
伊達政宗
「馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し」
- 01天然痘の右目——独眼竜の誕生
- 02摺上原の戦い——南奥羽の制覇
- 03白装束の謝罪——秀吉への臣従
- 04仙台城と六十二万石の藩政
- 05支倉常長をローマへ——東北から世界へ
- 06料理・文学・茶の湯——伊達男の晩年
天然痘の右目——独眼竜の誕生

政宗の漢詩「時移り物変わり」より「馬上少年過ぐ。世平らかにして白髪多し。残躯天の赦す所、楽しまずして是を如何にせん。」
摺上原の戦い——南奥羽の制覇

晩年の述懐とも伝わる言葉「五十にして、四十九年の非を知る。」
白装束の謝罪——秀吉への臣従

政宗の遺訓「五常訓」「仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎれば諂いになる。智に過ぎれば嘘をつく。信に過ぎれば損をする。」
仙台城と六十二万石の藩政

支倉常長をローマへ——東北から世界へ

料理・文学・茶の湯——伊達男の晩年

- 01
白装束で小田原へ——命懸けの芝居

天正十八年(1590年)、小田原参陣に遅れた政宗は、死を覚悟して真っ白な死装束に身を包み、棺桶を背負わせた家臣を引き連れて秀吉の本陣へ出向いたと伝わる。この大胆な演出に秀吉も笑い飛ばして許したとされるが、実際には厳しい奥州仕置で大幅な減封を受けた。それでも命だけは繋ぎ止めたこの一幕は、政宗の剛胆さと機転を象徴する逸話として後世に語り継がれている。
- 02
漆黒の甲冑「黒漆五枚胴具足」と弦月前立

政宗の象徴ともいえる漆黒の「黒漆五枚胴具足」と金色の弦月(三日月)前立の兜は、当時から強烈な個性を放っていた。武具・甲冑への美意識は際立っており、仙台藩士の装備にも「伊達」の美意識が反映されたとされる。「伊達者」という言葉の語源となったともいわれ、戦国武将の中でも屈指のファッションリーダーとして現代でも人気が高い。この甲冑は現在も仙台市博物館に所蔵されており、政宗の審美眼を今に伝えている。
- 03
料理人としての政宗——仙台味噌と伊達の食文化

政宗は「料理は武道と同じ」と語ったとされるほどの料理好きで、自ら包丁を握って家臣たちに料理を振る舞ったと伝わる。仙台城の台所には大量の味噌を仕込む蔵が設けられ、「仙台味噌」として全国に広まった。関ヶ原の出陣時に大量の味噌を兵糧として携行させたことが、仙台味噌の品質向上につながったとも伝えられる。ずんだ(枝豆餡)の考案者とも言われ、東北の食文化に政宗が残した足跡は今も色濃く残っている。
- 仙台城跡(青葉城址)宮城県仙台市青葉区
政宗が慶長七年から築城した居城。青葉山に立つ政宗騎馬像が有名。
- 米沢城址山形県米沢市
政宗が生まれ育ち、家督を継いだ伊達家の旧居城跡。
- 瑞鳳殿宮城県仙台市青葉区
政宗の霊廟。桃山建築様式の豪華絢爛な廟所で、政宗の遺骨が眠る。
- 支倉常長メモリアルパーク宮城県川崎町
慶長遣欧使節の正使・支倉常長の故郷に整備された記念公園。

