紙と、それに添えられた頼龍の手紙の写しが伝わる。頼龍は法名の了明を用い、教如側の事情を遠方の人々へ知らせていた。大坂を離れても、地方との連絡は途絶えていなかった。
手紙の中では教如を「当御門様」、顕如を「大御所様」と呼び分けている。教如を現在の門主として仰ぐ側の見方が、呼称に表れているのだ。遠く離れた寺院にとって、誰を中心にまとまるべきかは切実な問題だった。頼龍の書状はその問いに教如の側から答える働きをしていた。
天正10年(1582)には教如の義絶が解かれる。しかし、頼龍の処遇まで同時に元へ戻ったわけではなかった。教如と父の関係が修復されても、教如に従った人々の問題は残ったのである。頼龍が本願寺の運営で再び表立って登用されるのは、さらに後、顕如が亡くなり教如が継いだときだった。
教如の継承で復帰し、隠退処分に直面する

天正20年(1592)11月、顕如が亡くなった。後を継いだ教如はかつて自分を支えた頼龍を登用する。顕如に近かった下間仲之が退けられ、頼龍が起用された。石山を去ってから長く続いた立場の違いが、本願寺の人事にはっきり現れた。
この継承を、豊臣秀吉も当初は認めていた。ところが翌文禄2年(1593)、教如は秀吉の命によって隠退し、弟の准如が本願寺を継ぐ。頼龍を登用した新しい体制は、長く続かなかった。門主の交代には教団内の意向だけでなく、天下人の判断も及んでいた。
秀吉の時代、本願寺は大坂天満を経て京都へ移っている。石山で武力抗争を続けた時代から、政権のもとで寺地を得て活動する時代へ、置かれた条件は変わった。それでも、顕如を支えた人々と教如を支えた人々のあいだに生じた亀裂は、寺地の移転だけでは解消しなかった。
教如は隠退後も宗教活動を続けた。頼龍も教如側の人物として歩み、のちの東本願寺につながっていく。教如が門主の座を失っても、支持する寺院や人々との関係は続いた。頼龍が結んできた地方との関係は、教如の活動を考えるうえで欠かせない。
教如の東本願寺に仕え、1609年に没する

慶長7年(1602)、教如は徳川家康から京都の寺地を寄進された。翌年には阿弥陀堂、慶長9年(1604)には御影堂が建立され、新たな本願寺が形を整える。これが東本願寺である。准如の本願寺と教如の本願寺が並び立つ時代になった。
下間氏の中でも、頼廉は准如の西本願寺に、頼龍は教如の東本願寺に仕えた。同じ本願寺の坊官として講和の誓紙に関わった二人は、最後には別の本山を支える立場となった。分立は門主だけの出来事ではなく、その周囲で働く人々の歩みも分けたのである。
頼龍は慶長14年(1609)6月15日に没した。これは当時の暦による日付である。石山の戦いに関わった坊官は、大坂退去、教如の継承と隠退、東本願寺の成立を経て生涯を閉じた。信長と戦った頃とは、本願寺を取り巻く政治も、寺のあり方も大きく変わっていた。
子の頼広はのちに池田重利と名乗り、武家としての道を歩む。一方、頼龍自身の足跡として残るのは、講和の誓紙への関与と、教如を支える書状である。戦いが終わり、寺を移しても、門主と門徒を結ぶ仕事は残った。その継続をたどれることが、頼龍という人物の生涯を読む面白さである。
史料の読み解き
下間頼龍は「本願寺の武将」と紹介されることがある。ただし、その肩書きだけでは、講和の誓紙に名を連ね、教如の書状に説明を添えた人物像が見えにくい。戦った相手、仕えた門主、文書の宛先を分けて考えると、頼龍の役割を具体的に捉えられる。
下間頼龍の生涯を年表で確認する
- 1580年
- 講和と大坂退去、顕如と教如の対立
- 誓紙への署名、教如支持、地方への書状
- 1582年
- 教如の義絶が解かれる
- 頼龍の処遇まで同時に回復したとはいえない
- 1592年
- 顕如没後、教如が本願寺を継ぐ
- 教如に登用される
- 1593年
- 秀吉が教如に隠退を命じ、准如が継ぐ
- 教如を支える側の立場が続く
- 1602年
- 家康が教如へ寺地を寄進する
- のちの東本願寺に仕える
- 1609年
- 頼龍死去
- 旧暦6月15日。詳しい死因は不明
| 年 | 本願寺をめぐる出来事 | 頼龍との関わり |
|---|---|---|
| 1570年 | 本願寺と織田信長の抗争が始まる | 顕如に仕えた本願寺側の人物として石山合戦に関与 |
| 1578年 | 第二次木津川口の戦いで織田方が優勢となる | 本願寺を取り巻く戦況。頼龍本人の海戦参加は未確認 |
| 1580年 | 講和と大坂退去、顕如と教如の対立 | 誓紙への署名、教如支持、地方への書状 |
| 1582年 | 教如の義絶が解かれる | 頼龍の処遇まで同時に回復したとはいえない |
| 1592年 | 顕如没後、教如が本願寺を継ぐ | 教如に登用される |
| 1593年 | 秀吉が教如に隠退を命じ、准如が継ぐ | 教如を支える側の立場が続く |
| 1602年 | 家康が教如へ寺地を寄進する | のちの東本願寺に仕える |
| 1609年 | 頼龍死去 | 旧暦6月15日。詳しい死因は不明 |
この年表で分けておきたいのは、1580年の大坂残留と、1592年の正式な継承である。教如を門主として呼ぶ文書が早くから存在することは、直ちに本願寺全体が教如への継承で一致していたことを意味しない。支持者の認識と、教団の制度上の経緯を重ねすぎないことが、父子の対立を読む出発点になる。
本願寺の坊官は、何をする人だったのか
坊官という語は現代の寺の事務職だけを思い浮かべると狭すぎる。下間氏の活動は宗教儀礼と世俗の実務の双方に及び、武家との対立や一向一揆浄土真宗本願寺派の門徒(一向宗徒)による武装蜂起。戦国大名の脅威となり、織田信長との十年戦争で知られる。にも深く関わった。寺の運営、政治交渉、軍事上の連絡を完全に切り離せる組織ではなかったのである。平凡社『世界大百科事典』「下間氏」
一方で、下間氏全体の役割が分かっても、そのすべてを頼龍個人が担当したとはいえない。軍勢を動かした一族がいたからといって、頼龍の指揮した兵数や戦場を自由に補うことはできない。本人に結びつく文書を一つずつ確かめる必要がある。
頼龍については、誓紙への関与と地方に宛てた手紙が、その仕事を具体的に示している。戦争を終える約束を引き受けることも、門主側の事情を遠方へ伝えることも、教団を維持するための行為だった。武将か僧侶かを二者択一で決めるより、僧であり坊官である人物が、戦争の中で何を担ったかを問うほうが実像に近づける。
下間頼廉との違いは、呼称と仕えた先にある
下間頼廉と頼龍の共通点は本願寺の坊官として顕如の時代に活動し、石山合戦の講和に関わったことである。違いは史料上の呼称と、その後に支えた門主に現れる。
| 比較する点 | 下間頼龍 | 下間頼廉 |
|---|---|---|
| 読み方 | しもつま・らいりゅう | しもつま・らいれん |
| 主な呼称 | 按察使法橋、了明 | 刑部卿法橋 |
| 1580年の講和 | 誓紙に関与 | 誓紙に関与 |
| 東西分立後 | 教如の東本願寺 | 准如の西本願寺 |
| 読み違えやすい点 | 教如支持を頼廉の行動と混同しない | 頼龍の書状を頼廉の書状としない |
似た名前は混同を招きやすいが、結末の違いから最初から敵同士だったように描くのも適切ではない。二人は同じ教団の中で仕事をしていた。その後の判断や処遇が重なった結果、仕える先が分かれたのである。
1593年の教如隠退をめぐる記述にも注意したい。興正寺の史話が秀吉の前で異議を述べた人物として挙げるのは頼廉であり、頼龍ではない。ここを入れ替えると、教如を支えた頼龍が教如の隠退を促したかのような、逆の筋書きになってしまう。熊野恒陽「継職と隠退 その二」
第二次木津川口の戦いと、頼龍の関係はどこまで分かるか
第二次木津川口の戦いは、頼龍が属した本願寺の置かれた状況を知るうえで欠かせない。ただし、「本願寺に関わる海戦」と「頼龍本人が参加した海戦」は別の問いである。
『信長公記』巻十一には、織田方の大船が海上で毛利方を退ける様子が記される。大坂への物資の流れをめぐる戦いであり、海の勝敗は陸上の包囲にも関係した。寺の中だけを見ていては、なぜ講和へ向かったのかを理解しにくい。太田牛一『信長公記』
しかし、確認した資料からは、頼龍がこの海戦で船団を指揮したことや、九鬼嘉隆と船上で直接戦ったことまでは分からない。頼龍の経歴に海戦を入れるなら、本願寺への圧迫が強まった背景として記すのが妥当である。水軍の指揮官として描けば、本人の確認できる仕事から離れてしまう。
同じ理由で、海戦の敗北だけを講和の唯一の原因にしてはいけない。長い抗争の中では、支援勢力や陸上の戦況も変わっていた。1580年の講和はそうした情勢の中で朝廷の仲介によって進められたものだった。
誓紙に署名した頼龍は、なぜ教如を支えたのか
頼龍は講和の誓紙に関わり、その後は大坂に残る教如を支えた。この二つを並べると、一見矛盾しているように見える。だが、誓紙に関わった事実から、その後も顕如とすべて同じ判断をしたはずだと推測することはできない。
講和を受け入れること、実際にいつどのように退去するか、退去後に誰を中心とするか。これは互いに関係する問題だが、完全に同じではない。顕如の退去後にも大坂に残った人々がおり、教如はその中で行動した。頼龍も教如の側に立った。
本人が選択の理由を詳しく述べた記録を、この記事の調査では確認できていない。したがって、顕如への反感や教如への個人的な感情を、内心の独白として書くことはできない。分かるのは選択の結果である。頼龍は教如を支える書状を出し、顕如からの勘気を受け、教如継承時に登用された。講談社『日本人名大辞典』「下間頼竜」、熊野恒陽「継職と隠退 その一」
この経過を読むとき、忠臣や裏切り者という評価を先に置くと、説明できる範囲がかえって狭くなる。顕如と教如のどちらを支えるかで、坊官自身の地位も変わった。頼龍の仕事と処遇を追うことで、門主父子の対立が周囲の人々へ及んだことが見えてくる。
頼龍の書状から、教如の何が分かるのか
善重寺に伝わる書状写は教如の状況を考えるためにも重要である。教如の手紙だけでなく、側近の頼龍が書いた添状も残っているからだ。送り手の異なる二通を合わせて読むことで、教如が伝えようとしたことと、側近が補足したことを区別できる。
頼龍の書状では教如が「当御門様」、顕如が「大御所様」と呼ばれる。これは教如を中心に据える側の言葉である。ただし、その呼称だけで顕如が完全に引退し、すべての寺院が教如に従っていたと結論することはできない。文書が示すのは、まず書き手の立場である。
宛先が常陸の寺院・門徒である点も見落とせない。大坂の退去後、頼龍の説明は離れた地域へ送られた。戦いが終わった後の情報共有が、地方の人々にとっても必要だったことが分かる。こうした手紙は、教団内の対立が本山の建物の中だけで進んでいたわけではないことを教えてくれる。
なお、小島智の紹介は原本そのものではなく写しを対象にしている。年次も内容から判断されている。その条件を明示して使えば、史料の価値を過小にも過大にも扱わずに済む。『センタージャーナル』第106号、4–7頁
豊臣秀吉は、頼龍の主君だったのか
頼龍を豊臣秀吉の家臣として整理するのは適切ではない。確認できる中心的な関係は、頼龍が支えた教如の地位に、秀吉の判断が大きく影響したということである。
秀吉は1592年に教如の継承を認め、翌1593年には隠退を命じた。教如による頼龍の登用はこの短い期間に位置する。頼龍が教団内で復帰できたことと、教如の体制が安定して続いたことを同一視してはいけない。
本願寺が政治権力から完全に独立して門主の地位や寺地を決められたわけではないことも、この経緯から分かる。頼龍の個人史を秀吉の時代に置き直すと、石山での抗争とは異なる条件のもとで、教如を支える必要があったことが見えてくる。東本願寺「東本願寺の歴史」
一方、東西分立を秀吉一人の決定だけで説明することもできない。教如隠退の後も支持者の活動は続き、1602年には家康から寺地が寄進される。父子対立、継承問題、その後の活動を一続きにたどる必要がある。『福井県史』「東西本願寺の成立」
生年・死因・子孫はどこまで確認できるか
頼龍の生年は記述を慎重に扱うべき項目である。講談社の『日本人名大辞典』は生年を不詳とする一方、Dan Shererの研究論文は1552年生まれと記す。このため本記事では、1552年説を紹介しつつ、プロフィールの生年を確定していない。Dan Sherer, “Prayer for the Devil”, p.11
生年を固定しなければ、開戦時の年齢や享年も一つに決められない。「若くして」「何歳で重職に就いた」といった描写を加える前に、前提となる生年が確かかを考える必要がある。画像の年齢表現も生涯の前半と後半を示す想像上の演出であり、実際の容貌を保証するものではない。
没日は慶長14年6月15日とされる。西暦年では1609年だが、月日までそのまま現代の6月15日に置き換えてはいけない。また、辞典に没日が記されていても死因まで分かるわけではない。病名や臨終の場面は付け加えない。
子の頼広が池田重利となったことは、人名辞典の両項目から確認できる。ただし、家族の系図を一部確認できたことと、すべての子や現代までの子孫を把握したことは別である。この記事では確認できた親子関係に範囲を絞っている。講談社『日本人名大辞典』「池田重利」
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み方 |
|---|---|---|
| 本願寺の坊官で、法名は了明 | 高 | 人名辞典と書状写の紹介を照合できる |
| 1580年の講和の誓紙に関与した | 高 | 人名辞典と『信長公記』の呼称を照合できる |
| 教如を支え、地方へ書状を送った | 高 | 頼龍の書状写と独立した研究者の叙述で確認できる |
| 善重寺の無年号書状写を1580年に位置づける | 中 | 内容に基づく小島智の年次比定。原文に年号はない |
| 東西分立後、東本願寺に仕えた | 高 | 百科事典の下間氏項と教如支持の経過が対応する |
| 1552年生まれである | 中 | 採用する研究がある一方、人名辞典は生年不詳 |
| 第二次木津川口の戦いで水軍を指揮した | 低 | 本人の参加・指揮を示す根拠は今回確認できない |
| 詳しい死因や臨終の状況が分かる | 低 | 閲覧した資料では確認できない |
下間頼龍の生涯を石山合戦の終結で区切ると、戦後に担った役割が見えにくくなる。誓紙に関わった後、教如を支え、地方への手紙を送り、門主の交代を経験した。その歩みは、本願寺が戦国の抗争から近世の東西分立へ移っていく過程と重なっている。
参戦合戦
下間頼龍の逸話
- 逸話 01
「了明」の手紙は何を伝えるのか

筆を執る頼龍を斜め上から捉えた想像場面 · AI生成イメージ 頼龍の法名は了明である。善重寺所蔵の書状写には、この名で出された11月1日付の添状がある。教如の10月末日の書状と組み合わされ、常陸の寺院や門徒へ事情を伝えるものだった。
小島智の史料紹介によれば、二通には年号が記されていない。内容から天正8年(1580)に位置づけられる。現存するのは写しであり、「1580年」と書かれた頼龍自筆の原本がそのまま残っている、と説明するのは正確ではない。
それでも、この手紙は頼龍の役割を具体的に示す。教如が自分の立場を伝え、頼龍がそれを補う。門主の言葉を地方へ届ける際、側近の説明も添えられていたのである。出陣や武功とは違うが、教団の人々が同じ事情を理解するために必要な仕事だった。
- 逸話 02
頼廉と頼龍、同じ姓でも歩みは異なる

別の僧と話す頼龍の想像場面。相手は頼廉の肖像ではない · AI生成イメージ 下間頼廉と下間頼龍は、ともに本願寺の坊官で、1580年の講和に関わった。名前も似ているが、同一人物ではない。頼廉は刑部卿、頼龍は按察使という呼称で区別できる。
大谷大学博物館の2018年度特別展目録には、高山別院照蓮寺が所蔵する天正8年の頼廉書状と頼龍書状が、別々の出品番号で載る。これは二人それぞれの文書が伝わることの確認になる。ただし、同年の手紙だから同じ場所で同じ任務をしていた、とまではいえない。
のちに頼廉は西本願寺、頼龍は東本願寺を支えた。二人の違いを知るには、個性を「武断派」「文治派」と決めつけるより、いつ、誰のもとで、どの文書に名前が出るかを追うほうが確かである。同じ姓から兄弟関係を決めることもできない。
- 逸話 03
坊官の子は池田重利となった

庭を望む回廊を歩く頼龍の想像場面 · AI生成イメージ 頼龍の子には、のちに池田重利と名乗った頼広がいる。『日本人名大辞典』は頼広も本願寺の坊官として教如を補佐した後、慶長14年(1609)に本願寺を去り、池田輝政に仕えたとする。父と同じ道を歩み始めた子は、やがて武家の側へ移った。
重利は大坂の陣の後に大名となり、播磨新宮藩の池田家につながった。ただし、後年の子の活躍を、そのまま父頼龍の功績として数えることはできない。頼龍が池田家の大名だったわけでもない。
父の死と子の転身は同じ1609年に置かれるが、それだけで一方が他方の直接の原因だったとは断定できない。家族の歩みを知る面白さと、史料が語っていない因果関係を補わない慎重さ。その両方を保って読む必要がある。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 岸和田の戦国武士たち(ミニ岸和田再発見第3弾)岸和田市立図書館参照日 2026-11-01
- 金龍静「石山戦争」小学館『日本大百科全書』/コトバンク参照日 2026-11-01
- 下間頼竜講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』/コトバンク参照日 2026-11-01
- 下間氏(内藤範子)平凡社『世界大百科事典』/コトバンク参照日 2026-11-01
- 太田牛一『信長公記』巻十一・巻十三Wikisource(公開翻刻)参照日 2026-11-01
- 小島智「史料紹介・水戸市善重寺所蔵 教如上人書状(写)ならびに下間頼龍書状(写)」pp.4–7真宗大谷派名古屋別院『センタージャーナル』第106号(2018年)参照日 2026-11-01
- 2018年度特別展「飛騨真宗の伝流」出品目録 No.21・22大谷大学博物館参照日 2026-11-01
- 熊野恒陽「継職と隠退 その一 教如上人の本願寺住持職継職」本山興正寺参照日 2026-11-01
- 熊野恒陽「継職と隠退 その二」本山興正寺参照日 2026-11-01
- 東本願寺の歴史真宗大谷派(東本願寺)参照日 2026-11-01
- 東西本願寺の成立福井県『福井県史』通史編3 近世一参照日 2026-11-01
- Dan Sherer, Prayer for the Devil: Religion and the Regime of Oda Nobunaga, p.11南山宗教文化研究所 Japanese Journal of Religious Studies 52/1(2025年)参照日 2026-11-01
- 池田重利講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』/コトバンク参照日 2026-11-01











