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戦国時代〜安土桃山本願寺(浄土真宗本願寺派)15431592
本願寺顕如|石山合戦十年と一向一揆の総帥の肖像
伝・西本願寺蔵『顕如上人像』
浄土真宗一向一揆石山合戦
ほんがんじ・けんにょ

本願寺顕如|石山合戦十年と一向一揆の総帥

HONGANJI KENNYO · 1543 — 1592 · 享年 50

石山十年の籠城と一向一揆の連動を束ねた本願寺第11世門主

本願寺
生年
天文12年
1543(旧暦正月6日・異伝あり)
没年
文禄元年
1592年12月27日/旧暦11月24日/数え50
出身
摂津国石山本願寺
現大阪市中央区
本山
石山本願寺
現大阪城公園内・畿内有数の寺内町
家紋
下り藤(近代以後の本願寺派宗紋)
SAGARI-FUJI
CONTENTS · 七章
  1. 01法主の家に生まれて — 数え12歳の継職
  2. 02大坂本願寺と寺内町 — 教団の組織化
  3. 03信長上洛と本願寺の試行 — 中立か戦争か
  4. 04石山合戦の開始 — 元亀元年9月12日の挙兵
  5. 05一向一揆の連鎖 — 長島・越前・加賀・畿内
  6. 06天正8年勅命講和と鷺森退去 — 教如との路線対立
  7. 07天満・七条堀川と東西分立への遺産
01
継職
INHERITANCE

法主の家に生まれて — 数え12歳の継職

御影堂継職・若き顕如の出発
御影堂継職・若き顕如の出発
天文十二年(1543年)旧暦正月六日(異伝あり)、顕如は本願寺第十世・証如の長男として生まれた。母の系譜については辞典・諸書で記述に幅があり、庭田重親女・増進院とする系統と慶寿院鎮永とする系統が併存しており、母を一系統に断定することは慎重を要する論点である。本願寺第十一世への継職は、天文二十三年(1554年)旧暦八月十三日に父・証如が四十歳で示寂したのを承けて始まり、顕如は数え十二歳で法灯を継承した。一般には天文二十三年八月の証如示寂・得度をもって法灯継承、弘治元年(1555年)四月の法眼叙任をもって継職体制が整ったと理解される二段階の経緯がある。幼少での重責の実務は、外舅・三条公頼や祖母・慶寿院ら周囲の補佐に支えられたと諸書は伝えるが、その役割分担の実態は同時代史料での精密な復元を要する論点として残されている。
1570年9月12日(西暦10月20日)、顕如による戦端発動と石山十年の幕開け

「元亀元年九月十二日、本願寺の檄文発令 — 信長との戦端、ここに開く」

02
中興
REVIVAL

大坂本願寺と寺内町 — 教団の組織化

大坂本願寺伽藍と寺内町二十万
大坂本願寺伽藍と寺内町二十万
顕如の壮年期、本願寺は本山・石山本願寺を中心に教団組織化を一段と進めた。石山本願寺は明応五年(1496年)に蓮如が大坂石山に建立した「大坂御坊」を起源とし、天文元年(1532年)以後に山科本願寺の焼失を承けて本山として確立し、顕如期には御影堂・阿弥陀堂を中軸とする伽藍と、門徒・商人・職人が集住する寺内町(じないまち)が形成された。寺内町の人口規模については「二万人以上と推測する」とする辞典系の説明があり、いずれにせよ畿内有数の宗教都市であったと総括する穏当な理解が学界で支持される。本願寺は加賀・能登・越前・伊勢・三河・畿内に広がる門徒網を通じて全国規模の信仰共同体を維持し、戦国期畿内の政治・経済・軍事に独自の重みを持つ権力主体として、戦国大名と渡り合う基盤を備えていた。顕如は外舅・三条公頼(左大臣)の系譜を背景に朝廷との関係も保持し、嫡男・教如(永禄元年〈1558年〉生)、次男・顕尊、三男・准如(天正五年〈1577年〉生)と三人の男子を儲けた。本願寺は単なる宗教団体ではなく、戦国期畿内の宗教・政治・経済を結ぶ複合的な権力体としての姿を整えていった。
天正8年(1580年)閏3月、正親町天皇勅命講和に基づく顕如の鷺森移座

「閏三月十七日、本願寺退去 — 石山十年の籠城ここに終わる」

03
前史
PRELUDE

信長上洛と本願寺の試行 — 中立か戦争か

信長上洛・本願寺との緊張対面
信長上洛・本願寺との緊張対面
永禄十一年(1568年)旧暦九月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、畿内の政治秩序を一気に再編した。信長は本願寺に対し当初は和睦的姿勢を見せたが、永禄十一年から十二年(1568〜69年)にかけての交渉過程で本願寺に矢銭(やせん・軍資金)五千貫の供出が要求されたと諸書は伝える。要求の正確な時点については上洛直後説と翌年継続説が史料間で異同があり、近年の辞典系説明では永禄十一〜十二年に交渉が継続したとする総括が穏当とされる。本願寺はこの要求に応じざるを得ず、信長との表面的な共存を保ったが、教団内部では信長の畿内支配と仏法護持の両立可能性をめぐる緊張が高まっていった。元亀元年(1570年)に入り信長は浅井・朝倉連合との戦闘(姉川合戦)を経て北近江・越前方面に勢力を伸ばし、畿内では三好三人衆と対峙した。三好三人衆は本願寺と連携を模索し、本願寺もまた畿内勢力の再編のなかで信長との直接対決の岐路に立つことになった。
04
開戦
OPENING

石山合戦の開始 — 元亀元年9月12日の挙兵

元亀元年九月十二日・檄文発令の評定
元亀元年九月十二日・檄文発令の評定
元亀元年(1570年)旧暦九月十二日(西暦十月二十日)、顕如は本願寺門徒に対して織田信長との戦端を開く檄文を発した。檄文は信長を「仏敵」と位置づけて門徒の蜂起を求める内容であったと後世編纂物は伝えるが、原文の正確な文言は同時代史料での復元に幅があり、有名な「進む者は往生極楽、退く者は無間地獄」のスローガンも後世史料の所載で原文の精密な裏づけは限定的とされる。同日、本願寺勢は摂津野田・福島の三好三人衆陣営を支援する形で蜂起し、信長軍と直接交戦に入った。これが石山合戦の幕開けで、以後天正八年(1580年)の正親町天皇勅命講和まで断続的に十年に及ぶ長期戦争となった。本願寺の参戦は、武田・上杉・浅井・朝倉・三好・毛利・松永・荒木らと連動する局面を形成し、信長と敵対する諸勢力の一角を占めた。檄文発令は戦国期における宗教権力の自立性と戦国大名への対抗力を象徴する事件として、宗教史・政治史双方で深く記憶される事象となっている。
05
籠城
SIEGE

一向一揆の連鎖 — 長島・越前・加賀・畿内

大坂本願寺籠城・念仏の灯火
大坂本願寺籠城・念仏の灯火
石山合戦と並行して、各地の門徒蜂起や地域一揆が本願寺と連動する局面を持った。伊勢長島一揆(元亀元年〜天正二年〈1574年〉)、越前一向一揆(天正元年〜天正三年〈1575年〉)、加賀一向一揆(永禄〜天正期、いわゆる「百姓の持ちたる国」体制)、畿内各地の一揆が時期を違えて蜂起・抵抗した。三河一向一揆(永禄六〜七年、徳川家康と対峙)は石山開戦に先行する事象で、地域固有の事情を強く帯びるため本願寺の指揮下に一括できる事態ではない点には注意を要する。長島では信長軍の圧倒的兵力を前に多数の門徒が殺戮され、越前では織田家臣・柴田勝家らによる徹底鎮圧で一揆指導者層が壊滅した。本願寺は武田信玄・上杉謙信・毛利輝元との外交を保ち、特に元亀三年(1572年)の武田信玄西上作戦時には武田・本願寺・浅井・朝倉の連携が信長を最大の危機に追い込んだ。信玄の天正元年(1573年)四月病没で連携は崩れたが、本願寺は毛利の海上補給線を活用して石山本願寺の籠城を継続し、信長軍の十年に及ぶ包囲を耐え抜いた。
06
退去
RETREAT

天正8年勅命講和と鷺森退去 — 教如との路線対立

鷺森退去・夕日の海路
鷺森退去・夕日の海路
天正八年(1580年)閏三月、正親町天皇は信長と本願寺の和睦を勧める勅使を派遣し、本願寺は十年戦争の終結を決意した。同年閏三月十七日(旧暦)、顕如は石山本願寺を退去し、紀伊鷺森(さぎのもり・現和歌山市鷺森)に移座した。しかし嫡男・教如(数え二十三歳)は徹底抗戦を主張し、顕如退去後も石山本願寺に残留して籠城を継続した。教如の徹底抗戦は天正八年八月上旬の退去まで約四ヶ月続いたとされ(具体日付には史料間で異同があり「八月二日」とする記述もある)、退城時の混乱で石山本願寺の伽藍は焼失した(焼失原因については放火・失火・戦闘延焼の諸説あり、史料間で記述に幅がある)。顕如と教如の路線対立は、鷺森本願寺における父子確執として尾を引き、後年の本願寺東西分立(慶長七年〈1602年〉)に至る経緯の出発点となった。鷺森本願寺は天正十一年(1583年)まで本山として機能し、顕如はこの地で全国門徒への教化と教団再建に専心した。
07
晩年
FINAL YEARS

天満・七条堀川と東西分立への遺産

七条堀川本願寺・晩年の顕如
七条堀川本願寺・晩年の顕如
天正十年(1582年)六月の本能寺の変で信長が斃れ、本願寺と織田の宿縁は終わった。豊臣秀吉は顕如を保護し、天正十一年(1583年)に和泉国貝塚の地を本山に与え、貝塚本願寺の時代となった。天正十三年(1585年)に大坂天満(てんま)に本山を移転して天満本願寺、天正十九年(1591年)には秀吉から京都七条堀川の地を寄進されて現在の西本願寺の位置に本山を再建した。顕如は秀吉から五七桐紋の使用を許され、本願寺は豊臣政権下の主要宗教権力として再編された。文禄元年(1592年)旧暦十一月二十四日(西暦十二月二十七日)、顕如は京都七条堀川本願寺で示寂、数え五十。法名は信楽院釈光佐。顕如没後、家督継承では嫡男・教如が一時継承したものの、秀吉の処分を経て三男・准如が本願寺第十二世として継職した経緯がある。慶長七年(1602年)には徳川家康が教如に烏丸七条の寺地を与えて本願寺東派(東本願寺・真宗大谷派)を分立させ、本願寺は西派(准如系・本願寺派)と東派(教如系・大谷派)に分かれた。顕如期の父子路線対立、秀吉による准如継職、家康の教如への寺地寄進という三段の経緯が、現代の浄土真宗二大宗派並立という日本仏教史の大構造を生み出している。