メインコンテンツへスキップ
戦国時代〜安土桃山足利将軍家15371597
足利義昭|室町幕府最後の将軍と信長包囲網の肖像
伝・足利義昭像(想像復元)
室町幕府信長包囲網織田信長
あしかが・よしあき

足利義昭|室町幕府最後の将軍と信長包囲網

ASHIKAGA YOSHIAKI · 1537 — 1597 · 享年 61

寺に入れられた末弟が、兄の横死を機に身を起こして室町幕府最後の将軍となり、御内書ひとつで織田信長を追い詰める大包囲網を織り上げた、乱世の終わりを見届けた将軍

足利
生年
天文6年
1537年・京と伝わる
没年
慶長2年
1597年・享年61/病没
出身
京・足利将軍家
父は12代将軍・足利義晴
役職
室町幕府15代将軍
永禄11年(1568)就任
家紋
足利二つ引両
FUTATSU-HIKIRYO

足利義昭

足利義昭は、興福寺の門跡寺院に入れられ本来は将軍位とは無縁のはずの僧侶でありながらも、兄の横死を機に身を起こして室町幕府第十五代将軍の座に就き、やがて織田信長を追い詰める大包囲網まで織り上げた、戦国乱世の最後の将軍である。

義昭は天文六年(1537年)、十二代将軍・足利義晴の子に生まれた。嫡男ではなかったため早くに仏門へ入り、奈良の興福寺一乗院で「覚慶」と名乗る。だが永禄八年(1565年)、兄で十三代将軍の義輝が永禄の変で討たれると、覚慶は細川藤孝らの助けで寺を脱し、還俗して将軍位をめざす流浪の身となった。

支援者を求めてさまよう義昭に手を差し伸べたのが、織田信長である。永禄十一年(1568年)、信長に奉じられて上洛した義昭は、第十五代将軍の座に就いた。当初は信長を「御父」と頼る蜜月であったが、やがて信長が将軍の権限を縛ると、両者の関係は急速に冷えていく。

不満を募らせた義昭は、将軍だけが発しうる「御内書」を全国へ飛ばし、武田・朝倉・浅井・本願寺・毛利を結ぶ信長包囲網を築き上げた。だが要であった武田信玄の死を機に信長が反撃に転じ、元亀四年(1573年)、義昭は槙島城で挙兵するも降伏し、京を追われる。

京を逐われてもなお、義昭は将軍を名乗り続けた。毛利を頼って鞆の浦に「鞆幕府」を構え、御内書を発し続けたのである。やがて天下が秀吉のものと定まると、義昭は将軍職を退いて出家し、「昌山道休」と号した。戦場でも自害でもなく、畳の上で六十一年の生涯を閉じたところに、最後の室町将軍のしたたかさがにじんでいる。

01出家PRIESTHOOD

一乗院の覚慶 — 寺に入れられた末弟

興福寺一乗院に入った僧・覚慶のころ
興福寺一乗院に入った僧・覚慶のころ

天文六年(1537年)、足利義昭は室町幕府十二代将軍・足利義晴の子として生まれた。兄には、のちに十三代将軍となる義輝がいる。将軍家に生まれたとはいえ、義昭は嫡男ではない。当時のならわしに従い、彼は早くに仏門へ送られ、奈良の興福寺一乗院に入って「覚慶」と名乗る一人の僧となった。

だが、僧坊の静かな日々は長くは続かなかった。永禄八年(1565年)、京で永禄の変が起こる。三好三人衆と松永久通らの軍勢が将軍御所を襲い、兄・義輝を討ち取ったのである。剣豪将軍とも謳われた兄の、あまりにあっけない最期であった。

変の報は、たちまち奈良の覚慶のもとにも届く。将軍家の血を引く彼もまた、いつ命を狙われてもおかしくない。事実、覚慶は興福寺で軟禁同然の身に置かれた。

しかし、ここで細川藤孝をはじめとする旧幕臣たちが動いた。彼らは覚慶を寺から脱出させ、近江へと逃がす。こうして一人の僧は、滅びかけた将軍家を背負う者として、乱世の表舞台へ引きずり出された。仏門に入れられた末弟が、流転の果てに将軍位をめざす——義昭の波瀾の生涯は、この脱出から動き始めた。

信長に奉じられて将軍となった義昭は、やがてその信長と決裂し、御内書ひとつで武田・朝倉・浅井・本願寺・毛利を結ぶ信長包囲網を主導した

「擁立された将軍が、天下人を追い詰める — 御内書が織った包囲網」

02擁立ENTHRONED

信長の上洛 — 流浪の末の将軍位

信長に奉じられ上洛し将軍位に就く義昭
信長に奉じられ上洛し将軍位に就く義昭

近江へ逃れた覚慶は、やがて還俗して名を「義秋」と改め、のちに「義昭」と名乗る。僧形を捨てた彼の望みはただ一つ、兄の遺した将軍の座を継ぎ、京へ返り咲くことであった。だが、後ろ盾を持たぬ亡命者にすぎない彼に、それは容易な望みではない。

義昭は支援者を求めて各地をさまよう。近江の六角、若狭の武田、そして越前の朝倉義景。とりわけ朝倉のもとには長く身を寄せたが、義景はなかなか上洛の兵を挙げようとしない。焦る義昭の前に現れたのが、美濃を制したばかりの織田信長であった。

永禄十一年(1568年)九月、信長は義昭を奉じて大軍を率い、一気に上洛を果たす。道をふさぐ勢力を蹴散らして京を制圧し、同年十月、義昭はついに室町幕府第十五代将軍の座に就いた。

流浪の日々は、ここに報われた。義昭は信長を「御父」とまで呼んで深く頼り、信長もまた将軍の権威を背に天下へ号令する大義を得る。このとき両者は、たがいを必要とし合う蜜月のただなかにあった。擁立する者とされる者——信長と義昭の二人三脚は、まずは華々しい成功として幕を開けたのである。

京を追われ幕府機構が事実上終わったのちも、義昭はなお将軍位を保ち、鞆の浦の亡命政権『鞆幕府』から号令を発し続けた

「幕府を背負って流浪す — 鞆に灯し続けた将軍の意地」

03確執DISCORD

殿中御掟 — 縛られる将軍の不満

殿中御掟に不満を募らせる将軍義昭
殿中御掟に不満を募らせる将軍義昭

だが、蜜月は長くは続かなかった。将軍となった義昭と、その後ろ盾である信長。二人の思惑は、はやくも食い違いを見せ始める。

信長が義昭に求めたのは、あくまで「天下に号令するための大義名分」であった。将軍の権威は欲しいが、将軍が実権を振るうことは望まない。永禄十二年(1569年)、信長は「殿中御掟」と呼ばれる掟書を義昭に認めさせる。これは将軍の行動や裁定に細かな枠をはめるもので、事実上、義昭の手足を縛る取り決めだった。

義昭にしてみれば、これは耐えがたい屈辱である。せっかく将軍位を得ても、肝心の政は信長に握られ、自分は飾り物にすぎない。かつて「御父」と頼った相手が、いまや自らを操ろうとする目障りな存在に見えてくる。

一方の信長も、独自の動きを見せ始めた義昭への警戒を強めていった。擁立の恩義は、いつしか主導権をめぐる神経戦へと変わっていた。天下を「号令する者」と「実際に動かす者」——二人の立場の違いが、やがて決定的な対立へと育っていく。

04包囲網ENCIRCLEMENT

御内書の網 — 信長包囲網を織る

御内書を発し信長包囲網を結ぶ義昭
御内書を発し信長包囲網を結ぶ義昭

信長への不満を募らせた義昭は、ついに動く。彼が手にした最大の武器は、軍勢ではない。室町殿たる将軍の直状として重んじられた「御内書」——諸国の大名へ宛てた、将軍直々の書状であった。

義昭はこの御内書を全国へ飛ばし、信長に不満を抱く勢力を一つの網へと結びつけていく。甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、大坂の本願寺顕如、そして中国の毛利。さらに各地の一向一揆までもが、反信長の旗のもとに呼応した。世にいう「信長包囲網」である。

なかでも元亀三年(1572年)に始まった武田信玄の西上は、信長を最も追い詰めた。東から武田、各地で一揆と本願寺、そして京には将軍義昭。信長はまさに四方を敵に囲まれ、生涯でも屈指の危機に立たされる。

一片の書状を束ねて天下人を追い詰めたこの一手こそ、義昭が単なる飾り物ではなかったことを雄弁に物語る。 武力なき将軍が、その権威だけを頼りに信長包囲網を織り上げた——ここに義昭の策謀家としての真骨頂があった。
05追放EXILE

槙島の落城 — 室町幕府の終焉

槙島城に立てこもり信長軍に包囲される義昭
槙島城に立てこもり信長軍に包囲される義昭

だが、運命は義昭に味方しなかった。元亀四年(天正元年・1573年)四月、包囲網の要であった武田信玄が、西上の途上で病に倒れて世を去る。最大の脅威が消えたことで、信長は一気に反撃へ転じた。

勝機を逃した義昭は、それでも信長との対決を選ぶ。同年、彼は京の周辺で挙兵し、宇治の槙島城に立てこもった。将軍みずからが後ろ盾に弓を引く、決定的な決裂であった。

しかし、武力で信長にかなうはずもない。信長は大軍で槙島城を包囲し、義昭はほどなく降伏する。命こそ奪われなかったが、義昭は京を追われ、まず河内若江へと移されたのち、やがて畿内を離れて流転することになる。

この追放をもって、足利氏が二百数十年にわたって続けてきた室町幕府は、事実上その歴史を閉じる。京を追われた将軍とともに、一つの時代が静かに終わりを告げた。信長を追い詰めながら、あと一歩で逆転を許した義昭——その敗北は、同時に室町という世の終焉を意味していた。

06鞆幕府TOMO COURT

鞆の浦の将軍 — 滅びぬ足利の意地

毛利を頼り鞆の浦で号令を続ける義昭
毛利を頼り鞆の浦で号令を続ける義昭

京を追われても、義昭は将軍の座を捨てなかった。彼はなお自らを「天下の将軍」と任じ、各地を流転しながら再起の機をうかがう。河内、紀伊と移り、やがて天正四年(1576年)、中国の雄・毛利を頼って備後の鞆の浦に腰を落ち着けた。

この地で義昭が立てたのが、世にいう「鞆幕府」である。京の御所こそ失ったが、彼はなお御内書を発し続け、毛利や本願寺と結んで信長への対抗を呼びかけた。亡命政権とはいえ、その号令には将軍の権威が確かに息づいていた。

信長にとっても、鞆の義昭は無視できぬ存在であり続けた。将軍の名のもとに反信長勢力がいつ再結集するか、知れたものではないからだ。

城も領国も持たぬ身でありながら、義昭は「将軍」という看板だけで天下に影響を及ぼし続けた。 鞆の浦に灯され続けた小さな幕府は、滅びてなお消えぬ足利の意地そのものだった。
07昌山RETIREMENT

昌山道休 — 乱世を見届けた最後の将軍

剃髪して昌山道休と号した晩年の義昭
剃髪して昌山道休と号した晩年の義昭

天正十年(1582年)、本能寺の変で信長が斃れ、天下の情勢は大きく動く。義昭は一時、これを京への復帰の好機と見た。だが、新たに台頭した羽柴秀吉は、もはや将軍の権威を必要とはしなかった。

時代は、足利の世へ戻ることを許さない。やがて義昭は現実を受け入れ、秀吉と和睦する。天正十六年(1588年)、彼は将軍職を退いて髪を下ろし、「昌山道休」と号した。一度は捨てた僧形へ、生涯の終わりに再び帰ったのである。

出家した義昭は、秀吉の御伽衆の一人として遇され、山城に一万石を与えられた。かつて天下人を追い詰めた将軍は、いまや過ぎ去った時代を語る、穏やかな客分となっていた。

慶長二年(1597年)、義昭は六十一年の生涯を静かに閉じる。戦乱の世を生き抜き、畳の上で天寿をまっとうした、最後の室町将軍であった。波乱に満ちた流転の果て、義昭は剣ではなく時の流れに将軍位を譲り、乱世の終わりを見届けて世を去った。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-06

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

本記事の内容に誤りや改善点がある場合は、 お問い合わせページ よりご連絡ください。確認のうえ、必要に応じて修正します。