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戦国時代〜江戸初期織田氏15581630
織田信雄|乱世を生き抜いた信長の次男の肖像
伝・織田信雄像(想像復元)
織田信長北畠氏天正伊賀の乱
おだ・のぶかつ

織田信雄|乱世を生き抜いた信長の次男

ODA NOBUKATSU · 1558 — 1630 · 享年 73

信長の次男として北畠を継ぎ、本能寺の後は賤ヶ岳と小牧長久手の荒波を泳ぎ抜いて、織田の血を江戸大名として後世に残した生き残り

織田
生年
永禄元年
1558年(弟・信孝と同年)
没年
寛永7年
1630年・京/享年73(数え)
出身
尾張国
織田信長の次男・母は生駒氏と伝わる
居城
清洲城ほか
北畠時代は田丸・松ヶ島/後に尾張清洲
家紋
織田木瓜
ODA-MOKKO

織田信雄

織田信雄は、「暗愚な二代目」と侮られながらも、本能寺の変で父と兄を失い、賤ヶ岳・小牧長久手の荒波を泳ぎ抜いて、織田の血を江戸大名として後世に残した、戦国屈指の生き残りである。

信雄は永禄元年(1558年)、信長の次男として生まれた。伊勢の名門・北畠家を継いで南伊勢を領し、北畠信雄を名乗る。だが伊賀への無断侵攻で父の叱責を受けるなど、その船出は順風満帆とはいかなかった。

天正十年(1582年)の本能寺の変で父と兄を失うと、信雄は織田の最年長の遺児として時代の渦中に立つ。賤ヶ岳では秀吉と結んで弟・信孝を退け、翌年の小牧・長久手では一転して家康と組み、秀吉に刃を向けた。

しかし単独講和で家康を置き去りにし、やがて国替を拒んで改易されるなど、その足取りは毀誉褒貶に満ちている。それでも信雄は、関ヶ原と大坂の陣を生き延び、最後には大名へと返り咲いた。暗愚と笑われ、したたかと畏れられながら、信雄は織田の血を江戸へとつないだ——その生涯は、敗者となった織田一門のなかで、ひときわ異彩を放っている。

01誕生BIRTH

信長の次男として — 茶筅丸の出発

信長の次男として尾張に生まれた茶筅丸
信長の次男として尾張に生まれた茶筅丸

永禄元年(1558年)、織田信雄は尾張に生まれた。父は天下へ駆けのぼろうとする織田信長、母は生駒氏と伝わる。幼名を茶筅、のちに三介と称したこの少年は、信長の次男として世に出た。同母兄とされる嫡男・信忠がおり、織田家の跡目は早くから兄に定まっていた。

だが、次男であることは決して脇役を意味しない。信長が尾張から美濃へ、さらに畿内へと版図を広げるたび、その子らは各地を束ねる駒として大きな価値を帯びた。茶筅丸もまた、織田の勢力を伸ばすための要として、早くからその運命を定められていく。

奇妙なことに、すぐ下の弟・信孝もまた同じ永禄元年の生まれである。一説には信孝のほうが先に生まれたとも伝わるが、家中の事情から信雄が次男、信孝が三男とされた。この序列の機微は、のちの兄弟の確執を考えるうえで小さからぬ意味を持つ。

まだ何者でもない少年は、しかし信長の血という重い看板を背負っていた。次男に生まれた茶筅丸は、織田の版図を支える楔として、早くから乱世の盤上に置かれていた。その出発点こそ、のちに「生き残る次男」となる信雄の物語の幕開けだった。

永禄12年、織田信雄は大河内城の和睦に伴い伊勢の名門・北畠家の養嗣子となり、南伊勢の主へと歩み出した

「父の血と引き換えに — 北畠を継ぎ伊勢を領した次男」

02北畠家KITABATAKE

北畠を継ぐ — 伊勢の名門に入った貴公子

北畠家を継ぎ南伊勢を領した北畠信雄
北畠家を継ぎ南伊勢を領した北畠信雄

永禄十二年(1569年)、信雄の人生を決める縁組が結ばれる。信長は伊勢の名門・北畠氏を攻め、その本拠・大河内城を包囲した。激しい攻防の末に和睦が成り、その条件として、信長の次男・茶筅丸が、北畠の前当主・具教の嫡子である具房の養嗣子として送り込まれたのである。

こうして信雄は「北畠具豊」、のちに「信意」と名を変え、伊勢国司の家を継ぐ若き貴公子となった。南伊勢の広大な所領と、国司北畠という名門の権威。次男の身に、これは破格の出発であった。だが、その養子の座は決して安らかなものではなかった。

天正四年(1576年)、信長の意向を背景に、北畠の旧主筋が一掃される。前当主・具教をはじめとする北畠一族が排除され、伊勢は名実ともに織田の支配下へ組み込まれた。三瀬の変と呼ばれるこの動きは、織田の血を引く養子が名門を内から呑み込む、戦国の縁組がはらむ冷厳な現実を映していた。

伊勢を手中にした信雄は、ここに一個の大領主として立つ。養子として送り込まれた少年は、名門北畠を内側から呑み込み、南伊勢の主となった。北畠信雄の名は、織田の版図が伊勢を完全に併呑した証そのものだった。

改易と流転を経て大名に返り咲いた信雄は、織田の血を江戸大名として後世へつないだ生き残りであった

「暗愚と笑われ、したたかと畏れられ — 織田を江戸へ残した男」

03伊賀IGA

天正伊賀の乱 — 焦りと雪辱のはざまで

伊賀へ兵を進める若き信雄
伊賀へ兵を進める若き信雄

伊勢を固めた信雄は、さらなる武功を求めて隣国・伊賀へ目を向ける。天正七年(1579年)、信雄は父・信長の許しを得ぬまま、独断で伊賀へ大軍を侵攻させた。功を焦る若き領主の、勇み足であった。

ところが伊賀の地侍たちは地の利を生かして頑強に抵抗し、信雄軍は手痛い敗北を喫する。第一次天正伊賀の乱である。無断の出兵が大敗に終わったと知った信長は激怒し、信雄へ厳しい叱責の書状を送りつけた。父子の縁を疑わせるほどの、容赦ない譴責であったと伝わる。

汚名をそそぐ機会は、二年後に訪れる。天正九年(1581年)、信長は満を持して数万の大軍を伊賀へ投入し、国全体を制圧した。第二次天正伊賀の乱である。信雄もこの戦いに加わり、かつての雪辱を果たした。

伊賀をめぐる二度の戦いは、信雄という武将の像を鮮やかに照らし出す。功を焦って父の不興を買い、のちに大軍の力でようやく雪辱する——伊賀の乱は信雄の意気と甘さを同時に映していた。無断侵攻の失敗は、後年まで信雄につきまとう評価の、最初のつまずきとなった。

04本能寺と清洲KIYOSU

本能寺の後 — 最年長の遺児として

清洲会議で織田の後見格に立つ信雄
清洲会議で織田の後見格に立つ信雄

天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変明智光秀の謀反により、父・信長と兄・信忠が京で斃れた。織田家を率いるべき当主と嫡男が、一夜にして失われたのである。次男の信雄は、いまや織田の血を引く最年長の男子となった。

ところが、この最大の好機に信雄は動けなかった。彼は伊勢・近江の方面にあって軍を立て直すのに手間取り、光秀を討つ決戦には間に合わない。父の仇を討つ大功は、中国大返しで駆け戻った羽柴秀吉の手に落ちた。山崎の勝利は、秀吉を一気に押し上げる。

光秀討伐ののち、織田家の後継を決める清洲会議が開かれる。会議では兄・信忠の遺児・三法師が後継と定まり、信雄はあらたに尾張を継ぎ、もとから治める南伊勢・伊賀と合わせて、その後見格に位置づけられた。弟・信孝と並び、信雄は織田家を支える柱の一人となったのである。

最年長の遺児でありながら、信雄は主導権を秀吉に握られていた。父の仇討ちに乗り遅れた信雄は、織田の最年長者でありながら、台頭する秀吉の後塵を拝することになった。本能寺の好機を逃したことが、信雄のその後を大きく左右していく。

05賤ヶ岳SHIZUGATAKE

賤ヶ岳の選択 — 弟と袂を分かつ

賤ヶ岳の後に織田の当主格となる信雄
賤ヶ岳の後に織田の当主格となる信雄

清洲会議の後、織田家の実権をめぐって秀吉と柴田勝家が激しく対立する。勝家は信雄の弟・信孝と結び、秀吉に対抗した。このとき信雄が選んだのは、秀吉の側であった。兄弟は、天下の趨勢を分ける対決の、敵味方に分かれたのである。

天正十一年(1583年)、近江で賤ヶ岳の戦いが起こり、勝家は秀吉に大敗して越前で滅んだ。後ろ盾を失った弟・信孝は、岐阜で孤立する。そこへ兵を向けたのが、ほかならぬ兄・信雄であった。

信雄は岐阜を攻めて信孝を降し、信孝は尾張・野間で生涯を閉じた。父を同じくする兄が、弟を追い詰める——織田一門の悲劇が、ここに極まった。だが、この非情な選択によって、信雄は織田家の名目上の当主格へとのし上がっていく。

秀吉という時流に乗ることで、信雄は弟を退け、ひとまず織田の頂に立った。弟・信孝との対決に勝ち、秀吉に与した信雄は、織田家の名目当主の座を手にした。賤ヶ岳の選択は、信雄が「生き残るために時流を読む」男であることを、冷徹に示していた。

06小牧長久手KOMAKI

小牧・長久手 — 家康と組んで天下人に抗う

小牧・長久手で家康と結び秀吉に抗う信雄
小牧・長久手で家康と結び秀吉に抗う信雄

織田家の当主格となった信雄だが、実権はなお秀吉に握られていた。次第に増す秀吉の専横に、信雄の不満は募っていく。天正十二年(1584年)、信雄は秀吉に内通したとして、自らの重臣三人——岡田重孝・浅井長時・津川義冬を誅した。これが、両者の全面対決の引き金となる。

後ろ盾を求めた信雄は、徳川家康と手を結ぶ。秀吉と、信雄・家康連合。小牧・長久手の戦いである。緒戦の長久手では、家康が秀吉方の別働隊を巧みに打ち破り、軍事的には連合軍が気を吐いた。天下の秀吉を相手に、互角以上に渡り合ったのである。

ところが戦線は膠着し、やがて事態は思わぬ形で決着する。その年の十一月、信雄は家康に相談なく、単独で秀吉と講和を結んでしまったのだ。和睦の代償として伊賀や南伊勢の割譲を受け入れての、早い手仕舞いであった。戦う大義名分の当事者である信雄が降りたことで、家康は戦いを続ける理由を失い、兵を引かざるを得なくなった。

家康を置き去りにした単独講和は、信雄の評価を決定づけた。みずから起こした戦を単独講和で畳み、盟友・家康を置き去りにした身の処し方は、毀誉褒貶の的となった。小牧・長久手は、信雄のしたたかさと無定見が、表裏一体であることを際立たせた。

07流転と長寿LEGACY

改易と復活 — 織田を江戸へ残す

大名として返り咲き織田の血を残す晩年の常真
大名として返り咲き織田の血を残す晩年の常真

秀吉に臣従した信雄は、尾張・伊勢に大領を安堵され、織田の名門として遇された。だが、その安泰も長くは続かない。天正十八年(1590年)、小田原征伐の後、秀吉は信雄に家康の旧領・駿河などへの国替を命じた。先祖伝来の尾張を惜しんだ信雄は、これを拒む。

秀吉の怒りは激しかった。信雄はあっけなく改易され、すべての所領を失って流浪の身となる。下野、出羽と各地を移され、かつての大領主は一転して囚われに近い境遇へ落ちた。やがて信雄は出家し、常真と号する。栄華からの転落であった。

それでも、信雄は折れなかった。やがて家康の取りなしなどによって秀吉に赦され、御伽衆に列して命脈をつなぐ。秀吉の没後は、関ヶ原から大坂の陣にいたる激動を巧みに泳ぎ抜いていった。そして大坂落城の後、徳川の世のもとで、信雄は大和宇陀松山と上野小幡にあわせて約五万石を与えられ、ふたたび大名として返り咲いたのである。

寛永七年(1630年)、信雄は京で世を去った。享年は七十三、戦国の遺児としては稀な長寿であった。父も兄弟も早くに世を去るなか、信雄は乱世を泳ぎ抜き、織田の血を江戸大名として後世へ伝えた。「生き残る次男」の生涯は、滅びゆく織田一門のなかで、確かに家名を未来へつないだのだった。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-04

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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