ちょう・つぐつら
長続連七尾城で最期を迎えた能登畠山氏の重臣
- 生没年
- ?–1577
- 出身
- 能登
- 家
- 畠山

- 生年
- 不詳確実な生年は定まらない
- 没年
- 天正5年1577年・七尾城落城
- 本拠
- 能登畠山氏の領国で活動
- 立場
- 畠山氏重臣七人衆の一人
長続連(ちょう・つぐつら)は、能登畠山氏の政治を動かした重臣である。畠山七人衆の一人として知られ、主君を追う政変にも関わった。晩年には七尾城で上杉謙信に抗し、織田信長へ救援を求める。だが、天正5年(1577年)の落城で、子の綱連らとともに命を落とした。
城外へ使者に出ていた三男が、後の長連龍である。父の続連と、落城を生き延びた子の連龍。この二人を分けてたどると、能登の重臣が迎えた最期と、長氏がその後も続いた理由が見えてくる。
畠山の外から、領国の中枢へ

長続連は、能登畠山氏の家中で主君の交代にも関わる力を握り、最後は七尾城で上杉軍に抗した重臣である。長氏は代々の畠山家臣としてだけでは捉えられない家だった。もとは室町幕府の奉公衆に列し、能登を治める畠山氏とは別に、将軍へつながる立場を持っていた。
奉公衆は、将軍のもとで軍事や警固などを担った武士である。能登のように守護大名室町時代の守護職を起源として領国支配を強めた大名。戦国大名へと転化する者と、戦国期に没落する者に分かれた。がいる国でも、そこに暮らす武士が全員、同じ主従の鎖で結ばれていたわけではない。長氏は自らの家と所領を保ちながら、畠山氏との関係を深めていった。続連の台頭は、その変化の中で起こった。
続連は平氏から長英連の養子に入ったと伝わる。いつ生まれ、どこで少年時代を送ったのかは明らかでない。だが、16世紀半ばには畠山家の政治に関わる人物として姿を現す。続連の生涯をたどる入口は、幼少期の武勇談ではなく、能登の家々が権力を競った時代にある。
主家の中心は七尾だった。山上の城と麓の城下には、領国を動かす政治や経済の働きが集まった。畠山氏の当主が命令を出しても、重臣たちの協力がなければ領内には届かない。土地をめぐる争いを裁き、寺院や地域の武士と交渉する場で、家臣の力も強まっていく。
続連と、その子の綱連は、こうした畠山家中で有力な位置を占めるようになる。長氏の前にいたのが、遊佐氏や温井氏だった。ともに主家を支える重臣でありながら、政争では敵にもなる。続連の歩みは、この家中の協調と対立を抜きにしては語れない。
七人の名が並んだ政治

天文14年(1545年)、能登畠山氏の当主・義総が死去し、義続が家を継いだ。その後、主君と重臣の対立が表面に出る。天文19年(1550年)には、遊佐氏と温井氏を中心とする家臣たちが主君を攻める争いが起きた。いわゆる七頭の乱である。
争いを経た天文20年(1551年)、畠山家では七人の重臣が政治を担う体制が現れる。続連もその一人だった。畠山七人衆という呼び名は、この時期の有力家臣を知る手がかりになる。名を連ねた者は、主家の意向を領内へ伝えるだけでなく、その決定を支える側にも立っていた。
同年5月23日、義総の菩提を弔う興臨院に諸岳村を与える文書が出される。そこには続連ら七人の名と、出家した義続の印が残る。寺院へ土地を寄進する行為は、宗教上の供養であると同時に、誰が土地の支配を認めるかという政治の問題でもあった。続連は、その意思を文書にして伝える一人だったのである。
ただし、七人がいつまでも足並みをそろえたわけではない。天文22年(1553年)、遊佐続光は能登を追われ、家中の顔ぶれと力関係が変わった。温井氏もやがて没落へ向かう。評議の形を整えても、重臣の対立までは消えなかった。
この時代の続連は、後年の七尾城籠城だけで知られる老臣とは違う。領国の政治を共同で担い、内紛のたびに変わる主家の体制に関わった人物だった。七人衆の名簿を一度覚えるだけでは、その活動は追えない。誰が主君を支え、誰が退けられたかを、年ごとに見ていく必要がある。
主君を追い、新たな当主を立てる

畠山家の内紛が続く間に、義続の子・義綱が当主となった。義綱は重臣任せの政治を改め、自らのもとで領国を動かそうとする。永禄年間の初めには争いが一段落し、当主に近い奉行たちが実務を担う体制が整っていった。
かつての七人衆が、そのまま同じ形で権力を握り続けたのではない。続連ら有力家臣は年寄として家中に位置を保ったが、主君の意思を文書にして届ける仕事には、別の家臣も深く関わるようになった。重臣の合議と当主の主導が、時期によって異なる重みを持っていたのである。
永禄9年(1566年)、その均衡が崩れる。遊佐続光、長続連、八代俊盛らが義綱を能登から追い、義綱の子・義慶を新たな当主に据えた。主君の命令を受けるはずの家臣が、主君そのものを交代させた。続連の政治力が最もはっきり見える出来事の一つである。
この政変は、畠山氏を廃して長氏が国主になったという話ではない。重臣たちは畠山家の当主を残し、その人選を変えた。領国を治めるうえで、畠山氏という家の権威はなお必要だった。続連は主家の枠組みの中で力を振るい、その枠組みを自ら組み替える側に立った。
かつて追われた遊佐続光と、この時点では同じ側にいたことも見落とせない。のちの七尾城を知ると、長氏と遊佐氏が初めから一貫して敵だったように見える。しかし家中の対立は、固定した二陣営の争いではなかった。主君との距離、家臣同士の利害、周辺国の動きによって、協力する相手は変わった。
綱連へ移る政務、織田へ伸びる道

元亀年間に入ると、畠山家の政治を担う重臣にも世代交代が見える。長氏では綱連、遊佐氏では盛光が前面に出る。温井景隆、平堯知を加えた四人が、当主のもとで政務を担うようになった。父たちの時代を引き継ぎながら、実際に文書へ名を記す顔ぶれは変わっていったのである。
続連の生涯は、この時点で政治の舞台から完全に消えたわけではない。ただし、その後の長氏の活動をすべて続連個人の判断とみなすこともできない。綱連は独自に役目を負う重臣だった。父子の力を背景に長氏が発言権を持ち、畠山家中の一角を占めたと見るのがよい。
一方、能登の外では大きな勢力が伸びていた。越後の上杉謙信は越中へ影響を及ぼし、織田信長は畿内から北陸へ軍事力を広げていく。畠山家の内紛は、家中だけで解決できる問題ではなくなった。どの勢力と結ぶかが、能登の行方を左右する。
天正3年(1575年)ごろには、長氏が織田方との交渉に関わっていたことがうかがえる。遊佐氏は上杉方との関係を担った。外交の窓口が分かれれば、外の勢力との距離も変わる。主家を同じくする重臣でも、領国を守るために頼る相手は一致しなかった。
ただ、ここから長氏を常に織田一辺倒だったと決めつけることはできない。上杉方へ働きかけた重臣の連署文書にも綱連の名が見える。能登の家臣たちは情勢に応じて関係を結び直していた。その中で続連ら長氏が織田の援助を求め、上杉軍に対抗する選択をしたのが、最後の七尾城攻防だった。
山城を囲んだ上杉軍

七尾城は、山の尾根を利用して築かれた能登畠山氏の拠点だった。現在の七尾市に残る城跡は、山上の曲輪と麓の城下を合わせて広い範囲に及ぶ。高所の守りだけでなく、人と物が集まる城下を持っていたことが、領国の中心としての強みだった。
天正4年(1576年)11月、上杉謙信は七尾城を攻めた。謙信は畠山氏の再興を掲げて能登に介入し、周辺の政治や軍事情勢を動かしていた。長氏が立てこもる七尾城を押さえることは、能登支配の要所を握ることでもあった。
攻防は一度の突撃で終わらない。翌年に謙信が関東方面へ戻ると、城方にも勢いを取り戻す時期があった。だが、夏には上杉軍が再び攻め寄せる。城を囲む圧力が強まり、続連らは外からの救援を必要とした。険しい地形があっても、包囲が続けば城内だけで戦いを完結させることは難しい。
城内では病も広がったと伝えられる。山城の強さは、そこにいる人々が守備を続けられてこそ役に立つ。敵軍を防ぐ地形と、城中で暮らす人々の状態は別の問題だった。後に語られる落城の事情には、軍事的な包囲だけでなく、病と家中の対立が重なっている。
続連は、上杉方に屈するのではなく抗戦する側にいた。だが、同じ城内には異なる道を選ぶ重臣もいた。城壁の外には上杉軍が迫り、内には判断を違える家々がいる。七尾城の行方を決めるのは、山の険しさや兵の数だけではなくなっていた。
城外へ出た三男、宗顓

七尾城を救うため、長氏は織田信長へ援軍を求めた。この使者として城外へ出ていたのが、続連の三男、後の長連龍である。当時はまだ武士として連龍を名乗っておらず、孝恩寺に入った僧で、宗顓と呼ばれていた。
続連の子のうち、綱連は畠山家の政治を担う側にいた。一方の宗顓は、出家した身で救援交渉の役を負う。父子を一つの武将像にまとめると、この違いが見えなくなる。七尾城の中で抗戦する父と兄、城の外で助けを求める弟は、それぞれ別の場所にいた。
宗顓は安土へ向かっていた。城から離れたことが、そのまま命の分かれ目となる。信長に援軍を求める行動は長氏の抗戦方針を支えるものだったが、要請しただけで城が救われるわけではない。軍が動き、北陸を進み、包囲を解くまでには、いくつもの段階があった。
このころ織田方は加賀方面へ軍を進めていた。七尾城の落城と、その後の手取川での戦いは、能登と加賀をめぐる一連の動きに位置づけられる。ただし、加賀へ進んだ軍の行動を、続連が直接指揮したと考えることはできない。続連らが城内で迎える結末と、織田軍の戦いは、場所も時点も分けて見る必要がある。
宗顓が安土へ赴いている間にも、七尾城をめぐる攻防は進んだ。救援は落城に間に合わず、父と兄を失うことになる。だが、使者として城を離れていた宗顓自身は難を免れた。家を救おうとする行動が、結果として長氏の後の歩みにつながったのである。
七尾城の落城、残された長氏

天正5年9月15日、旧暦のこの日、七尾城は上杉方に落ちた。西暦では1577年にあたる。落城に至る過程では遊佐氏の内応があり、続連と綱連ら長氏の一族が命を落とした。城内で上杉軍への抗戦を続けた長氏は、外からの攻撃だけでなく、内側の決裂によって倒れたのである。
七人衆に名を連ね、主君の交代に関わり、子の綱連とともに長氏の地位を保ってきた続連は、ここで生涯を終えた。畠山家の内側で積み重ねた政治力も、上杉軍の進攻と家中の分裂を押し返すには至らなかった。七尾城の落城は、一人の老臣の敗北であると同時に、能登畠山氏の支配を大きく変える出来事だった。
しかし、長氏の血脈と家は途絶えなかった。城外にいた宗顓が生き残り、還俗して武士となる。好連を経て連龍を名乗った彼は、旧領回復へ動き、織田方に属して戦った。のちには前田氏との関係を深め、その家は加賀藩につながっていく。
この後半生は連龍のものであり、続連が成し遂げたことではない。父が築いた地位と、子が落城後に切り開いた道を分けると、両者の役割はかえって鮮明になる。続連の生涯は七尾城で終わる。その名が後世に残った背景には、生き残った家が父祖の記憶を伝え続けたこともあった。
史料の読み解き
長続連を「七尾城で一族とともに滅んだ武将」とだけ捉えると、その前の政治活動が抜け落ちる。七人衆への参加、主君の交代、子への役割の移行、織田・上杉との交渉。落城へ至るまでに、畠山家の政治は何度も姿を変えていた。ここでは、続連の生涯で混同されやすい名前と時期を整理する。
長続連の読み方・生年・家族
長続連の読み方は「ちょう・つぐつら」。旧字体では「長續連」と記される。官途名を添えた「長対馬守」も、史料を探す手がかりになる。生年を特定できる確かな根拠は、今回確認した資料では得られなかった。そのため、本記事では生年と享年を数字で埋めていない。
出自について、川名俊の研究は平氏から長英連の養子となった系譜を取り上げる。ただし実父の名や同時代の人物との同定には検討が残る。養子入りの説明から、少年時代の暮らしや性格までを補うことはできない。家系図に名があることと、活動を記した同時代文書があることは、根拠の種類が違う。
子のうち、長綱連は畠山氏の政務を担い、続連とともに七尾城で没した。三男の長連龍は、出家中の宗顓として救援要請へ出ていたため生き残った。「長氏一族の滅亡」という表現は、城内で多くの家族が失われた意味では使われるが、家の断絶を意味しない。連龍の後の活動を考えれば、この区別は欠かせない。
畠山七人衆は、落城まで同じ七人だったのか
七人衆という呼び名は便利だが、1551年から1577年まで同じ人々が同じ権限を持ったわけではない。川名論文は、年寄や奉行の文書、発給者、署名の並びなどをたどり、時期ごとの政治の仕組みを検討している。それに従うと、七人の合議だけで能登の後半世紀を説明することは難しい。
1551年には七人が連署する文書が見える。その後に遊佐氏・温井氏をめぐる争いが起こり、義綱の時代には当主のもとで実務を担う奉行も働く。 1566年には重臣による当主追放が起き、元亀年間には綱連ら四人が政務の前面に出る。「七人衆から四人衆へ」という人数の変化だけでなく、当主と家臣がどう役割を分けたかが問題なのである。
| 時期 | 畠山家中の動き | 続連・長氏を見る手がかり |
|---|---|---|
| 1550〜1551年 | 七頭の乱を経て七人の合議が見える | 寺領寄進の連署文書に続連の名がある |
| 1553年以降 | 遊佐氏の追放などで重臣の構成が変化 | 七人を不変の集団とみなせない |
| 永禄初年 | 義綱のもとで奉行による政務が進む | 続連ら年寄と実務担当を分けて見る |
| 1566年 | 義綱を追放し、義慶を当主に立てる | 続連も政変を起こす側にいた |
| 元亀年間以降 | 綱連・遊佐盛光ら四人が前面に出る | 父と子の活動を同一視しない |
続連を忠義一筋の老臣として描くと、主君追放に関わった事実が説明しにくくなる。逆に、私欲だけで主家を壊した人物と断じても、その動機を証明できない。確かめられる政治上の行動を先に置き、人物への評価はそこから考える順序が必要だ。
なぜ信長に援軍を求めたのか
続連ら長氏は、七尾城攻防の中で上杉軍に抗し、織田方の援助を求めた。能登の城内だけで包囲を解けないなら、外に軍事的な助けを求めることになる。この局面で長氏が頼った相手が、北陸へ勢力を広げていた信長だった。
ただし、これを「続連は昔から信長の家臣だった」と言い換えてはいけない。畠山家の重臣として織田方と交渉すること、救援を要請すること、織田家の家臣となることは、それぞれ別の関係である。続連の立場を説明する本記事の代表所属は、能登畠山氏としている。
長氏と遊佐氏の外交上の役割にも注意したい。川名論文は、長氏が織田方、遊佐氏が上杉方との交渉を担った動きを捉える一方、1576年の上杉方への働きかけには綱連も加わっていたことを示す。外交担当の違いを、何十年も変わらない思想や忠誠の違いに置き換えることはできない。家中の対立と対外関係は絡み合い、その結び方は時期ごとに変わった。
落城後、織田軍と上杉軍の衝突は手取川の戦いへ続く。同記事で扱う加賀方面の軍事行動は、七尾城の救援を考えるうえで重要である。しかし続連はすでに死去しているため、手取川で戦った武将としては扱わない。前後の出来事をつなぐことと、別の合戦へ本人を参加させることは違う。
七尾城で内応したのは遊佐続光か、盛光か
七尾城の最期を読む際には、遊佐氏の名前にも注意が要る。『福井県史』や金沢市立玉川図書館近世史料館の展示解説は、遊佐続光による内応という形で説明している。広く知られる物語も、この人物名で語られることが多い。
一方、川名論文は、落城期の「遊佐美作守」を盛光と同定し、当時の遊佐氏の活動を検討する。そこには、父の続光から子の盛光へ、誰が家の役割を引き継いだのかという問題がある。続光の存否についても推定を含むため、単純に名前だけ置換して一つの断定にすることは避けたい。
| 説明 | 参照先 | 本記事での扱い |
|---|---|---|
| 遊佐続光が内応した | 福井県史・近世史料館展示解説 | 公的解説に見える従来の説明として紹介 |
| 落城期の遊佐美作守を盛光とみる | 川名俊の研究 | 文書と世代交代を踏まえた研究上の同定として紹介 |
| 遊佐氏の内応で長氏が倒れた | 両者を比較した叙述 | 生涯の本文では家名で示し、個人名の問題をここで説明 |
これは、誰が続連を直接斬ったかを確定する議論ではない。内応の主体を特定することと、殺害の現場を再現することは別である。続連が落城時に没したという大枠は保ちつつ、個人の行動が不明な部分を残す方が、史料に忠実な説明になる。
疫病・内応・救援の遅れをどう分けるか
国土交通省の七尾城跡解説は、包囲下の病と内応、救援が間に合わなかった事情を伝える。これらは、互いに排他的な原因ではない。軍が城を囲むこと、人々が病むこと、家臣が相手方へ通じることが、同じ攻防の中で重なる。
ただし、確認した解説から病原体を特定したり、続連自身の死因を病死としたりはできない。城内で病が流行したことと、ある人物が何によって死んだかは別の主張である。続連は落城に伴う長氏殺害の中で没したと説明し、医学的な病名や細かな最期は補わない。
一族の犠牲者数も同様だ。後世の記録に数字が伝わっていても、誰を一族に数え、家臣を含むのかまで確かめなければ、厳密な人数としては扱いにくい。本記事では「続連・綱連ら長氏の一族が命を落とした」とし、数の大きさで悲劇を強調することを避けている。
日付の読み方にも一つ注意がある。天正5年9月15日は旧暦の日付であり、現在のカレンダーの1577年9月15日と同じ日ではない。戦国期の出来事を月日で並べるときは、どの暦による表記かをそろえる必要がある。このページでは和暦の月日を用い、現代の暦への換算日は併記していない。
家譜は何を伝え、何を確かめる必要があるか
続連の晩年を詳しく語る資料には、長家に伝わった記録が関わっている。金沢の展示解説と石川県の文化財説明は別々の機関の文章だが、背景に同じ家の伝承が含まれる可能性がある。二つのウェブページに同じ説明があるだけで、二人の独立した目撃者が証言したことにはならない。
一方、当時出された連署状は、その時点で誰が政治に関わったかを知る手がかりになる。後世の家譜は、家が父祖の経歴をどう整理し、誰との結びつきを示そうとしたかを伝える。どちらかを一括して捨てるのではなく、確かめたい事柄に応じて使い分ける。政治上の役職を知りたいときと、後世の家の記憶を知りたいときでは、読み取るものが違う。
七尾の地域史サイトには関係文書の翻刻が掲載されており、続連の名を具体的に追う助けになる。ただし、翻刻を読むことは原本を実見したことではない。『棘林志』に関する国立国会図書館のレファレンス事例も、原文確認の難しさを示す照会である。本記事では、そこで紹介された記述を原本確認済みの史実として格上げしていない。
続連の名は、七尾城の落城を語る物語の中に強く残った。だが文書をさかのぼると、領国の政治を担い、主君の交代にも関わった長い活動が見える。落城の一場面だけで評価を決めず、その前に何をしていたかまで追うことが、この重臣を知る道になる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 続連が畠山家の七人衆に名を連ねた | 高 | 1551年の連署文書を検討した川名論文 |
| 1566年の義綱追放に関わった | 高 | 畠山氏の権力編成を検討した研究 |
| 1577年の七尾城落城で続連・綱連が没した | 高 | 県の文化財説明・近世史料館の展示解説 |
| 宗顓、後の連龍が救援要請で城外にいた | 中〜高 | 公的解説で一致するが、長家伝来の記録との関係も考慮 |
| 内応者を続光個人と断定できる | 留保 | 従来の解説と、盛光を同定する研究に違いがある |
| 生年・享年、最期の会話や直接の殺害者を特定できる | 低 | 今回の確認資料では確定できない |
長続連の逸話
- 逸話 01
合戦の武勇より、連署の名を読む

文書を前にする長続連の創作イメージ · AI生成イメージ 続連の力を知る手がかりは、派手な一騎討ちだけにあるのではない。天文20年(1551年)の興臨院への寄進文書には、続連を含む重臣の名が並ぶ。そこから見えるのは、主家の決定を共同で支える政治上の立場である。文書一通の署名が、城内での席次や発言力を考える入口になる。
天文22年(1553年)12月の年寄衆連署奉書にも続連の名がある。戦いの経過を伝え、領内の相手に働きかける文書だ。しかし、そこに署名したことと、記される戦果を続連自身が挙げたことは同じではない。連署者は情報を発し、主家の方針を伝える側にいた、とまず読むべきである。
古い合戦記事には大きな人数が記されることもある。数字をそのまま足し合わせ、続連個人の武勇に置き換えると、文書が語る範囲を越えてしまう。誰が書き、誰へ送り、何を相手に認めさせようとしたのか。そこを確かめると、続連は単なる豪傑ではなく、政治と軍事の双方を文書で動かす重臣として見えてくる。
- 逸話 02
信長の朱印状、その宛先は連龍

対面の席に座る長続連の創作イメージ · AI生成イメージ 長続連は対馬守の官途名で知られる。一方、石川県が文化財として紹介する織田信長朱印状の宛先は、長九郎左衛門尉、すなわち子の連龍である。この手紙は天正7年(1579年)のものと推定され、続連が七尾城で没した後にあたる。
同じ長氏へ信長が出した文書だからといって、続連宛ての手紙と紹介することはできない。宛名、年代、名乗りを組み合わせると、父の時代と子の時代が切り分けられる。続連の織田方への救援要請と、連龍がその後に織田方で活動したことはつながっているが、証拠となる文書はそれぞれ別である。
また、対馬守という名は、対馬を実際に支配した証拠ではない。戦国武将の官途名を、そのまま領地の地図に置いてはいけない。続連を探すときは「長続連」「長續連」「長対馬守」を合わせて調べ、同じ官途を用いる別人がいないかも確かめる。名前の揺れを拾うことと、人物を混同しないことは、両方が必要になる。
- 逸話 03
家を伝える記録と、兄を弔う寺

長氏の追憶を表す創作イメージ。続連自身の特定の参詣を描いたものではない · AI生成イメージ 続連の家を伝えたのは、生き残った連龍とその子孫だった。金沢市立玉川図書館近世史料館の展示解説によると、寛文7年(1667年)、連龍の子・連頼は長家先祖書を提出した。家の由緒を説明するための記録であり、前田家との関係を示す意図もあった。
それより後の先祖由緒書や家譜では、長氏の過去がさらに詳しく語られる。詳しいから古い出来事をそのまま映している、とは限らない。家が残した記憶は貴重だが、編まれた時代と目的を読み取る必要がある。展示解説も、記述の違いや吟味の必要性に触れている。
家族を弔う記憶は寺にも残った。悦叟寺についての宗務所の案内は、長氏一族の菩提のために堂宇が再建され、連龍の兄・綱連の法号にちなむ寺名になったと伝える。これは父の最期の場面を直接証言する史料ではない。それでも、七尾城で失われた家族を、残った者がどのように記憶したかを知る手がかりになる。
関連人物
- 長綱連
- 長連龍
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 川名俊「能登畠山氏の権力編成と遊佐氏」『市大日本史』24、2021年、25–44頁大阪市立大学日本史学会参照日 2026-10-25
- 令和3年度春季展「長連龍と前田家」展示解説金沢市立玉川図書館近世史料館参照日 2026-10-25
- 織田信長朱印状石川県参照日 2026-10-25
- 史跡七尾城跡七尾市参照日 2026-10-25
- 『福井県史』通史編3 近世一「上杉軍・加賀一向一揆との戦い」福井県参照日 2026-10-25
- 七尾城跡(多言語解説)国土交通省参照日 2026-10-25
- 能登の人物・長続連(関係文書の翻刻を掲載)七尾の歴史(個人運営)参照日 2026-10-25
- 『棘林志』に記された七尾城と義続に関する照会国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-25
- 瑞松山悦叟寺曹洞宗石川県宗務所参照日 2026-10-25







