賤ヶ岳の戦い賤ヶ岳の戦い
合戦天正十一年

賤ヶ岳の戦い

1583年、羽柴秀吉が織田家筆頭家老の柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を確立した戦い。賤ヶ岳七本槍で名高い。

4月

背景:清洲会議と信長後継をめぐる暗闘

本能寺の変(天正十年・1582)で信長が横死した後、羽柴秀吉は中国大返しで光秀を討ち取り、その余勢をかって信長後継の主導権を握ろうとした。同年六月末に開かれた清洲会議では、秀吉が信長の嫡孫・三法師(信忠の子)を後継者に推し、織田家の宿老として長く信長を支えてきた筆頭家老・柴田勝家が次男・信雄(のぶかつ)を推した。

会議では秀吉の主張が採用され、三法師が信長の継嗣となった。しかし勝家は北庄城を拠点として越前・北陸を支配する強力な大名であり、秀吉との対立は根深かった。勝家は信長の妹・お市の方(浅井長政の旧室)を娶り、外戚としての立場も固めた。お市の方は浅井家滅亡後、信長の庇護を受けていた人物であり、勝家との婚姻は反秀吉勢力の結集を象徴するものでもあった。天正十年末から天正十一年にかけて、両者は各地の大名に対して自陣への参加を働きかけ、緊張は高まり続けた。

経緯:秀吉の大返しと勝家軍の崩壊

天正十一年(1583)四月、柴田勝家軍は近江北部に進出し、賤ヶ岳周辺で両軍の前哨戦が始まった。柴田側の将・佐久間盛政は秀吉方の陣地を奇襲して成功を収めたが、その直後に秀吉は驚異的な速度で近江に引き返した。秀吉はこの時、伊勢(現三重県)の長島から大垣まで約五十二キロを五時間で踏破したと伝えられる(諸説ある)。この「大返し」は秀吉の機動力と後方補給の卓越した組織力を示すものであった。

秀吉の急速な反転に勝家軍は対応できず、独断行動を咎められた佐久間盛政が反撃に出た時には態勢を立て直す余裕がなかった。さらに前田利家が戦線から離脱(内通・撤退)したことで、柴田軍の左翼が崩壊した。利家と勝家は長年の同僚であり、この離脱は勝家に深い失望をもたらしたと伝えられる。総崩れとなった勝家軍は北庄城へと逃げ帰り、秀吉はその後を追って北庄城を包囲した。

勝家は包囲された北庄城で三日間持ちこたえたが、脱出の見込みはなかった。天正十一年四月二十四日、柴田勝家はお市の方とともに城内に火を放ち、自刃して果てた。

影響:秀吉の天下人確立と七本槍の誕生

賤ヶ岳の勝利により、羽柴秀吉は織田家中における名実ともの最高権力者となった。翌天正十二年(1584)に織田信雄・徳川家康と小牧・長久手の戦いを戦ったが、軍事的には痛み分けのまま和睦し、その後は政治的工作で家康を臣従させることに成功した。天正十三年(1585)には関白に就任し、豊臣の姓を賜り、事実上の天下人の地位を確立した。

この戦いでは、福島正則・加藤清正・脇坂安治・片桐且元・平野長泰・加藤嘉明・糟屋武則ら若い武将たちが著しい武功を立てたとされ、後世に「賤ヶ岳七本槍」と称えられた。ただし「七本槍」という名称と顕彰は江戸時代以降に固まったもので、当時の記録にそのような呼称があったわけではない。それでもこれらの武将たちは後に秀吉政権を支える重臣となり、関ヶ原以後は徳川家の有力外様大名として幕藩体制にも組み込まれていくことになる。賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変後の後継者争いに終止符を打ち、豊臣秀吉が天下人として本格的に歩み出す決定的な画期であった。

柴田勝家とお市の方の最期は後世に深い印象を残した。お市の方はかつて浅井長政に嫁ぎ、浅井家滅亡後に三人の娘(茶々・初・江)とともに織田家に戻っていた。三人の娘はそれぞれ豊臣秀吉の側室(茶々・後の淀殿)、京極高次の妻(初)、徳川秀忠の正室(江)となり、日本史の中枢に関わることになる。特に茶々は豊臣秀頼を生み、後に大坂夏の陣で秀頼とともに自刃した。お市の方を通じた血脈が戦国時代の最後まで影響を及ぼしたことは、賤ヶ岳の戦いが単なる軍事的事件を超えた歴史的連鎖の一部であったことを示している。