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戦国時代〜安土桃山松永家15081577
松永久秀|戦国の梟雄と平蜘蛛茶釜伝説の肖像
伝・高槻市本山寺蔵
大和三好家臣織田家臣
まつなが・ひさひで

松永久秀|戦国の梟雄と平蜘蛛茶釜伝説

MATSUNAGA HISAHIDE · 1508 — 1577 · 享年 70

平蜘蛛茶釜、我が首と共に砕けよ(伝・江戸期成立の創作)

松永
生年
永正5年
1508
没年
天正5年
1577
出身
山城西岡(諸説)
京都府向日市周辺
石高
大和一国
実質支配(補任は不確定)
家紋
蔦紋
TSUTA
CONTENTS · 七章
  1. 01出自と若年期 — 阿波説と山城西岡説
  2. 02三好長慶政権下での台頭 — 多聞山城築城
  3. 03永禄の変と将軍足利義輝弑逆 — 主犯は誰か
  4. 04東大寺大仏殿焼失 — 故意か失火か
  5. 05織田信長への臣従と二度の離反
  6. 06信貴山城の最期 — 平蜘蛛と爆死伝説の真偽
  7. 07茶人・連歌師としての顔 — 数寄者久秀
01
出自
ORIGIN

出自と若年期 — 阿波説と山城西岡説

山城西岡の在地武士・若き松永久秀
山城西岡の在地武士・若き松永久秀
永正五年(1508年)、松永久秀の出生地は確実な同時代史料では特定できない。江戸期の系譜書では阿波国出身説、近年の研究では京都・西岡(現京都府向日市・長岡京市周辺)の土豪出身説が有力視されている。父祖の事績はほとんど伝わらず、若年期の久秀は史料の表面に現れない。永正末年から大永年間にかけて三好元長の被官として頭角を現し、天文年間(1532〜1555年)には三好長慶の右筆・奉公人として活動が確認できる。久秀の出自を「下層からの成り上がり」と評する後世の語りは多いが、同時代史料における初出は奉行人・右筆としての文書発給で、ある程度の文書能力と教養を備えた在地武士層の出身と推定するのが穏当である。生年については天文五年(1536年)とする異説などもあるが、没年の天正五年(1577年)享年七十とする『多聞院日記』の記述から逆算した永正五年説(数え年)が学界で広く採用されている。
信貴山城最期の伝承(江戸期『川角太閤記』『常山紀談』成立)

「平蜘蛛茶釜、我が首と共に砕けよ」

02
三好家臣
VASSAL

三好長慶政権下での台頭 — 多聞山城築城

多聞山城の築城・三好政権下の家宰
多聞山城の築城・三好政権下の家宰
天文年間後半、久秀は三好長慶の家宰格として政務・軍事の双方で重用されるようになる。長慶は天文十八年(1549年)の江口の戦いで細川晴元を破って畿内の覇権を握り、天文二十二年(1553年)には十三代将軍足利義輝を京都から追放、永禄三年(1560年)まで畿内に三好政権を確立した。この間、久秀は長慶の側近として奈良奉行・河内畠山氏との交渉・京畿の検断などを担当し、永禄二年(1559年)八月には大和国に進出して信貴山城を改修、本拠とした。さらに永禄四年(1561年)には奈良北方の眉間寺山に多聞山城(多聞城)を新たに築き、四階櫓を備えた革新的な縄張りで戦国築城史に名を残す城郭を完成させた。長慶の信頼厚く、永禄五年(1562年)の三好義興(長慶嫡男)任官時の幕府への奉公衆としての周旋など、三好政権の中枢を支える存在となっていた。
信長が家康に久秀を紹介したとされる「三悪」逸話(『常山紀談』所載・後世創作)

「主君を殺し、将軍を弑し奉り、大仏殿を焼く」

03
永禄の変
EIROKU INCIDENT

永禄の変と将軍足利義輝弑逆 — 主犯は誰か

永禄の変・二条御所襲撃
永禄の変・二条御所襲撃
永禄八年(1565年)五月十九日、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と三好義継らが二条御所を襲撃し、十三代将軍足利義輝を弑した。これがいわゆる「永禄の変」である。江戸期の編纂史料では久秀本人を主犯格として描く記述が多いが、同時代史料『言継卿記』『多聞院日記』などを精査した近年の研究では、久秀は事件当時は奈良の多聞山城に滞在しており、京都での実行には直接関与していなかった可能性が高いとされる(天野忠幸『松永久秀』ほか)。嫡男・松永久通の関与もしばしば指摘されるが、一次史料上で実行主体として断定するには慎重さが要請されており、後世史料による誇張の可能性も考慮される。事件の主導は三好三人衆・三好義継側と見るのが学界の主流で、久秀は事後的に追認・利用したという理解が穏当である。後世「将軍殺し」のレッテルを最も鮮烈に背負ったのは久秀だが、その実像は同時代の権力構造のなかで再検討されつつある。事件後、三好三人衆と松永父子は将軍家の継嗣問題をめぐって対立を深め、畿内は三好家中の内紛に突入していく。
04
大仏殿焼失
DAIBUTSUDEN FIRE

東大寺大仏殿焼失 — 故意か失火か

東大寺大仏殿炎上・三好松永合戦
東大寺大仏殿炎上・三好松永合戦
永禄十年(1567年)十月十日、東大寺大仏殿が炎上した。同年は三好三人衆と松永久秀の対立が頂点に達した時期で、両軍は奈良市街を挟んで戦闘を繰り返していた。大仏殿付近では三好三人衆が陣を張り、松永方がこれを夜襲したことが『多聞院日記』『信長公記』などから知られる。江戸期の軍記物では「久秀が大仏殿を故意に焼き払った」とする筋立てが定型化したが、近年の歴史学では松永方の夜襲に伴う兵火・陣中の篝火・松明の延焼が穀屋・法華堂方面から大仏殿に及んだ「戦闘に伴う延焼」として理解する見解が有力である。『多聞院日記』を精読すると、戦闘の混乱のなかで火が大仏殿堂宇に燃え移った経緯が読み取れ、久秀個人による意図的な放火と断定するのはためらわれる。それでも結果として大仏殿と大仏の頭部が焼失した責は、戦場を選んだ松永・三好双方の将に重く、後世久秀のみに「大仏殿焼き討ち」のレッテルが貼られた背景には、信長による事後の宣伝効果や江戸期軍記物の文学的脚色も指摘される。大仏殿の再建は江戸期元禄年間まで待つことになり、戦国期の戦災として最大級の文化財損失となった。
05
信長家臣
NOBUNAGA

織田信長への臣従と二度の離反

九十九髪茄子献上・信長への帰参
九十九髪茄子献上・信長への帰参
永禄十一年(1568年)九月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、畿内の諸勢力を再編成した。久秀はこの上洛を見越して信長に接近し、同年十月二日ごろを軸に九月〜十月にかけて茶器「九十九髪茄子」を献上したと『信長公記』『言継卿記』などの同時代記録が伝える(具体的な日付の整理には史料上の幅がある)。九十九髪茄子は東山御物に列する天下三大名物茶器の一で、この贈与は久秀が信長から大和支配の追認を受ける布石となった。元亀年間(1570〜1573年)には信長の畿内平定に協力し、伊勢長島一向一揆攻め・本願寺包囲などに従軍する。しかし元亀二年(1571年)、信長と石山本願寺・武田信玄・足利義昭らが対立する「信長包囲網」が形成されると、久秀は反信長陣営に転じた。元亀四年(1573年)の足利義昭追放と武田信玄死去で包囲網が崩壊すると、久秀は信長に降伏し赦された。だが天正五年(1577年)八月、上杉謙信の上洛気運や本願寺の動きに呼応する形で、久秀は再び信長に叛旗を翻し、信貴山城に籠もって最後の抵抗を試みる。臣従と離反を二度繰り返した久秀の処世は、畿内権力の流動性と戦国大名の限界を象徴している。
06
信貴山城
SHIGISAN

信貴山城の最期 — 平蜘蛛と爆死伝説の真偽

信貴山城落城・久秀の最期
信貴山城落城・久秀の最期
天正五年(1577年)十月、織田信忠を総大将とする討伐軍が信貴山城を包囲した。城に籠もった久秀は嫡男・久通とともに約四万の織田軍を相手に最後の籠城戦を戦った。同年十月十日(旧暦)、信貴山城は陥落し、久秀・久通父子は自害したと『信長公記』『多聞院日記』は記す。後世広く流布した「久秀は名物茶器・平蜘蛛茶釜を打ち砕き、自らの首と共に火薬で爆死した」という劇的な最期は、江戸期の軍記物『川角太閤記』『常山紀談』などに見える後世の創作要素が強く、同時代史料には平蜘蛛茶釜と共に火薬で自害したとする確たる記述は乏しい。実際には『多聞院日記』に「焼け死に給う」とあり、『信長公記』にも久秀父子の自害は記すが、平蜘蛛茶釜の処遇についても伝聞の段階に留まる。それでも「平蜘蛛と共に爆死した梟雄」という像は江戸期以降の軍記物・歌舞伎・文学で繰り返し再生産され、現代の久秀像を支配する伝説となった。享年七十(数え)。歴史的実像としては「焼死あるいは自害後に城が炎上した」と理解するのが穏当だが、伝説としての爆死像は数寄者・梟雄としての久秀像と一体化して現代まで生き続けている。
07
茶人
TEA MASTER

茶人・連歌師としての顔 — 数寄者久秀

茶器と連歌・数寄者としての久秀
茶器と連歌・数寄者としての久秀
久秀は梟雄イメージの裏で、戦国期屈指の文化人としての顔を持つ。茶の湯では武野紹鴎門流に列し、九十九髪茄子・平蜘蛛茶釜・天王寺屋茄子・上り蜘蛛茶釜など天下名物茶器を所蔵した数寄者として知られた。連歌では里村紹巴・宗養・紹叱ら堺・京都の連歌師との交流が記録され、永禄〜天正年間の連歌会記に久秀の名が散見される。永禄八年(1565年)二月には正倉院から名香「蘭奢待」が切り取られたと『多聞院日記』に記され、信長の天正二年(1574年)切り取りに先立つ事例として注目される(ただし三好三人衆との共同行為とする記述もあり、久秀単独の主導かは諸説残る)。古典・有職故実への造詣も深く、奈良の古社寺・公家衆との交流、堺商人との茶湯ネットワークを通じて、戦国大名としては異例の文化資本を蓄積した人物であった。「梟雄」と「数寄者」の二面性こそ、久秀像の核心であり、後世の文学・歴史読み物が繰り返し描き続ける理由でもある。