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安土桃山九鬼家15421600
九鬼嘉隆|鉄甲船で海を制した志摩の海賊大名の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
水軍鉄甲船木津川口の戦い
くき・よしたか

九鬼嘉隆|鉄甲船で海を制した志摩の海賊大名

KUKI YOSHITAKA · 1542 — 1600 · 享年 59
九鬼
生年
天文11年
1542
没年
慶長5年
1600・享年59(数え)
出身
志摩国
居城
鳥羽城
志摩
家紋
左三つ巴
LEFT THREE COMMA

九鬼嘉隆

九鬼嘉隆は、追われ者の海賊衆から織田・豊臣政権の水軍大将へとのし上がり、自ら建造を主導した大船と大鉄砲で毛利水軍を撃ち崩して石山本願寺戦の局面を一変させ、関ヶ原では息子を東軍に残し自らは西軍を選んで答志島に散った、戦国でも稀有な海の武将である。

その名は、陸の合戦で槍働きを誇った者として残ったのではない。志摩の海賊衆出身という出自こそが、嘉隆の生涯を貫く軸となる。中世日本において「海賊」と呼ばれた人びとは、現代的な犯罪者ではなく、海の道を守り湊を抑えた海上武装勢力・海上領主である。嘉隆もそうした海の人びとの中から立ち上がった一人だった。

兄の早世と一族内紛のすえ志摩を追われた嘉隆は、滝川一益の取次によって織田信長に仕えた、と九鬼家の伝承は語る。そして信長の旗のもとで、こんどは追放者から征服者として志摩に戻り、織田水軍の中心となっていく。陸の覇者・信長は、海の手綱を志摩から来た男に握らせた。 この主従が、やがて木津川口の海と石山本願寺戦の運命を変える。

天正六年(1578年)の第二次木津川口の戦いで、嘉隆は大型の安宅船と大鉄砲を駆使して毛利水軍を打ち崩した。『信長公記』はその陣容を「九鬼建造の六艘+滝川一益の白船一艘=計七艘」と伝え、『多聞院日記』はその大船を「鉄を張り、鉄砲の通弾を防ぐ船」と書き留める。鉄甲船と呼ばれる伝説の艦隊は、ここから生まれた。 本願寺は補給を絶たれ、ついに織田に屈する。海の戦が陸の歴史を動かした、まれな場面である。

豊臣秀吉の時代に入っても、嘉隆は水軍大将として重用され続けた。文禄三年(1594年)に鳥羽城「鳥羽の浮城」を築き、文禄の役では旗艦「日本丸」を中心とする船団を指揮した。志摩の小さな海賊衆の家から、織田・豊臣の海を一手に束ねる水軍大名へ。嘉隆の上昇は、海そのものの上昇でもあった。

そして関ヶ原。父・嘉隆は西軍へ、子・守隆は東軍へ——同じ家の中で、東と西の旗がそれぞれに立った。 後世はこれを「お家存続の知恵」と語り継ぐが、それが事前に示し合わせた計算であったかどうかを、同時代の確かな史料で裏付けるのは難しい。確かなのは、結果として家は残り、嘉隆は答志島の小さな庵で五十九年の生涯を閉じたということだ。和具の洞泉庵での自害——そこには、海から生まれ海に生きた男の、最後の海風が吹いている。

だから、「鉄甲船を造った男」「父子分裂の劇的な武将」という一枚の絵だけでは、嘉隆を語り切れない。嘉隆の本当の凄みは、追われ者の海賊衆から、織田・豊臣政権の水軍大名へと駆け上がった、海と政治の交差点に立ち続けた、その生涯にある。 鉄甲船は何だったのか、第一次木津川口の敗将は本当に嘉隆だったのか、父子東西分裂はどこまでが戦略でどこからが運命だったのか——この先の「読み解き」で、ひとつずつ史料の層を分けて確かめていく。

01海賊PIRATE CLAN

志摩の海に生まれて

志摩の海と九鬼氏の出自
志摩の海と九鬼氏の出自

九鬼嘉隆は天文十一年(1542年)、志摩国の海上勢力・九鬼氏の家に生まれた。父は九鬼定隆。嘉隆は次男であった。

中世の志摩は、入り組んだリアス式海岸と多くの島々を抱え、海を生業とする者たちが小さな海上領主としてひしめき合う、独特の風土を持っていた。九鬼氏はその中の一勢力にすぎず、志摩全体を統べる立場ではない。「海賊」と呼ばれた人びとは、現代の犯罪者ではなく、海の道を守り、湊を抑え、船を操る海上武装勢力であった。彼らは時に陸の大名に雇われ、時に独自の判断で動いた。

兄・浄隆の早世のあと、嘉隆は跡継ぎ・澄隆の後見役となる。だが、周囲の勢力との争いに敗れて、嘉隆は一時志摩を追われる。生家の海から、追放者として陸へ。 ここから九鬼嘉隆という男の本当の物語が始まる。

そんな嘉隆の運命を変えたのは、滝川一益との出会いだった——と九鬼家の伝承は語る。志摩の小さな海賊衆の次男が、やがて織田・豊臣政権の水軍大将へとのし上がる。その第一歩は、海ではなく陸の人脈から始まったのである。

嘉隆が建造した大船の構造を、当時の畿内の見聞集が記す

「横七間、竪十二、三間ばかり、鉄砲の通弾を防ぐため鉄の船である。」

—— 『多聞院日記』天正六年
02臣従SERVICE

信長の水軍大将となる

信長配下の水軍大将となる嘉隆
信長配下の水軍大将となる嘉隆

天下統一に向けて軍勢を急膨張させていた織田信長は、伊勢方面の作戦を進めていた。その一翼を担っていたのが、北伊勢から長島方面で活躍した滝川一益である。九鬼嘉隆が信長に仕えるようになった経緯は、「滝川一益の取次・仲介によった」と後世の家伝・地誌に伝わる

陸の戦さに長けた武将はいくらでもいたが、海を熟知した将は限られていた。志摩の海賊衆出身の嘉隆は、まさに信長が欲していた人材だった。やがて嘉隆は、伊勢方面軍に組み込まれる形で、志摩国内の各勢力を一つ一つ平定していく。

このとき信長から預けられた力は、嘉隆にとって決定的な意味を持った。かつて自らを追い出した同じ海の上で、今度は信長の旗のもとに志摩を治める者として、嘉隆は再び立つ。追放者から征服者へ。その逆転は、信長の力なしには起こり得なかったし、嘉隆の海の才なしには成し得なかった。

陸の信長と、海の嘉隆。陸の覇者は、海の手綱を、志摩から来た男に握らせた。このとき結ばれた主従の絆こそが、やがて来る木津川口の海戦と、鉄の船の物語の入り口だった。

関ヶ原での嘉隆・守隆の選択を、後世が「お家存続の知恵」と語ってきた

「父子、東西の旗のもとに分かれて立つ。」

—— 後世の地誌・鳥羽市解説の系統
03本願寺戦ISHIYAMA

敗れた織田水軍と、新しい船への道

本願寺戦の苦闘と新造船への助走
本願寺戦の苦闘と新造船への助走

天正四年(1576年)、信長が長年苦しめられてきた石山本願寺との戦いは、海の戦に局面を移していた。本願寺は毛利の援護を得て、海上から食糧と弾薬を絶え間なく搬入し続けていた。これを断たねば、本願寺は落ちない。

その年の七月、織田方の水軍は木津川河口で毛利・村上水軍を待ち受け、本願寺への補給を阻止しようと挑む。だが、結果は織田水軍の大敗であった。中心となったのは真鍋七五三兵衛・沼野伝内ら摂津泉州方面の海上勢力で、嘉隆をこの第一次木津川口の戦いの敗将と断定する同時代の根拠は弱い。ただし、織田水軍全体としての敗北は動かない。

この負けが、信長を変えた。並みの船と並みの戦法では、毛利水軍を打ち破ることはできない。ならば、これまで誰も見たことのない船を造れ。 そう信長が命じたとされる相手こそ、嘉隆だった。

伊勢の浦々で巨大な大船の建造が始まる。鉄を張ったと伝わる大型の安宅船。 これが完成したとき、海の戦は新しい段階に入る。第一次木津川口の敗北は、九鬼嘉隆を「鉄甲船の男」として歴史に押し出す、長い助走となった。

04鉄甲船IRON SHIPS

鉄の船、海をひっくり返す

第二次木津川口を制した鉄甲船と大鉄砲
第二次木津川口を制した鉄甲船と大鉄砲

天正六年(1578年)、嘉隆は伊勢の浦で大船を完成させる。長さ十二、三間(およそ二十二〜二十四メートル)、幅七間(およそ十三メートル)にも及ぶ巨艦であった。同じ頃、滝川一益が建造した白船一艘もこれに加わる。『信長公記』は、嘉隆建造の六艘と、滝川の白船一艘、合わせて七艘の大船を明記する。

これらの大船の構造について、「鉄を張り、鉄砲の通弾を防ぐ」と記すのは、当時の畿内の見聞をまとめた『多聞院日記』である。同時代の他の史料、たとえば『信長公記』やイエズス会士オルガンティーノの書簡は、巨大さや火力は語っても、鉄板装甲そのものを明記してはいない。だから「全面が鉄で覆われた、世界初の鉄製軍艦」と断じるのは行き過ぎである。確かなのは、当時の常識を覆す大きさと火力を持つ大船だった、ということだ。

同年十一月、毛利方の数百艘の船団が再び木津川口に現れる。今度は嘉隆の番だった。大船は接近する毛利の小船を引き寄せ、搭載した大鉄砲(大筒)で打ち崩す。火矢も、敵船を貫けなかった鉄砲玉も、もはや恐れる必要はない。海はひっくり返った。毛利水軍は崩れ、本願寺への海上補給路は大きく断たれ、石山本願寺はやがて降伏へ向かう局面を迎える。

この戦功で、嘉隆は志摩七島と摂津野田・福島で七千石を加増されたと、後世の系譜・地域資料は伝える。志摩の小さな海賊衆の次男から、織田水軍の頂点へ。鉄の船と大筒は、九鬼嘉隆という男の名を、海の歴史に深く刻みつけた。

05鳥羽TOBA

鳥羽城、そして豊臣の海へ

鳥羽城と日本丸を率いた豊臣水軍の頂点
鳥羽城と日本丸を率いた豊臣水軍の頂点

天正十年(1582年)、本能寺の変によって信長は世を去る。だが、嘉隆の歩みは止まらない。次に天下を握った豊臣秀吉のもとでも、嘉隆は水軍大将として重んじられ続けた。

文禄三年(1594年)ごろ、嘉隆は本拠地・志摩鳥羽に鳥羽城を築き整備したとされる。海に直接面し、大手門が海側へ突き出すように設けられたこの城は、「鳥羽の浮城」と呼ばれた。陸の城ではない。海の城である。船を出し入れし、湊を抑え、海の交易と軍事を一つに束ねる——嘉隆の海の覇権が、ここに形となった。

天下統一を成した秀吉が朝鮮へ大軍を送り出すと、嘉隆は水軍の中核として参陣する。文禄元年(1592年)からの文禄の役では、巨大な旗艦「日本丸」を中心とする船団を指揮した。鳥羽市資料の伝えるところによれば、日本丸は全長およそ三十三メートル、幅およそ十一メートル、大砲三門を備えた指揮船であったという。

朝鮮側の朝鮮水軍——名将・李舜臣率いる船団との戦いも経験する。文禄の役のなかでは、安骨浦の海戦で李舜臣と交戦し、苦戦を強いられて撤退したと整理されている。閑山島の海戦で大敗したのは脇坂安治の隊であり、嘉隆を主敗者にあてるのは正しくない。慶長の役のころには嘉隆は前線を離れ、子の守隆が水軍の中心を担っていく。

慶長二年(1597年)、嘉隆は家督を守隆に譲って隠居した。志摩の海賊衆から、豊臣政権の水軍大名へ。鳥羽城と日本丸は、九鬼嘉隆という海の武将が登り詰めた、海の頂点だった。

06関ヶ原SEKIGAHARA

父子、東西に分かれる

関ヶ原で東西に分かれた父子
関ヶ原で東西に分かれた父子

慶長三年(1598年)、豊臣秀吉が世を去り、天下は再びうごめき出す。徳川家康石田三成の対立が、やがて日本列島を二つに割ることになる。

慶長五年(1600年)、関ヶ原。隠居していた嘉隆は、西軍に味方する道を選んだ。一方、当主となっていた子の守隆は、東軍として家康に従っていた。父と子が、まさにその瞬間に、東西の旗のもとに分かれて立ったのである。

この父子の東西分裂について、後世の地誌や観光資料では、「どちらが勝っても九鬼家を残すためのお家存続の戦略であった」と語られることが多い。だが、それが嘉隆と守隆のあいだで最初から示し合わせていた計算だったかどうかを、同時代の確かな史料で裏付けるのは難しい。「結果としてそう機能した」「後世にはそう解釈された」——そこまでが、史料に対して誠実な書き方である。

家康の会津征伐に守隆が従っているあいだ、嘉隆は鳥羽城を兵で押さえ、西軍に呼応する構えを取った。だが、関ヶ原本戦は半日で決し、西軍は崩壊する。

勝者と敗者は、同じ家の中に生まれた。 父・嘉隆は西軍の敗将として、子・守隆は東軍の勝者として——それぞれが立つ大地が、関ヶ原の一日で、まったく違う色に塗り替えられていた。
07答志島TOSHIJIMA

答志島に散る

答志島・和具洞泉庵で果てる嘉隆
答志島・和具洞泉庵で果てる嘉隆

関ヶ原の知らせは、鳥羽の海にも届く。嘉隆は鳥羽城を放棄し、海を渡って答志島へと身を移した。志摩の沖に浮かぶ、自分の海の島である。

東軍に立った子・守隆は、必死だった。父を生かす道はないか。徳川家康に向き合い、父・嘉隆の助命を嘆願した。家康はこれを認めたと、後世の地誌や鳥羽市の解説は伝える。だが、その許しを告げる急使が答志島に届く前に、嘉隆は答志島・和具の洞泉庵(どうせんあん)で自ら命を絶った。慶長五年(1600年)、享年五十九(数え年)。「洞仙庵」と表記される史料もあるが、公的な表記は「洞泉庵」が安定している。

守隆の急使が間に合ったのか、間に合わなかったのか。そのドラマの細部までを同時代の確かな史料で押さえることは難しい。後世の地誌や軍記が、父子の情と武士の意地のあいだに、物語の濃淡を重ねてきた。それでもなお、答志島には今も嘉隆の墓所が残る。とりわけ胴塚は、子の守隆が建立し、寛文九年(1669年)に孫の隆季が再彫刻した銘が伝わり、現存史跡としての確度が高い。

志摩の海に生まれ、織田と豊臣の海を一手に握り、鉄の船で歴史を動かし、最後は自らの島の小さな庵で果てる。九鬼嘉隆は、海から生まれ、海で生き、海を見はるかす島で死んだ。その生涯は、戦国の海そのものの起伏を、そのままなぞる物語だった。