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鳥取城の戦い 包囲図鳥取城の戦い 包囲図
天正九年兵糧攻め

鳥取城の戦い|渇え殺しに散った吉川経家の覚悟

天正九年、羽柴秀吉が因幡・鳥取城に仕掛けた兵糧攻め「鳥取の渇え殺し」。米の買い占めと付城の包囲で城内を飢餓地獄へ追い込み、城将・吉川経家は城兵の助命と引き換えに自刃した。三木の干殺しを徹底化した兵糧攻めの実像を、史料に沿って読み解く。

開城
天正九年
十月二十五日
籠城期間
約4ヶ月
天正九年六〜十月
戦場
因幡国
鳥取城(久松山)
寄手
約2万
羽柴方(諸説)
城将
吉川経家
自刃・開城

戦いの概要

飢えは、刃よりもむごい。天正九年(1581年)十月、因幡国の鳥取城――。城を囲んだのは羽柴秀吉の大軍であり、城のなかでは四ヶ月にわたる籠城のすえ、兵も逃げ込んだ領民も、骨と皮になるまで飢え抜いていた。城将・吉川経家は、城兵の助命と引き換えにみずから腹を切り、城を開く。後世が「鳥取の渇え殺し」と呼んだ、戦国屈指の凄惨な兵糧攻めである。

鳥取城の戦いは、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の中国攻めのなかで起きた。前年までに播磨の三木城を長期の兵糧攻めで屈服させた秀吉は、その矛先を山陰の因幡へと向ける。鳥取城では城主・山名豊国が織田方へ通じようとして家臣に城を追われ、毛利方は石見から吉川経家を新たな城将として送り込んでいた。こうして鳥取城は、織田と毛利がせめぎ合う山陰の最前線となった。

そして秀吉がこの城に対して用いたのは、力攻めではなかった。城を囲む前から因幡周辺の米を高値で買い集めて城方の兵糧の道をあらかじめ細らせ、そのうえで城の東に本陣を据え、久松山にそびえる鳥取城を付城と土塁で幾重にも取り囲んだ。秀吉は城を攻め落とすのではなく、城を飢えさせて屈服させようとしたのである。本記事では、同時代の史料が支える骨格と、後世の軍記や講談が膨らませた描写とを切り分けながら、この四ヶ月の包囲戦を読み解いていく。

久松山にそびえる鳥取城を、太閤ヶ平の本陣から付城と土塁で幾重にも囲い込む羽柴勢。渇え殺しの包囲網を俯瞰する実写調イメージ

鳥取城と因幡の情勢

鳥取城は、因幡国邑美郡、標高およそ二六〇メートルの久松山に築かれた山城であった。山陰道が通り、日本海へ注ぐ千代川の河口にも近いこの地は、因幡支配の要であると同時に、山陰における織田と毛利の境目でもあった。因幡を押さえることは、毛利にとっては東の防壁を、織田にとっては山陰への足がかりを意味した。それゆえ鳥取城は、両勢力の思惑が交錯する、危うい最前線に置かれていた。

この城の主であった山名豊国の去就が、戦いの引き金となる。因幡守護の家柄を継ぐ豊国は、秀吉の中国攻めが進むなかで織田方へ通じる姿勢を見せた。だが、これに反発したのが中村春続・森下道誉ら反織田派の重臣たちであった。彼らは天正九年、豊国を鳥取城から追い出し、あくまで毛利方として城を守り抜く道を選んだ。主を追った家臣団は、後ろ盾である毛利氏に新たな城将の派遣を求める。

その求めに応じて毛利方が送り込んだのが、吉川経家であった。経家は石見福光城主・吉川経安の子で、毛利両川の一・吉川元春に連なる吉川の庶流に生まれた武将である。鳥取城に入った時期は天正九年の春、三月ごろと伝わる。経家は鳥取城の城主ではなく、毛利方が籠城を支えるために派遣した「城将」であった点は、まず押さえておきたい。死を覚悟したうえで因幡へ赴いたとも伝わるその覚悟が、やがてこの戦いの結末を決めることになる。

米の買い占めと完璧な包囲

秀吉の兵糧攻めは、城を囲むよりも前から始まっていた。『信長公記』の系統が伝えるところによれば、秀吉は因幡やその周辺の米を商人を介して高値で買い集め、城方が籠城に備えて蓄えるべき兵糧をあらかじめ細らせていったとされる。城内でも兵糧の見通しが甘く、古い米を売り払ってしまっていたとも語られるが、こうした細部にはのちの脚色が混じる余地があり、断定は避けたい。確かなのは、秀吉が「飢えさせて勝つ」戦法を、開戦前から周到に仕込んでいたという骨格である。

そのうえで秀吉は、城の東に位置する本陣の山に陣を構えた。鳥取城の本丸から東へおよそ一・五キロ、城を見下ろすこの山には、付城と長大な土塁・柵がめぐらされ、二万ともいわれる大軍が布陣した。のちにこの山は「太閤ヶ平」と呼ばれるが、「太閤」はあくまで後世の呼称であり、天正九年当時の秀吉はまだ太閤ではない。城を眼下に睨む本陣を中核に、久松山の鳥取城は陸側から完全に封じ込められていった。

包囲網には、もともと城方の補給を担っていた支城も組み込まれた。久松山の北西にあった雁金山城や、千代川河口に近い丸山城は、もとは毛利方・城方が賀露湊や千代川の水運によって兵糧を運び込むための拠点であった。秀吉はこれらの補給支城を攻め落として奪い取り、自軍の包囲網へと組み替えたのである。海と川からの補給路まで断たれたことで、鳥取城は外との糸を完全に絶たれ、城内に蓄えられたわずかな兵糧だけが、籠城する数千の命綱となった。

因幡周辺の米を買い占め、太閤ヶ平から鳥取城の包囲を指揮する羽柴秀吉のイメージ

渇え殺し――城内の地獄

包囲が固まると、城内の状況は日を追って悪化していった。籠城していたのは城兵だけではない。周辺の村々から逃げ込んだ多数の領民が城に詰めかけ、限られた兵糧を消費する口は、見る間にふくれあがった。守るべき人の数が増えたことが、かえって兵糧の尽きる速度を速めるという、むごい逆説が城を襲った。秋が深まるころには、城内の食糧はほとんど底を突いていた。

その飢えの惨状は、後世の作り話として片づけられるものではない。同時代に近い『信長公記』や、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、城内の飢餓が人肉を口にするほどの極限に達したことをうかがわせる記述が残されている。もっともフロイスの記述には伝聞も含まれ、その凄惨さがどこまで実態を映すかは慎重に見極める必要がある。渇え殺しの惨たらしさは、完全な俗説でもなければ、細部まで確定した事実でもない。同時代史料に足跡を残す、確かな飢餓の記録として受けとめるべきだろう。

城方が頼みとした毛利の後詰も、ついに城を救うには至らなかった。毛利は山陰・山陽に複数の戦線を抱えており、海と川からの補給路を秀吉に押さえられた鳥取城へ、十分な兵糧と援軍を届けることはできなかった。外からの救援が断たれたまま、城内の飢餓だけが進んでいく――それこそが、秀吉の描いた渇え殺しの構図であった。経家以下の籠城衆は、戦う前に飢えという敵に追い詰められていったのである。

兵糧が尽き、飢餓が極限に達した鳥取城内。逃げ込んだ領民を抱え、なお城を守り抜こうとする籠城衆の実写調イメージ

吉川経家の覚悟と最期

飢餓が限界に達したとき、城将・吉川経家が選んだのは、城兵の命を救う道であった。これ以上の籠城が無数の餓死者を生むだけだと悟った経家は、みずからの一命と引き換えに、城兵と籠城した人々の助命を求める和議を、秀吉方との間に進めていく。経家は、自分が腹を切ることで城のすべての命を救おうとしたのである。城将としての責めを、わが身ひとつで引き受ける覚悟であった。

天正九年(1581年)十月二十五日、吉川経家は鳥取城内で自刃し、城は開かれた。石見福光から因幡へ赴き、半年あまり城を守り抜いた武将の、覚悟の最期であった。「武士の取り伝へたる梓弓 かへるやもとの栖なるらん」――経家のものと伝わる辞世だが、これも後世に整えられた可能性があり、伝・辞世として受けとめておきたい。城兵を救うために死を選んだその姿は、敗将でありながら、武士の覚悟の一典型として語り継がれてきた。

経家の首は、織田信長のもとへ送られたと伝わる。城将みずからの死をもって籠城の幕は引かれ、鳥取城は羽柴方の手に落ちた。秀吉が経家の最期にどう向き合ったかをめぐっては、その死を惜しんだという逸話も語られるが、情緒に流れた後世の潤色が混じる余地があり、断定は避けたい。確かなのは、城兵の助命と引き換えに城将が腹を切るという形で、渇え殺しが決着したという骨格である。

城兵の助命と引き換えに自刃を覚悟する城将・吉川経家のイメージ

山名豊国の流転と落城後の因幡

落城によって命を落とした経家とは対照的に、城を追われた山名豊国はしたたかに生き延びた。重臣に鳥取城を逐われたのち、豊国は羽柴方へと身を寄せ、戦いを生き抜いたのである。籠城を最後まで主導したのは豊国ではなく、彼を追い出した重臣たちと、毛利が送り込んだ吉川経家であった点は、混同を避けたい。豊国はむしろ、城を出たことで滅びを免れた側にあった。

戦後、因幡は織田方の支配下に組み込まれていく。羽柴方の武将であった宮部継潤は、攻囲のあいだ城の北方の付城を固めた将のひとりであり、鳥取城が落ちたのちに、その城代として因幡経営の一端を担うことになった。継潤を包囲開始の時点から鳥取城代であったかのように描くのは時期のずれであり、彼が城代となるのはあくまで落城後のことである。秀吉の中国攻めは、こうして因幡へと確かな足場を築いた。

生き延びた豊国の家名は、近世にも細々と続いた。豊国の系統は但馬村岡に拠を得て、旗本・交代寄合の格をもって家を保ったと伝わる。戦国大名としての山名家が復活したわけではないが、追われた当主が家名を後世へ伝えたという事実は、経家の死とともに鳥取城の戦いのもう一つの結末を示している。城を守って散った者と、城を出て生き延びた者――その対照が、この戦いの余韻を深くしている。

落城後に鳥取城代となり因幡経営を担った羽柴方の将・宮部継潤のイメージ

通説と史実の射程

鳥取城の戦いは、その凄惨さゆえに、いくつもの脚色をまといやすい。第一に、米の買い占めをめぐる描写である。秀吉が周辺の米を買い集めて城方の兵糧を細らせたという骨格は『信長公記』の系統に支えられているが、商人をどう使い、城内が古米をどう手放したかといった細部には、軍記や講談による彩りが混じりうる。事実の核と、それを膨らませた描写とは、慎重に分けて読みたい。

第二に、人肉に及んだとされる飢餓の描写である。これは完全な俗説として切り捨てられるものではなく、『信長公記』やフロイス『日本史』に趣旨をうかがわせる記述が残る。とはいえ、その細部までを確定した事実として描くこともまた、史料の射程を超えている。同時代史料に足跡を残しつつ、なお伝聞や誇張の余地を抱えた記述として、両極端を避けて扱うのが穏当だろう。

第三に、数字や呼称の問題である。寄手の兵力「約二万」も、籠城した城兵や領民の数も、史料によって幅があり、確たる数字とはいえない。本陣の山を呼ぶ「太閤ヶ平」も後世の呼称であり、当時の秀吉を太閤と称するのは時代のずれである。鳥取城の戦いを読み解く面白さは、凄惨さの強調ではなく、史料の留保と向き合いながら実像に近づく過程そのものにある

鳥取城の今と兵糧攻めの完成形

現在、鳥取城跡と太閤ヶ平は、国の史跡「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」として保存・整備されている。久松山の山上から山麓にかけて残る石垣や曲輪、そして城の東に対峙する太閤ヶ平の遺構は、四百年余り前の包囲戦の規模を今に伝えている。城を眼下に睨む本陣と、それを取り巻く付城群の跡は、秀吉の兵糧攻めがいかに大がかりなものであったかを物語っている。山麓の石垣は保存修理が続けられ、往時の姿を取り戻しつつある。

歴史のうえで鳥取城の戦いが持つ意味は、秀吉の兵糧攻めの系譜のなかに位置づけると見えてくる。三木の干殺し、鳥取の渇え殺し、そして翌年の備中高松城の水攻め――秀吉は城を力攻めせず、兵糧や水を断って屈服させる戦法を、中国攻めのなかで磨き上げていった。

戦い城方秀吉の手法
三木の干殺し1578〜1580別所長治付城群と土塁で包囲し兵糧を断つ
鳥取の渇え殺し1581吉川経家城下の米を買い占め包囲で兵糧を断つ
備中高松城の水攻め1582清水宗治堤を築き城を水没させる

三木で長期の包囲によって兵糧を断った秀吉は、鳥取ではあらかじめ米を買い占め、補給路を奪う包囲網を組むことで、その兵糧攻めをより短期かつ徹底したものへと練り上げた。「兵糧攻めの完成形」という評価は一つの見方であって、史実そのものの断定ではないが、三木から鳥取への手法の深化は確かに見てとれる。そして城兵を救うために腹を切った吉川経家の覚悟は、渇え殺しの惨さとともに、敗者の物語として今も鳥取の地に刻まれている。

KEY POINTS · 合戦のキーポイント

  • 01

    渇え殺しの周到な布石

    秀吉は城を攻めず、米の買い占めと付城の包囲で兵糧の道をあらかじめ断った。

  • 02

    城内の飢餓地獄

    領民をも巻き込んだ籠城は四ヶ月で兵糧が尽き、城内は凄惨な飢えに陥った。

  • 03

    吉川経家の自刃

    城将・経家は城兵の助命と引き換えにみずから腹を切り、鳥取城を開いた。

両軍の対比

HASHIBA

羽柴秀吉

大将:羽柴秀吉
総兵力約2万(諸説)
出陣太閤ヶ平本陣
総大将羽柴秀吉
付城衆宮部継潤ら
勝利(鳥取城開城)
vs
KIKKAWA

吉川経家

大将:吉川経家
総兵力籠城(城兵数は諸説)
出陣鳥取城
城将石見福光城主の子
後ろ盾毛利・吉川元春→救援至らず
敗北(自刃・開城)

布陣図

鳥取城の戦い|渇え殺しに散った吉川経家の覚悟 布陣図鳥取城の戦い|渇え殺しに散った吉川経家の覚悟における東軍・西軍・傍観/寝返り諸将の配置千代川久松山太閤ヶ平本陣鳥取城
  1. 01太閤ヶ平本陣寄手・羽柴方
  2. 02宮部継潤陣寄手・羽柴方
  3. 03千代川口の抑え寄手・羽柴方
  4. 04東尾根の付城寄手・羽柴方
  5. 05南方の付城寄手・羽柴方
  6. 06鳥取城城方・毛利/吉川方
  7. 07吉川経家本丸城方・毛利/吉川方
  8. 08二ノ丸・出丸城方・毛利/吉川方
  9. 09雁金山城城方・毛利/吉川方
  10. 10丸山城城方・毛利/吉川方

山岳: 千代川・久松山