本能寺の変本能寺の変
1582年、京都本能寺において明智光秀が主君・織田信長を急襲。信長は自刃し、戦国史最大の謎の一つとなった。
敵は本能寺にあり
背景:信長包囲網の崩壊と光秀の置かれた立場
天正十年(1582)の春、織田信長の天下統一事業は最終段階を迎えつつあった。天正九年(1581)の大閲兵(京都馬揃え)で権威を示し、天正十年三月には武田勝頼を天目山に追い詰めて武田氏を滅ぼした。信長は京都二条御所を拠点に安定した勢力圏を確保しており、残る主要な課題は中国地方の毛利氏打倒であった。
この時、明智光秀は丹波・丹後の平定を成し遂げた功臣として重用されており、信長の直臣として各地の交渉や朝廷との折衝を担う重要な立場にあった。信長の家臣団の中でも屈指の文化人であり、軍事的能力と政治的交渉力を兼ね備えた光秀は、出雲・石見を任地として加増を受けた直後でもあった。天正十年五月、光秀は信長から毛利攻めに当たる羽柴秀吉への援軍を命じられた。しかし六月二日未明、光秀は備中(現岡山県)へは向かわず、突如として兵を返して信長のいる本能寺へと向かったのである。
経緯:本能寺急襲から山崎の戦いまでの十三日間
天正十年六月二日未明、明智光秀率いる約一万三千の軍勢が京都本能寺を包囲した。この時、信長の手元には小姓衆百人余りしかいなかった。信長は当初、誰かの失火か間違いだと思っていたが、本能寺の周囲が光秀の軍勢に完全に包囲されていることを悟ると、弓や槍を持って応戦した。やがて火が回り逃げ場を失った信長は、奥の部屋に入って自刃したとされる。享年四十九。炎上した本能寺からは信長の遺体が発見されず、後世まで様々な伝承を生んだ。
信長の嫡男・信忠は二条御所に籠もり抵抗を続けたが衆寡敵せず、自刃して果てた。光秀は安土城を制圧し、細川藤孝・筒井順慶らに加担を呼びかけたが、大半の武将は応じなかった。「逆賊」のレッテルを張られることを恐れた大名たちは様子見に徹した。中国大返しの名で知られる羽柴秀吉の驚異的な速度での軍事行動により、事変からわずか十一日後の六月十三日、山崎の地で光秀と秀吉が激突した。光秀は敗北し、逃走中に落武者狩りに遭って命を落とした。わずか十三日間の「三日天下」と後世に揶揄される。
謀反の動機をめぐる諸説
光秀の謀反の動機については、現在に至るまで決定的な結論は出ていない。主要な説として、信長から度重なる叱責や侮辱を受けたとする怨恨説、光秀自身が天下取りを狙ったとする野望説、信長の四国政策変更によって光秀が築いた長宗我部氏との外交ラインが否定されたとする四国政策説、朝廷や将軍家による依頼があったとする黒幕説などがある。太田牛一の『信長公記』は謀反の動機について直接は言及しておらず、光秀の側近が残した記録も少ない。近年の研究では、一つの動機だけで説明しようとせず、怨恨・野望・政治的機会の複合であったとする見方が有力である。
影響:秀吉への天下移譲と後継者争い
信長の死は「天下布武」のプロジェクトを一時的に宙吊りにしたが、この権力の空白を誰よりも素早く埋めたのが羽柴秀吉であった。山崎の戦い直後に開かれた清洲会議(六月二十七日)で、秀吉は信長の幼孫三法師を後継者に擁立し、筆頭家老の柴田勝家と主導権を争いながら着実に信長後継者の地位を確立していく。翌天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家を滅ぼした秀吉は、信長なき後の天下人として天下統一への道を歩み始める。本能寺の変は単なる信長の死以上に、秀吉による天下統一への扉を開いた歴史的転換点であった。
本能寺の変は現代においても熱心に研究・語られ続けている。小説や映画・ドラマの題材として繰り返し取り上げられ、「光秀はなぜ謀反を起こしたのか」という問いは日本史最大の謎として人々の関心を集め続けている。近年の研究では文書史料の精密な検証が進み、光秀の動機についての議論は深まる一方である。本能寺は現在も京都市中京区に存在し(現在地は移転後の場所)、変の記念碑が建てられており、史跡として多くの人が訪れている。天正十年六月二日という日付は、日本史における最大の「if」の日として、今後も語り継がれていくであろう。