安土桃山時代柴田氏15221583
柴田勝家の肖像
織田家北陸方面軍賤ヶ岳
しばた・かついえ

柴田勝家

SHIBATA KATSUIE · 1522 — 1583 · 享年 62

瓶割りの水を飲み干し、この城と共に果てん

柴田
生年
大永2年頃
1522
没年
天正11年
1583
出身
尾張上社
愛知県
居城
北ノ庄城
福井県
家紋
二雁金
FUTATSU-KARIGANE
CONTENTS · 七章
  1. 01織田家随一の勇将——勝家の台頭
  2. 02「瓶割り柴田」の逸話——天王寺合戦の死闘
  3. 03北陸方面軍総司令官——雪の越前を制す
  4. 04お市の方との婚儀——信長の妹を娶る
  5. 05賤ヶ岳の戦い——秀吉との天下分け目
  6. 06北ノ庄城落城——壮絶な最期
01
尾張の猛将
FIERCE WARRIOR

織田家随一の勇将——勝家の台頭

若き日の柴田勝家
若き日の柴田勝家
大永二年(1522年)頃、尾張国春日井郡上社(現在の名古屋市近辺、諸説あり)に生まれたとされる。幼少期の詳細は不明な部分が多いが、織田家に仕えてその猛勇ぶりで頭角を現す。当初は信長の弟・信行(信勝)を担いで信長に対抗し、一時は叛意を持ったとも伝わる。しかし信行の死後は信長に忠誠を誓い、「修理大夫」を名乗りつつ御旗奉行・先陣として数々の戦功を挙げた。その圧倒的な武威から「鬼柴田」の異名を得て、織田家中において随一の猛将として知られるようになった。
北ノ庄城落城の際、勝家が発したとされる最期の言葉

「さらばじゃ」——炎の中に消えた鬼柴田

02
瓶割り柴田
JAR-BREAKER

「瓶割り柴田」の逸話——天王寺合戦の死闘

瓶を割る勝家・天王寺砦
瓶を割る勝家・天王寺砦
天正四年(1576年)、石山本願寺方(雑賀衆など)との天王寺合戦で勝家は窮地に陥り、砦に籠城して大軍に包囲されたと伝わる(逸話の詳細は諸説あり)。兵糧水が乏しくなると、勝家は「もはや水は要らぬ、死中に活を求めよ」と叫び、水瓶をすべて叩き割って将兵の退路を断ち、決死の突撃を敢行した。この捨て身の覚悟が士気を高め、包囲網を突破することに成功する。この逸話から「瓶割り柴田」の異名が生まれ、勝家の武人としての気概を表す代表的なエピソードとして後世に語り継がれた。剛直で退くことを知らない勝家の気性を象徴する逸話として、今日でも広く知られている。
天王寺砦の籠城で水瓶を割り、決死の突撃を命じた逸話より

「水は要らぬ、この瓶を割れ。死中に活を求めよ」

03
北陸平定
HOKURIKU

北陸方面軍総司令官——雪の越前を制す

北陸平定・雪の越前
北陸平定・雪の越前
天正三年(1575年)の長篠の戦い後、信長は各方面に大将を配置して版図を広げる。勝家は北陸方面軍の総司令官として越前・加賀を中核に能登・越中へと勢力を拡大する任務を与えられた。一向一揆の強固な抵抗、上杉謙信・景勝との激しい争い(手取川の戦いでは上杉謙信に大敗を喫したとも伝わるが史料に諸説ある)を経ながら、勝家は北陸の要衝・北ノ庄城(現在の福井市)を築いて拠点とした。越前七郡を加増され、信長の直臣中で最大級の領地を持つ大大名となった。北陸の厳冬を突き進む勝家の軍は、その勇猛さで広く恐れられた。

「鬼柴田・権六」

—— その武勇から信長家中で最も恐れられた猛将の異名
04
お市との婚姻
OICHI

お市の方との婚儀——信長の妹を娶る

お市の方と勝家
お市の方と勝家
天正十年(1582年)頃(諸説あり)、勝家は信長の妹・お市の方を妻に迎えた。お市の方は以前、近江・小谷城主・浅井長政に嫁いでいたが、長政が信長に討たれて落城後に三人の娘(茶々・初・江)と共に生き延びていた。信長亡き後の後継者争いの中で、勝家とお市の方は結ばれた。この婚姻は政治的な意味を持ちつつも、お市の方が自らの意志で選んだとも伝わる。二人の結婚は、信長後継者争いにおける勝家の立場を強化するものであったが、やがて賤ヶ岳の敗北と共に、二人の運命は悲劇的な結末を迎えることになる。
05
賤ヶ岳の決戦
SHIZUGATAKE

賤ヶ岳の戦い——秀吉との天下分け目

賤ヶ岳の決戦
賤ヶ岳の決戦
天正十一年(1583年)、本能寺の変後に台頭した羽柴秀吉と柴田勝家は、織田家の主導権をめぐって全面衝突する。両軍は近江・賤ヶ岳周辺で対峙した。長期の対陣が続くなか、勝家の与力・佐久間盛政が秀吉方の陣を奇襲する。秀吉は岐阜から一夜にして約五十キロを引き返す「美濃大返し」でこれを迎え撃ち、大勝を収めた。勝家は北ノ庄城へと退却を余儀なくされ、秀吉の追撃を受ける。賤ヶ岳の敗北は、信長後継者争いにおける勝家の政治生命を断つものであった。
06
北ノ庄落城
KITANOSHO

北ノ庄城落城——壮絶な最期

北ノ庄城落城・壮絶な最期
北ノ庄城落城・壮絶な最期
天正十一年(1583年)四月、羽柴秀吉の大軍が北ノ庄城を包囲した。勝家はもはや城を守る力がないと悟り、妻・お市の方に逃げるよう促したが、お市の方は留まることを選んだ。三人の娘たちは城外に出され助けられたが、勝家とお市の方は城内に残り、天守に火を放って自害した。享年六十一、あるいは六十二(諸説あり)。「さらばじゃ」という最期の言葉とともに炎の中に消えた勝家の最期は、武人としての誇り高い生き様の象徴として語り継がれてきた。北ノ庄城は現在の福井市中心部にあたり、柴田公園として整備されている。