
福島正則|賤ヶ岳七本槍筆頭と広島藩改易
「城を直したることが咎ならば、咎を負い申す(後世に伝わる述懐)」
- 01秀吉母方の縁戚として尾張に生まれる
- 02賤ヶ岳七本槍筆頭の戦功
- 03伊予今治11万3千石と朝鮮出兵
- 04武断派の旗頭として三成と対立
- 05関ヶ原本戦 — 東軍先鋒として宇喜多隊と激突
- 06安芸広島藩主と豊臣恩顧の旗頭
- 07広島城無断修築事件と信濃高井野への配流
秀吉母方の縁戚として尾張に生まれる

秀吉が若き日の正則を評した言葉と後世伝わる(一次史料未確認)「市松、武勇は天下一なり。」
賤ヶ岳七本槍筆頭の戦功

改易処分に対する正則の述懐と後世伝わる(一次史料未確認)「城を直したることが咎ならば、咎を負い申す。」
伊予今治11万3千石と朝鮮出兵

「我らは秀吉公の子飼いなり。」
武断派の旗頭として三成と対立

関ヶ原本戦 — 東軍先鋒として宇喜多隊と激突

安芸広島藩主と豊臣恩顧の旗頭

広島城無断修築事件と信濃高井野への配流

参戦合戦
福島正則|賤ヶ岳七本槍筆頭と広島藩改易の逸話
- 01
賤ヶ岳七本槍 — 拝郷家嘉討取の戦功

天正十一年(1583年)四月二十一日、賤ヶ岳の戦いの大詰めで、福島正則は柴田勝家方の勇将・拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る大武功を挙げたと伝わる。拝郷家嘉は越前一乗谷時代から朝倉家に仕えた古参の武士で、柴田家中では中堅の戦闘指揮官だった。賤ヶ岳の急襲戦では拝郷隊が柴田軍の側面を支える役割を担っていたとされ、その指揮官を討ち取った正則の武功は、戦局全体を秀吉軍有利に転じさせる決定打となった。戦後の論功行賞で、正則は五千石を加増された。これは「賤ヶ岳七本槍」と称される七名の中で最高額の加増であり、加藤清正の三千石を上回る評価だった。二十三歳の正則にとって、この一戦は秀吉子飼い武将筆頭の地位を確立する決定的な瞬間であり、以後の関ヶ原・広島藩主時代に至るまで、正則の経歴の起点として常に語り継がれることになる。賤ヶ岳七本槍は正則の生涯を通じての最大の名誉であり、改易後も「七本槍の正則」という呼称は失われることがなかった。
- 02
「日本号」呑取りの逸話

「日本号(にほんごう)」と呼ばれる名槍にまつわる正則の逸話は、『黒田家譜』など江戸期に編まれた家史に伝わる。あるとき正則は黒田長政の家臣・母里友信(もり とものぶ、別名・母里太兵衛)と酒席を共にした。豪酒で知られた正則は、自慢の大杯に酒を満たして「飲み干せたなら何でも望むものを与える」と挑発したという。母里友信は見事に飲み干し、褒美として正則秘蔵の名槍「日本号」を所望した。正則は約束に従い、しかし内心では惜しみつつ「日本号」を友信に与えた。「日本号」は名物槍として正則の手元に伝わっていたが、確実な伝来としては「正則から母里友信(黒田家)へ渡った」とする部分にとどめるのが妥当である(それ以前の長い伝来経路には諸説あり、福岡市博物館も母里友信が福島正則から手に入れたと説明している)。槍を一席の酒で失ったことは正則の酒癖の悪さを後世に強く印象づけた。なお、この逸話は『黒田家譜』『黒田武士節』など江戸期の黒田家史料に多く取り上げられたもので、後世の脚色も含む可能性がある。槍を「呑み取った」のは母里友信側で、正則は飲ませた側であり、正則本人の武勇譚というよりは武断派の豪放な気風を象徴する伝承として語り継がれている。「日本号」は後に黒田家に伝わり、現在は福岡市博物館に所蔵されている。
- 03
広島城無断修築事件と改易の真相

元和五年(1619年)の広島城無断修築事件は、徳川幕府による豊臣恩顧大名整理政策の象徴的な事例として歴史に残る。前年の大水害で広島城の石垣・櫓は深刻な被害を受け、正則は応急修築の必要に迫られた。幕府への届出は出されたものの、内容や手続に不備があったとされ、武家諸法度第六条「居城修補の届出義務」違反として問題視された。元和元年(1615年)に発布されたばかりの武家諸法度を、有力外様大名に対して適用する初期の事例として、幕府は厳格な姿勢で臨んだ。同年六月、正則の改易が決定し、安芸・備後四十九万八千石を没収のうえ、信濃高井野四万五千石への減転封となった。この処分には複合的な背景があり、嫡男・忠勝の早世による後継体制の脆弱さ、大坂の陣での江戸詰めという微妙な立場、豊臣恩顧大名の代表格として幕閣に与える影響力への警戒など、正則個人の問題を超えた政治的要因が絡んでいたとされる。「城を直したることが咎ならば、咎を負い申す」と最後まで修築の正当性を主張した正則の述懐は、徳川幕府体制下で豊臣恩顧の大大名が没落していく時代の転換を象徴する言葉として後世に伝わっている。
家系図
関連人物
所縁の地
- 広島城広島県広島市中区
毛利輝元が天正17年(1589年)から築き、関ヶ原戦後に正則が受領して安芸・備後49万8千石の本城とした近世城郭。元和5年(1619年)の無断修築事件により正則は改易され、後は浅野家が継承。原爆被害後に天守が外観復元され、国の史跡に指定されている。
- 今治城跡愛媛県今治市通町
天正18年(1590年)に正則が伊予今治11万3千石を与えられた際の居城(旧城)の地。後に藤堂高虎が築城名人として現在残る今治城を本格築城する。瀬戸内海の要衝・芸予諸島を扼する戦略拠点で、朝鮮出兵時の補給基地としても重要な役割を担った。
- 菅谷不動尊長野県上高井郡高山村
改易後の正則が信濃高井野4万5千石の領地内に庇護した不動尊で、晩年の正則ゆかりの寺社として伝わる。寛永元年(1624年)に正則が没した地で、近隣には正則の墓所も伝えられ、改易大名の最晩年を偲ばせる場として参拝者が訪れる。
- 岐阜城跡岐阜県岐阜市金華山
慶長5年(1600年)8月23日の岐阜城攻略で、正則が東軍先陣として池田輝政らとともに一日で陥落させた美濃の要衝。織田秀信(信長嫡孫)の籠城を破った戦果は、関ヶ原本戦に先んじて美濃を制圧する流れを決定づけた。国の史跡に指定。
- 賤ヶ岳古戦場滋賀県長浜市木之本町
天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いの古戦場跡。正則が拝郷家嘉を討ち取り5千石加増の戦功を挙げ、後世「賤ヶ岳七本槍」と称される七名の名声の起点となった地。古戦場には記念碑や合戦地図の説明板が設置され、賤ヶ岳七本槍を偲ばせる聖地となっている。




