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戦国時代〜安土桃山森氏15581584
森長可|鬼武蔵と恐れられた信長の猛将の肖像
伝・森長可像(想像復元)
織田信長豊臣秀吉鬼武蔵
もり ながよし

森長可|鬼武蔵と恐れられた信長の猛将

MORI NAGAYOSHI · 1558 — 1584 · 享年 27

十三歳で父の遺領を継ぎ、甲州征伐の戦功で信濃海津城主にまで上りつめながら、鬼武蔵と恐れられた武勇のまま、小牧・長久手に二十七年の生涯を散らした武将

生年
永禄元年
1558年・森可成の次男
没年
天正12年
1584年・長久手/享年27(数え)
出身
美濃国
父・森可成/金山城
居城
美濃金山城
後に信濃海津城
家紋
鶴丸
TSURU-MARU

森長可

森長可は、「鬼武蔵」と恐れられた織田家きっての猛将でありながら、わずか二十七年の生涯を、戦場の最前線で駆け抜けた武人である。

長可は永禄元年(1558年)、信長配下の猛将・森可成の次男として生まれた。幼名を勝蔵という。元亀元年(1570年)、父・可成と長兄・可隆をあいついで戦で失うと、長可はわずか十三歳で金山城主の座を継いだ。

若くして家を背負った長可は、父譲りの武勇で頭角をあらわす。長島の一向一揆との死闘をはじめ、信長の戦いに従って恐れを知らぬ働きを見せ、やがて鬼武蔵と呼ばれるようになった。天正十年(1582年)の甲州征伐では大きな戦功を立て、信濃川中島四郡を与えられて海津城主にまで上りつめる。

だが本能寺の変で主君・信長と三人の弟を失うと、長可の運命は暗転する。信濃の一揆を切り抜けて美濃へ撤退し、やがて羽柴秀吉に与した長可は、天正十二年(1584年)、小牧・長久手の中入りに先鋒として加わった。そして長久手の地で、舅・池田恒興とともに、額に銃弾を受けて討死する。享年二十七であった。父の死から始まり、鬼武蔵の武名を背負って戦い続け、長久手に散った——森長可の生涯は、その猛々しい武勇と、若き当主としての重責の両面から読み解くとき、最も鮮やかに立ち上がる。

01家督相続HEIR

十三歳の城主 — 父の遺領を継ぐ

十三歳で父の遺領を継ぎ金山城主となった少年期の長可
十三歳で父の遺領を継ぎ金山城主となった少年期の長可

永禄元年(1558年)、森長可は織田信長配下の猛将・森可成の次男として生まれた。母は妙向尼と伝わる女性である。父・可成はのちに東美濃の要・金山城を与えられ、長可もまた、武門の子として、物心つく前から戦場の気配のなかで育った。

だが、その平穏は長くは続かなかった。元亀元年(1570年)、父・可成が近江の宇佐山城を守って浅井・朝倉の大軍と戦い、奮戦の末に討死を遂げる。長兄・可隆もまた、同じ年に越前の天筒山城攻めで命を落としていた。あいついで父と兄を失った森家に残されたのは、まだ十三歳の勝蔵であった。

こうして長可は、数え十三という幼さで金山城主の座を継ぐ。家を背負うにはあまりに若い肩に、東美濃の要・金山城の重みがのしかかった。

少年は、悲しみに暮れる暇さえ与えられなかった。長可は十三歳にして、討死した父の遺領と森家の命運を、その双肩に背負ったのである。この早すぎる家督相続こそ、のちに鬼武蔵と恐れられる猛将の、苛烈な出発点であった。

父と兄を一度に失い、わずか十三歳で金山城主となった長可は、甲州征伐の戦功で信濃川中島四郡を任される有力な部将へと駆け上がった

「十三歳の城主から、信濃の要を預かる将へ」

02鬼武蔵ONI MUSASHI

鬼と呼ばれた男 — 武名の高まり

敵中へ斬り込み鬼武蔵と呼ばれた若き猛将期の長可
敵中へ斬り込み鬼武蔵と呼ばれた若き猛将期の長可

家督を継いだ長可は、父に劣らぬ武勇をもって、織田信長の戦いに身を投じていく。長島の一向一揆との死闘をはじめ、信長が天下統一へと突き進む数々の合戦で、長可は若き猛将として頭角をあらわした。

その戦いぶりは、味方が舌を巻くほど激しかった。先頭に立って敵中へ斬り込み、引くことを知らない。やがて人々は、この勝蔵を鬼武蔵と呼ぶようになる。父・可成も武勇で鳴らした武将だったが、その血を継いだ息子は、さらに苛烈な戦士へと育っていった。

もっとも、若さゆえの猛りは、ときに軍令を踏み越えることもあったと伝わる。だが信長は、その荒々しさを罰するよりも、戦場で使える将として重んじた。

血気は、彼の最大の武器であり、また弱点でもあった。長可は父譲りの武勇を戦場で発揮し、のちに鬼武蔵と呼ばれる猛将へと成長していった。恐れを知らぬその猛々しさは、敵にとっての脅威であると同時に、味方にとっての頼みの綱でもあった。

中入りの先鋒として長久手に突き進んだ長可は額に銃弾を受けて二十七歳で討死したが、家督は末弟・忠政が継ぎ森家は津山藩へと続いた

「鬼武蔵、長久手に散る — されど森家は津山へ」

03甲州征伐KAI

信濃を得る — 武田攻めの戦功

甲州征伐の戦功で信濃川中島四郡を任された長可
甲州征伐の戦功で信濃川中島四郡を任された長可

天正十年(1582年)、信長は宿敵・武田氏への総攻撃に踏み切る。甲州征伐である。長可はこの大遠征に従い、信濃方面で目覚ましい戦功をあげた。

長年にわたって織田を苦しめてきた武田勝頼は、この攻勢の前にあえなく滅び去る。戦後の論功行賞で、長可は信濃の川中島四郡を与えられ、海津城主となった。その所領は二十万石余にも及んだと伝わる。美濃金山の城主は、ここに信濃の要地をも預かる大身へと駆け上がったのである。

二十代半ばの若武者が、これほどの大領を任された。それは、長可の武勇と働きが、信長にどれほど高く買われていたかを物語っている。

鬼武蔵は、もはや一城の主にとどまらなかった。甲州征伐の戦功によって、長可は信濃川中島四郡を任される有力な部将へと飛躍した。父の死から始まった苦難の道は、ここでひとつの頂に達したかに見えた。

04本能寺と撤退RETREAT

弟たちの死 — 信濃からの撤退

本能寺の変後に信濃から美濃へ決死の撤退を行う長可
本能寺の変後に信濃から美濃へ決死の撤退を行う長可

だが、栄光の絶頂は、突然の暗転へと一変する。天正十年六月、本能寺の変。主君・信長が明智光秀に討たれたのだ。しかも、この変で長可は、かけがえのない弟たちを一度に失う。信長の小姓として仕えた蘭丸・坊丸・力丸の三人が、主君とともに本能寺に散ったのである。

主君と弟たちの死は、遠く信濃にあった長可を窮地に追い込んだ。後ろ盾を失ったと見るや、信濃の国衆や一揆勢が、いっせいに織田の支配へ牙をむいたのである。海津城の長可は、たちまち敵地のただ中に孤立した。

進退きわまるなか、長可は決断する。信濃を捨て、本国・美濃の金山へ退くのだ。一揆勢のひしめく道を、長可は人質をとり、力ずくで切り開きながら駆け抜けたと伝わる。

それは、鬼武蔵の面目躍如たる撤退行であった。長可は弟たちを失った悲しみのなか、敵に囲まれた信濃から美濃へと決死の撤退を成し遂げた。武勇だけでなく、窮地を生き延びる胆力もまた、この男には備わっていた。

05秀吉の世へHIDEYOSHI

東美濃の要 — 秀吉方に立つ

東美濃の要として秀吉方に立った長可
東美濃の要として秀吉方に立った長可

美濃金山へ生還した長可を待っていたのは、主君なき織田家の、激しい主導権争いであった。信長の遺児や宿老たちが、それぞれの思惑で動きはじめる。長可もまた、東美濃の金山城を拠点に、乱世の新たな流れを見定めねばならなかった。

やがて頭角をあらわしたのが、中国大返しで光秀を討った羽柴秀吉である。長可は、織田家中の複雑な政治情勢を見極めたうえで、最終的にこの秀吉の側に立つことを選んだ。東美濃を押さえる長可の存在は、勢力を広げる秀吉にとって、心強い味方であった。

舅にあたる池田恒興もまた秀吉に与しており、二人は縁と利害の双方で結ばれていく。

時代は、信長の世から秀吉の世へと移ろうとしていた。長可は織田家中の動乱を生き抜き、台頭する秀吉のもとで東美濃の要として身を立てた。だが、その選択の先に待っていたのは、彼の生涯を閉じる最後の戦いであった。

06中入りNAKAIRI

三河を衝く — 中入りの先鋒

舅・池田恒興とともに中入りの先鋒として三河を目指す長可
舅・池田恒興とともに中入りの先鋒として三河を目指す長可

天正十二年(1584年)、秀吉と、織田信雄徳川家康の連合とが、ついに激突する。小牧・長久手の戦いである。長可は秀吉方として、舅・池田恒興とともにこの戦いへ身を投じた。

両軍が小牧で対陣して膠着するなか、戦局を一気に動かす大胆な策が持ち上がる。家康の本拠・三河を別働隊で直接突く、いわゆる三河中入りである。長可は恒興とともに、この危険な作戦の先手をつとめることとなった。岡崎を衝いて家康の足元を崩せば、戦の流れは一変する——その勝算に、鬼武蔵の血は沸き立ったことだろう。

別働隊は羽柴秀次を名目上の大将に、恒興・長可を先手として、ひそかに三河を目指して進発した。

功を求める猛将の心は、危険な賭けへと傾いていた。長可は舅・恒興とともに、家康の本拠を突く中入りの先鋒として、運命の進軍に踏み出した。だがこの大胆な機動は、戦巧者・家康の目を、すでに逃れてはいなかった。

07長久手NAGAKUTE

額の銃弾 — 長久手に散る

中入りに敗れ額に銃弾を受けて長久手に散る長可
中入りに敗れ額に銃弾を受けて長久手に散る長可

中入りの動きは、家康に察知されていた。三河を目指す別働隊の背後を、家康自身が率いる精鋭が、猛然と追撃してきたのである。天正十二年四月、両軍は長久手の地で激突した。

戦いは、別働隊にとって悪夢のような展開をたどる。後方の白山林で秀次の隊が崩れ、軍監の堀秀政の隊が退いたあと、恒興と長可の部隊は戦場に取り残された。奮戦する長可であったが、やがて飛来した一発の銃弾が、その額を撃ち抜く。鬼武蔵と恐れられた猛将は、二十七年の生涯を、長久手の野に散らした。射手が誰であったかは、諸説あって定まらない。

同じ戦場では、舅・池田恒興とその長男もまた討たれていた。一日のうちに、舅と婿が相次いで世を去ったのである。

猛将の最期は、あまりにあっけなかった。長可は中入りの敗北のなか、額に銃弾を受けて長久手に討死し、二十七年の短い生涯を閉じた。その遺領は男子のないまま、本能寺を生き延びた末弟・忠政へと受け継がれ、森家は美作津山藩の藩主家として、江戸前期へと続いていく。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-06

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