真田昌輝は、武田家に仕えた真田幸隆の次男である。 兄の信綱とともに1575年の長篠の戦いで討死し、弟の真田昌幸が本家を継いだ。 昌幸やその子の信繁が活躍する前に、武田の家臣として生涯を終えた人物だった。
昌輝の記録は多くない。 それでも、兵部丞という呼称、武田の百足衆に属したという伝承、対北条戦での働きが各地の解説に残る。 長篠での最期だけでなく、子の信正から越前へ続いた系譜にも目を向けると、真田家の歴史を本家だけでは語れないことが分かる。
幸隆の次男として

真田昌幸が真田家を継ぐ前に、二人の兄が長篠で戦死している。 長男の信綱と次男の昌輝である。 のちに上田城で知られる昌幸は、もともと三男だった。 昌輝はその兄として、父の幸綱、通称幸隆が武田家に仕えた時代を生きた。
昌輝の生年には天文12年(1543年)説がある。 上田市の人物案内もこの年を掲げるが、異説があると断っている。 生まれた日や幼年期の暮らしは、はっきりしない。 ただ、信濃の小県を本拠とする真田氏の一員であり、信綱と昌幸の間に位置する兄弟だったことは複数の地域史資料で確かめられる。
父の幸隆は武田信玄に仕え、信濃から上野へ活動の場を広げた。 真田宝物館の解説では、遅くとも1549年ごろまでに信玄の家臣になっていたとされる。 真田家にとって武田への奉公は、一族の所領と将来に関わる選択だった。 昌輝も成長すると、この主従関係の中で働くようになる。
兄弟は同じ父のもとに生まれたが、歩んだ道は一つではない。 信綱は真田本家を継ぎ、昌幸は武田親類衆の武藤氏に入って喜兵衛と名乗った。 昌輝は兵部丞の名で伝えられている。 長篠に至るまでの真田家には、父だけでなく、立場を異にする息子たちがいた。
武田家で伝えられた兵部丞の名

昌輝は父や兄とともに武田信玄に仕えた。 兵部丞は「ひょうぶのじょう」と読む。 地域の解説には短く兵部と記される場合もあり、昌輝という実名と並んで人物を見分ける手がかりになる。
上田市の資料は、昌輝が武田のムカデ衆として活躍したと伝えている。 山梨県が公開する武田二十四将の案内にも、百足衆の一人として登場する。 武田の軍勢の中で役割を担った人物として記憶されたのである。 ただし、その役目に就いた年や、個々の戦場でどの命令を運んだかまでは確認できない。
昌輝には、兄の働きを助けたという人物像も受け継がれている。 父が築いた支配を信綱だけで引き受けたのではなく、一族の複数の者が武田への奉公に参加していた。 信綱が本領を預かり、昌幸が信玄の近くで仕える家の中で、昌輝も武田家臣として活動していたことになる。
この時期の昌輝を、後年の昌幸の評判から説明することはできない。 上田合戦の知略や大坂での信繁の武勇は、まだ先の出来事だった。 昌輝が仕えたのは信玄、そしてその後を継ぐ勝頼である。 真田の一族は武田の軍事力を支える側に立ち、その遠征と敗戦をともに経験することになった。
小県と吾妻に広がる父と兄の仕事

真田家の活動は、合戦の前線だけに限られていなかった。 信濃国小県郡と、山を隔てた上野国吾妻郡が、一族の支配に関わる地域だった。 父の幸隆は上野方面で働き、兄の信綱は小県の本領を任されていたと考えられている。
元亀3年(1572年)7月晦日の武田信玄朱印状には、信綱の名がある。 信玄は真田や祢津、室賀などの在地の武士に対し、領国外へ追放した者が近辺にいれば捕らえて報告するよう命じた。 領主には兵を出すだけでなく、土地に住み、周辺の動きを把握する役目もあった。 これは昌輝本人への命令ではないが、真田家が地元で負っていた仕事を具体的に示す。
上田市の昌輝紹介では、本人も小県と吾妻の領地経営に参画したとみられている。 どの村を受け持ち、何人の家臣を動かしたのかは明らかではない。 それでも昌輝の活動を、長篠の一日にだけ閉じ込める必要はない。 父や兄を助けたという伝承には、遠征と本領の維持を両立させる真田家の事情が重なる。
信濃から上野へ手を伸ばした真田氏は、離れた土地で武田の支配を担うようになっていた。 一族の働きを理解するには、城を攻める場面と同じく、留守を守る土地にも目を向けたい。 昌輝個人の担当範囲には空白が残るが、その周囲には文書で確認できる兄の仕事がある。
北条領への遠征

永禄12年(1569年)、信玄は北条氏の本拠である小田原へ兵を進めた。 上田市の昌輝紹介では、この遠征で北条方と戦い、功績があったとされる。 小県の本領から離れ、主家の軍事行動に加わった昌輝の姿を伝える記述である。
小田原側では、北条氏康と氏政が武田の攻撃を受け止めた。 小田原城の公式解説は、氏政の事績に1569年の防衛を挙げている。 愛川町の史跡解説でも、信玄は城を攻略できずに撤退したとされる。 昌輝の戦功を語る際も、武田軍が小田原を落としたという話にはならない。
帰路の武田軍は三増で北条軍と戦った。 愛川町は旧暦10月6日の戦闘として紹介している。 山梨県の人物案内には、昌輝が信綱や内藤昌秀とともに殿軍を務めたとの説明がある。 殿軍とは退く軍勢の後方を受け持つ部隊であり、この記述では昌輝は撤退を支えた将として描かれる。
ただし、昌輝の進路や隊の人数、どの北条武将と直接ぶつかったかは定まらない。 北条氏康と氏政はこの戦役の敵方指導者であって、昌輝との一騎討ちを伝える相手ではない。 相模への遠征で働いたという評価と、細かな戦闘経過には区別が要る。 その後も昌輝は武田に仕え続け、主君が代わった後の三河出陣に至る。
信玄と幸隆を失った後

元亀4年(1573年)、武田信玄が没した。 その後を継いだ勝頼のもとで、真田の兄弟も奉公を続ける。 主家が新しい当主を迎えた翌年には、真田家でも父の幸隆が世を去った。
天正2年(1574年)5月の幸隆の死後、真田家を継いだのは長男の信綱とされる。 信綱はそれ以前から本領の支配に関わっており、父の死によって突然すべての仕事を始めたわけではなかった。 昌輝は弟としてこの兄と行動し、勝頼の軍勢の一員として三河へ向かった。
次の戦場となる長篠城は、現在の愛知県新城市にある。 河川の合流点に位置し、信濃や遠江へ通じる道にも関わる城だった。 新城市の史跡案内が述べるように、武田と徳川はこの拠点を争っていた。 山に囲まれた地方の城にも、両勢力が兵を進めるうえでの意味があった。
天正3年(1575年)、勝頼の軍は長篠城を攻めた。 救援に動いたのは徳川家康と、その同盟者である織田信長である。 城をめぐる攻防は、設楽原での大きな会戦へ進む。 父の死からおよそ一年後、信綱と昌輝は、ともにこの戦役に加わっていた。
設楽原で失われた二人の兄

天正3年5月21日、旧暦のこの日、武田軍と織田・徳川連合軍が設楽原で戦った。 武田方は敗れ、多くの将を失った。 真田信綱と昌輝も、その戦死者に含まれる。 二人は同じ戦いから戻らなかった。
昌輝の最期には、傷を負って一度退いた後、兄を求めて戦場へ戻ったという話がある。 新城の地域紹介で語られる伝承である。 兄弟を結ぶ物語として印象深いが、行動の順序や会話を裏づける同時代の記録は今回確認できない。 確かに伝えられているのは、長篠で兄とともに討死したという結末だ。
長篠は、鉄砲が武田の騎馬軍団を破った戦いとして知られる。 ただ、昌輝が何度柵へ突進し、誰の銃弾を受けたかまで説明できるわけではない。 合戦全体の描き方と、一人の武将が最期に経験したことは別の問題である。 昌輝の戦死を、細部まで目撃したような場面にはできない。
真田家では、前年に父を失い、今度は当主の信綱とその弟を同時に失った。 家を継いでいた長男も、長男を支えた次男もいなくなったのである。 信濃に残る領地と一族を、誰かが引き受けなければならなかった。 そこで真田本家の後を継ぐことになるのが、三男の昌幸だった。
昌幸の相続と越前へ続いた子孫

兄たちの戦死を受けて、武藤氏に入っていた昌幸が真田家を相続した。 真田宝物館の家史では、1575年の出来事として説明されている。 昌幸のもとで本家は続き、のちにその子の信之と信繁がそれぞれの道を歩んだ。
しかし昌輝にも、信正という子がいた。 福井県文書館は福井藩士の由緒を記した『諸士先祖之記』をもとに、越前真田家の来歴を紹介している。 その回答によれば、信正は越後で松平忠昌に仕え、忠昌が越前へ移る際に同行した。 子孫も代々、越前の藩に仕えたという。
昌幸による本家相続と、昌輝の子孫の存続は両立する。 当主が代わることと、戦死した当主の兄弟の家族が絶えることは同じではない。 信正の系譜をたどると、上田や松代の大名家だけを追っていては見えにくい、真田一族の広がりが分かる。
信綱と昌輝をしのぶ墓碑は、戦場となった新城や信濃の真田の地に伝わる。 昌輝については、子孫と縁のある福井にも供養墓があると上田市の資料は紹介する。 昌輝自身の生涯は長篠で終わった。 その後も父の名を伝えた一族が、別の土地で暮らし続けたのである。
史料の読み解き
生年と享年をどう読むか
昌輝の生年として、1543年という数字がよく使われる。 上田市の人物案内も天文12年を掲げているが、そのすぐ横に異説があると記している。 新城市商工会の紹介では生年を不明としており、地域の解説同士でも扱いが一致しない。
1543年生まれと1575年没を組み合わせれば、数え年では33歳になる。 数え年は生まれた年を一歳とするため、西暦の年差に一を加えた計算だ。 ただし、計算が合うことは、生年の説が確定することを意味しない。 「享年33」とだけ掲げると、もとの生年にあった留保が消えてしまう。
満年齢で考えるなら、誕生日を迎えていたかどうかも必要になる。 生まれた日を確定できない状態では、没年から一つの満年齢を求められない。 昌輝を描く際には、生年と享年を一組の確定事項として並べるより、1543年説があることをそのまま示すほうが正確である。
この違いは、若いころの戦歴にも関わる。 ある年に何歳だったと計算し、その年齢なら初陣を済ませていただろうと推測すると、二重の推定になる。 兄の信綱や父の幸隆が参戦した合戦に、昌輝もいたはずだと加えることもできない。 年齢の推定を、参加の証拠に置き換えないことが必要になる。
一方、生年を確定できないからといって、人物関係まで不明になるわけではない。 幸隆の次男であり、信綱の弟、昌幸の兄だったという位置づけは、上田と松代の解説で一致する。 福井県文書館の調査回答も、昌輝と信綱を兄弟として説明している。 数字に残る疑問と、確認できる家族関係は分けて扱える。
兄宛の書状から見える範囲
1572年の武田信玄朱印状は、真田家が何を求められていたかを具体的に伝える。 追放された者が近辺に現れた場合、捕らえて注進するよう命じた文書である。 上田市が公開する翻刻では、宛先に真田源太左衛門尉をはじめ、祢津、海野衆、室賀、浦野、小泉の名が並ぶ。 真田源太左衛門尉は信綱を指す。
この宛先の並びには、地域の支配を複数の武士が担う姿が表れている。 信玄が領国全体を支配していても、現地の動きを把握するには、そこに居住する者の働きが必要だった。 命令を受けて人を捕らえ、上へ報告する仕事も、武田への奉公に含まれていたと読める。
上田市の解説は、この文書を父と息子の役割を考える材料としている。 幸隆が上州方面に力を注ぐ一方、小県の本領は信綱が受け持っていたという見方である。 父の死後に家督を継いだという年表だけでは、相続以前から行われていた仕事を見落としやすい。 家督の継承日と、実務を任され始めた時期は、必ずしも一致しない。
ただし、文書の宛先に昌輝の名はない。 この一通を根拠に、昌輝が追放者の捕縛を指揮した、あるいは領内の治安を一手に担ったとは言えない。 昌輝の領地経営への関与は、別の上田市資料が「参画したとみられる」と説明する範囲にとどまる。 兄の実績を弟に配分すると、史料のある部分と推測の部分が見えなくなる。
逆に、宛先にないことだけで昌輝に役目がなかったとも決められない。 この文書が伝えるのは、特定の日に特定の相手へ出された命令だからである。 家中のすべての役割を一覧にした記録ではない。 昌輝の担当を確かめるには、本人宛の文書や知行に関する資料など、さらに別の根拠が要る。
小田原攻めの戦功と遠征の結果
昌輝が1569年の対北条戦で働いたという記述は、上田市と山梨県の人物案内に見える。 しかし、武将一人の戦功と、遠征全体の成果は同じ尺度では測れない。 小田原側から見れば、武田の軍勢を退けて城を維持した戦いだった。
愛川町の三増合戦場跡の解説は、小田原を攻略できなかった信玄が、帰路に三増峠を選んだと述べる。 北条軍が武田軍に対して戦いを仕掛け、激戦となったという流れである。 小田原包囲、撤退、三増の戦闘は、一連の遠征に含まれていても、それぞれ異なる局面だ。 後の戦闘で武田が北条軍を退けたことをもって、小田原を占領したとはならない。
昌輝が殿軍を務めたという山梨県の紹介は、この帰路に関わる話である。 その説明では、兄の信綱と内藤昌秀も一緒に挙げられている。 内藤昌秀は昌豊の名でも知られる武田の将だが、名前が併記されていることだけで、三人の指揮の順序までは決められない。 誰が昌輝に命じ、どこで何人を率いたかは、この紹介文からは分からない。
敵方についても、戦役の指導者と目の前で戦った部隊長を分ける必要がある。 北条氏康は愛川町の解説で防御側を動かす人物として登場する。 氏政も、小田原城の公式サイトで信玄の攻撃を退けた当主として紹介されている。 そこで二人を昌輝の関わった戦役の敵方として位置づけられるが、直接戦闘の相手とまで断言はできない。
昌輝の戦功に、戦果を詳しく書いた同時代の感状を添えられるなら、判断はさらに進む。 今回はその文書を確認できていない。 地域の概説が伝える出陣と働きを紹介しつつ、特定の城の攻略や敵将の討取りを付け足さない。 この範囲でも、昌輝が真田の本領にだけとどまらず、武田の遠征に関わったという姿は伝わる。
長篠城と設楽原
長篠という名のもとには、城を包囲する戦いと、救援軍を迎えて行われた会戦がある。 新城市が案内する長篠城跡は、河川が合流する断崖上に位置する。 周囲へ通じる道を含め、武田と徳川が取り合う拠点だった。 城を守る側にとっては、城内の防御と外からの救援の両方が問題になる。
一方、信長と家康の軍が武田軍と大きくぶつかったのは設楽原である。 「長篠城を攻めた」「長篠で戦死した」という二つの記述だけから、昌輝が城門の前で討たれたと考えることはできない。 戦役の名称が同じでも、各部隊の位置や役割が同じとは限らないからだ。
上田市の長篠合戦の解説は、勝頼の攻城軍と織田・徳川の救援軍の衝突として戦いを説明し、真田兄弟を戦死した将に挙げる。 真田宝物館の家史は、兄弟の死を昌幸の相続につながる出来事として記す。 両者は別の関心から書かれているが、1575年に二人が長篠で戦死したという点で一致する。
その先の細部になると、記述の性格は変わる。 新城の人物紹介には、柵に向かって進んだ兄弟や、引き返した昌輝が描かれている。 これを読む場合、戦死の確認と、戦場での一連の動作の確認を別々に行う必要がある。 同じ紹介文に続けて書かれているからといって、すべてが同じ根拠の強さを持つとは限らない。
「昌輝を討ったのは誰か」という問いにも、今回の資料から個人名では答えられない。 敵軍の指揮者として信長と家康を挙げることはできる。 しかし、両人が昌輝を直接討ち取ったという意味にはならない。 合戦に参加したという関係を、個人的な対決の物語へ広げないことが大切になる。
三段撃ちで最期を説明できるか
長篠の戦いには、鉄砲隊が三列を交代させて撃ち続け、騎馬隊を破ったという有名な説明がある。 地域の古い観光資料にも、この描き方が残る。 ただし、新城市の設楽原歴史資料館は、2025年の企画展で「鉄砲三段撃ちの謎」を扱っている。 戦い方そのものが、調査と議論の対象なのである。
鉄砲が戦場で使われたという話と、三列が規則正しく交代する方式の話は、同じ内容ではない。 まして、その方式によって昌輝が戦死したと個別に説明するには、もう一段の根拠が必要になる。 合戦全体の通説を一人の武将の最期に当てはめるだけでは、本人の位置も行動も確認したことにならない。
逆方向の飛躍にも注意したい。 三段撃ちに疑問があることから、鉄砲の役割までなかったと結論づけることはできない。 争われている論点が射撃の具体的な方法なら、判断もその範囲に置く必要がある。 一つの説への批判を、戦闘のすべてを覆す根拠に使わない。
昌輝の伝記では、武田軍が敗れ、本人と兄が戦死したという確認できる事実を中心に据えられる。 最後に何を見ていたか、どの瞬間に何を決意したかは、本人の言葉がなければ分からない。 勇敢だったという評価を伝える際にも、評価の出所と実際の動作を混同しないほうが、その人の生涯に誠実である。
本家の相続と昌輝の子
真田家の流れを、幸隆から信綱、信綱から昌幸へと並べるだけでは、昌輝は途中に現れて消える人物になりやすい。 だが、父子の系譜をたどると、昌輝から信正へ続く別の線がある。 当主の継承を示す表と、すべての子孫を示す家系図では、そもそも表している範囲が違う。
福井県文書館の調査回答は、その違いを確かめるうえで役立つ。 質問者は、信綱の子孫が越前真田家を興したと聞いて調べていた。 これに対し文書館は、『諸士先祖之記』に基づいて昌輝の子の信正を祖に位置づけている。 近い親族を取り違えた説明が、家譜を調べることで修正される事例でもある。
回答で確認できるのは、信正が越後で松平忠昌に仕え、その越前移動に従い、子孫も奉公を続けたという筋である。 文書館による解読を通して知ることができる事実であり、今回、家譜原本をすべて検分したという意味ではない。 原本の成立事情や各世代の細かな履歴を詰めるには、さらに資料を読む余地がある。
昌輝の子がいたことを踏まえると、昌幸の相続を「兄たちに子がいなかったから」と説明することはできない。 実際に昌幸が家を継いだことと、その人選の理由をすべて証明できることは別である。 残った子の年齢や家中の判断、主家の意向を論じるには、それぞれの根拠が必要になる。
信正の家を、松代の真田家と取り違えることも避けたい。 松代の藩主家は昌幸の子の信之から続く。 昌輝の子孫について福井県文書館が扱うのは、越前で藩士として仕えた家である。 同じ真田姓でも、領主となった本家と、その地の藩に仕える一族では立場が異なっていた。
昌輝が長篠で戦死したことは変わらない。 けれども、その死をもって昌輝の家族まで歴史から消えたと考える必要はない。 信正の存在は、兄を失った昌幸の相続とは別に、父を失った子のその後があったことを伝える。 本家の年表から少し離れることで、戦死者の後に残った一族をたどれるのである。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と留保 |
|---|---|---|
| 幸隆の次男で、信綱の弟、昌幸の兄 | 高 | 上田市、真田宝物館、福井県文書館の解説が一致する |
| 1575年の長篠で信綱とともに戦死 | 高 | 地域史と真田家の家史で一致。最期の動作まで確定するものではない |
| 兵部丞と称した | 高 | 地域史解説と武田の人物案内に見える呼称 |
| 1543年生まれ、数え33歳で没した | 中 | 生年は異説あり。享年はその説を採った場合の計算 |
| 武田の百足衆として活動した | 中 | 複数の概説にあるが、任命年や職務の細部は未確認 |
| 小県と吾妻の経営に参加した | 中 | 上田市も推定を含む表現。担当する所領や役目は未確定 |
| 小田原遠征で働き、三増で殿軍を務めた | 中 | 自治体の人物案内による。個別の戦功文書は未確認 |
| 一度退いた後、兄を求めて戦場へ戻った | 低 | 地域紹介の伝承。初出史料と具体的経過の裏付けは未確認 |
| 子の信正から越前真田家が続いた | 高 | 福井県文書館が家譜に基づいて回答。原本の全体調査は別途必要 |
昌輝の名は、長篠で倒れた真田の兄弟として残った。 その一方で、越前の家譜には、信正の父として位置づけられている。 同じ人物が、合戦史と家の由緒のそれぞれに現れる。 討死した武将の生涯を追った先にも、その人の名を伝えた家族の歴史が続いている。
参戦合戦
真田昌輝の逸話
- 逸話 01
兄を求めて戻ったという最期

兄を思う伝承を題材にした昌輝の想像図。会話や行動の史実復元ではない · AI生成イメージ 昌輝の人物紹介には、兄弟の情を強く印象づける最期の話がある。 長篠で傷を負って退いた昌輝が、途中で馬場信春に会い、信綱がまだ戻っていないと知って戦場へ引き返したという。 新城市商工会の合戦紹介では、この筋で二人の最期が語られる。
この話を採るなら、地域に伝わる逸話として読むことになる。 紹介文には、その場面をどの古記録から引いたのかが示されていない。 昌輝が兄を気にかけたであろうという想像と、実際に交わした言葉や進んだ道筋の確認は別である。 感動的な結末だからという理由で、会話を補うこともできない。
それでも、この伝承が兄弟をどのように記憶してきたかは読み取れる。 兄を残して去ることができなかった弟として昌輝を描き、同じ日に戦死した二人を結びつける話になっている。 昌輝の最期を考える際は、討死そのものを伝える地域史や家史と、この行動の物語を分けて受け止めたい。 伝承としての意味は、その細部を史実と断定しなくても失われない。
- 逸話 02
二十四将に数えられる昌輝

武将像と装備を考えるための甲冑の静物イメージ · AI生成イメージ 昌輝は武田二十四将の一人として紹介されることがある。 山梨県の人物案内には兵部丞昌輝が載り、武田の将としての働きがまとめられている。 一方、上田市の案内は、真田氏から二十四将に選ばれる人物が資料によって異なることも記している。
この違いは、二十四将という呼び名を読むときの手がかりになる。 一覧に名があることから、信玄が特定の時点で二十四人を正式に任命し、昌輝に同じ官職を与えたとは言えない。 人物を選んで描く方法と、実際の家臣団の編成は分けて考える必要がある。 昌輝が二十四将に数えられることは、後世に武田の代表的な将として記憶された一例になる。
肖像についても同じ注意が要る。 勇ましい姿の絵があっても、それだけで顔立ちや愛用の甲冑を確定することはできない。 人物画を楽しむことと、実物の装備を調べることには、それぞれ別の根拠が必要である。 ここに掲載する画像も、昌輝の容貌や遺品を復元したものではなく、記事のための想像図としている。
- 逸話 03
三河、信濃、越前の墓碑

各地の供養を題材にした石塔と木立のイメージ。実在墓所の再現ではない · AI生成イメージ 同じ人物の墓碑が複数の土地にある場合、それぞれの由来を確かめると、生涯の後に続く人々の働きが見えてくる。 上田市の資料は、長篠に伝わる信綱と昌輝の墓碑、信綱寺の裏手にある墓所、福井の昌輝供養墓を紹介している。 戦死した土地、本家と縁の深い土地、子孫が暮らした土地という違いがある。
信綱寺には、信綱の遺体の一部や遺品を家臣が持ち帰ったという伝承も残る。 これは兄の信綱にまつわる話であり、昌輝の遺体も同じように運ばれたと一括することはできない。 兄弟の墓が並ぶことと、二人の葬送がまったく同じだったことは別である。
福井の供養墓は、昌輝本人が越前で活動した証拠ではない。 父を失った後の信正と、その子孫が越前へつながった家の歴史と関わる。 碑がある場所をすべて本人の足跡にしてしまうと、1575年に終わった生涯と、後代の供養が混ざってしまう。 昌輝をしのんだ人々がどこにいたのかという見方で、三つの土地を結びたい。
関連人物
- 真田幸綱(幸隆)
- 真田信正
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 真田信綱・昌輝兄弟上田市マルチメディア情報センター参照日 2026-10-02
- 真田信綱に出逢う上田市参照日 2026-10-02
- 真田家とは真田宝物館参照日 2026-10-02
- 越前真田家の由緒に関する調査回答福井県文書館・国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-02
- 元亀3年7月晦日 真田信綱等宛武田信玄朱印状上田市マルチメディア情報センター参照日 2026-10-02
- 三増合戦場跡愛川町参照日 2026-10-02
- 小田原城の歴史・北条五代小田原城公式サイト参照日 2026-10-02
- 武田二十四将山梨県参照日 2026-10-02
- 長篠合戦上田市マルチメディア情報センター参照日 2026-10-02
- 国指定史跡長篠城跡の案内新城市参照日 2026-10-02
- 長篠設楽原の戦い・登場人物新城市商工会参照日 2026-10-02
- 企画展「鉄砲三段撃ちの謎」新城市・設楽原歴史資料館参照日 2026-10-02
















