桶狭間の戦い桶狭間の戦い
1560年、織田信長が約2,000の兵で今川義元の25,000の大軍を破った戦国最大級の番狂わせ。
人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり
背景:東海最強・今川義元の尾張侵攻
永禄三年(1560)、駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元は、二万五千(諸説では四万ともいわれる)の大軍を率いて西進を開始した。義元の目的については、上洛して将軍家に仕えるためとも、尾張の完全制圧を目指したとも言われるが、定説はない。いずれにせよ、当時の今川家は東海最強の大名であり、義元は幼少期から今川家の禅僧・太源雪斎に文武を学んだ教養人でもあった。公家風の礼節を重んじる義元のイメージは後世に誇張された面もあるとされるが、彼が東海一円を統治した優れた政治家であったことは確かである。
対する尾張の織田信長は、家臣団の内紛や隣国の圧力に悩む新興勢力に過ぎず、動員できる兵力はせいぜい二千から三千程度であった。清洲城の臣下たちが今川の大軍を前に「籠城か逃走か」を議論する中、信長はわずかな近習を連れて清洲城を飛び出し、熱田神宮に戦勝祈願をした後に前進を続けた。幸若舞の「敦盛」を舞ってから出立したという話は後世の創作も含むとされるが、信長の決断の速さを示す逸話として語り継がれている。
経緯:豪雨と奇襲が生んだ大番狂わせ
五月十九日の昼前、今川軍の本隊が桶狭間の谷間で休息を取っていた頃、突然激しい雷雨が降り始めた。視界が極端に悪化し、大軍の組織的な行動が困難になったこの瞬間、信長は少数の精鋭を率いて今川義元の本陣に向けて突進した。
暴風雨の中での奇襲は今川本陣を混乱させ、毛利新介・服部一忠らが義元に肉薄した。義元は自ら応戦して毛利新介の指に噛みついたとも伝えられるが、最終的に毛利新介に首級を挙げられた。総大将を失った今川軍は統制を失い、大軍であるにもかかわらず総崩れとなった。
この戦いについて太田牛一の『信長公記』は、信長が少数で突撃したとする点では共通しているが、奇襲の詳細については記述が簡略である。後世に描かれた劇的な逆転劇の物語は江戸時代以降に形成された部分も多く、実際の戦況については近年も研究が続いている。「桶狭間」の地名についても、現在の愛知県豊明市と名古屋市緑区の二ヶ所に古戦場の比定地があり、主戦場がどちらであったかは諸説に分かれている。
影響:信長の台頭と東海の勢力図の一変
今川義元の死は東海地方の勢力図を一夜にして塗り替えた。今川家は義元という傑出したリーダーを失った打撃が大きく、以後急速に衰退する。三河を支配下に置いていた松平元康(後の徳川家康)は今川の支配から独立し、永禄五年(1562)には清洲同盟を通じて信長と手を結んだ。この同盟は信長の後背を安定させ、天下統一への歩みを可能にする礎となった。
桶狭間の勝利で信長の名は天下に轟いた。「弱者が強者を倒す」という劇的な逆転劇のイメージは、信長を神がかり的な戦術家として位置づけ、多くの家臣や浪人たちが信長のもとに集まる求心力を生んだ。現代においても桶狭間は「逆転勝利の代名詞」として語り継がれており、戦国時代を象徴する出来事の一つとして日本人に広く知られている。信長の最初の大きな「跳躍」として、桶狭間はその後の天下統一への長い歩みの出発点となった。
今川家のその後も注目に値する。義元の死後、今川氏真が後を継いだが武将としての能力に乏しく、武田信玄と徳川家康の挟撃によって今川領は蚕食された。元亀元年(1570)には氏真が遠江から逃亡し、今川家は事実上滅亡した。一方で義元の遺臣たちは徳川・武田などに吸収されながらも、独自の武家文化を伝えた。桶狭間の敗北は今川家の終わりの始まりであったが、義元が育てた東海の政治・文化的基盤は後世にも影響を残した。現代において豊明市(愛知県)では毎年「桶狭間古戦場まつり」が開催されており、信長・義元双方の供養と顕彰が行われている。