香宗我部親泰(こうそかべ・ちかやす)は、長宗我部元親の弟で、軍事と外交の両面から兄を支えた武将である。香宗我部氏の養子となり、東土佐や阿波の拠点を担当した。日和佐氏への起請文や、織田方と交わした文書に、その働きが残る。
死因は病死と伝わるが、病名は分からない。墓は高知県香南市の宝鏡寺跡にあり、子の貞親以後は養子継承も経て家が続いた。伝所用の甲冑と文書、墓所を手掛かりに、親泰の生涯と評価をたどる。
長宗我部元親の弟が、香宗我部を名乗った理由

香宗我部親泰は、長宗我部国親の三男として生まれた。生年は天文12年(1543)とされ、兄に元親と吉良親貞がいる。親泰は香宗我部親秀の養子となり、土佐の香宗を本拠とする家を継いだ。兄弟なのに名字が違うのは、この養子縁組による。
香宗我部氏と長宗我部氏は、親泰の代に分かれた本家と分家ではない。香宗には、親泰が入る以前から香宗我部氏がいた。現在の高知県香南市にあたる土地であり、東には安芸氏の勢力があった。親泰は長宗我部家の子として育ち、別の家の当主になったのである。
養父の親秀が外から後継者を迎えた背景には、養家の事情もあった。横山良吉の研究が扱う家譜には、安芸氏との戦いで後継を失ったことや、一族内の対立が語られる。長宗我部氏との結びつきは、隣接する領主と争っていた香宗我部側にとっても、家を保つための選択だったと考えられる。
ただし、入嗣をめぐる家譜の説明は一様ではない。養子となった年を特定の一年に固定すると、縁組と家督継承の時期まで同じと扱うおそれがある。本記事では、親秀の養子として家を継いだ点を採り、年次の断定は避ける。その場で交わされた会話や、親泰自身の心情も確認できない。
親貞が吉良氏を、親泰が香宗我部氏を継いだことは、元親を支える一門の配置としても読める。実家との血縁に加え、養家の土地や家臣との関係を持ったからである。親泰は兄の指示を伝える使者であると同時に、香宗我部家の人々を率いる立場にあった。
元親との関係を知るには、「実の弟」と「別の家を継いだ当主」の両方を押さえたい。香宗我部という名字は、親泰が引き受けた家の名だった。以後の軍事と外交も、この二つの立場からたどると分かりやすい。
安芸氏との戦いで得た、東土佐の足場

永禄12年(1569)、長宗我部元親と安芸国虎の戦いは、安芸氏の敗北に至った。安芸氏は土佐東部に勢力を持ち、香宗我部氏とも争ってきた家である。元親の東進は、親泰の養家が抱えていた地域の対立とも重なっていた。
この戦いには、当時の切迫した状況を伝える文書がある。安芸市立歴史民俗資料館が紹介する国虎の書状では、同年7月に籠城を呼びかけている。戦いを前に、城へ人を集めようとしていたのである。後世に語られた劇的な最期だけでなく、こうした準備の記録からも戦局を追える。
安芸氏の滅亡後、親泰は安芸城を任されたと家伝に基づく研究は記す。兄が土佐の各地へ向かう間、弟は東側の拠点を受け持った。香宗から安芸へと担当が広がったことにより、親泰は阿波に近い地域の支配に関わるようになった。
安芸城は、平野に面した丘を利用した城である。城を預かる役目には、建物や守備兵だけでなく、その周囲の土地との関係も伴う。前の領主が敗れた後も、田畑や集落はそこに残る。親泰の配置は、戦いで得た地域を長宗我部方の拠点として保つ措置と捉えられる。
ただし、配置された事実と、個別の行政実績は分けて考えたい。どの村で誰に土地を与えたか、どのように年貢を取り立てたかまで、この配置の記録だけからは分からない。親泰を名領主と評するために、記録のない善政や住民の反応を付け足すことはできない。
確認できるのは、元親の勢力拡大に伴って、親泰が東土佐の重要な城を受け持ったことである。後に阿波の領主と交渉する親泰には、土佐側の拠点を担ってきた経歴があった。東土佐の支配と阿波への進出は、別々の仕事として切り離せない。
日和佐への起請文と、新開道善への勧告

天正5年(1577)11月17日付で、親泰は日和佐肥前守と同新次郎に起請文を出した。高知県立歴史民俗資料館の収蔵資料一覧に、宛先と日付を伴う写本の記載がある。阿波の地域勢力と関係を結ぶ場で、親泰自身の名が現れる史料である。
起請文は、約束に背けば神仏の罰を受けると誓う形式の文書をいう。口頭の了解を超え、文書によって相手との関係を確かめるために使われた。もっとも、目録だけでは約束の条項までは分からない。この起請文から領地安堵の条件や軍役の人数を推定することは避けたい。
阿波では、城を持つ領主を味方にする交渉も進められた。阿南市の保存活用計画によれば、天正7年(1579)、牛岐城の新開道善は親泰の勧告を受けて土佐方に付いた。牛岐は現在の阿南市富岡地区にあたり、周辺の政治と経済の拠点となっていた。ここを押さえる人物の選択は、阿波南部の情勢に関わった。
この経過は、『元親記』『南海通記』などの軍記に基づく解説である。親泰が何を条件に提示し、どの言葉で道善を説得したかは、ここでは確認できない。 1577年の起請文と1579年の勧告も、同じ交渉の記録ではない。相手と年代の異なる事例として見る必要がある。
さらに道善は、天正10年(1582)に三好方が阿波へ進むと、再びそちらに付いたとされる。地域の領主にとって、従う相手の選択は戦局によって変わりえた。一度味方に迎えたことだけで、その後の協力まで保証されるわけではなかったのである。
親泰の外交を考えるうえでは、信長のような大権力者との関係だけに目を向けない方がよい。日和佐氏や新開氏のように、阿波で現に土地と城を持つ相手とも交渉していた。地域の領主を結びつける働きが、長宗我部勢の軍事行動を支えていた。
織田信長へ通じた窓口と、交渉の限界

親泰には、織田信長から届いた朱印状が伝わる。東京国立博物館所蔵の香宗我部文書に含まれ、岐阜市歴史博物館の展覧会目録にも載る文書である。宛先に親泰の名があることは、長宗我部側の連絡相手として認識されていた証拠になる。
この6月12日付朱印状は、年次の扱いに注意がいる。岐阜市の2020年の目録は天正9年(1581)に比定する。一方、桐野作人の2021年の講演資料では、三好式部少輔との関係を求めた6月12日の連絡を、天正6年(1578)に置いている。月日が読めても、年まで確定しているとは限らない。
横山良吉の研究も、家伝文書を引きながら、三好氏との友好をめぐる親泰の使者としての役割に触れる。阿波で長宗我部氏が勢力を伸ばすと、三好氏との関係が問題になる。信長にとっての四国政策と、元親にとっての領土拡大は、常に一致するわけではなかった。
やがて織田方は、長宗我部氏に阿波からの撤退を求めるようになる。天正10年(1582)には信長の子・信孝を軸とする四国出兵が準備された。その直前まで、元親側と斎藤利三らとの間で書状のやり取りが続いていた。使者が通える関係があっても、軍事的な圧力は強まっていたのである。
この段階の長宗我部方の交渉を、すべて親泰一人の仕事とするのは適切ではない。当主の元親、織田方との取次、阿波の諸勢力が、それぞれ異なる立場から関わっていた。親泰宛の文書が残ることと、方針の全権を親泰が握ったことは区別しなければならない。
親泰を評価できるのは、信長とも連絡を取る交渉の窓口を担った点である。ただし、窓口が存在するだけで、領土をめぐる対立が解決するわけではない。誰が何を求めていたかまで読むと、外交役の働きと、その力の及ぶ範囲が見えてくる。
本能寺の変を経て、牛岐城を任される

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が倒れた。織田方が準備していた四国への出兵は実行に至らず、長宗我部氏は大きな軍事的圧力を免れた。元親は、その後の阿波で攻勢に転じる。
香川県史の年表は、同年8月の中富川での勝利と、9月の勝瑞城攻略を記す。相手は十河存保らの三好方であった。この経過によって、阿波の情勢は長宗我部側に大きく傾いた。親泰の活動も、兄の攻勢と、それに伴う支配地域の変化の中に位置づけられる。
家譜では、親泰が阿波で軍勢を率いたと伝えられる。しかし、戦い全体の勝利を親泰の単独の功績にすることはできない。中富川でどの地点に立ち、何人を率いてどう動いたかを、今回の確認資料から詳しく復元することも難しい。軍事を担った経歴と、後世の合戦場面の描写は分けて読む必要がある。
阿波南部では、牛岐城が親泰の拠点となった。阿南市の解説は、新開道善の死後、親泰が南方の抑えとして入ったとする。道善は本能寺の変後、丈六寺で元親に討たれたと軍記に語られる人物である。親泰を交渉相手として土佐方に付いた領主の城を、今度は親泰自身が預かることになった。
この交代には、地域の有力者に任せていた場所へ、一門の将を置く変化が表れている。親泰は安芸に続き、阿波でも支配の拠点を受け持った。土地の位置をたどれば、東土佐から阿波南部へと役割が広がったことが分かる。兄の戦場を転々と付き従っただけの武将ではなかった。
ただし、牛岐での支配は長く続かない。畿内では羽柴秀吉が力を伸ばし、四国の勢力にも介入を強めていく。親泰にとって、阿波で得た拠点を保つには、海の向こうの勢力との協力が再び課題となった。
織田信雄への戦況報告と、四国征伐での撤退

天正12年(1584)、親泰は織田信雄へ十河城の落城を知らせた。香川県史の年表が、6月11日の出来事として記す。根拠は香宗我部家伝証文に収められた文書であり、四国での戦況を畿内側へ伝える働きが確認できる。
この年、信雄と徳川家康は秀吉と争っていた。長宗我部氏も信雄・家康側と結び、四国で秀吉方の勢力と対抗していた。十河城の報告は、遠方の出来事を単に知らせたものではない。同じ相手と争う側に、こちらの戦いの進展を伝える連絡だった。
年表には、同年8月、信雄の家臣・信純が親泰に淡路への渡海を求めたことも載る。求められていたのは、四国内の情報だけではなかった。海を越えて軍勢を動かす協力まで、交渉の対象になっていたのである。ただし、要請の文書があることと、要請通りの出兵が実現したことは同じではない。
同年11月、信雄は秀吉と和睦した。協力相手の判断によって、四国側が頼る対抗関係にも変化が生じた。翌天正13年(1585)、秀吉方は四国へ大軍を進める。元親は降伏し、土佐一国を保持する形で秀吉に従うことになった。
牛岐城を拠点とした親泰も、長宗我部氏の撤退に伴って土佐へ戻ったとされる。阿波の国衆と交渉し、城を預かってきた活動は、ここで縮小を迫られた。四国征伐は、元親の領国だけでなく、親泰の担当する地域も変えたのである。
この結末を、使者である親泰の能力だけから説明することはできない。交渉先の和睦、秀吉方の軍事力、四国の各戦線は、親泰一人では動かせない条件だった。それでも戦況を伝え、協力を求める役目を担った事実は残る。親泰の外交は、成功したかどうかと、何を担ったかを分けて評価したい。
香宗我部親泰の死因は病死と伝わる

香宗我部親泰の死因は、家伝に基づく研究では病死とされる。文禄2年12月21日、朝鮮へ向かう途中の長門で亡くなったという。具体的な病名は、今回確認した資料からは分からない。戦死や毒殺を裏づける根拠も確認できないため、そのようには記さない。
その前年、文禄元年(1592)に元親が朝鮮へ出兵した際、親泰は土佐の留守を預かったとされる。一方、香宗我部家の軍勢は子の親氏が率いた。兄の不在を支えるために父が残り、子が出征するという分担だった。親泰の晩年にも、一門としての役割と、自家の継承の問題が重なっていた。
親氏は、その文禄元年に亡くなったと伝えられる。翌年には父の親泰も没し、香宗我部家には幼い貞親が残された。親泰の最期を知ることは、その後に誰が家を継いだかを考える出発点にもなる。ただし、親氏と親泰の死を一つの出来事として混同してはいけない。
没年の「1593年」は、文禄2年に対応させた慣用的な表記である。旧暦12月21日を、そのまま現在の暦の1593年12月21日と読んではならない。本記事では、日付を記すときに旧暦と明示する。年号の換算と、月日の換算は別の作業だからである。
親泰の墓は、香南市野市町の宝鏡寺跡に伝わる。香南市の文化財解説によれば、寺を開いた人物も親泰とする寺伝がある。阿波へ進み、海を隔てた相手と交渉した武将の墓が、養家の本拠である香宗の地に残っている。
親泰の死後も、香宗我部家の歴史は続いた。貞親は長宗我部氏が土佐を失った後に国を離れ、別の主家に仕える。その先に、文書や武具を伝えた一族がいる。親泰の生涯と、家がその後を生き延びた経過を合わせて見ると、墓や遺品が残る理由もたどれる。
史料の読み解き
香宗我部と長宗我部の違い、元親との関係から読む
二つの名字が似ているため、香宗我部氏を長宗我部氏の分家だと思いやすい。しかし、親泰の経歴を理解するうえでは、別々の家が養子縁組によって結びついたと捉える方が正確である。実父が国親、養父が親秀であり、元親とは実の兄弟だった。
ここで養子の親泰を迎えた側にも目を向けたい。香宗我部氏は、それ以前から香宗の土地に家を構え、安芸氏などと争ってきた。新しい当主を迎えることには、家名を残す意味と、隣家との関係を変える意味があった。親泰が長宗我部の名字を捨てたという説明だけでは、養家の歴史が抜け落ちる。
家譜には、親秀が弟の秀通と対立したという継承の物語もある。横山良吉は複数の家譜を比較しており、伝承の細部をそのまま一つの筋書きにすることは慎重であるべきだ。誰が何を語ったかという会話や、反対した人物の心情は、同時代の逐語記録としては扱えない。
一方、後には秀通の系統にあたる中山田氏の人々が、親泰や貞親を支える存在として現れる。養子を迎えた後の家には、旧来の一族との関係も続いていた。親泰を兄に従う弟としてだけ描くより、養家の人々を率いる当主として見る方が、その役割を広く捉えられる。
香宗我部親泰の評価、「外交官」と呼べる根拠は何か
親泰を長宗我部家の外交官と評する根拠は、複数の相手との文書にある。日和佐氏には起請文を出し、信長からは朱印状を受け取り、信雄には四国の戦況を知らせた。同じ文書のやり取りでも、相手と目的は異なる。地元の領主との関係づくりから、四国外の有力者との連絡までを担っていた。
高知県立歴史民俗資料館も、2019年の展示に「長宗我部家の外交官」という題を付けた。ただし、これは現代の外務官僚と同じ職に就いていたという意味ではない。親泰には城や軍勢を担当する立場があり、その活動と対外交渉が重なっていた。
具体的には、日和佐への起請文は関係を文書で保証する行為として見える。信雄への十河城落城の報告は、味方へ戦況を共有する行為である。淡路への渡海要請では、相手から軍事協力を求められる側に立つ。宛先だけでなく、出したのか受け取ったのかを分けると、仕事の幅がつかめる。
親泰は、領主や軍事担当者としての立場を伴う交渉役だった。これが、本記事で軍事と外交の両面から元親を支えたと評価する理由である。人当たりがよかった、話術で相手を自在に動かした、といった性格の断定は必要ない。残された文書と配置を読むだけでも、担った仕事は具体的に説明できる。
信長の書状と、外交を成功・失敗で測る難しさ
親泰宛の6月12日付信長朱印状には、1578年と1581年という異なる年次の扱いがある。前者は阿波の情勢が動く時期、後者は織田方の圧力が強まる時期にあたる。三年の違いでも、前後の出来事との関係は変わる。年の入っていない文書をいつに置くかは、外交の解釈にも関わる問題である。
本記事では、一方を確定年として使わず、親泰が信長から文書を受け取った事実を中心に据えた。確かめられる相手関係を残しつつ、未確定の時系列を無理につなげないためである。同じ理由で、1582年の交渉すべてを親泰が主導したとも説明しない。
外交の評価には、交渉の条件そのものも考える必要がある。元親が保ちたい阿波の領域と、織田方が求める配分が食い違えば、使者の努力だけでは解消できない。 1584年には、協力相手の信雄が秀吉と和睦した。四国側の意向とは別の判断によって、協力関係の前提が変わったのである。
1585年の敗北をもって、親泰には外交能力がなかったとするのも短絡的だ。反対に、文書が多く残るから全交渉が成功したとすることもできない。連絡の窓口を担ったこと、具体的な合意が成立したこと、軍事行動が実現したことを、それぞれ確かめたい。そうすれば、親泰の働きを認めながら、その限界も説明できる。
死因をどこまで言えるか、病名と長門での死
死因について採ったのは、家伝を検討した研究にある、長門での病死という説明である。朝鮮出兵の時期に亡くなったことから、戦闘中の死だったと読み替えることはできない。渡航の途中で亡くなったという記述と、朝鮮の戦場で討死したという説明は、別の出来事を指す。
病死という言葉だけでは、病気の種類や発症時期は分からない。感染症だったのか、持病だったのか、どのような経過だったのかは、追加の史料なしには決められない。親氏の死を悲しんだためという因果関係も、心情の想像から作らない方がよい。
親泰の没日は文禄2年12月21日と伝わり、生没年では1543〜1593と表記される。旧暦の年末は現代の暦と年がずれる場合があるため、検索結果に出る西暦の数字だけを比較すると混乱しやすい。同じ和暦日付を指すのか、年だけを対応させた表記なのかを確認すると、違いを整理できる。
子孫・甲冑・墓を合わせて、親泰のその後をたどる
親泰の活動を知る手掛かりが残った背景には、後の香宗我部家による伝承がある。貞親は土佐を離れ、家は養子も迎えながら続いた。移動の先で文書や武具が受け継がれ、それらが親泰を調べる資料となったのである。
ただし、品を伝えた家の継承と、親泰からの血統は同じ問いではない。実子、娘、養子、分かれた系統を区別せず一本の線で結ぶと、子孫の説明を誤る。貞親以後の継承を知ることは、現在に残る品が誰によって守られたかを理解することにもつながる。
また、土佐の宝鏡寺跡と佐倉の宗円寺は、異なる時期の一族を伝える場所である。本人の墓を探すのか、土佐を離れた子や家の歴史を追うのかで、訪ねる先は変わる。資料館の甲冑を見たい場合には、過去の展示記録と現在の展示予定も分けて調べる必要がある。
親泰が亡くなった後、長宗我部氏は関ヶ原後に土佐を失った。しかし、これを弟の不在だけで説明したり、生きていれば必ず防げたと考えたりすることはできない。長宗我部元親の弟として果たした仕事と、香宗我部家の当主として残したものを、それぞれの史料から評価したい。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と留保 |
|---|---|---|
| 元親の弟で、親秀の養子として香宗我部氏を継いだ | 高 | 香南市の解説と家系研究が一致する。入嗣年の確定とは別。 |
| 1577年11月17日、日和佐氏に起請文を出した | 高 | 資料館の目録で宛先・日付を確認できる。条項の詳細は未確認。 |
| 信長から朱印状を受け取った | 高 | 博物館の出品目録で確認。6月12日付の年次には異なる比定がある。 |
| 1584年、信雄に十河城の戦況を知らせた | 高 | 香川県史が家伝証文所収の文書を根拠に記載する。 |
| 阿波南部で交渉し、牛岐城を担当した | 中〜高 | 文書目録と自治体解説。新開氏との経過には軍記に基づく部分がある。 |
| 旧暦文禄2年12月21日、長門で病死した | 中 | 家伝を扱う研究による。病名までは確認できない。 |
| 貞親以後の家に養子継承が含まれる | 中〜高 | 家系研究と館報を照合。家の継続と男系血統を区別する。 |
| 伝親泰所用の甲冑が資料館に伝わる | 高 | 年報に具足の名称と伝来を記載。本人使用の確証とは区別。 |
| 宝鏡寺跡に親泰の五輪塔がある | 高 | 香南市の文化財解説に位置の記載がある。 |
| 親泰が生きていれば長宗我部家は安泰だった | 低 | 検証できない仮定であり、史実として採用しない。 |
参戦合戦
香宗我部親泰の逸話
- 逸話 01
子孫はどう続いたか、貞親から佐倉・仙台へ

家人を迎える親泰を通じ、家の継承をイメージした想像図 · AI生成イメージ 親泰の家は、子の貞親へ受け継がれた。ただし、親泰から現代までの一直線の男系系図として説明することはできない。後の香宗我部家には、養子による継承と分岐がある。
高知県立歴史民俗資料館の館報によれば、貞親は土佐を離れた後、唐津の寺沢広高に仕えた。その後は江戸に寓居し、寛永12年(1635)に堀田正盛へ仕官する。親泰が仕えた長宗我部氏の領国を失っても、子は別の主家で働く道を得たのである。
横山良吉の研究は、貞親に娘がいた一方、男子がなく、重親を養子に迎えたと記す。重親は高井家から入った人物で、後に仙台の伊達家にも仕えた。香宗我部の家名は続いたが、親泰の父系の血筋がそのまま続いたという意味ではない。
さらに系統は分かれ、仙台で続く家と、堀田家に仕えた佐倉の家につながっていく。佐倉側の継承にも養子が関わる。館報が親泰の武具や文書を伝えた家として紹介するのは、隼人雅親の系統である。「子孫」と「家の継承者」を区別すると、遺品の伝来も正確に理解できる。
本記事で扱うのは、公開史料で追える歴史上の継承である。現在同じ名字を名乗る人を、そのことだけで親泰の直系子孫とみなすことはしない。家名を守った人々の存在は確かめられるが、個々人の血縁は別に系譜の確認が必要になる。
- 逸話 02
現存する甲冑、伝親泰所用の具足と陣羽織

黒と金の甲冑を着た親泰の想像図。伝来する具足の復元ではない · AI生成イメージ 親泰が用いたと伝わる甲冑は、高知県立歴史民俗資料館の資料として記録されている。同館の年報第29号には、2019年の展示品として「金茶糸威二枚胴具足」が載る。資料名には、本人の使用を伝える「伝香宗我部親泰所用」という注記が付く。
同じ一覧には「緋羅紗地白武田菱紋付陣羽織」もある。赤い羅紗地と白い武田菱を名に記した陣羽織で、こちらも伝親泰所用とされる。具足や陣羽織、采配は、香宗我部一良氏からの寄贈資料として紹介されている。
ここで「伝」の一字を省かないことが大切だ。本人が使ったという伝来を持つ品であって、現代の写真のように使用場面を記録したものではない。いつ、どの戦場で身に着けたかまで、展示品名だけから決めることはできない。甲冑が残ることと、親泰の容貌が分かることも別である。
本記事の黒い甲冑姿は、人物を描くために制作したAIの想像図である。金の三本立物を含め、所蔵品を忠実に復元した画像としては扱っていない。図版の見た目と、資料館に伝わる実物の特徴を混同しないようにしたい。
年報で確認した展示は、2019年4月19日から6月2日までの開催だった。現在も常設展示されていると保証する記録ではない。実物の見学を考える場合は、資料館の最新の展示案内で出品状況を確認したい。
- 逸話 03
墓の場所、香南市の宝鏡寺跡と子孫の宗円寺

寺の石塔を描いた想像図。宝鏡寺跡の実景ではない · AI生成イメージ 親泰の墓を訪ねる場所は、高知県香南市野市町の宝鏡寺跡である。市の文化財案内は、所在地を「野市町土居寺中1430」とする。寺跡の北側、一段高い場所に親泰の五輪塔があると説明している。
宝鏡寺は、親泰が開いたと寺伝に記される。市の解説には、長宗我部地検帳に寺の敷地が記録されていることも紹介される。後世の由緒だけでなく、近世初頭の土地に関する記録からも寺の存在をたどれる場所である。
境内にある石塔を、すべて親泰の家族の墓と決めつけないようにしたい。市の案内では、親泰の塔とともに秀政・政氏の石塔を挙げる。南側の五輪塔群は、後世に並べ替えられたものと説明されている。現在の配置だけで、当初の埋葬順や血縁関係を読み取ることはできない。
一方、千葉県佐倉市の宗円寺には、貞親と後の一族の墓が残る。高知県立歴史民俗資料館の館報は、土佐から離れた香宗我部家の足跡として墓所を紹介している。こちらは親泰本人の墓所を指すものではない。
親泰本人を訪ねるなら宝鏡寺跡、貞親以後の家をたどるなら佐倉の宗円寺と整理できる。移動した一族と、土佐に残った墓の両方を見ることで、家の歴史がつながる。なお、本記事の寺院図は追悼をイメージした想像図であり、宝鏡寺跡や個々の墓を撮影・復元したものではない。
関連人物
- 長宗我部国親(実父)
- 香宗我部親秀(養父)
- 香宗我部親氏
- 香宗我部貞親
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 宝鏡寺(香宗我部菩提寺)跡香南市教育委員会参照日 2026-10-19
- 横山良吉「土佐の豪族香宗我部氏の盛衰と存続の原因について」モラロジー研究所(公開PDF)参照日 2026-10-19
- 長宗我部氏関係資料一覧(親泰起請文写本など)高知県立歴史民俗資料館参照日 2026-10-19
- 特別展「麒麟がくる」出品目録(作品92 親泰宛信長朱印状)岐阜市歴史博物館参照日 2026-10-19
- 桐野作人「明智光秀と本能寺の変」講演資料(2021年2月7日)福知山市(福知山光秀ミュージアム閉館記念講演会)参照日 2026-10-19
- 香川県史 別編2 歴史年表 古代・中世(1573〜1584年)香川県/香川県立図書館参照日 2026-10-19
- 安芸の歴史 安芸氏の繁栄安芸市立歴史民俗資料館参照日 2026-10-19
- 史跡若杉山辰砂採掘遺跡保存活用計画(第2章20頁)阿南市参照日 2026-10-19
- 岡豊風日 第105号「遠き佐倉の地に眠る香宗我部一族」高知県立歴史民俗資料館参照日 2026-10-19
- 年報第29号(2019年度)28〜29頁「長宗我部家の外交官」展示資料一覧高知県立歴史民俗資料館参照日 2026-10-19









