戦国時代上杉氏15301578
上杉謙信の肖像
越後の龍軍神川中島
うえすぎ・けんしん

上杉謙信

UESUGI KENSHIN · 1530 — 1578 · 享年 49

義を見てせざるは勇なきなり

上杉
生年
享禄3年
1530
没年
天正6年
1578
出身
越後春日山
新潟県
居城
春日山城
越後
家紋
竹に飛雀
TAKE-NI-TOBI-SUZUME
CONTENTS · 七章
  1. 01越後統一——長尾景虎から上杉政虎へ
  2. 02関東管領就任——北条氏への対抗
  3. 03川中島の激戦——信玄との五度の激突
  4. 04義のための戦い——毘沙門天の化身
  5. 05手取川で信長を破る——上洛への道
  6. 06天正六年の急逝——謎に包まれた最期
01
越後統一
ECHIGO

越後統一——長尾景虎から上杉政虎へ

春日山城・越後統一の時代
春日山城・越後統一の時代
享禄三年(1530年)、越後国守護代・長尾為景の四男として春日山城に生まれた虎千代は、七歳で林泉寺に預けられ禅僧の薫陶を受ける。兄・晴景の病弱を補うように家中をまとめ、天文十七年(1548年)には二十歳にして越後守護代の座に就いた。関東管領・上杉憲政が北条氏康に追われて越後に逃げ込むと、景虎は憲政の養子となって上杉姓と関東管領職を継承し、「上杉政虎」と名乗る。後に出家して「謙信」と号した彼は、義戦を掲げ越後を強固な政治基盤に固め上げた。春日山城の整備と越後内の一揆平定を経て、謙信は北陸から関東に至る広域支配への足掛かりを手にした。
謙信の信条

「義を見てせざるは勇なきなり。」

—— 上杉謙信の言葉として伝わる
02
関東管領
KANTO

関東管領就任——北条氏への対抗

鶴岡八幡宮・関東管領就任
鶴岡八幡宮・関東管領就任
永禄三年(1560年)、謙信は大軍を率いて関東に南下し、小田原城を包囲した。北条氏康は城に籠もって長期戦に持ち込み、兵糧攻めの圧力をかわし続けた。この遠征で謙信の軍勢は一時十万を超えるともいわれる。翌永禄四年(1561年)、鶴岡八幡宮において上杉憲政から関東管領職を正式に譲られた謙信は、上杉輝虎と改名し、関東諸侯の盟主として北条氏との対抗軸を形成した。しかし関東の諸将は離合集散を繰り返し、安定した支配基盤の確立には至らなかった。謙信は幾度も関東に出陣しながら、その度に北条・武田の二大勢力との複雑な駆け引きを強いられた。
川中島前夜、家臣への訓示

「一人が万人のために、万人が一人のために戦う。それが上杉の軍の強さよ。」

03
川中島
KAWANAKAJIMA

川中島の激戦——信玄との五度の激突

川中島の戦い・第四次激突
川中島の戦い・第四次激突
天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、謙信と武田信玄は北信濃の覇権をめぐって川中島で五度にわたり激突した。なかでも永禄四年(1561年)の第四次川中島の戦いは戦国史上屈指の激戦として知られる。謙信は「車懸かりの陣」で妻女山から霧中の武田陣に斬り込み、信玄本陣に肉薄したとされる。謙信が馬上から信玄に三太刀浴びせ、信玄が軍配で受けたという一騎打ちの伝説はこの時のものである。両雄は互いに決定的な決着をつけることなく五度の戦いを重ね、川中島はそのまま戦国最大のライバル関係の象徴となった。
武田への塩の援助についての言葉

「敵に塩を送るとは、情けではない。義に従うだけのことよ。」

—— 謙信の義の精神を伝える逸話
04
毘沙門天の義
BISHAMON

義のための戦い——毘沙門天の化身

毘沙門天の旗印・義の戦
毘沙門天の旗印・義の戦
謙信は毘沙門天を篤く信仰し、自らを「毘沙門天の化身」と称した。「毘」の一字を旗印に掲げ、義戦を唱えて諸侯の救援に赴く姿は、戦国の世に異彩を放った。塩の道を断たれた甲斐の武田信玄に、敵ながら塩を送ったとされる「敵に塩を送る」の逸話は、謙信の義の象徴として今も語り継がれる。領土的野心よりも義理と面目を優先する姿勢は、家臣や諸大名の信頼を集め、越後を関東・北陸において無視できない勢力に押し上げた。また謙信は生涯において酒を愛した一方、女性との交わりを断ち、出家の誓いを守り続けた。その厳格な精神修養が「軍神」という称号を生んだ。
05
上洛作戦
MARCH

手取川で信長を破る——上洛への道

手取川の戦い・信長軍撃破
手取川の戦い・信長軍撃破
元亀元年(1570年)頃から織田信長が台頭すると、謙信は信長包囲網に加わる形で西方への進出を試みた。天正五年(1577年)の手取川の戦いでは、柴田勝家率いる織田軍を撃破し、信長方に大打撃を与えた。この勝利を機に謙信は上洛の意を固め、軍勢を整備して西上の機をうかがった。北陸加賀の一向一揆との連携も視野に入れ、越後・北陸・関東を掌握した謙信の西進は、信長にとって最大の脅威とも評された。しかし上洛計画は急死によって未完に終わり、謙信が完成を夢見た天下への道は幻のまま消えた。
06
春日山での急逝
DEATH

天正六年の急逝——謎に包まれた最期

春日山城・謙信最期の地
春日山城・謙信最期の地
天正六年(1578年)三月、越中遠征の最終準備を進めていた謙信は、春日山城内の厠で倒れた。病名は脳卒中と伝わるが、詳細は不明のまま、同月十三日に享年四十九で急逝した。死の間際まで上洛への意志を語っていたとされ、臨終に際して「極楽も地獄も先は知らねども心に任せる身にこそなれ」と詠んだという。後継をめぐって養子の景勝と景虎が争う御館の乱が勃発し、上杉家は内紛によって急速に勢力を衰退させた。謙信の死は越後のみならず、信長包囲網の崩壊をも意味した。「軍神の死」は戦国時代の大きな転換点となった。