安土桃山時代真田氏15671615
真田幸村(信繁)の肖像
大坂の陣真田丸六文銭
さなだ・ゆきむら

真田幸村(信繁)

SANADA YUKIMURA · 1567 — 1615 · 享年 49

日本一の兵

真田
生年
永禄10年頃
1567
没年
元和元年
1615
出身
信濃上田
長野県
居城
上田城
信濃
家紋
六文銭
ROKUMONSEN
CONTENTS · 七章
  1. 01真田家の宿命——昌幸の次男として
  2. 02第二次上田合戦——秀忠の三万八千を足止め
  3. 03九度山の十四年——紀伊の山中での幽閉
  4. 04真田丸——大坂冬の陣の大勝利
  5. 05大坂夏の陣——家康本陣への三度の突入
  6. 06「日本一の兵」——その死と後世への伝説
01
真田家の宿命
DESTINY

真田家の宿命——昌幸の次男として

真田家・上田城の頃の信繁
真田家・上田城の頃の信繁
永禄十年(1567年)頃、信濃国上田に真田昌幸の次男として生まれた信繁は、幼少より智略に富む父のもとで戦国の常識を叩き込まれた。長兄・信之が徳川方の本多忠勝の娘を娶ったのに対し、信繁は大谷吉継の娘を娶り、豊臣方の武将として歩む宿命を刻まれた。真田家は小勢ながら武田氏・北条氏・上杉氏・徳川氏と渡り合ってきた山岳の智将の家系であり、信繁はその血脈を余すところなく受け継いでいた。天下の趨勢が徳川へと傾くなか、信繁は豊臣恩顧の武将として、最後まで豊臣家への義を貫いた。
真田家の旗印・六文銭の意味

「六文銭は三途の川の渡し賃——我ら、いつ死んでも悔いなし。」

—— 真田家伝承
02
第二次上田合戦
UEDA

第二次上田合戦——秀忠の三万八千を足止め

第二次上田合戦・城門前の攻防
第二次上田合戦・城門前の攻防
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して徳川秀忠は三万八千の大軍を率いて東山道を南下した。上田城に籠もる昌幸・信繁父子はわずか二千の兵でこの大軍を正面から受け止め、奇策を駆使して足止めすることに成功した。城内から出撃しては引き、堰を切って水攻めを試み、夜間の偽装攻撃で敵を翻弄する——昌幸仕込みの神算鬼謀は、秀忠軍を苛立たせ続けた。結果、秀忠は関ヶ原本戦に間に合わず、徳川家にとっての痛恨事となった。戦後、父昌幸と信繁は紀伊九度山に流罪となったが、この合戦で信繁の武名は天下に知れ渡った。
敵将島津家の評

「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。」

—— 島津家文書
03
九度山配流
KUDOYAMA

九度山の十四年——紀伊の山中での幽閉

九度山・真田庵のある静寂の地
九度山・真田庵のある静寂の地
関ヶ原の合戦後、昌幸・信繁父子は死罪を免れたものの、紀伊国高野山麓の九度山に配流された。山深い幽閉の地で、昌幸は慶長十六年(1611年)に失意のなか没した。信繁は足かけ十四年にわたり九度山で過ごし、貧困と監視の日々を送りながらも希望を失わなかった。近隣の真田庵(善名称院)は今もその屋敷跡と伝わる。慶長十九年(1614年)秋、豊臣秀頼の使者が密かに九度山を訪れ、大坂入城の要請を伝えた。信繁は迷わず応じ、伝説の幕開けとなる大坂城への旅路についた。
夏の陣・最期の言葉と伝わる

「我が武運ここに尽きたり。名残惜しくは候えど、いたし方なし。」

—— 大坂陣山口休庵咄
04
真田丸
SANADA MARU

真田丸——大坂冬の陣の大勝利

真田丸・冬の陣の攻防
真田丸・冬の陣の攻防
慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣が始まると、信繁は大坂城南側の弱点を突くように半円形の出城「真田丸」を急造した。天然の濠と急峻な土塁を組み合わせたこの陣地は、前田・松平ら諸将の攻撃を悉く撥ね返し、徳川軍に甚大な損害を与えた。とりわけ十一月の攻防戦では、突撃してくる敵を引き付けてから鉄砲・弓矢の一斉射撃で殲滅する戦術を繰り返し、真田丸は難攻不落の名をほしいままにした。家康は強攻を諦め和睦交渉へと転じた。この冬の陣での功績により、信繁は豊臣方の英雄として一躍名を高めた。
05
夏の陣
SUMMER

大坂夏の陣——家康本陣への三度の突入

夏の陣・家康本陣への突入
夏の陣・家康本陣への突入
元和元年(1615年)五月、大坂夏の陣が開幕した。和睦後に外堀を埋め城の守りを奪われた豊臣方は、もはや野戦に活路を求めるしかなかった。五月七日、信繁は赤備えの精鋭を率いて家康本陣へ向かって突進した。一度目の突入で家康旗本を蹴散らし、馬印(馬標)を倒す寸前まで肉薄した。二度目、三度目の突入でも信繁は退かず、家康は本陣を二度も移すほどの恐慌に陥ったと伝わる。しかし多勢に無勢、信繁は力尽き、茶臼山の麓で壮絶な最期を遂げた。享年四十九。
06
日本一の兵
GREATEST

「日本一の兵」——その死と後世への伝説

大坂城公園の真田幸村像
大坂城公園の真田幸村像
信繁の戦死を受け、島津家の文書は「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と記した。戦国武将としての壮絶な最期は、敵味方を問わず讃嘆の声を呼び起こした。江戸時代に書かれた軍記物語の中で「幸村」の名が定着し、六文銭の家紋とともに英雄像が彩られていった。現代においても大河ドラマや小説・ゲームで繰り返し取り上げられ、真田幸村は「戦国最後のヒーロー」として日本人に愛され続けている。大坂城公園の銅像は毎年多くの人が訪れる巡礼地となっており、その伝説に終わりはない。