メインコンテンツへスキップ
戦国時代尼子家(新宮党)15531578
尼子勝久|上月城に散った尼子再興の旗印の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
尼子再興運動山中鹿介新宮党
あまこ・かつひさ

尼子勝久|上月城に散った尼子再興の旗印

AMAKO KATSUHISA · 1553 — 1578 · 享年 26
尼子
生年
天文22年
1553
没年
天正6年
1578・享年26(数え・1553年説に依る)
出身
出雲国(新宮谷)
居城
上月城
播磨・在番
家紋
平四つ目結
FOUR EYES

尼子勝久は、出雲尼子家の支族新宮党の血を引き、新宮党粛清の難を逃れて京都東福寺で僧として養育された後、永禄十一年(1568年)頃に山中鹿介幸盛らに迎えられて還俗し、尼子家再興運動の旗印として担ぎ出された若き当主である。十七歳から始まった戦いを九年間続け、天正六年(1578年)に播磨上月城で毛利大軍に包囲され、織田信長の救援放棄により数え二十六歳で自刃した(勝久の自害は7月3日、上月城そのものは同月5日に開城・落城したと佐用町公式は伝える)。

その尼子家再興運動とは、永禄九年(1566年)の月山富田城落城によって本家系が事実上崩壊した出雲尼子家を、旧臣たちが勝久を旗印に再興しようとした十年弱の運動を指す。永禄十一年(1568年)頃に始まり、翌十二年の隠岐進入から始まる出雲奪還運動・山陰諸国転戦・織田信長への帰順を経て、天正六年(1578年)の上月城落城で終わる。山中鹿介幸盛が実質的な指導者であり、勝久はその正統性の象徴だった。本家系の義久・倫久・秀久は1566年の降伏後に毛利の客分として幽閉されていたため、再興派が自由に旗印として担ぎ得る尼子一門は、この勝久に絞られていたのである。

その最期となった上月城の戦い(1578年4〜7月)における信長の救援放棄については、しばしば「信長による上月城の見殺し」と語られる。結果として救援は来なかった——これは事実である。ただし、より厳密に言えば、東播磨で別所長治が織田から離反し、その居城・三木城を放置すれば中国攻め全体が破綻する状況だった。信長は秀吉に三木城攻略を優先せよと命じ、上月の救援は事実上断念された。戦略上の選択として説明できる判断であって、勝久個人を見限ったわけではない、と見るのが現在の有力な見方である。それでも、最前線に押し出された側にとって、これが「見殺し」と受け取られる結果となったこともまた、否定しがたい事実である。

01東福寺TOFUKUJI

京都の禅寺に隠された尼子の血

京都東福寺に隠された尼子の血
京都東福寺に隠された尼子の血

尼子勝久は天文二十二年(1553年)、出雲国の名門・尼子氏の支族「新宮党」の家に生まれたと伝わる(1554〜1555年説も並存しており、年齢に関わる本記事の記述は1553年説に依る)。父は尼子誠久。新宮党とは、出雲尼子家中興の祖・尼子経久の次男・国久を首領とし、その嫡子で党の中核だった誠久ら一族で構成された、出雲国新宮谷(現・島根県安来市)を本拠とする尼子最有力の支族である。武勇に優れた一団として知られ、尼子家中における存在感は本家に迫る勢いを持っていた。

ところが、勝久が生まれた翌年の天文二十三年(1554年)、出雲尼子氏は内紛に大きく揺れる。当主・尼子晴久が、家中で独立的勢力となっていた新宮党を粛清したのである。首領・国久と、その嫡子で党の中核だった父・誠久をはじめ、新宮党の主だった者は次々と討たれた。新宮党は事実上、滅亡した。家中の派閥争いが、一族をまるごと滅ぼした事件であった。

乳幼児の勝久は、辛うじてこの惨禍を逃れた。旧臣の手で京の都へ運ばれ、京都の名刹・東福寺の僧として養育されたと諸書は伝える。新宮党の血を絶やさぬための、苦渋の選択であった。少年は俗名を捨て、墨染衣の中で経を読み、出雲のはるか東の地で静かに育つことになる。家の悲劇を背負わされた幼子に、ほかに生きる道は残されていなかった。

そして永禄九年(1566年)、本家の月山富田城が毛利元就に攻め落とされ、出雲尼子氏は事実上崩壊する。当主・尼子義久ら本家の兄弟は降伏のうえ毛利の客分として幽閉されたが、独立した戦力としては息を絶たれた。再興派が旗印として担ぎ得る尼子一門は、もはや京都東福寺の若き僧、その存在に絞られていたのである。新宮党粛清で命脈を絶たれたはずの血が、ここで再び歴史の焦点として浮かび上がる。
02還俗RETURN TO LAITY

尼子家再興の旗印として担ぎ出される

山中鹿介らに擁立され還俗する勝久
山中鹿介らに擁立され還俗する勝久

永禄十一年(1568年)頃、京都東福寺の門を叩く者があった。山中鹿介幸盛——出雲尼子家の旧臣にして、滅亡後も諦めず再興を志し続けた中老格の武将である。鹿介に同道していたのは、立原久綱ら同じく旧尼子遺臣の有力者たちだった。彼らは諸国を巡り、ようやくこの東福寺の若き僧にたどり着いたのである。

鹿介らの願いは、ただ一つだった。「お家を継いでください」。新宮党の遺児として育てられた若き僧こそ、再興派が旗印として担ぎ得る尼子一門だった。本家の義久らは毛利の幽閉下にあって再起の自由を奪われており、運動の象徴に立てられるのはこの若き僧をおいて他になかった。だが、再興の旗印になるということは、僧衣を脱ぎ捨て、刀を取り、命を懸けるということを意味する。京都の禅寺の静かな日々を捨てて、毛利という大敵を相手に戦い続ける道へ踏み出すという決断であった。

若き勝久は、応じた。墨染衣を脱ぎ、髻を結い、武士の装束に改めて還俗する。尼子孫四郎勝久と称したと伝わる(主要辞典・地誌に共通する通称は「孫四郎」である)。年齢はおよそ十七歳。経のかわりに兵書を、念珠のかわりに刀を握る生活が、ここから始まった。十五年余を寺の中で過ごした若者にとって、それは過酷な転身であった。

旧尼子の遺臣たちは諸国に散在していた。鹿介ら有力者の檄に応じて、彼らは続々と勝久のもとに集まり始める。翌永禄十二年(1569年)、京を発した一行は隠岐を経て出雲奪還へと向かった。かつての主家の血を継ぐ若者を旗印に、尼子再興運動の戦さがついに始まったのである。還俗の決断こそが、勝久の九年に及ぶ戦いの幕開けであった。京の禅寺の少年は、ここで戦国武将としての第一歩を踏み出した。

03奪還RECONQUEST

隠岐から出雲へ、奪い返す日々

隠岐から出雲北部諸城の奪還運動
隠岐から出雲北部諸城の奪還運動

永禄十二年(1569年)の隠岐進入から元亀元年(1570年)にかけて、勝久と鹿介ら尼子再興軍は出雲奪還運動を急速に展開した。一行はまず隠岐諸島に渡って軍勢を整え、海路で出雲沿岸に上陸する。末次城・新山城・福山城といった出雲北部の諸城を、瞬く間に一時奪回したと伝わる。電撃的な復活劇であった。

この急進撃を支えたのは、出雲国内に潜伏していた旧尼子の郎党たちだった。勝久という旗印が立ったことで、各地に身を潜めていた旧家臣・地侍たちが続々と糾合する。とはいえ完全な支配というより、旧臣・国人勢力を巻き込んだ流動的な争奪戦であって、奪った城を恒久的に押さえ続けたわけではない。再興軍は一時、後世の軍記類が「数千の兵力」と語るほどに膨らんだとされる。具体的な人数は史料により異同があるが、出雲国内に潜んでいた尼子党の厚みが、運動拡大の地力であったことは間違いない。

標的は当然、出雲尼子の象徴的本拠であった月山富田城である。再興軍は富田を望む地点まで進出し、毛利方が在番していた城に圧迫を加える態勢を整えた。京の禅寺で育った若き当主のもとで、尼子の旗が出雲の地に再び翻る——その光景は、わずか数年前まで滅亡したと思われていた一族にとって、奇跡的な復活であった。出雲の旧臣たちにとって、勝久の旗は何年も待ち続けた希望そのものであった。

この時点で勝久と鹿介たちは、出雲奪還の現実的な可能性を確かに手にしていた。問題は、彼らに与えられた時間が、思っていたよりずっと短かったということである。毛利元就という戦国屈指の智将を相手にした再興運動は、わずかな油断も許されなかった。
04布部山FUBESAN

毛利の反攻に布部山で敗れる

布部山の敗北と出雲からの撤退
布部山の敗北と出雲からの撤退

尼子再興軍の急速な拡大に、毛利氏は本格的に対応する。元亀元年(1570年)正月毛利元就の意向のもと、孫の輝元と二人の息子・吉川元春小早川隆景らが大軍を率いて、出雲奪還運動の鎮圧に乗り出した。中国地方の覇権を確立しつつあった毛利にとって、尼子再興は決して放置できない脅威であった。

決戦は元亀元年二月十四日、月山富田城近郊の布部山(ふべやま)で行われたと伝わる。尼子再興軍はここで毛利本軍と激突するが、結果は尼子方の大敗であった。野戦力に勝る毛利軍の前に、再興軍は支えきれず崩れ、出雲北部で奪い返した諸城も次々と毛利方に奪い返されていった。短期間で築いた優勢が、一日の合戦で逆転したのである。

この布部山の敗北は、月山富田城奪回の夢を実質的に断ち切った。勝久と鹿介たちは出雲からの撤退を余儀なくされ、戦場は出雲を離れて伯耆・因幡・但馬の山陰諸国へと移っていく。だが、彼らは諦めなかった。旗印は、まだ折れていなかった。出雲を失っても、勝久という血と鹿介という意志がある限り、運動は続けられる——彼らはそう信じた。

毛利の追討は厳しかったが、再興軍は山陰の険しい地形を活かしてゲリラ的に戦い続ける。鳥取城を一時影響下に置いたり、若桜鬼ヶ城に拠点を構えたりしながら、決して一つの場所に縛られなかった。出雲を失っても、勝久と鹿介は「尼子の旗」を抱えて十年近くを諸国に流浪する。それは戦国史上きわめて稀な、執念の遠征であった。少なくとも、現実的な勝算が見えなくなった後も信念で戦い続けた者たち、として彼らは歴史に刻まれることになる。

05帰順ALLEGIANCE

織田信長の中国攻めに合流する

織田信長の中国攻めに合流する勝久
織田信長の中国攻めに合流する勝久

天正二〜四年(1574〜1576年)にかけて、勝久と鹿介ら尼子再興軍は山陰諸国を転戦し続けた。因幡国では一時的に鳥取城を影響下に置いたものの、毛利の圧力で長く保持できず、但馬・播磨方面へと流浪を続けた。各地で味方を募り、合戦に勝ち、また負け、再び戦う——尼子の旗を絶やさぬための日々であった。京の禅寺で育った若き当主は、二十代前半の体力を、ひたすら山陰の山野に費やしていた。

じつは織田信長を頼ろうとする動き自体は元亀二年(1571年)頃から伝わっており、勝久と鹿介らが「中央の天下人」を背景にしようとする選択肢は、布部山以後、繰り返し模索されてきた。だが転機が現実化するのは**天正五年(1577年)**である。織田信長が中国地方の攻略を本格化し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が中国方面軍の総指揮を委ねられたのである。秀吉の進軍は、毛利と戦い続けてきた勝久たちにとって、最大の援軍の到来であった。これまで孤立して戦ってきた尼子の旗が、ついに天下一統を志す巨大勢力と結びつく機会が訪れた。

勝久と鹿介らは、信長の中国攻めに合流する道を選ぶ。彼らの直接の主君は織田信長であり、戦場での指揮は中国方面軍司令官である秀吉に委ねられる与力的立場となった。京の禅寺で育った若者が、十五年余の流転を経て、ついに天下人・信長の旗のもとで尼子再興の最後の賭けに出ることになる。流浪の九年が、ようやく一つの方向性を得た瞬間でもあった。

長く西の毛利相手に孤軍奮闘してきた尼子の旗は、ここで初めて、強大な後ろ盾を得た。そして彼らに与えられた任務は、播磨方面の最前線・上月城であった。信長と毛利が雌雄を決する最前線に、勝久たちは押し出されることになる。それは尼子再興の最大の好機であり、同時に最大の危機でもあった。

06上月城KOZUKI CASTLE

播磨の山城に立てこもる

上月城に在番する尼子再興軍
上月城に在番する尼子再興軍

天正五年(1577年)十二月三日、羽柴秀吉は播磨の上月城を攻め落とした。播磨と備前の境に位置する険しい山城で、毛利・宇喜多方の重要拠点であった。秀吉はこの城を勝久・鹿介ら尼子再興軍に在番として与えたのである。十五年の流浪に対する、いわば信長からの賜物であった。

勝久にとって、十五年余の流転の末に得た自身の城であった。京都東福寺の少年が、ここに来てついに城主としての立場を得たのである。播磨の山中とはいえ、それは尼子再興運動が初めて手にした現実の拠点だった。鹿介ら旧臣たちと、ここから出雲奪還の次の機会を狙う——その夢は、確かに勝久たちの胸にあった。流浪の旗印が、ようやく根を下ろせる土地を得たのである。

しかし、それを許す状況ではなかった。明けて天正六年(1578年)四月、毛利方は本格的に上月城を取り戻すべく動き出す吉川元春小早川隆景を主将とする毛利の大軍が上月を囲んだ。後世の軍記類は包囲軍の総数を約三万と伝えるが、これは規模感の伝承であって厳密な兵力数ではない。いずれにせよ、籠城兵を圧倒する規模の大軍であったことは間違いない。

千数百ともいわれる尼子方の籠城兵は、圧倒的な大軍に四方を塞がれた。だが、勝久は降伏しなかった。彼の背後には、織田信長と羽柴秀吉という強大な後ろ盾があるはずだった。救援が来るまで耐え抜けばよい——そう彼らは信じていた。九年の流浪で培われた執念が、ここでも籠城を支えていた。
07落城THE FALL

信長は別所を、秀吉は三木を選んだ

上月城落城と勝久の最期
上月城落城と勝久の最期

上月城を毛利大軍が囲んだ天正六年(1578年)四〜五月、播磨ではもう一つの大事件が起きていた。東播磨の名門・別所長治が、織田方から離反して毛利方についたのである。別所の居城・三木城は秀吉の進軍ルートの中央に位置し、これを放置すれば中国攻めの兵站が崩壊する。播磨の支配が崩れれば、信長の天下統一戦略そのものが危うくなる事態であった。

この事態を受けて、信長は秀吉に対し「上月城救援」より「三木城攻略」を優先せよと命じたとされる。後世しばしば「信長による上月城の見殺し」と語られる場面である。だが、より厳密に言えば、これは戦略上の選択として説明できる判断であった。播磨の支配が崩れれば中国攻め全体が破綻する。より重い方を取らざるを得なかったということでもある。信長個人の冷淡さの問題というよりは、戦況の中で説明し得る選択であった、と見るのが穏当である。

秀吉軍は六月、上月城の救援を断念して三木城方面に転戦する。勝久らは見捨てられた——少なくとも結果としてそうなった。包囲の中で食糧は尽き、援軍の望みも絶たれた。七月三日、勝久ら尼子一族は籠城のなか自害したと伝わる。残された城そのものは同月五日に開城・落城したと、佐用町公式の解説は記している。九年間絶やさずに掲げてきた尼子の旗を、ついに降ろす日であった。

開城の条件は、勝久ら一族の命を差し出すことであった。勝久を中心に氏久・通久らが自害したと伝わる(軍記類によっては豊若丸や神西元通の名も挙がり、自害者の構成には異同がある)。籠城した将兵の命は助けられた。同時に山中鹿介幸盛は捕縛され、毛利方へ護送される途中、備中国・高梁川の阿井(合)の渡しで殺害された。九年を共にした主従は、ほぼ同時に歴史の舞台から去ったのである。

享年は数え二十六京都東福寺の少年が出雲再興の旗印として担ぎ出されてから、わずか九年の物語であった。勝久は名門尼子の血を最後の最後まで武士として担い切った。その短い生涯は、戦国の中でも稀な「義に殉じた若き当主」として、後世の軍記類に深く刻まれることになる。