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安土桃山〜江戸初期加藤家15621611
加藤清正|肥後熊本の築城名人と朝鮮の虎の肖像
本妙寺蔵(伝)
賤ヶ岳七本槍豊臣築城
かとう・きよまさ

加藤清正|肥後熊本の築城名人と朝鮮の虎

KATO KIYOMASA · 1562 — 1611 · 享年 50

国の鎮めとは、まず城をもって成る(後世に伝わる述懐)

加藤
生年
永禄5年
1562
没年
慶長16年
1611
出身
尾張中村
愛知県名古屋市中村区
石高
54万石
肥後熊本(52万石余とも、戦後加増後)
家紋
蛇の目紋
JANOME
CONTENTS · 七章
  1. 01尾張中村に生まれた秀吉の縁戚
  2. 02賤ヶ岳七本槍として名を上げる
  3. 03肥後北半19万5千石と佐々成政改易後の領知
  4. 04文禄・慶長の役と蔚山籠城戦
  5. 05七将と石田三成の対立
  6. 06関ヶ原 — 九州戦線のキーマン
  7. 07築城の名手と晩年の死
01
出生
BIRTH

尾張中村に生まれた秀吉の縁戚

尾張中村・幼年期の虎之助
尾張中村・幼年期の虎之助
永禄五年(1562年)六月二十四日、加藤清正は尾張国愛智郡中村(現・愛知県名古屋市中村区)に生まれた。父は刀鍛冶を生業としていた加藤清忠、母は伊都とされる。母・伊都は羽柴秀吉の生母なかの従姉妹にあたるとする系譜・伝承があり、清正は幼少期から秀吉と縁戚関係にあったとされる。父・清忠を三歳で失った清正は、母とともに尾張から近江へ移り、やがて長浜城主となった秀吉のもとに小姓として召し抱えられた。幼名は「夜叉若」、ついで「虎之助」と称されたといい、秀吉の妻・寧々(北政所)の手元で養育されたとも伝わる。秀吉は子のなかった時期、虎之助・市松(後の福島正則)・孫六(後の加藤嘉明)ら縁戚や近隣の少年たちを「子飼い」として手元に置き、武将として育成した。清正はその筆頭格として、後の人生を左右する秀吉との強い主従関係をこの時期に培っていったのである。
築城の心得として後世に伝わる言葉

「国の鎮めとは、まず城をもって成る。」

02
賤ヶ岳
SHIZUGATAKE

賤ヶ岳七本槍として名を上げる

賤ヶ岳の戦い・山路正国討取
賤ヶ岳の戦い・山路正国討取
天正十一年(1583年)四月、近江賤ヶ岳(現・滋賀県長浜市)にて、織田信長の後継をめぐり羽柴秀吉と柴田勝家が対峙した。清正は二十一歳で初陣に近い形でこの戦いに参陣し、柴田方の勇将・山路正国(やまじまさくに)を討ち取る武功を挙げたと伝わる。戦後の論功行賞で、奮戦した若武者たちにそれぞれ加増が与えられた。後世「賤ヶ岳の七本槍」と称される七名は清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元とされ、清正は三千石を加増されたと『一柳家記』など複数の史料が伝える。福島正則の五千石加増には及ばなかったものの、二十一歳の若武者にとっては破格の栄誉であった。賤ヶ岳の戦功により清正は秀吉子飼い武将筆頭の地位を確たるものとし、以後、九州征伐・小田原攻め・朝鮮出兵と、秀吉の天下統一事業の主軸を担う武将として歩み始めることになる。なお「七本槍」という呼称自体は江戸期に整理された呼び名であり、当時の文書で必ずしも七名固定とは限らない点には留意が必要である。
蔚山で清正を畏怖した明軍の伝承

「鬼上官、来たる。」

03
肥後入封
HIGO

肥後北半19万5千石と佐々成政改易後の領知

肥後入封・隈本城入城
肥後入封・隈本城入城
天正十六年(1588年)、清正は肥後北半(現・熊本県北部)十九万五千石を与えられ、隈本城(現在の熊本城前身)に入った。これは前年に肥後一国を任されていた佐々成政が、性急な検地強行によって国衆一揆を招き、その失政の責任を取って切腹させられた直後のことであった。秀吉は肥後一国を二分し、北半を清正に、南半を小西行長に与えるという統治体制を敷いた。清正は前任者の失敗を踏まえ、領内の有力国衆に配慮しながら段階的な検地と知行地再編を進めた。寺社領の再保護、街道整備、河川改修にも力を注ぎ、現在の熊本平野の治水基盤の多くは清正期に着手されたと伝わる。しかし南半の小西行長とは宗教(清正は熱烈な日蓮宗、行長はキリシタン)と気質の双方で対立を深めていき、肥後国内に二分した行政・宗教軸が形成されていくことになる。この対立構造は、後の朝鮮出兵での戦術面での衝突や、関ヶ原での宇土城攻めへとつながっていく長い因縁となった。

「秀頼様の身、命にかけても護るべし。」

—— 二条城会見前夜の述懐とされる
04
朝鮮出兵
KOREA

文禄・慶長の役と蔚山籠城戦

蔚山籠城戦・寒中の死闘
蔚山籠城戦・寒中の死闘
文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵で、清正は二番隊大将として渡海した。一番隊・小西行長との進攻ルート争いを抱えながら、咸鏡道方面に進軍し、朝鮮二王子を捕縛するなど勢威を示した。この時期、虎を仕留めて秀吉や徳川家康に虎肉や虎皮を献上したという伝承が残るが、これらの「虎退治」逸話は『加藤家伝』など江戸期に編まれた家史に由来する記述が中心であり、史実そのままとして受け取るには留保が必要である。慶長二年(1597年)に再開された慶長の役では、清正は蔚山倭城(うるさんわじょう、現・韓国蔚山広域市)の築城を担当した。同年末から翌慶長三年(1598年)正月にかけて、加藤清正・浅野幸長らの籠城軍は、優勢な明・朝鮮連合軍に包囲され、極寒・飢餓・水不足の極限状況下で十数日間死守したと伝わる。後詰の毛利・黒田勢の救援によって辛くも包囲は解かれ、清正の勇戦は後世「鬼将軍」「虎」のイメージを強めることとなった。蔚山籠城戦は朝鮮出兵屈指の死闘として後世まで語り継がれ、清正の武名を不動のものとした。
05
三成襲撃
SEVEN GENERALS

七将と石田三成の対立

慶長4年・三成襲撃事件
慶長4年・三成襲撃事件
慶長三年(1598年)八月、豊臣秀吉が伏見城で没すると、豊臣政権内部の対立が一気に噴出した。朝鮮出兵で前線に立ち続けた清正ら武断派と、後方で兵站・行政を担った石田三成ら文治派の確執は、出兵中の戦評価をめぐる軋轢でいっそう深まっていた。慶長四年(1599年)閏三月、加賀の前田利家が没した直後、清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政・蜂須賀家政・池田輝政ら、いわゆる七将が三成排斥の行動を起こしたとされる。実態は屋敷襲撃というより訴状提出・政治圧力に近かったとする見解も近年は有力で、三成は伏見の徳川家康屋敷へ駆け込み、家康の仲裁により蟄居(佐和山城への引退)処分で決着した。この三成襲撃事件によって豊臣家中の文治派は事実上瓦解し、家康が豊臣政権内で最大の調停者・実力者として振る舞う構図が確立した。後世から見れば、この事件は翌慶長五年の関ヶ原対立構造を直接準備したものであり、清正は意図せずして家康の天下取りに大きな道を開いたことになる。なお七将の構成や事件の実態については史料により諸説あり、襲撃というより集団訴状の提出に近い行動だったとする見方が研究の主流となりつつある。
06
九州戦線
KYUSHU

関ヶ原 — 九州戦線のキーマン

九州戦線・宇土城攻防
九州戦線・宇土城攻防
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃関ヶ原で天下分け目の合戦が行われた。清正は本戦には参加しなかったが、九州にあって東軍として独自に動き、肥後・豊後・筑後の西軍方諸将と戦火を交えた。本戦と並行して進められたこの「九州戦線」では、清正は黒田如水(孝高)と連携しながら、長年の宿敵である小西行長の所領(肥後南半・宇土城・麦島城)を制圧した。さらに筑後柳川の立花宗茂とも対峙し、九州における西軍方勢力の瓦解に決定的な役割を果たした。本戦が一日で東軍の大勝に終わると、九州における西軍方の抵抗もまもなく沈静化し、戦後の論功行賞で清正は小西行長の旧領(肥後南半)を加増され、肥後一国五十四万石(五十二万石余とも)の大大名となった。本戦に参加しなかった武将としては破格の加増であり、家康が清正の九州戦線での貢献をいかに高く評価していたかを示している。九州における東軍勝利の立役者として、清正は徳川幕府成立後の体制下でも豊臣恩顧大名の有力者として一目置かれる立場を獲得した。
07
熊本城
KUMAMOTO CASTLE

築城の名手と晩年の死

熊本城完成・武者返し石垣
熊本城完成・武者返し石垣
慶長六年(1601年)、清正は隈本城を全面的に拡張・改築する大事業に着手した。慶長十二年(1607年)に大天守・小天守を擁する壮大な熊本城が一応の完成を見たとされる。武者返しと呼ばれる急峻な反り勾配の石垣、大小天守と多数の櫓、籠城戦を想定して城内に掘られたとされる多数の井戸など、清正の築城術の集大成というべき名城が出現した。慶長十六年(1611年)三月、清正は徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見の実現に周旋したとされ、両者の対面に大きな役割を果たした。この会見で清正は秀吉の遺児・秀頼の身を護り、豊臣家の存続のために尽力したと伝わる。しかし会見後、京都から熊本への帰途で発病し、同年六月二十四日、肥後熊本で没した。享年五十(数え)。死因については病死が定説だが、家康による毒殺とする後世伝承も根強く残り、二条城会見直後の死というタイミングが憶測を呼んでいる。家督は嫡男・忠広が継いだものの、寛永九年(1632年)に忠広が幕府から改易処分を受け、加藤家による肥後支配は清正・忠広の二代で終わりを告げた。熊本城と本妙寺の浄池廟は、今もなお肥後の人々に「清正公(せいしょこ)さん」として深く敬愛されている。