大坂夏の陣図屏風大坂夏の陣図屏風
1614-1615攻城戦

大坂の陣

1614-1615年、徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を滅ぼした戦国最後の戦役。冬の陣・夏の陣の二度に分けて展開し、応仁の乱以来の乱世はここに終焉した。

冬の陣
慶長十九年
1614年11-12月
夏の陣
元和元年
1615年5月
戦場
摂津国
大坂城
徳川兵力
200,000
vs 豊臣 100,000
落城
五月七日
秀頼・淀殿自刃
戦後
元和偃武
戦国乱世の終焉

戦いの概要

慶長三年(1598年)八月、太閤・豊臣秀吉が伏見城で病没した時、嫡子・秀頼はわずか六歳。秀吉が遺した五大老・五奉行の合議体制は、慶長五年(1600年)九月の関ヶ原合戦を経て早くも徳川家康一強の構図へと傾いていく。慶長八年(1603年)二月、家康は征夷大将軍に補任され江戸幕府を開府。さらに二年後には将軍職を子の秀忠に譲り、徳川家が二代に渡って天下を治めることを天下に示した。摂津大坂に依然として鎮座する豊臣秀頼六十五万石は、この新秩序にとって最後の障害となっていた。

慶長十九年(1614年)七月、開戦の口実が転がり込んでくる。秀頼が再建した京都方広寺の梵鐘に刻まれた銘文「国家安康 君臣豊楽」を、家康の側近・金地院崇伝と林羅山が「家康の名を分断し、豊臣を君として楽しむ呪詛である」と糾弾した。世にいう方広寺鐘銘事件である。豊臣方は使者・片桐且元を駿府に派遣して弁明を試みたが、家康はこれを退け、且元を退去させたうえで諸大名に出陣を命じた。秀頼・淀殿はもはや戦を避けえぬと覚悟し、関ヶ原で改易・浪人となった旧豊臣恩顧の武将たちを集める。後藤又兵衛、真田幸村(信繁)、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登——いわゆる「大坂五人衆」を含む約十万の浪人衆が、最後の主君を求めて大坂城へ集結した。

冬の陣と真田丸

慶長十九年(1614年)十一月、家康は約二十万の大軍を率いて大坂を包囲した。豊臣方は秀吉が築いた天下の名城・大坂城に籠もって徹底抗戦の構えを取る。城は東に玉造口、北に淀川と寝屋川、西に海、と三方を水に守られた難攻不落の堅城だったが、ただ一つ南面のみが平地に開いていた。この弱点を補うべく、真田幸村は城外南東に半月形の出城——後世「真田丸」と呼ばれる小さな砦を急造する。土塁と堀、そして三段の柵で防御を固めた真田丸は、わずか五千の兵で十倍を超える徳川先鋒を引きつけることになる。

十二月四日、井伊直孝・松平忠直ら徳川先鋒が真田丸へ攻めかかった。幸村は柵越しに敵を引き寄せ、頃合いを見て鉄砲一斉射撃を浴びせる。突撃した徳川勢は塀際で次々と倒れ、退路にも伏兵の銃撃が降り注いだ。井伊勢の損害は甚大で、徳川軍は一日で数千の死傷者を出して撤退を余儀なくされる。これが冬の陣最大の合戦となり、以後家康は力攻めを断念して持久戦に切り替えた。

戦線は膠着し、京・大坂の人心も次第に厭戦へ傾いていく。家康は淀殿の妹・常高院(初)を介して和睦交渉を進め、十二月二十日、ついに講和が成立した。条件は「大坂城の外堀埋め立てと出丸・惣構の取り壊し」と伝わるが、その範囲をめぐっては当時から解釈の隔たりがあった。家康は和議成立の翌日から、この合意を徳川方有利に解釈し、実力で堀埋めを推し進める。徳川方の作事奉行は外堀を埋めるや否や、内堀の埋立てに着手し、二の丸の堀までも一気に埋め尽くしてしまった。豊臣方が抗議した時には、すでに大坂城は本丸だけが裸で立つ「裸城」と化していた。

夏の陣と豊臣家の滅亡

元和元年(1615年)三月、家康は大坂方が浪人衆を国外退去させない、堀の修復を進めている、として再度の出兵を諸大名に命じた。和議違反の責は明らかに家康にあったが、堀を失い籠城のすべを断たれた豊臣方は、もはや城外で迎え撃つしか道がない。五月、十五万五千を擁する徳川軍が大和路・河内路・紀州路の三方から大坂へ進発する。

五月六日、河内国道明寺。後藤又兵衛は先鋒として伊達政宗・水野勝成ら東軍主力を迎え撃った。後続が霧で遅れる中、又兵衛はわずかな手勢で小松山に布陣し、十数倍の敵を相手に半日戦い続けた。豊臣方の主力到着前に弾尽き矢折れ、又兵衛は壮絶な討死を遂げる。享年五十六。同日、若江堤では木村重成(秀頼の小姓上がりの若き名将)が井伊直孝勢と激突し、こちらも兵力差に屈して討死。享年わずか二十三。先陣を担うべき名将二人を、夏の陣初日にして失った。

翌五月七日、天王寺・岡山口。豊臣方の最後の野戦である。真田幸村は赤備えに身を固めた三千五百の真田勢を率い、家康本陣をめがけて突進した。本多忠朝・小笠原秀政ら徳川先鋒を蹴散らし、ついに金扇の馬印を倒すまでに肉薄した家康本陣突入は、戦国合戦史上もっとも家康を死に近づけた瞬間となる。家康は近習を失い、本陣を一時放棄して退却したと諸書は伝える。だが幸村勢も毛利勝永隊が突出した本多忠朝隊を破ったほかは、続く後詰が間に合わず、幸村は安居神社で力尽きて討たれた。享年四十九。薩摩の島津家の記録『薩藩旧記雑録』は、彼を「日本一の兵」と讃えている。

野戦に敗れた豊臣方は大坂城へ退却するも、すでに堀を失った城は籠城の用をなさない。同日夕刻、城内から火の手が上がった。秀頼と淀殿、そして真田大助ら殉死を選んだ近習たちは、本丸北の山里曲輪に逃れ、翌五月八日未明、ともに自刃を遂げる。秀頼享年二十三、淀殿四十九。秀吉が「日輪の子」として築き上げた豊臣家は、太閤の死から十七年でついに滅亡した。秀頼正室で家康の孫にあたる千姫は、城を脱出して本多忠刻に救出され、後に再嫁して桑名・姫路で生涯を閉じている。

元和偃武と泰平の世

七月十三日、朝廷は家康の上奏を受けて元号を「慶長」から「元和」へと改めた。武器を蔵に収め偃せて干戈を止める——「元和偃武」と呼ばれるこの改元は、応仁元年(1467年)の応仁の乱以来、約一世紀半にわたって続いた戦国乱世の完全な終焉を内外に告げるものだった。同月、幕府は伏見城において諸大名に対し「武家諸法度」十三ヵ条を発布。続いて朝廷・公家衆を統制する「禁中並公家諸法度」を制定し、徳川による近世支配体制を法的にも確立した。

翌元和二年(1616年)四月、家康は駿府城で七十五年の生涯を閉じる。その後、二代秀忠・三代家光と将軍職は徳川家中で受け継がれ、寛永十二年(1635年)の参勤交代制度化を経て幕藩体制が完成。以後二百六十年、日本は世界史的にも稀有な長期平和「徳川の泰平」を享受することになる。大坂の陣は、戦国を閉じ、近世を開いた最後の合戦であった。そして真田幸村の最期の突撃は、滅びゆく者の意地と武士の美学を体現するものとして、軍記『難波戦記』から講談・歌舞伎へと語り継がれ、後世「日本一の兵」の伝説を生んだのである。

KEY POINTS · 合戦のキーポイント

  • 01

    真田丸

    冬の陣で真田幸村が大坂城南側に築いた出城が、徳川先鋒の井伊・松平勢を撃退した。

  • 02

    堀の埋め立て

    和睦条件として外堀の埋め立てが進められ、内堀・惣構の取り壊しまで及んだ結果、大坂城は裸城同然となった。

  • 03

    元和偃武

    豊臣滅亡後に「元和」と改元、武器を蔵に収め偃ぐ泰平の世が始まった。

両軍の対比

TOKUGAWA

徳川家康

大将:徳川家康 73歳・秀忠 36歳
総兵力約 200,000(夏の陣)
出陣駿府城・江戸城
冬の陣兵力約 200,000
夏の陣兵力約 155,000
先鋒松平忠直・井伊直孝・本多忠政
大 勝 · 豊臣家滅亡
vs
TOYOTOMI

豊臣秀頼

大将:豊臣秀頼 22歳・淀殿
総兵力約 100,000(浪人衆中心)
出陣大坂城
真田丸真田幸村(信繁)
浪人衆後藤又兵衛・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登
籠城兵約 100,000
落 城 · 秀頼・淀殿自刃