明応の政変明応の政変
政治明応二年

明応の政変

1493年、管領・細川政元が将軍足利義材を廃して義澄を擁立した政変。これをもって戦国時代の実質的な始まりとする説も有力。

4月

背景:応仁の乱後の室町幕府と細川氏の権勢

応仁元年(1467)に勃発した応仁・文明の乱は約十一年続き、室町幕府の権威を大きく損なった。乱の終結後も将軍権力の弱体化は止まらず、諸大名は形式上の幕府体制を維持しながらも、実質的に自立した支配を各地で展開しはじめた。この時代に最も強大な実力を誇ったのが、幕府の管領職を代々世襲する細川氏であった。

細川政元は応仁の乱で東軍の総帥を務めた細川勝元の子として生まれ、父の死後に細川氏の惣領となり管領に就任した。政元は山岳修行(修験道・飯綱法)に傾倒し、妻帯せず生涯独身を貫いたと伝えられる異色の政治家であった。「半将軍」とも呼ばれた政元は幕府の最高実力者として将軍を凌ぐ権勢を誇り、朝廷や諸大名との交渉でも信長以前の戦国時代において最も傑出した政治家の一人と評される。

経緯:将軍廃立という前代未聞のクーデター

明応二年(1493)四月、将軍・足利義材(後の義稙)は幕府の実権を持つ細川政元を牽制するため、政元と対立していた河内守護・畠山政長の支援に出向いていた。政元はこの機に乗じて京都でクーデターを決行した。政元は幕府直属軍を掌握した上で、足利義視の子・足利義澄(当時は清晃)を新たな将軍候補として擁立し、留守の義材を事実上廃した。

帰京した義材は捕らえられて幽閉され、翌年には越中へと脱出を試みるが、再起の機会を失って各地を流浪することになる。この将軍廃立という行為は、それまでの室町幕府の秩序において前例のないことであった。管領が将軍を廃して新将軍を擁立するという政元の行動は、将軍の権威がもはや形式にすぎず、実力者の意思によって覆せる存在に成り下がったことを天下に示した。

義材は後に将軍に返り咲く(足利義稙として再任)など複雑な展開を辿るが、将軍家が分裂して正統性を争い続けたことが、地方大名の自立化を加速させた。政元が永正四年(1507)に養子たちの争いの中で暗殺されると、細川氏内部の内紛はさらに深刻化し、京都の政治的混乱は止まるところを知らなかった。

影響:戦国時代の「本当の起点」という評価

明応の政変が持つ歴史的意義は、近年の研究で再評価が進んでいる。かつては応仁の乱こそが戦国時代の起点とされてきたが、今では応仁の乱は室町体制の動揺をもたらした前段階であり、明応の政変こそが将軍権威の完全な崩壊と下剋上の始まりを象徴する事件とする見方が有力である。歴史家の今谷明はこの政変を「中世国家の死」として位置づけ、戦国時代の実質的な起点であると主張した。

この解釈が説得力を持つのは、政変以後の政治状況の変化がきわめて速やかであったからである。管領が将軍を廃立したという事実は、諸大名に「力があれば主君も従わせられる」という下剋上の論理が成立することを証明してしまった。細川氏は以後、三好氏や松永弾正久秀によって実権を奪われていき、やがて織田信長が登場するまで京都の政治は混乱を続けた。明応の政変は「誰でも力があれば天下人になれる」という戦国の論理を最初に体現した出来事として、日本史の大きな転換点に位置づけられる。

明応の政変が起きた明応二年(1493)から、豊臣秀吉の天下統一が完成する天正十八年(1590)まで、ちょうど百年が経過する。この一世紀こそ「戦国百年」であり、明応の政変はその起点として位置づけるのが現代の歴史研究のおおよその合意である。将軍権威の崩壊から始まり、応仁の乱後の下剋上の進行を経て、やがて信長・秀吉・家康という傑出した人物たちによって新たな統一国家が形成される。明応の政変はその長い道程の最初の分岐点であった。なお足利義材(義稙)はその後も生涯にわたって将軍職への復帰を目指し続け、波乱に満ちた人生を送った。将軍廃立という前代未聞の事件が個人の運命にも深い影を落としたことを、忘れてはならない。