
真田幸村(信繁)
「日本一の兵」
- 01真田家の宿命——昌幸の次男として
- 02第二次上田合戦——秀忠の三万八千を足止め
- 03九度山の十四年——紀伊の山中での幽閉
- 04真田丸——大坂冬の陣の大勝利
- 05大坂夏の陣——家康本陣への三度の突入
- 06「日本一の兵」——その死と後世への伝説
真田家の宿命——昌幸の次男として

真田家の旗印・六文銭の意味「六文銭は三途の川の渡し賃——我ら、いつ死んでも悔いなし。」
第二次上田合戦——秀忠の三万八千を足止め

敵将島津家の評「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。」
九度山の十四年——紀伊の山中での幽閉

夏の陣・最期の言葉と伝わる「我が武運ここに尽きたり。名残惜しくは候えど、いたし方なし。」
真田丸——大坂冬の陣の大勝利

大坂夏の陣——家康本陣への三度の突入

「日本一の兵」——その死と後世への伝説

- 01
六文銭——三途の川の渡し賃

真田家の旗印「六文銭」は、仏教の六道銭、すなわち冥土へ旅立つ際に三途の川の渡し賃として棺に入れる銭六文を意味する。この旗印を掲げることは「常に死を覚悟して戦場に臨む」という意思表明であった。幸村はこの六文銭を赤備えの旗指物に掲げ、大坂の陣で天下に知らしめた。死を恐れぬ武者の象徴として、六文銭は現代まで真田氏の代名詞となっている。
- 02
真田丸で徳川軍を壊滅させた攻防

冬の陣で信繁が築いた出城「真田丸」は、大坂城の南の大手口を守る半月形の陣地だった。前田利常ら諸将が正面攻撃を仕掛けると、信繁は城内に引き付けてから鉄砲・弓矢の一斉射撃を浴びせる戦術を繰り返した。徳川方は千を超える損害を出したとも伝わり、信繁の名は敵軍においても高まった。家康は直接攻略を諦め、和睦交渉に切り替えざるを得なかった。
- 03
家康を震え上がらせた最後の突撃

夏の陣の五月七日、信繁は赤備えの騎馬武者を率いて家康本陣に三度突入した。一度目の突進で家康旗本を蹴散らし、馬印が倒れると家康は本陣を移し、側近は切腹を勧めたとも伝わる。七十三歳の老将を死の淵まで追い詰めた信繁の奮戦は、戦国最後の伝説として語り継がれることになった。
- 上田城長野県上田市
真田昌幸が築き、信繁が第二次上田合戦で守り抜いた名城。現在も石垣と櫓が残る。
- 真田庵(善名称院)和歌山県伊都郡九度山町
信繁が十四年間の配流生活を送った九度山の屋敷跡に建つ寺。六文銭の家紋瓦が残る。
- 大坂城公園大阪府大阪市中央区
真田丸の跡地に近く、信繁の銅像が建立されている戦国ファンの聖地。
- 安居神社大阪府大阪市天王寺区
夏の陣で信繁が最期を遂げたと伝わる地。毎年命日に追悼行事が行われる。
