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安土桃山〜江戸初期福島家15611624
福島正則|賤ヶ岳七本槍筆頭と広島藩改易の肖像
東京国立博物館蔵(伝)
賤ヶ岳七本槍豊臣関ヶ原東軍
ふくしま・まさのり

福島正則|賤ヶ岳七本槍筆頭と広島藩改易

FUKUSHIMA MASANORI · 1561 — 1624 · 享年 64

城を直したることが咎ならば、咎を負い申す(後世に伝わる述懐)

福島
生年
永禄4年
1561
没年
寛永元年
1624
出身
尾張海東郡
愛知県あま市
石高
49万8千石
安芸広島(改易前)
家紋
三つ盛り亀甲に花菱
MITSU-MORI KIKKO
CONTENTS · 七章
  1. 01秀吉母方の縁戚として尾張に生まれる
  2. 02賤ヶ岳七本槍筆頭の戦功
  3. 03伊予今治11万3千石と朝鮮出兵
  4. 04武断派の旗頭として三成と対立
  5. 05関ヶ原本戦 — 東軍先鋒として宇喜多隊と激突
  6. 06安芸広島藩主と豊臣恩顧の旗頭
  7. 07広島城無断修築事件と信濃高井野への配流
01
出生
BIRTH

秀吉母方の縁戚として尾張に生まれる

尾張海東・幼年期の市松
尾張海東・幼年期の市松
永禄四年(1561年)、福島正則は尾張国海東郡二寺村(ふたつでらむら、現・愛知県あま市)に生まれた。父は福島正信(桶屋を営んだとされる)、母・松雲院は羽柴秀吉の生母なかの妹にあたるとする系譜があり、正則と秀吉は従兄弟(いとこ)の関係にあたるとされる(広島市公式『広島の歴史』にも従兄弟と記載)。幼名は「市松」。母方の縁から幼少期に秀吉のもとへ預けられ、加藤虎之助(後の清正)と並ぶ秀吉子飼い少年武将として養育された。秀吉の正室・寧々(北政所)の手元で育てられたとも伝わり、市松と虎之助は兄弟同然の間柄として、ともに天下統一事業に参加していくことになる。元服後は左衛門大夫を称し、長浜城主時代の秀吉の小姓組として戦場経験を積み始めた。秀吉が織田信長の中国攻めで播磨・備中方面を任される時期に正則も従軍し、播磨三木城攻めや備中高松城攻めなどで実戦経験を重ね、二十歳前後で武将としての基礎を固めていった。
秀吉が若き日の正則を評した言葉と後世伝わる(一次史料未確認)

「市松、武勇は天下一なり。」

02
賤ヶ岳
SHIZUGATAKE

賤ヶ岳七本槍筆頭の戦功

賤ヶ岳の戦い・拝郷家嘉討取
賤ヶ岳の戦い・拝郷家嘉討取
天正十一年(1583年)四月、近江賤ヶ岳(現・滋賀県長浜市)にて、織田信長の後継をめぐり羽柴秀吉と柴田勝家が対峙した戦いに、正則は二十三歳で参陣した。柴田方の勇将・拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る大武功を挙げたと伝わり、秀吉から五千石を加増された。後世「賤ヶ岳の七本槍」と称される七名は正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元とされ、正則の五千石は七本槍中最高額だった。加藤清正の三千石加増を上回る論功は、正則の戦場での突出した働きを示すもので、以後、秀吉子飼い武将筆頭としての地位を確立する転機となった。賤ヶ岳での勇戦により、正則の名は天下に知られるようになり、秀吉の天下統一事業の主軸を担う武将として、九州征伐・小田原攻め・朝鮮出兵と最前線に立ち続けることになる。なお「七本槍」という呼称自体は江戸期に整理された呼び名であり、当時の文書で必ずしも七名固定とは限らない点には留意が必要である。
改易処分に対する正則の述懐と後世伝わる(一次史料未確認)

「城を直したることが咎ならば、咎を負い申す。」

03
伊予今治
IYO

伊予今治11万3千石と朝鮮出兵

今治の海・五番隊渡海
今治の海・五番隊渡海
天正十三年(1585年)ごろから天正十五年(1587年)にかけて、正則は伊予国今治(現・愛媛県今治市)十一万三千石を与えられたとされる(基本事典では1585年・1587年いずれかの記述で揺れがある)。九州征伐(天正15年・1587年)、小田原攻め(天正18年・1590年)にも従軍し、若くして大領を任された正則は瀬戸内海に面した今治で領内統治と水軍編成に力を注いだ。文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵では、五番隊として渡海し、竹島での兵粮輸送など後方支援にあたったとする事典記述があり、文禄・慶長両役を通じて従軍したとするのが通説である。朝鮮出兵を通じて、正則は前線で戦った武断派と、後方で兵站・行政を担った石田三成ら文治派との確執を強烈に意識するようになり、後の三成襲撃事件・関ヶ原対立構造の伏線となる人間関係を形成していった。今治時代には、正則のもう一つの顔である酒席での豪放な振る舞いが諸将の間で語られるようになり、「日本号呑取り」のような後世伝承の素地もこの頃に形作られたとみられる。

「我らは秀吉公の子飼いなり。」

—— 三成襲撃事件後の述懐と後世伝わる(一次史料未確認)
04
三成襲撃
SEVEN GENERALS

武断派の旗頭として三成と対立

慶長4年・武断派の集結
慶長4年・武断派の集結
慶長三年(1598年)八月、豊臣秀吉が伏見城で没すると、豊臣政権内部の対立が一気に表面化した。朝鮮出兵で前線に立ち続けた正則ら武断派と、後方で兵站・行政を担った石田三成ら文治派の確執は、出兵中の戦評価をめぐる軋轢でいっそう深まっていた。慶長四年(1599年)閏三月、加賀の前田利家が没した直後、正則・加藤清正らを中心とする、いわゆる「七将」が三成排斥の行動を起こしたとされる(七将の構成員には史料異同があり、家康書状系では細川忠興・藤堂高虎を含む系統もあるなど固定列挙は避けるべきとされる)。実態は屋敷襲撃というより訴状提出・政治圧力に近かったとする見解が近年の研究では主流で、三成側は伏見の徳川家康のもとへ赴き、家康の仲裁により蟄居(佐和山城への引退)処分で決着した。この事件で正則は武断派の旗頭として家康に強く印象づけられ、以後、家康への接近を深めていく。秀吉死後、家康に最も信頼される豊臣恩顧大名の一人として、正則は徳川と豊臣の間で独自の立場を築き始めた。武断派の旗頭としての強烈な個性が、翌年の関ヶ原で東軍先鋒として家康に直属する地位へとつながっていったのである。
05
関ヶ原
SEKIGAHARA

関ヶ原本戦 — 東軍先鋒として宇喜多隊と激突

関ヶ原本戦・宇喜多隊と激突
関ヶ原本戦・宇喜多隊と激突
慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の戦いが近づく中、正則は家康の東軍先鋒として行動した。八月二十三日の岐阜城攻略では、池田輝政らとともに先陣を務め、織田秀信(信長嫡孫)の籠る岐阜城を一日で陥落させた。この岐阜城戦の電撃的な勝利が、東軍の士気を大きく押し上げ、関ヶ原本戦に先んじて美濃を制圧する流れを作った。九月十五日の関ヶ原本戦では、正則隊は家康直属の主力先鋒として最前線に布陣し、対峙したのは西軍の主力・宇喜多秀家隊だった。両軍ともに豊臣恩顧の大大名で、戦力規模も拮抗する激戦となった。正則は終始攻勢を貫き、宇喜多隊の進撃を押し戻して西軍中央の崩壊に大きく寄与した。本戦が東軍の大勝に終わると、正則の軍功は際立って高く評価され、戦後の論功行賞で正則は安芸・備後二か国にまたがる広大な領地を与えられることになった。豊臣恩顧大名でありながら、家康のもとで最前線を担った正則の選択は、徳川幕府体制下での豊臣家臣団の運命を象徴する重要な転機であった。
06
広島49万石
HIROSHIMA

安芸広島藩主と豊臣恩顧の旗頭

広島城・西国の威容
広島城・西国の威容
関ヶ原戦後の論功行賞で、正則は安芸・備後二か国の四十九万八千石を与えられ、広島城(毛利氏旧領)に入った。今治十一万三千石から実に四倍以上の加増で、本戦先鋒の戦功がいかに高く評価されたかを示している。広島城は毛利輝元が天正十七年(1589年)から築いた近世城郭で、五重の大天守を擁する西国屈指の名城だった。正則はこれを受領し、領内の検地・知行地再編・街道整備に力を注いだ。豊臣恩顧大名の中でも、加藤清正(肥後熊本五十四万石)と並ぶ最大級の大名として、正則は徳川幕府成立後の体制下でも一目置かれる存在となった。慶長十六年(1611年)の二条城会見では、家康と豊臣秀頼の対面を見届ける立場で参列したとされ、豊臣恩顧大名としての立ち位置を保ち続けた。一方で、広島藩経営においては領内に対する強権的な姿勢や酒席での豪放な振る舞いが諸大名・幕閣の警戒を呼び、徳川幕府の豊臣恩顧大名整理の流れの中で次第に微妙な立場に追い込まれていく。慶長十九年(1614年)から元和元年(1615年)の大坂の陣では、豊臣恩顧大名であったため前線参加は避けられ、江戸の留守居を命じられた立場に置かれ、戦後の処遇に不安を残すことになる。
07
改易
EXILE

広島城無断修築事件と信濃高井野への配流

信濃高井野・最晩年の正則
信濃高井野・最晩年の正則
元和五年(1619年)、広島城は前年までの大水害で石垣・櫓に深刻な被害を受けていた。正則は江戸幕府への届出が不完全なまま修築工事を進め、これが武家諸法度違反として問題視された。同年六月、幕府は正則の改易を決定し、安芸・備後四十九万八千石を没収。正則には信濃・越後内で計四万五千石が与えられ、信濃高井野(現・長野県高山村)に蟄居した。翌元和六年には子・忠勝の死により越後分は返上することとなる。この処分は、嫡男・忠勝の早世(慶長十三年・1608年)以後、後継体制が脆弱だった福島家の事情とも相まって、徳川幕府による豊臣恩顧大名整理政策の象徴的事例となった。配流先の信濃高井野で正則は晩年を過ごし、寛永元年(1624年)七月十三日に没した。享年六十四(数え)。死去直後、検使到着前に遺体を火葬したことを咎められて遺領は没収され、嫡孫・正利には改めて川中島に三千石が与えられたが、福島家はのちに断絶した。正則は最後まで「城を直したることが咎ならば、咎を負い申す」と修築の正当性を主張し続けたと伝わるが、徳川幕府体制下の武家諸法度のもとで、豊臣恩顧の大大名が没落していく時代の転換を象徴する人物となった。広島城は浅野家が継承し、福島正則の名は西国の大藩主としてではなく、改易された豊臣恩顧大名として歴史に残ることになる。